
さて、親友T.OHTANI君の案内で江戸大本山巡り、日蓮宗大本山池上本門寺、浄土宗大本山増上寺に続いて最後に向かうのは上野寛永寺です♪
まず…。
①徳川家菩提寺の話。
徳川家、家康公、秀忠公、家光公が帰依した天台宗の僧天海僧正の願いで江戸に天台宗の寺院が開かれたのが寛永寺の始まりだそうです。
もともと徳川家の菩提寺は増上寺でしたが、家光は自分の葬儀を寛永寺で行いその後東照宮へ葬るように遺言し、4代家綱、5代綱吉の廟は寛永寺に営まれました。
当然当初、増上寺側の反発もありましたが、6代家宣の廟が増上寺に営まれてからは幕末まで将軍の廟は増上寺と寛永寺に交互に造営されてきました。
②徳川家菩提寺としての増上寺の話
徳川家の菩提寺であることは、他に檀家を持たない寺を意味します。
大政奉還以降衰退の一途をたどり、明治時代には伊藤博文などが檀家となり復興の道を模索するも、再び昭和20(1945)年の空襲でほとんどの堂宇と多くの寺宝が焼失してしまったようです。
増上寺復興の為に、土地や焼失から免れたわずかな寺宝や建築物なども各方面へ移譲されたらしい。
現在の東京タワーやホテルなどが建つ場所もすべて増上寺の元境内であったのにこれらの売却によって堂宇の復興が可能になったと言ってもよいほど、増上寺の復興は困難にみまわれたようです。
安国殿(現在の芝・東照宮)の再建も終わったのは、平成23(2011)年のことである(それ以前は大殿の仮堂を利用していた)。
そして大門という地名の由縁である山門までの一般道にかかる「大門」の権利も、東京都から再び増上寺へ戻ったのは平成28(2016)年とのこと。
尚、台徳院霊廟惣門や御成門、二天門などは未だに増上寺の所有へ戻っているわけではないそうです。
(AERA dot.より引用。)
つまり、徳川家の菩提寺であった故に衰退から第二次大戦による空襲での堂宇や寺宝などの焼失、そこからの復興は並大抵なことではなかったに違いない!
そして上野寛永寺も悲劇を迎えるのだが、その話は後半にしよう。
さぁ、雨が降りしきる中着きました。

鐘楼堂。

上野寛永寺根本中堂。
東京都台東区上野、天台宗関東総本山東叡山(とうえいざん)寛永寺円頓院。
開基(創立者)は徳川家光
開山(初代住職)は天海
本尊は薬師如来。
創建は寛永2(1625)年。
ちなみに寛永とゆう年号。
実は調べてみると年号は勅許でしか寺号には容認されず、4ヵ寺しかないらしい。
それは、寛永寺、建長寺、仁和寺、延暦寺の4例。
つまり東叡山寛永寺の「東叡山」は東の比叡山を指すことから天台宗比叡山延暦寺と同等の格付けをされていたことがわかる。
寛永寺の伽藍は延暦寺の様式に準じて造営された。
寛永4年(1627年)には法華堂、常行堂、多宝塔、輪蔵、東照宮などが寛永8年(1631年)には清水観音堂、五重塔などが建立された。寺の中心となる根本中堂が落慶したのは開創から70年以上経った元禄11年(1698年)、5代将軍徳川綱吉の時である。
根本中堂の建設は元禄10年7月1日に柳沢吉保が惣奉行を拝命し開始され、元禄11年8月11日に上棟式が行われ落成した。
(Wikipedia抜粋)
寛永寺は元々、上野公園一帯を占める実に広大な面積を誇る寺でした。
上野公園一帯を散策しました☆

まずは上野東照宮です♪

神門。

神楽殿。

拝殿と唐門。
旧社格は府社。三大東照宮を自称してはいないが、その豪華さや、近隣の芝東照宮が「日光東照宮・久能山東照宮・上野東照宮に並ぶ四大東照宮の一つ」としていることから三大(もしくは四大)東照宮の一つに数えられることが多い。
正式名称は東照宮であるが、他の東照宮との区別のために鎮座地名をつけて上野東照宮と呼ばれ、別名「三処権現」とも呼ばれる。
主祭神は徳川家康、徳川吉宗、徳川慶喜。
寛永4(1627)年創建。
現在の社殿は徳川家光公が慶安4(1651)年改築。
関東大震災や第二次世界大戦での焼失は免れている。
国の重要文化財に指定。

旧寛永寺五重塔(重要文化財)
寛永8年(1631年)建立の初代の塔が寛永16年(1639年)に焼失した後、同年ただちに下総・古河城主 土井利勝によって再建された。
塔は旧境内地を使って作られた恩賜上野動物園の園内に位置しており、1958年に寛永寺が東京都に寄付したため、現在の所有者は東京都になっている(名称に「旧」とつくのはそのため)。
塔の初重に安置されていた釈迦如来・薬師如来・弥勒菩薩・阿弥陀如来の四仏は、東京国立博物館に寄託されている。
(Wikipedia抜粋)
旧寛永寺五重塔は東京都の上野動物園内にあるため上野動物園に入らなければ五重塔は見れない為遠くからの撮影です♪
おそらく上野動物園も都立動物園であるため五重塔を含め拝観料を取ろうと考えてしまうのは私だけだろうか(笑)

上野大仏(うえのだいぶつ)。
現在の東京都台東区上野恩賜公園内にあった大仏。像高約6メートルの釈迦如来坐像だった。
関東大震災に至る度重なる罹災により損壊し、胴体も戦時の金属供出で失われた。
現在では顔面部のみがレリーフとして保存される。所在地は上野精養軒に隣接する大仏山という丘の上。
薬師仏を祀るパゴダ様式の祈願塔と志納所が併設される。
(Wikipedia抜粋)
胴体を失った顔面は「これ以上落ちない」という意味で「合格大仏」とも呼ばれるそうです♪
なかなか愛嬌がある(笑)

清水観音堂。
清水観音堂は、寛永8(1631)年に天台宗東叡山寛永寺の開山、慈眼大師天海大僧正(1536~1643)によって建立されました。
比叡山が京都御所の鬼門(艮=東北)を守るという思想をそのまま東叡山寛永寺に導入することを意味し、江戸城の鬼門の守りを意図したようです。
そして比叡山や京都の有名寺院になぞらえた堂舎を次々と建立しましたが、清水観音堂は京都の清水寺(きよみずでら)を見立てたお堂になります。
清水観音堂は、京都の清水寺の義乗院春海上人から、同寺安置の千手観世音菩薩像が天海大僧正に奉納されたことにちなみ、清水寺と同じ舞台作りで、初めは上野公園内の「擂鉢(すりばち)山」に建てられました。
しかし元禄初期、今の噴水広場の地に、寛永寺総本堂の根本中堂建設が決まると、その工事に伴って元禄7(1694)年9月に現在地に移築されました。
上野の山に現存する、創建年時の明確な最古の建造物です。
平成2年12月から文化財保存修理が行われ、平成8(1996)年10月に竣工、元禄移築時の面影を再現するに至る、国指定重要文化財です。
(Wikipedia抜粋、引用)
新型コロナの影響で上野大仏も清水観音堂も拝観時間が早まり4時までで参拝出来ませんでした(>_<)

清水観音堂。

不忍池。

天然の池であった不忍池を琵琶湖に見立て、また元々あった聖天(しょうてん)が祀られた小さな島を竹生島に見立て、さらに水谷伊勢守(みずのやいせのかみ)勝隆(かつたか)公と相談して島を大きく造成することで竹生島の「宝厳寺(ほうごんじ)」に見立てたお堂を建立したのです。
琵琶湖と竹生島に見立てられたお堂であったため、当初はお堂に参詣するにも船を使用していたのですが、参詣者が増えるにともない江戸時代に橋がかけられました。
昭和20年の空襲で一帯は焼けてしまいましたが、お堂は昭和33(1958)年に復興し、また昭和41(1966)年には芸術院会員であった児玉希望(こだまきぼう)画伯による龍の天井絵が奉納されました。
(ホームページ抜粋)

辯天堂の辯天さまは八本の腕があり、手に煩悩を破壊する道具を意味する武器をお持ちになっている「八臂辯才天(はっぴべんざいてん)」さまです。
(ホームページ抜粋)

大黒堂。

こちらの大黒さまは豊臣秀吉公が大切にしていたという伝説があり、幕末の戦争や太平洋戦争といった難を免れ、今日に伝わっています。
(ホームページ抜粋)

開山堂(両大師)。
1644(正保元年)創建
1654(承応3年)後水尾天皇第3皇子の守澄法親王が寛永寺の第3代貫主となり日光山主を兼任し、
1655(明暦元年)天台座主も兼ねることとなった。
同年、日光山の満願寺は後水尾上皇の院宣により輪王寺と改称。
1989(平成元年)火災により天明元年(1781年)再建の開山堂と寛政4年(1792年)再建の本堂が焼失
1993(平成5年)本堂再建。
守澄法親王は、天台座主、寛永寺貫首、日光山主の「三山管領宮」となり「輪王寺宮」または「輪王寺門跡」と呼ばれた。以後、幕末まで皇族が関東に下向し輪王寺宮となった。戊辰戦争の後、15世輪王寺宮の公現法親王は還俗となり、輪王寺宮は廃絶された。
(ホームページ抜粋)
歴代寛永寺貫首は天海、公海(天海の弟子)、それ以降は幕末の15世公現入道親王(北白川宮能久親王)に至るまで、皇子または天皇の猶子が寛永寺の貫主を務めている。
つまり東叡山寛永寺は絶大なる権力、格式、宗教的権威を保持していたことがうかがえる!
時間的に厳しくなりましたが、上野恩賜公園周辺には他に、輪王殿、旧本坊表門、歴代将軍御霊廟、釈迦堂、徳川慶喜公墓所がある。

花園稲荷神社。
御創祀の年月は不祥ですが、古くからこの地に鎮座し、忍岡稲荷(しのぶがおかいなり)が正しい名称ですが、石窟の上にあった事から俗称、穴稲荷とも云われていました。
承応三年(約340年程前)、天海大僧正の弟子、本覺院の住僧、晃海僧正が、霊夢に感じ(家光の命とも言われている)廃絶していたお社を再建し上野の山の守護神としました。
幕末、彰義隊の戦では最後の激戦地(穴稲荷門の戦)としてしられています。
後、明治六年に岩堀数馬、伊藤伊兵衛等の篤志家によって再興され、花園稲荷と改名、五條天神社が現地に御遷座になるに及び、社殿も南面して造営され神苑も一新されました。
(旧社殿は俗称お穴様の処です)
(ホームページ抜粋)

五條天神社。
日本尊命(やまとたけるのみこと)が東夷征伐の為、上野忍が岡をお通りになられた時、薬祖神(上記の二柱)の大神に御加護を頂いた事を感謝なされて、この地に両神をおまつりなされました(約1890年前)。
(ホームページ抜粋)

旧因州池田屋敷表門。
(重要文化財)
③東叡山寛永寺衰退と復興
芝増上寺と同様上野寛永寺も壮絶な歴史を送ることになる。
江戸時代後期、最盛期の寛永寺は寺域30万5千余坪、寺領11,790石を有し、子院は36か院に及んだ(現存するのは19か院)。
以前江戸五色不動尊巡りの際の目黒不動(瀧泉寺)、目青不動(教学院)、目赤不動(南谷寺)等も寛永寺の子寺、末寺であったのも調べてわかった。
当時の寛永寺は現在の上野公園のほぼ全域が境内であった。
最盛期には、今の上野公園の2倍の面積の寺地を有していたことから、相当な規模だった。
現在の東京国立博物館の敷地は寛永寺本坊跡であり、博物館南側の大噴水広場は、根本中堂のあったところだそう。
江戸時代には飛鳥山と並ぶ桜の名所として知られており庶民の行楽地であった。
慶応2年12月に将軍となった徳川慶喜は、翌3年12月に王政復古の政変で将軍職を失い、明けて慶応4年の1月3日(新暦1月27日)に勃発した鳥羽・伏見の戦いの最中、大坂城を抜け出して江戸城へ入った。
新政府軍から追討令が出されると、慶喜は即座に江戸城を勝海舟に任せ、寛永寺で謹慎を始める。
この慶喜の元へ抗戦派の幕臣たちが集まり、その数2千とも3千とも言われるようになる頃、錦の御旗を掲げた新政府軍が江戸城に進軍、やがて無血開城で徳川幕府は最後の砦を失うのである。
慶喜は、江戸城が明け渡されたその日、寛永寺を後に水戸へ謹慎の場を移す。
しかし、寛永寺に集まった幕臣たちはそのまま彰義隊を結成し、徹底抗戦へと傾倒していった。
慶喜がいなくなって1カ月後、ついに上野で戦争が始まった。
とはいえ、幕臣たちと新政府軍の装備には差が大きく、戦闘はわずか半日。
この時戦死した幕臣たちは、そのまま見せしめのように野ざらしにされていたらしい。
現在の東京国立博物館あたりが本坊で、噴水前広場あたりが根本中堂。
ここからまっすぐ不忍池までが戦火にかかった。
残ったのは、池に浮かぶ弁天堂と少し離れた観音堂、五重塔、そして鉄砲跡の残る黒門と本坊表門などわずかなものだった。
明治時代になると30万坪以上あった敷地の多くを没収され、廃寺の危機に見舞われた。
明治12年(1879年)子院の1つの大慈院があった場所に川越の喜多院(天海が住していた寺)の本地堂を移築して本堂(中堂)とし復興の途についたが、江戸時代の面影はもはやどこにもなくなってしまったという。
徳川家の菩提(ぼだい)寺という同様の境遇である増上寺が、ここまでの被害を受けなかったのは、徳川慶喜が関係してこなかったということもあるだろうが、寛永寺が政治に巻き込まれた最大の理由は、輪王寺宮という創建以来貫主を務めてきた血筋にもあったようだ。
これは天皇家の血筋で、幕府が有事の際に東国で「天皇」を擁立するための策だったのではないかとも言われている。実際、上野戦争の時には彰義隊に輪王寺宮は担ぎ出されている。
今も根本中堂の裏側には「慶喜公蟄居の間」という部屋が残されているらしい。
江戸時代の境内地だった場所は上野公園や上野駅の用地となり大きく変貌をとげた。
しかし、第二次世界大戦の空襲では、当時残っていた徳川家霊廟の建物の大部分が焼失した。
上野戦争で焼け残り、第二次世界大戦の戦災もまぬがれたいくつかの古建築は、上野公園内の各所に点在している。
明治政府は、神道を推し進め、恭順の意を示した徳川慶喜のお墓は──たった1年だけの将軍とはいえ──15人の将軍の中で唯一神道系の姿で、谷中の墓地で常に一般に公開されている。
(Wikipedia、AERA dot.より抜粋、引用)
徳川慶喜公は264年ほど続いた江戸幕府を終わらせた。勝海舟は江戸の町を戦火にさせず無血開城をした。
慶喜公は大政奉還をする。新政府から、要職から、まるで逃げたかのような振る舞いに見えるが、私には慶喜公が最高の将軍だったと思えてならない。
慶喜公による徳川幕府終焉は新政府軍に倒幕させる口実を失くす徳川家臣達の為、江戸の町を戦火に巻き込み苦しむ江戸町人の為だったのではないか?
…なーんて勝手に私は思う(笑)
そして徳川家によって繁栄し徳川家によって苦難の道を歩んだ増上寺と寛永寺。
東京の歴史と共に深く学べた寺社巡りとなりとても良かった(笑)

上野寛永寺御朱印。

上野東照宮御朱印。
さて…。
あれ…?
こんな評論みたいなブログではいけない(笑)
これは親友T.OHTANI君との楽しい寺社巡りの旅だった(*^^*)
雨の中結構歩いてスニーカーはべちゃべちゃになってしまった(゜_゜)
この後、夜ご飯食べに行きました。
また親友に都内の運転、首都高代、駐車代を払わせてしまった(T_T)
すみません。
いつもありがとう(T_T)

ファミレスのすき焼(笑)
なかなか美味しかった☆
今回の江戸大本山巡りも楽しかった。
建築物こそ新しいが江戸と寺院の歴史を改めて学べたことは歴史好きとしては大変良かったです♪
親友のT.OHTANI君今回もありがとう☆