昨年11月22日~23日にかけ、「
第3回22Bオーナーズオフ会 」が行われました。
22日夜、伊藤健氏御夫妻もご参加いただいて、楽しい宴会が出来ました。
その際、参加者の自己紹介をしたのですが、伊藤氏からは「 22B誕生 」についての、いろいろをお聞きすることが出来ました。22Bの発表より、11年が経ち、諸説入り乱れての噂話はありましたが、開発を目の当りにしていた方からお聞きする話は、大変興味深く、楽しいものでした。
携帯電話のサウンドレコーダー機能が付いているのを思い出して、録音しておいたのを、暇に任せて文章にしてみました。
先に22Bオーナーズの掲示板にアップしましたが、せっかくなので、こちらにもアップします。
(伊藤氏よりは許可は取りましたが、問題が出れば削除しま~す。)
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私が
インプレッサの開発主管 になったのは、Ver.Ⅲが終わった後、
Ver.4~6までが私の作品になるんですけど、
私がなった瞬間に、久世さんから話しがあって、
久世 さん、ご存知だと思うんですけど、初代
STI の社長さんだったわけで。
久世さんはラリー、レガシィからインプレッサ、
ずっとやっていたんですけど、
ラリーをやる資金がね、まぁ富士重工から出てんですけど、
これじゃ足りない、やっぱりなかなか大変だったんで、
足りないのでSTIとしても儲けたいと、
STI Ver.だとか、Ver.Ⅱだとかっていうのが作ってたんですけど、
ちょうど車が、
WRカー になるって時点だったんで、
WRカーを記念したようなところがあって、
WRカーの、レプリカみたいなやつを作りたい、っていうのが、
非常に強い久世さんの思いだったんです。
ぜひ作りたいって事で、始めたんです。
だけど当時、STIの人間てのは、
今はもう数十名、かなり大きい組織にしたんですけど、
数名、プラスアルファとしても、十数名位でやっていたところで、
しかも主に、エンジン主体であったわけです。
なかなかその、能力的にも無いのけど、ぜひやりたいと、来た話なんです。
頑張るので、助けるところは、助けてくれってな話が。
そういうことなので、全面的に協力しますよ、って話をして、
開発をしました。
基本的にはSTI、
当時は S さんて言う、エンジンを主にやっていて、
今まだSTIにいますけど、 I さんて言う、
これはね認証とか法規関係にものすごく強い人、
あと O さんて、技術関係の人がいて、
その三人ぐらいが、中心になってやっていたんですけど、
そういう人たちで、車を作っていたので、私のほうは、
それをベースにして、その、いわゆる世の中に出しても、
ほぼ問題ないような事位まで、ちゃんとしないといけない訳で、
それはメーカー系の会社が、やることなので、
やりましょうってことで、いろんな試験、テストを、
これは富士重工の中の責任として、
やったと言うようなことです。
ですから、ずっとその開発の最初から、
22B も開発の最初から見ていましたし、
でもただ、直接手は出さないで、
私はその協力する、って形でやってきた。
ですから2.2ℓのエンジン使って、ターボ使って、
それからあれ(プレミアム性?)を~
だから非常に、久世さんがものすごく強く、
あのイメージしながら作った車で、
当時まだGCがVer.3とか4とかっていうのは、
馬力ありきとか、走りありきの車だったので、
あまりその、なんて言うんですかね、あの~しっとり感というか、
その~価値観のある車に、なかなかならなかったんですね。
走りはものすごくいいけど、っていう。
だけどプレミアム性って言う、なかなか、なかったんで。
だけどWRカーでレプリカっていう、
ちゃんとプレミアム性のあるっていう車、
ちゃんと作らなくっちゃっていうことで、エンジンを2.2ℓにしたり、
当時まだ国内にはなかった、アメリカのものを持ってきて、日本で合うようにしたり。
それから、インパネの上を塗装して、しっとり感をつけたり、
ていう様な事で、非常にプレミアム感を出すように作っていたと、それを凄く覚えています。
で、出す時にですね、出す時もあったんですよ、
で、当時は
BAT のあの、アレを受けていましたので、
ですから555だったんで、555万で555台出すと、やったらどうだと。
------当時そういう?
久世さんが、そうそうそうそうそう(笑)
久世さんが、そういうアイデアを持っててですね、
相当その方向に、なりかけたんですけどね。
でも、やっぱりね売る、いざ売るとなるとね、売れるか~???
ってもの凄く心配が。
で、大体あの、スバルってそんな高い車売ったこと、
無いじゃないですか。
300万くらいまでがいい所だったのに、555万てのはないので、
営業の方がやっぱシュリンクした関係がもの凄く強くて、
たしか500万でしたよね、確か?
500万で500台、いや400台。
500万で、400台・・・まぁ、とにかく売り切る方が大事なので、
余ったらもう、えらいことになるので、これでやろうかということで、決断したと。
で、その時のことも、良く覚えています。
久世さんが、「 よし、しょうがない 」と。
あの人も、決断がすごくいい人だったので。
-----で、400台?
で、400台、500万。
ところがですね、売ったらあの、
ほとんど3日~1週間以内に完売ですよね。
イギリス?ニュージーランド?オーストラリア?1000万?
そのような声が、聞こえましてですね。
そうかー、
やっぱり、555万でよかったんだ、と。
-----
高田工業 は、生産能力はあったんですか?
あ、そうそう、それでね、そう、造るときにラインの中だけじゃ、
なかなか出来なかったので、
高田工業、当時まぁ日産と関係があったので、
日産の関連企業、高田工業の力を借りたんです。
あれも、造るの大変なんですよ。
ボディ、こんなにでかいでしょ?ブースパーツのほうなら、
いくらでも後から出来るんですけど、
リアクオーターの、あのブリスターフェンダー、
ラインじゃ出来ないんですよ。
で、まず富士重工のラインで普通の車を造って、
高ん~?ウチダテ(はっきり聞き取れず)へ持っていって切ってね、
それから高田工業へ持っていって、また溶接して、
それからまたこっちへ持ってきて、
ラインに通せるところだけは通して、また高田工業に持っていって、
高田工業でラインでは付けられないところを、イロイロつける、と。
ですから、あっちもっていったり、こっちへ持ってきたりと、相当やったので、
原価が500万くらいだった、
------値引き、ゼロですもんね!
そうです、値引きしたら、えらいことになっちゃうんです。
まぁ久世さん最後、結局555万で売りたかった、
利益、多少はあったんです、そんなに出来なかったけど、
そう、ブランドを強くアピールすることが出来たし、
それからWRカーのイメージだとか、
もの凄くできたので、まぁいいだろう、と。
あの人、もの凄く肝っ玉のでっかい人だったんで。
そのようなことで、世の中に出た車であります。
と、いう車を、皆さんお持ちなので、
そんなことで出来た車なんだなと、
思いながら乗っていただければと。
------ますます好きになりました!
ありがとうございます。
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噂として聞いていた事が、真実だったとはw
驚きでした。
故 久世隆一郎氏、一度でもお会いしたかったなと、考えずにはいられません。