
(結末に関する容赦のないネタバレや左翼ネタを含みます)
このエントリを投稿している時点ではずいぶん前のことになってしまったのですが、2017年2月20日に休日出勤の夜勤明けで朝帰りして、一睡した後、昼からデイズに乗って映画館まで足を運び、その時点で既にロングラン上映になっていたアニメ映画『
この世界の片隅に』を見てきました。2月末時点でも公開からだいぶ経っていて今更な感があり、しかも平日の昼間を選んだはずなのですが、団体客でも来ていたのかあるいはこれが平常運転なのか、この映画も(前月に見た『君の名は。』の時と同様に)大した混雑ぶり。上映直前にチケットを取ろうとしたら、既に観客席の右翼席も左翼席もギッシリで、幸いにも何かキャンセルでもあったのかど真ん中が1席だけ空いていたのを取れたのですが、チケットを買うときに私の前に並んでいた人も後ろに並んでいた人も、この映画が目当てでしたから、あと少し到着が遅れていたら、このシアターの片隅で映画を観る羽目になるところでした。
さてこの映画、ヒロインの声を演じた元国民的アイドル女優が、元所属事務所のレプロエンタテインメントと喧嘩別れしたことで、テレビでは「名前を呼んではいけはいあの人」みたいな扱われ方になっていて、映画のクレジットでもなにやら湯婆婆に名前を奪われた千と千尋みたいな芸名で出演していることも話題になりました。レプロエンタテイメントと言えば、別の女優の「出家騒動」でも話題になったりと、色々トラブルがありましたし、私自身もこの時話題になっていた騒動から、この映画のことを思い出し、重い腰を上げて観に行く気になった面もあります。
とまあそんな世間のゴシップとは裏腹に、
こうの史代さんによる同名の漫画を原作としたこの映画の主題は、「広島から呉へと嫁いだヒロインから見た、大戦中の大日本帝国の庶民生活」という、思わず襟を正すような内容。にもかかわらず、この手の映画としてはかなりのヒットになっていましたし、日本国外での公開も始まると聞いていました。今後、この映画が果たして終戦の日の定番番組になったり、原作が学校図書館に配られたりして日本人の歴史観に影響を与える作品なのか、それとも一時的な流行なのか、自称サヨクとしては気になる内容だったので、とりあえず自分の目で確認してこなければと思って映画館に足を運びました。
戦時中の庶民生活という題材自体はNHKの朝ドラでもお馴染みですが、日本人なら、対戦末期の広島がどんなことになったのか知らない人はいないでしょうし、戦艦の造船施設を持つ軍港であった呉も、大空襲を受けた都市として知られていますし、映画も、観客がそこのとを知っていることを前提に進みます。そういえば、本作でヒロインのすず役を演じた「名前を呼んではいけはいあの人」扱いの女優がかつて主演した、NHKの朝ドラ『あまちゃん』も、後半で描かれる東日本大震災に向けてカウントダウンが進む中、東北地方の明るい日常が描かれていく内容でした。
ああ、いわゆる
萌やし泣きか、そんなの泣くだろう、泣くに決まっている……と映画の宣伝を見て私も思ったわけですよ。楽しげな日常描写を積み重ねて、登場人物への感情移入が出来上がったところで、登場人物を不幸な境遇に落とすという、泣けるお話の定番なのだろうと。しかしこの映画、実際はそうなりません。いや表面的には確かにそのパターンなのですが、そもそも大げさに悲しみをもり立てずとも泣ける題材でもあるので、妙に淡々としているのです。……原作者いわく、大げさに悲しみや感動を煽るような「戦争もの」のパターンが嫌いで、当時の普通の暮らしを淡々と疑似体験させるような作品を描きたかったそうで。映画は、少しどんくさいけど絵描くことが好きで想像力が豊かなヒロイン・すずさんを観察者に、当時を生きていたごく普通の人々を、当時の世界の片隅にいたかも知れない実在感と個性を持ったひとりひとりの人間として、その当時の暮らしぶりを淡々と描いてゆきます。物語は新聞の四コマ漫画のようなほのぼのとした作風が続いたかと思えば(思わず、終戦直後の場面から物語が始まる『サザエさん』の原作漫画を連想しました)、突然に生々しくドラマチックな展開になったり、それにトホホなオチがついたかと思えば、何の前触れもなく唐突な死が主要登場人物を飲み込んだりと、独特の緩急で、戦時中の生活感を、実際に観客自身がその場にいたかのように追体験させていきます。
戦時中の日本を描いた漫画やアニメというと、個人的にはアニメ映画版がヒットした野坂昭如の小説『火垂るの墓』や、本作と同じく広島が舞台になっている中沢啓治の漫画『はだしのゲン』などを思い浮かべます。『はだしのゲン』が、軍国主義に批判的な家庭で育ったことから迫害を受けてきた主人公が、右の軍国主義者も左の反戦主義者も区別なく焼き尽くす原爆の理不尽な災禍を体験し、やり場のない怒りを昭和天皇の戦争責任論へと向けていく……という話なら、『火垂るの墓』は、海軍士官の子息として育った軍国少年が、戦争によって家族を失い、自らのプライドから屈辱的な施しを拒んで、妹と共に死へと追い込まれていく……というようなお話です。それに対して『この世界の片隅に』のヒロイン・すずさんは、大日本帝国のイデオロギーに熱狂も反発もしない、社会情勢に対して受け身なノンポリであり、その点では前出の二作とは一線を画した主人公であり、大上段に構えた反戦映画には身構えてしまうような人にも、一見するととっつきやすい作品にはなっていると感じました。もっとも主人公がノンポリだからといって、必ずしも作品の軸足が中立的であるとか、当たり障りがないとかいったことはないです。右の人は劇中の憲兵の扱いに、「誇り高き大日本帝国の憲兵さんは交差点でねずみ取りをしている現代の警察官と違って、誤認逮捕なんて絶対しない!」などとと怒り出すかも知れないし、左の人は、戦時中の翼賛ソング「トンカラリンと隣組」の歌が、「ドリフの大爆笑」のようなノリとコントの場面で流れるのを見てざわざわしたり、軍艦や戦闘機にまつわる描写が妙に細かいことで落ち着かない気分になったりするかも知れません。
外国人から見ると、また違った観点が見えてくるのかも知れません。アメリカ合衆国の人は、黙々と現れては焼夷弾を投下していく爆撃機の描写など、悪役扱いされることには不愉快になるでしょうし。また韓国などでは、『火垂るの墓』のような映画も「戦時中の日本を被害者として描いており、加害者としての反省が全く描かれていない。戦争美化である」などと
反発されてしまうと聞きます(その辺は映画『火垂るの墓』の監督自身も
似たようなことを仰っているようです)。韓国の抗日映画などを見る限り、おそらく日本人が韓国人を虐げる映画を、日本人の視点から描いて欲しいということなのでしょうけれど、そのような映画で喜んで見るのは逆にネトウヨな人たちだけになってしまうような気もします……。まあ日本の右派ナショナリストはサヨクを韓国の手先呼ばわりしますけれど、韓国のナショナリストは日本のサヨクをネトウヨと区別せずに批判しますし、こういう面では帰属意識の違いが感情移入の対象の違いになったりして、実際なかなか相互理解が難しい問題に思います。
それはさておき、映画『この世界の片隅に』の話に戻しますと、この映画は、大日本帝国の政策に消極的に賛同し、流されるまま無批判に戦争に巻き込まれていく登場人物たちを、とりたて美化することもなく批判的に描くこともなく淡々と描いていて、ただただ映画の観客を、戦時中の日本の片隅で生活する平凡な家族の一員の視点に同化させていく体裁で進行していきます。しかし戦況が悪化し、空襲が毎日のように続くようになると、やがてヒロインのすずさんが目の前で家族を失い、同時に好きな絵を描くための利き腕を失い(原作漫画ではこれ以降、背景も左手で描いたという体裁で進行します)、生まれ故郷の広島を原爆で失い……というしんどい展開がクライマックスに向けて続きます。そしていよいよ終戦の場面、これが萌やし泣きの文法なら、ここで張りつめていた緊張が途切れると同時に、観客を泣かしに来るような劇伴曲が流れてカタルシスの場面となるような場面ですが、しかしこの作品では、かつてはノンポリだったすずさんの思想が、ここに来てついに右へ左へと急激にぶれるのです。
玉音放送を聴いて激昂したすずさんが、終戦など受け入れられない、左手一本でも竹槍で米兵と戦ってみせる! と愛国心に目覚めて家を飛び出したものの、掲げられた太極旗を見て、ついに心が折れて泣き崩れる……という展開の後の台詞が、原作漫画とアニメ映画では大きく違っていて、原作ではいわゆる日本の戦争責任に言及するような内容になっているのに対し、映画では
日本の軍事力が弱かったから負けた、ちゃんと国産米を食べないから負けた、という趣旨の台詞になっていたりします。もっともアニメ映画版の監督のインタビューによれば、これはいわゆる植民地から接収した穀物を食べてのうのうと生活していた自分たちを恥じるという意図の台詞とのことですし、この場面で流れる劇伴曲には「
飛び去る正義」という、原作から削られた台詞が曲名に採用されています。
ただ、表層的な台詞だけを追えば、映画の台詞は原作とは正反対の極右的な台詞にも聞こえ、実際にそう受け取った人もいるようですし、「そうだ、次の戦争で負けないためにも軍隊は必要だ。そして中国産の野菜の不買運動にも参加して、高くても国産の食品を買うようにするのが愛国心だ!」という気持ちを抱いて映画館を後にする人もいるかも知れません。実際、原作者や監督の意図はどうあれ、映画を見た観客はこの映画を「強烈な反戦映画」と受け取ったり、「反戦じゃないからいい」と受け取ったりしと、評価が右に左と分かれているようです。個人的にはまあ、「戦争で負けて反戦に目覚める」という展開は、逆に戦争を肯定しているようにも見え、「敵国に平和主義を学ばせるためには、軍事力で叩きのめして分からせるべき」という誤ったメッセージとして受け取られる可能性もあるので、映画のこの描き方は一周回って原作よりも反戦的なんじゃないかなあ……とも感じています。
この映画は戦時中の翼賛体制を無批判に享受し一体感を味わうことの甘美さと、その苦い結末を、当時を生きた人の目線から、批判も肯定もせずにありのまま追体験する映画で、それをどう感じたかという解釈は観客の手に委ねられています。実際そう感じましたし、そのような意図に徹して作られたとも聞きます。この映画を見て、思想の左右を語ることは無粋ではありましょうけれど、終戦という現実を前にして右に左にと揺れるすずさんの様子やその解釈を見ると、結局のところ、日本の右翼左翼の思想はどちらも、この敗戦を原点として出発しているのだなということを、改めて感じます。この映画は、極右系の人たちにとっては日本の黄金期であり模範とすべき時代と信じられている戦時中の庶民生活を、楽しく追体験する……という鑑賞方法にも耐えられる映画でしょうし、同時に私のようなサヨク側な人にとっては、ごく普通の人が容易に戦時中の価値観に染まってしまうことに対する警鐘と、戦争によって当たり前でささやかな生活が失われていく悲しみを描いた映画として見ることができましょう。その辺も含めて「ノンポリな映画」とも言えます。
もちろん、この映画もまた、資料によって再構築されたリアルなフィクションでしかないわけですが。しかし劇中ですずさんが恐れた「(超インフレで)キャラメルが百円でも買えない時代」を生きる今、そういう「原点」を語り継ぐためにも、再確認するためにも、あるいは当時の日本の庶民から見た戦争はこうだったという認識を諸外国に伝えるためにも、こういったスタンスの作品が作られ、評価されていることは大事なことだと思うのです。
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左翼ネタ | 音楽/映画/テレビ
Posted at
2017/04/01 19:36:43