
今回は桜特集として埼玉県の桜を取り上げます☆
埼玉県の桜といえば、秩父の美の山公園や川越公園、幸手の権現堂桜堤、熊谷桜堤、長瀞などが有名ですが、私の場合は人のいない寺社の桜が大好きであります。
そして桜の木の本数より風景の一貫としての艶やかさを重要視しております☆
その中で毎年訪れるのがこちら。

總願寺黒門。

仁王門。
埼玉県加須市にある関東三大不動、真言宗智山派不動ヶ岡不動尊總願寺です☆
内容は過去あげているので省略します♪

本堂

ちょっと天気が悪く映えてませんが境内にほどよい本数の桜がとてもキレイです☆

抜けも良く境内からの山門辺りもキレイです☆

鐘楼堂と桜。

歴史ある本堂とのコラボレーションはなかなかのものですよ☆

本堂。

仁王門と桜。

本尊は不動明王である。

以上が總願寺の桜です☆
近くの川沿いで撮影しました(笑)

川沿いの桜もキレイです☆
続いて埼玉県行田市にある忍城(おしじょう)にやってきました!
その前に向かいにある諏訪神社と東照宮を訪れました♪

こちらは通称、忍(おし)諏訪神社/忍(おし)東照宮と言われます!

諏訪の大木。

忍東照宮。

忍東照宮拝殿。
社伝によると東照宮は、松平忠明公が寛永2年(1625)、大和国郡山城内に創建、松平家の移封に伴い各地に遷座、文政6年(1823)に桑名藩より忍藩への移封により、忍城内に遷座しました。代々100石の社領を拝領していましたが、明示維新に伴い、明治7年当地へ移っています。

祭神は徳川家康公、松平忠明命、八幡大神です。

摂社:多度社、一目蓮社。

摂社:二の丸稲荷社

忍諏訪神社。

社伝によると忍諏訪神社は、建久(1190年頃)年間、忍三郎・忍五郎家時等一族が当郷へ居住した頃に創建されたとも、成田親泰が延徳3年(1491)に忍城を構築した際に持田村鎮守諏訪社(持田諏訪神社)を遷座したとも伝えられます。明治維新後、忍城内にあった神社を当社境内に遷座したといいます。
祭神は建御名方命、八坂刀売命です。
2神は夫婦になります(笑)
『建御名方神(たけみなかたしん)』
「古事記」に見える神。 大国主命の子。
天照大神の使いの建御雷神の命に服さず力くらべをしたが負け、信濃国(長野県)諏訪湖まで逃れ、同地に鎮まったという。 諏訪神社の祭神。
こちらも大国主神の子供で出雲系になります!
まー簡単に言えば大国主神と天照大神による権力闘争です。
俗に言う国譲りの話ですが天照大神の使いの建御雷神に負けた建御名方神は長野の諏訪湖に逃れました。
これが主祭神の諏訪大社です☆
さてここで社号の話を。
俗に言う『神社』『神宮』『宮』『大社』とは。
『神社』とは特に基準が無いため
10万社あるともいえる全国各地に鎮座する大部分の神社が「神社」と名乗っています。
神社は神道の神をまつる施設の総称であるため『神宮』『宮』『大社』も神社といえます☆
『神宮』と『大社』
いづれも全24社です。
『神宮』は主に皇室と特別な関係性をもつ神社のことを言います♪
平安時代に「神宮」という社号が生まれた当時は伊勢神宮(三重県)、香取神宮(茨城県)、鹿島神宮(千葉県)の三社のみが「神宮」の社号を名乗っていたそうですが現在では神社本庁の許可を得て名乗れるようです☆
『大社』とは祭神と神社名を共有する神社の系列の頂点に立つ神社、信仰の本源となる神社をいいます。
ただ、24社のうちもともと大社とは出雲大社だけで、残りの23社は戦後から名乗っております。
しかし、平安時代の社格制度の「官幣大社」や「国幣大社」という極めて高いランク付けがされていることも「大社」という社号を名乗る基準だといえます☆
ちなみに出雲大社。
本当の読み方は「いづもおおやしろ」です☆
通常神社の参拝方法は2礼2拍手1拝ですが、出雲大社では2礼4拍手1拝をします。
これは「四季を表し実りと繁栄を祈願する」とか「東西南北の4神に敬意を示す」からだと言われております☆
5/14の例大祭では2礼8拍手1拝をするそうです♪
これは無限を意味する8で神様に対して限りない拍手でお讃えする儀式だそうでその日以外は略式で4拍手と言われております☆
そして最後、『宮』とは、親王すなわち皇室の皇子や皇孫を祭神とする神社に与えられるのが「宮(ぐう)」と呼ばれる社号です。
ただし、社号の制度とは関係なく伝統的に「宮」を名乗る神社も数多く存在します。
徳川家康を祭神とする東照宮(栃木県)、菅原道眞を祭神とする天満宮(京都府)などがそれに当たります。
これが社号の簡単な話になります(笑)☆
いづれにしてもこちらの諏訪神社も諏訪大社系列、つまり出雲系といえますね☆

御朱印は書き置きです。
そして入館はせず忍城(おしじょう)一帯を散策してみます。

伝進修館表門。

ちなみに観光客が橋を渡るのをひたすら待ち、この場所で撮影していたら、1組のご夫婦さんが
「ここはベストショットの場所ですね~撮らせてもらっていいですか?」
と話かけられました(笑)
後に3組並んで撮ってました(笑)
『忍城』
室町時代中期の文明年間に成田氏によって築城されたと伝えられております。
数度の城攻めを受けて、一度も落城しなかった要害堅固な城として知られる。
戦国時代には関東七名城の一つ、1590年(天正18年)に豊臣秀吉の小田原征伐に伴い発生した攻城戦の際、豊臣方の水攻めに耐え抜いた逸話から浮き城または亀城と称された。
江戸時代に入ると忍藩の藩庁あるいは徳川氏の譜代大名や親藩の居城となり、阿部氏の時代には御三階櫓が新たに建設されるなどの城郭改修や城下町の整備が行われた。
明治維新後、1871年(明治4年)の廃藩置県と同時に廃城となり、1873年(明治6年)に土塁の一部を残して取り壊されたが、城跡は県指定記念物の旧跡に指定されている。
また、本丸跡には御三階櫓が再建され、水堀や沼地の一部は水城公園として整備されている。
2017年(平成29年)4月28日に文化庁が認定する日本遺産ストーリー「和装文化の足元を支え続ける足袋蔵のまち行田」の構成資産(文化財)のひとつに加えられた。
(Wikipedia抜粋、要約、引用)
『忍の浮き城』
1478年(文明10年)ごろ、地元の豪族であった成田正等・顕泰父子がこの地を支配していた扇谷上杉家に属する忍一族を滅ぼし、築城したといわれている。
翌年、これに反発する扇谷上杉家に忍城を攻められるものの、同家の家宰太田道灌の仲介によって和解して以後、成田氏が領有した。
河越夜戦後、北条氏が関東に勢力を伸ばすが、成田氏はこれに反発した。
1559年(永禄2年)、上杉謙信が関東に遠征してくると成田氏はこれに恭順した。
1561年(永禄4年)の上杉謙信による小田原城攻めには、当時の城主の成田長泰も参加している(小田原城の戦い)。
しかし、鶴岡八幡宮での関東管領就任式後に離反。
1574年(天正2年)には上杉謙信に忍城が包囲され、城下に火を放たれたが持ちこたえている。
1590年(天正18年)、豊臣秀吉の関東平定の際、城主・成田氏長は小田原城にて籠城。
『忍城戦記』などによれば氏長の叔父・成田泰季を城代とし、約500人の侍や足軽のほか、雑兵、農民、町人など3,000人が忍城に立てこもった(忍城の戦い)。
豊臣方の忍城攻めの総大将は石田三成で、大谷吉継、長束正家、真田昌幸等も加わった。
三成は、本陣を忍城を一望する丸墓山古墳(埼玉古墳群)に置き、近くを流れる利根川を利用した水攻めを行うことを決定し、総延長28kmにおよぶ石田堤を建設した。
しかし忍城は落城せず、結局は小田原城が先に落城したことによる開城となった。
このことが、忍の浮き城という別名の由来となった。
『江戸時代以降の忍城』
徳川家康の関東入部後は、家康の四男の松平忠吉が忍城に配置され、以後、忍藩10万石の政庁となった。
忍城の城下町は、中山道の裏街道宿場町としての機能や、付近を流れる利根川の水運を利用した物流路としての機能を兼ね備えて繁栄する。
また江戸時代後期からは、足袋の産地として名をはせるようになる。
廃藩置県に伴い「忍県」の県庁が二の丸に置かれたが、その後廃城となって城内の構造物はほとんどが撤去され、城跡は公園(成田公園、後に忍公園)として整備された。
忍公園が拡張され、1988年(昭和63年)2月17日には行田市郷土博物館が開館、御三階櫓は博物館の一部として「忍城鳥瞰図」や文献などを元に、鉄筋コンクリート構造によって外観復興されている。
周囲には土塁の一部が残存している。
2017年(平成29年)、続日本100名城(118番)に選定された。
(Wikipedia抜粋、要約、引用)

ちなみに最初に紹介した總願寺の黒門は忍城の北谷門を移築したものである。

城下町行田の忍城は映画「のぼうの城」の舞台となりました。
文明年間(1469~1486)に山内上杉氏配下の豪族成田親泰が築城したとされ、関東七名城の1つに数えられました☆
『関東七名城』
①太田城(茨城県)
②宇都宮城(栃木県)
③唐沢山城(栃木県)
④金山城(群馬県)
⑤前橋城(群馬県)
⑥忍城(埼玉県)
⑦川越城(埼玉県)

天気良ければもう少しキレイだと思うのだが(笑)

城内に入ります♪

桜がキレイです☆

史蹟忍城の鐘。

キレイですね~☆

お花いっぱいです(笑)
忍城は緑あふれる憩いの場でした♪
以上桜特集①です☆
②へつづく。