
さて天気の良い今日は栃木県にやって来ました。
ネットにて探し出しました☆
良さげな寺社を(笑)

下道で2時間半。
やって来たのは、栃木県矢板市、真言宗智山派、与楽山大悲心院観音寺です!
場所は高原山の中腹標高450m前後の比較的高い場所に位置しています。

楼門。
天和4(1684)年創建。

仁王像。

転法輪(摩尼車)。

本堂。
観音寺は通称寺山観音寺と呼ばれている。
本尊は千手観世音菩薩(国の重要文化財)
寺伝によれば、724年(神亀元年)、聖武天皇の勅願により行基が建てた法楽寺が始まりであるという。
その後、法楽寺は803年(延暦22年)雷火により焼失するが、この際、観音堂は焼け残り本尊は安泰であったという。
806年(大同元年)、平城天皇の勅願により、徳一が本尊を現在の地に移し、七堂伽藍を建立し現在の寺山観音寺に至るという。
正治2年(1200年)頃、法橋行縁が入寺し、荒廃していた観音堂を中興した。
寺山観音寺縁起によれば、法橋行縁が荒廃していた寺山観音寺の観音堂を修造・中興したのは、正応6年(1293年)10月18日(修造開始)から正和2年(1313年)10月17日(修造終了)のこととしている。
しかし、その縁起では、行縁は北条時政により遣わされたとされ、年代的に符合しない。
その一方で、寺所蔵の木造行縁僧都坐像(栃木県指定有形文化財)の胎内の墨書銘には、「正治元年(1199年)己未十月十八日始之、正治二年(1200年)庚申十一月十七日修理之也」と記されており、北条時政により派遣されたという伝承とも年代が符合し、縁起に記された中興年は「正治」と「正応・正和」の年号が、何らかの理由で誤って伝わった可能性が大きい。
(Wikipedia抜粋)

山奥にひっそり佇む素敵なお寺です。
重要文化財(国指定)は、
①木造千手観音及び両脇侍像3躯、木造千手観音坐像(像高101.6cm・鎌倉時代初期作・作者不明)素地仕上げの像で、台座、光背も当初のものが残る。
②木造毘沙門天立像(像高119.5cm・鎌倉時代作・作者不明)中尊千手観音像とは作風が異なり、関東地方に作例の多い鉈彫り像である。寄木造。
③木造不動明王立像(像高114.3cm・鎌倉時代作・作者不明)毘沙門天像と同様の鉈彫り像であるが、表面のノミ目が特に粗く、未完成像のように見える特異な像である。一木造。
栃木県指定有形文化財は、
①木造二十八部衆立像(像高約80cm・永享13年(1441年)作・少貳法眼、金資宗海)
②木造行縁僧都坐像(像高84cm・鎌倉時代初期作)

銅造大日如来坐像。
③銅造大日如来坐像(像高115cm・天明元年(1781年)作・丸山善太郎易親)
④銅造千手観音坐像(像高36cm・鎌倉時代初期作・作者不明)
⑤木造風神・雷神像(風神像高66cm、雷神像高68.3cm・14世紀頃作・作者不明)

観音堂(本堂)
天和4(1684)年創建。

観音寺のイチョウ(樹齢約350年)
(栃木県指定天然記念物)

十六羅漢像。

観音寺本坊。
こちらも雰囲気のある非常に素晴らしい場所である。
もちろん山奥にあることもあるが空気がとても澄んでいる☆

紅葉はやはりまだ早いようだ(笑)

御朱印は書き置きです。

地元の方に話かけられた♪
遠いところから何故来たの?と。
それは素晴らしい場所を見つけたからですよ☆
さて、戻りがてら今度は栃木市まで向かいます。

栃木県栃木市、大神神社(おおみわじんじゃ)です。
式内社(小)論社、下野国総社。旧社格は県社です☆
平安時代中期の『延喜式神名帳』には「下野国都賀郡 大神社」の記載があるが、大神神社はそれにあてる説がありその論社とされている。
古くは「下野惣社大明神」「惣社六所大明神」「八島大明神」などの別称があったようです。

神楽殿。
(栃木市指定無形民俗文化財)

神宮。
本社の相殿を祀る。

本殿。
主祭神は倭大物主櫛𤭖玉命 (やまとおおものぬしくしみかたまのみこと)
大物主命を指す。
栃木県の大神神社は大神神社(奈良県桜井市)からの分霊。
『大神神社(奈良県)』
ちなみに奈良県桜井市の大神神社は、式内社(名神大社)、大和国一宮、二十二社(中七社)。
旧社格は官幣大社で、現在は神社本庁の別表神社である。
(Wikipedia抜粋)
名神大社とは国の名神祭の対象となる神々を祀る神社である。
旧社格の官弊大社とは官(朝廷、国)から幣帛(へいはく)ないし幣帛料を支弁される神社。
まぁ、つまり神様のお供え物を国や朝廷が支援していた大社であるということ。
『大物主神』
少彦名神が大国主神(大己貴神)から去り国造りをする際に1人になった大国主神を助けた神様が大物主神(三輪山に鎮座)である。
この神を祀ったのが、現在の大神神社と思われる。

栃木県栃木市、大神神社。
社伝では、崇神天皇の時代に豊城入彦命(崇神天皇皇子)が東国平定の折に戦勝と人心平安を祈願し、当時から広く名を知られた室の八嶋(むろのやしま、室の八島とも記す)に、崇神天皇が都とした大和国磯城瑞籬宮(現在の奈良県桜井市金屋)に座した大三輪大神(大神神社)を勧請したのが創建とされている。
また、古代の国司は各国内の全ての神社を一宮から順に巡拝していたが、これを効率化するため、各国の国府近くに国内の神を合祀した総社を設け、まとめて祭祀を行うようになった。
大神神社はそのうちの下野国の総社にあたるとされる。
平将門の乱により被害を受けたが、藤原秀郷らの寄進により再建され、室町時代まで社殿は広く立派であったと伝える。
しかし戦国時代に、皆川広照の残兵が当社に篭り、北条氏直の軍勢が火を放ったために焼失し、荒廃した。
その後、徳川家光による社領30石と松の苗1万本の寄進などにより、1682年(天和2年)に現在の形へと復興したという。
しかしながら、実際には明治時代より以前の史料で明確に「大神(おおみわ)」または「大三輪」と呼んだものは発見されていない。
「実際のところは、都から遣わされた国司が大和国の大神神社(大三輪神社)を別の場所で祀っていて、これが下野惣社大明神に合祀され同化した」といった説もあるなど、その歴史は必ずしも詳らかとは言い難い。
明治維新後、明治6年に近代社格制度において郷社に列し、明治40年に神饌幣帛料共進神社に指定、明治44年に県社に昇格した。1924年(大正13年)に社殿の大改修、1993年(平成5年)に室の八嶋の大改修などが行われて現在に至っている。
古来より社家大宮司は國保家が代々世襲していた。
(Wikipedia引用)

大杉みこし庫。

大いちょう。

御神木。
大いちょう。
地図左下の図、室の八嶋。
室の八嶋(むろのやしま)は、古来の和歌などに歌枕として見られる地名。
大神神社境内の池中の島をその跡と伝える(ただし後世の付会とする説もある)。
奈良時代の昔から、歌枕として都にまでその名を知られ、『万葉集』や『古今和歌集』をはじめとする多くの和歌集などに登場する。
この地を訪れたとされる松尾芭蕉と曾良は『奥の細道』に、室の八嶋の由緒などを曾良の言として記しているが、俳句は載せていない。
しかし、後年曾良が著した『俳諧書留」に、芭蕉の句として「いと遊に結びつきたるけふりかな」が記されており、これが当社の境内に句碑として建立されている。
現在見られる「室の八嶋」は、杉木立の中の掘割に、小さな祠を戴く8つの小島がある、およそ800坪ほどの庭園状の場所であり、水煙や湧き水などは観られない。8つの祠には、筑波・天満・鹿嶋・雷電・浅間・熊野・二荒山・香取の各名神が祀られている。
(Wikipedia抜粋、引用)
大神神社、「下野惣社(室の八嶋)」は栃木市指定史跡とされている。

水琴窟。

護国神社。
御朱印は後日郵送だそうです(笑)
さて、奈良県の大神神社の分霊、栃木県栃木市の大神神社。
松尾芭蕉だけではなく多くの歌人が歌枕として詠んだ場所。
そこは、まさに聖域といえるこの地を守る大変歴史深い神社でありました☆
そして、栃木県矢板市の寺山観音寺。
こちらはまさに静かな山奥に荘厳な存在感を持つ寺院でした☆
どちらも素晴らしかったです♪
今度はコロナ禍にてしばらく行けなかった紅葉時期の茨城県筑西市の最勝寺を訪れることが出来ればと思います!
それではまた☆