
こんにちは。
今回、久しぶりに神社にやって来ました♪

栃木県佐野市、賀茂別雷(かもわけいかづち)神社です☆

石段を上ると拝殿が見えてきます。

拝殿

賀茂別雷神社。
御祭神は「賀茂別雷の神」です。
ここで、あれ?
聞いたことあるぞ!って方はさすがです☆
天智天皇8年(669年)、京都にあるユネスコ世界文化遺産である賀茂別雷神社(上賀茂神社)を菊澤川の水源「宇菊澤」に奉って、「賀茂別雷神社」と称したのが始まりといわれている神社です。
遠い昔より、山の神、農業の神として奉られて、落雷除け、嵐除け、五穀成就、天下泰平の神として崇敬されているようです。

摂社:猿田彦新宮
猿田彦大神は、ものごとの最初に御出現になり万事最も善い方へ“おみちびき”になる大神で、建築・方位除け・災難除け・開運・事業発展・五穀豊穣・大漁満足など、みちひらきの御神徳で知られています。
(ホームページ抜粋)

摂社:稲荷神社、寒澤山神社、夕日森天満宮、大守神社、薬師神社、古峰神社、浅間神社。

摂社:夕日森(ゆうひもり)
天満宮
菅原道真をご祭神とし、学問の神・受験の神・雷神・立身出世の神・農業の神(天神として)祀られており、合格祈願、学業成就、五穀豊穣、技芸・芸能にご利益があると言われています。
(ホームページ抜粋)

観音堂

神仏習合の名残を感じます。

十九夜塔
月待塔(つきまちとう)
→日本の民間信仰で月行事を行った講中。
旧暦19日の月待の記念として、十九夜講中によって造立された塔である。
十九夜講のほとんどは女人講、念仏講である。
子安講ともいい、安産を祈願することもある。
「十九夜塔」「十九夜念仏供養」などと刻まれた文字塔と如意輪観音の刻像塔があり、山形、福島、茨城、栃木、群馬、埼玉、千葉などに分布する。
栃木県では女性を護る「十九夜様」として石仏が建てられ、旧暦19日には供え物をしたり、月が出るまで女性がここに集まって念仏を唱えて飲んだり食べたりする行事がみられた(男性も加わるようになり継続されている地域もある)
(Wikipedia抜粋)

やぎのメイちゃん。
神社境内で飼われているようです☆

さて、栃木県佐野市の賀茂別雷神社は、京都の賀茂別雷神社の分社です。
正徳五年(1715)には宗源宣旨により正一位の神階を賜ったそうです。
ちなみに、京都の賀茂別雷神社とは?
『賀茂別雷神社(かもわけいかづちじんじゃ)』
京都市北区にある神社。通称は上賀茂神社(かみがもじんじゃ)。
式内社(名神大社)、山城国一宮、二十二社(上七社)の一社。
旧社格は官幣大社で、現在は神社本庁の別表神社です。
もう一度おさらいすると延喜式神名帳による名神祭を司る名神大社、山城国の一之宮であり、明治維新以降の近代社格制度(戦後廃止)は官幣大社で、現在が神社本庁の別表神社ということです☆
主祭神は賀茂別雷大神、神体は神山(神体山)
創建は天武天皇7年(678年)
本殿の様式は三間社流造、神仏霊場巡拝の道、第102番(京都第22番)です。
京都最古の歴史を有する一社であり、かつてこの地を支配していた古代氏族である賀茂氏の氏神を祀る神社として、賀茂御祖神社(下鴨神社)とともに賀茂神社(賀茂社)と総称される。
賀茂社は奈良時代には既に強大な勢力を誇り、平安遷都後は皇城の鎮護社として、京都という都市の形成に深く関わってきた。賀茂神社両社の祭事である賀茂祭(通称 葵祭)で有名である。
明治の近代社格制度でも伊勢神宮に次ぐ官幣大社の筆頭とされ、明治16年(1883年)には勅祭社に定められた凄い神社であります♪
(Wikipedia抜粋、引用)
ちなみに、賀茂社とは?
賀茂社とは、ユネスコ世界文化遺産に指定されています、賀茂別雷神社(上賀茂神社)と、賀茂御祖(かもみおや)神社(下鴨神社)を指します☆
「上賀茂神社」と「下鴨神社」。
大きな違いは、ご祭神。
上賀茂神社は、雷を分ける力を持った自然神の「賀茂別雷大神」(かもわけいかづちのおおかみ)を祀っています。
これに対し、下鴨神社は賀茂別雷大神から見て母親の「玉依比売命」(たまよりひめのみこと)と、祖父の賀茂建角身命(かもたけつぬみのみこと)が祭神であること。
この違いがありますが、二社で賀茂社と総称されております。
『賀茂別雷命とは?』
賀茂別雷神社(上賀茂神社)の祭神であり、各地の加茂神社(賀茂神社・鴨神社)で祀られる賀茂別雷命(かもわけいかづちのみこと)であるが、実は古事記と日本書紀には登場しない。
賀茂別雷命の出生には3つの説がある。
①『賀茂之本地』では阿遅鉏高日子根神(あじすきたかひこねのかみ)
と同一視されている。
そうなってくると父は大物主神(大国主神)になってくる。
ちなみに日本書記では別称となっているが、大国主神が自らの和魂を大物主神としたとされているらしい。
②「丹塗矢(にぬりや)伝説」
『山城国風土記』逸文では、賀茂建角身命(賀茂御祖神社の祭神)の娘の玉依姫(同じく賀茂御祖神社の祭神)
が川を流れ下ってきた矢を床の辺に持ち帰って火雷神(ほのいかつちのかみ)の子,賀茂別雷命(かものわけいかつちのみこと)を生んだという話がある。
つまり丹塗矢(にぬりや)の正体は乙訓神社の火雷神であったという説。
③賀茂別雷命の出生についての話と同様の話が『古事記』や『秦氏本系帳』にもあり、特に後者の話と混同されて、「賀茂別雷命の父は松尾大社、地主神である大山咋神(おおやまくいのかみ)でありその玉依姫との子供」とする説。
大山咋神は日枝山の日吉大社、京都松尾の松尾大社の主祭神であることから、前回書いた神仏習合の比叡山延暦寺の守護神、山王権現の子供になるのではないか。
いづれにしろ調べていたら訳わからなくなってきたのでこのへんでやめようと思う(笑)
ちなみにあくまでもWikipediaをもとに調べているため正確な情報ではない場合があります。
興味のある方(いないか☆)は調べて教えて欲しいものです(笑)

境内で飼われている猫ちゃん。
看板猫、たまちゃんだったかな?
神主さん曰く、猫の手も借りたいくらい忙しいらしい(笑)

境内から山に向かって10分登ると奥宮があるそうで登ってみた。

紅葉終わってしまった!

結構な山道。
おじさんには辛い(笑)

登りきると景色が良い☆

見えてきました。

賀茂別雷神社奥宮。
明治四十一年まで社殿が鎮座していた、菊澤山の頂上付近に有志により令和元年に祠を祀り、賀茂別雷命の本源としている。
眺望よく、天気が良いと富士山も見えるそう。
(ホームページ抜粋)

すすきと太陽。

落ち葉もまた良い☆

若干紅葉残している♪

佐野市、街並み。

奥宮を参拝して戻ってくると拝殿、本殿隣にまた摂社。

摂社:産泰(さんたい)神社、機姫(おりひめ)神社。
産泰(さんたい)神社。
ご婦人の守護神で
安産、子育ての神である。
機姫(おりひめ)神社は機織りの大神である「天棚機姫神」をまつる機姫神社と合祀し、安産・縁結びの神社として鎮座。

産泰神社、機姫神社。

摂社:秋葉神社

摂社:八坂神社

摂社:大宮神社

また賀茂別雷神社拝殿に戻ってくるともう1匹の猫ちゃんがお出迎え☆

こっちがひめちゃんかな?
名前どっちか忘れてしまった(笑)

人懐っこい☆

少しの間戯れる(笑)

可愛いかった(笑)

猫ちゃんごしの拝殿。
現在の本殿は宝暦十一年(1761)の建築で、堂の彫刻は上州館林の住人斉藤甚平、甚八、両人の作で、竹林の七賢人、菊の花、竜など、めでたい物がたくさんある。
その後、氏子の念願により、明治四十三年現地に遷座。
(ホームページ抜粋)

猫ちゃんシャッター音で逃げ出す(笑)

御朱印です。
こちらの神社は御朱印が大変有名でたくさんの絵柄の御朱印がありますので調べて見て下さい☆
私は一般のやつですが(笑)
以上が佐野市賀茂別雷神社でした☆
さて、実は、こちらの神社の1000mくらいの道沿いに『加茂別雷神社(かもわけいかづち)』という神社があります。
拝殿、本殿共に改修工事中で写真は撮りませんでしたが、賀茂別雷神社とは全く違うようです。
しかしながら、こちらの神社も、大同二年(807年)山城国上賀茂神社より胎蔵院杉本坊が基の御分霊を現在地より菊水山に勧請し菊水源社雷大権現と称した。と社伝にあるところをみるとやはり賀茂社と何らかの繋がりがあるのでは?と調べてみました。
祭神は別雷命、天児屋根命、菅原道真朝臣命となっている。
社伝では山城国加茂皇大神を勧請したとあるため、玉依姫の可能性もある。
しかし、専門家ではないため難しくよくわかりません(笑)
次に天児屋根命。
別名春日大明神。
春日大社の主祭神。
中臣氏の守護神である。
そして菅原道真朝臣命。
言わずと知れた北野天満宮の菅原道真様です。
ここで興味深いことが。
こちらの神社の由緒には、
『朱雀天皇天慶三年唐沢山城主田原藤太秀郷公平将門追討するに際し、本社に戦勝祈誓せしに
速に将門誅に伏したり。』
とあること。
つまり唐澤山城主、藤原秀郷公が平将門を追討し鎮守府将軍になったことからこの神社で討伐祈願したということ。
近くの唐澤山神社では主祭神も藤原秀郷公である。
つまり平将門討伐制圧の為の神社であったのである。
しかし、当然逆パターンもあり平将門公を主祭神や守護神にしている神社やお寺もたくさんあるということ。
前回のブログにてチラッと書いた、成田山新勝寺に良く行く私はなかなか平将門公ゆかりの地に行くことは良くないのか?
というもの。
その理由は成田山新勝寺は平将門追討の際、朝廷にお不動さまに御護摩祈祷を勅願され開山したお寺であるから!
特に非業の死を遂げた平将門は崇徳天皇、菅原道真と共に日本三大怨霊と呼んでいるくらいのものです。
有名な神社やお寺を片っ端から訪れたりするのは怖いものがあります。
その一番の例が神田明神と成田山新勝寺の関係性です。
もちろん特に信仰心はないのであるが平将門公を祀った将門神の東京神田明神と反逆者として追討の護摩祈祷をした成田山新勝寺、まさに正反対でそりゃ一緒に行ったらおかしいのではないか(笑)
もちろん民間信仰において迷信に過ぎないらしいのだが。
ただ、平将門公ほど評価の分かれる武将はいない。
朝廷が東国平定をしてからというもの支配下に置いた板東にも重い税金を課し民衆を苦しめた。
欲にまみれた為政者が民衆を疲弊させたことにより反権力闘争を起こした平将門公は東国地方においてはヒーロー的存在であり、民衆の支持を得ていた。
しかしながら、明治期には将門は天皇に逆らった賊とされ、政府の命により神田明神などの神社の祭神からも外されたり史蹟が破壊されたりもしている。
多くの史料が失われたが、中世以降、将門を祖先とした千葉氏、そして相馬氏を中心とした武士団により平新皇として受け入れられ、将門伝説が伝承されていったことにより、民衆の信仰は厚く排斥することもできなかった。
その結果、将門の怨霊譚が現在においても喧伝されている。
平将門は討たれその首を平安京に晒されたが、朽ち果てることなく、関東を目指して空高く飛び去ったとも伝えられ、途中で力尽きて地上に落下したともいう。
この将門の首に関連して、各地に首塚伝承が出来上がっている。
詳しくは書かないが近年でも区画整理の為に首塚を移転しようとした矢先、不審死や事故があったこともあり、今でも将門公の祟りを恐れ厚く厚く祀っている。
平将門にまつわる主な神社やお寺は数々あるので少し紹介してみる。
①神田明神。
東京都千代田区にある神社。
三之宮に除災厄除の神様「平将門命(まさかど様)」として祀る。
②京都神田明神。京都市下京区にある祠。
空也が将門の首級を祀り祟りを鎮め厚く供養し建立した小祠と伝わる。
③帝立山妙善寺。千葉県東金市にある寺院。
東金市御門(みかど)にある。地名は新皇を名乗った将門に因む。将門が慈母桔梗の前の菩提を弔うために天慶元年(938年)4月、真言宗の一刹を建立し京の都より貞観法師を迎え開基したと伝えられる。
戦国期に上総七里法華によって改宗、現在は顕本法華宗寺院である。
④香取神社。
東京都江東区にある神社。
天慶年間(938年~947年)、藤原秀郷が当社で将門討伐の戦勝祈願をし、成就したことから弓矢を奉納し、「勝矢」と命名した由緒から今日ではスポーツの神として崇敬を集める。
⑤國王神社。
将門終焉の地とされる茨城県坂東市にある神社。
将門の三女・如蔵尼が、父の最期の地に庵を建てたのが国王神社の創建とされ、父の三十三回忌に当たって刻んだ「寄木造 平将門木像」を神体とする。
⑥神田山延命院。茨城県坂東市にある真言宗智山派の寺院。
将門の遺体を葬った胴塚がある。その胴塚を抱くように大きなかやの木が立っており、西側には、1975年(昭和50年)に東京都大手町の将門首塚から移された「南無阿弥陀仏」の石塔婆が建てられている。
⑦駒形大神社。
千葉県市川市にある神社。
将門がこの地に出城を設けたという伝説があり、将門も祭神として祀られる。
⑧相馬神社。
福島県相馬市にある神社。
境内の国王社に素戔嗚尊と相馬氏の祖と伝えられる平将門をあわせて祀る。
⑨長禅寺。
茨城県取手市にある寺院。
承平元年(931年) 将門が祈願寺として創建したと伝わる。
⑩築土神社。
東京都千代田区にある神社。
「相殿神」として将門を祀る。
将門は東国においては英雄として祀り上げられるも、明治になると皇国史観の影響もあり、将門を「逆賊」のように評する風潮も見受けられた。
それまで築土神社では将門を唯一の祭神としていたが、明治7年(1874年)社格を意識して便宜上、天皇と関わりの深い神である天津彦火邇々杵尊を霧島神宮より勧請してこれを「主神」とし、将門を「相殿神」として祀るようになった。
⑪七ツ石神社。
山梨県丹波山村と東京都奥多摩町の境界の山、七ツ石山にある神社。
山名の由来である頂上の露岩には、将門の影武者七人衆のわら人形を作り並べて敵がそれを射貫いた瞬間、岩に変化したという伝説がある。
⑫御首神社。
岐阜県大垣市にある神社。
南宮神社で将門の首が関東に戻ることにより再び乱の起こることを恐れ祈願したところ、神社に座す隼人神が矢をつがへ東に飛びゆく将門の首を射落とした。
この首が落ちた荒尾の地に将門を神として崇め祀ることによって再びその首が関東に戻らぬよう、その怒りを鎮め霊を慰めるために創建された。
⑬鎧神社。
東京都新宿区にある神社。
一説に、藤原秀郷が重病を得た時、将門の鎧を円照寺内に埋め、一祠を建てて将門の霊を弔ったところ病が癒えたという。
⑭兜神社。
東京都中央区の神社。
境内には、「兜岩」とよばれる岩があり、なぜ兜岩と呼ばれるのかは諸説あるが、その一説が、940年(天慶3年)、将門を討ち取った秀郷が、岩がある当地で将門の兜を地中に埋めて供養したというもの。
この岩が「日本橋兜町」の地名の由来となっている。
⑮将門神社と首洗い井戸。
千葉県我孫子市日秀に築かれた賀沼を眼下の望む高台南端に鎮座する神社。
近くに「首洗い井戸(将門の井戸)」がある。
⑯将門神社。
東京都西多摩郡奥多摩町棚沢178にある神社で、かつて日本武尊の祭った多摩八座の一といわれる穴沢天神があった地に、鎮守府将軍藤原利仁が陣中衛護の神として八干戈命を祭って多名沢神社を起こし、その後に将門の長男良門が亡き父の像を刻んで祀って以来、社号を平親王社と呼ぶようになったと伝わる。
多摩川流域を領した三田弾正忠平次秀は将門宮を再修して地域の総鎮守とし、江戸期には棚澤村東部地区の鎮守であった。
明治41年古里村棚澤の熊野神社に合祀されたものの、昭和50年に地域住民が神社を再建した。
⑰日秀観音。
千葉県我孫子市。平将門の守り本尊と伝えられる観世音菩薩。
⑱首曲(くびまがり)地蔵。
我孫子市日秀にあり、将門調伏を祈願した成田不動尊を嫌い、成田に顔を背(そむ)けた姿といわれる。
⑲成田山新勝寺
千葉県成田市。
平安時代中期、平将門の乱において朝廷は将門調伏の祈願を大寺社や密教僧に命じた。
天慶2年(939年)、寛朝僧正も朱雀天皇の密勅を受け寛朝は、京の高雄山(神護寺)護摩堂に安置されていた空海作の不動明王像を奉じて
天慶3年(940年)、朝敵調伏を旨とする不動護摩供を奉修した。
(Wikipedia抜粋、引用)
とまぁ、一部Wikipediaをもとに紹介したが茨城県から千葉県にかけては平将門ゆかりの神社やお寺はまだまだたくさんあります。
歴史を知るとまた面白いものである。
ちなみに将門とその家来の子孫は、1070年以上たった今でも成田山新勝寺へは参詣しないそうです。
また、生い立ちにもある千葉県佐倉市将門に古くから住む人々も参詣しない家が多く残り、かつて政庁が置かれた茨城県坂東市の一部にも参拝を良しとしない風潮が残るとされる。
築土神社や神田神社(神田明神)の氏子も、成田山新勝寺へ詣でると産土神である平将門命の加護を受けることができなくなるとの言い伝えにより、参詣しない者が多い。
例年NHK大河ドラマの出演者は成田山新勝寺の節分豆まきに参加するが、将門が主人公であった1976年(昭和51年)大河ドラマの『風と雲と虹と』の出演者も成田山新勝寺の豆まきへの参加を辞退した。
(Wikipedia抜粋)
ずいぶんと長々脱線してしまったが日本の歴史も奥が深いし、基本的に歴史上、争い事があっても両者が追悼、供養し合う日本人魂を感じるのは祟り、呪いを恐れる日本人特有の性質なのかもしれない。
さて、これが今年最後のブログになると共に一年間無事に生活出来たことは、神社やお寺、またはご先祖様のご加護であると信じ日々頑張っていきたいと思います☆
みん友の皆様、またはふらりと寄っていいね!をつけて頂ける皆様、今年もありがとうございました♪
それではまた☆