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Hiro.Yのブログ一覧

2022年08月26日 イイね!

実家帰省と温泉旅館☆

実家帰省と温泉旅館☆この3年間、コロナ禍でなかなか実家には帰れず今回2日だけ北海道に帰省しました☆

と、言っても両親ともに高齢ですので顔を見せときたいということで1日だけは実家に1日は旅館にてゆっくりするスケジュールを立てました♪

本当は以前お世話になりました同郷のみん友さんにでも連絡しようかとも思ったのですがまだ新型コロナも感染拡大中でしたのでその辺は配慮することにしました。

前日抗原検査しました。

成田空港第三ターミナルです☆

いつものジェットスター☆

そもそも飛行機が大の苦手ですので毎回緊張です。





若干飛行機内の様子が反射していますが空の景色です。



北海道上空でしょうか(笑)



無事に新千歳空港着陸しました☆
ナイスランディングです♪

実家にて大量の料理を出されお腹いっぱい(笑)
父親の具合があまり良くないと聞いていましたが思ったより元気そうで良かったです☆

一部、ほっけです☆
脂のっていて美味しかったです。

めちゃくちゃお腹出ていたのを指摘されました(笑)

両親と久しぶりにたくさん話をして実家をあとにしました☆
次の日、市内を歩きいつも参拝する成田山札幌別院に向かいました!

すすきの。



着きました☆

成田山札幌別院新栄寺です☆
と、言ってもいつも大本山成田山新勝寺にいっているのですが(笑)





北海道三十三観音霊場九番札所。北海道三十六不動尊霊場三十六番札所になります。

明治18年(1885年)に仮堂を建設し、本山の成田山新勝寺から本尊の不動明王の分身を勧請し、開創する。

明治22年(1889年)には成田山札幌別院新栄寺(新榮寺)と公称する。

明治42年(1909年)には本堂を建立するが、昭和39年(1964年)に放火により焼失する。

また、昭和9年(1934年)には大師堂を建立した。

昭和49年(1974年)に再建し、平成15年(2003年)には平成17年(2005年)に迎える開創120周年記念事業の中心事業として、新たに本堂を建立した。
(Wikipedia抜粋)

大師堂。



愛染明王。



北海道なのでかなり新しいですがいつ来ても良いものです。

さて、今日泊まる旅館の為に移動します。

テレビ塔。

札幌駅と札幌大丸です☆



札幌駅東口ロータリーから旅館行きの無料バスに乗ります☆

これが思ったよりちゃんとした観光バスでして、多分関東に慣れてしまっているの為か3時間以上かかり改めて北海道は広いと感じました(笑)

途中中山峠にてトイレ休憩。

向かったのはこちらです☆
そこまでお金かけれないので安い良いところを探しました(笑)

1泊2食付きの温泉旅館湯元ホロホロ山荘です♪



周辺に物凄く立派なホテルが2、3軒ありましたが十分でございます☆

山の中にあり、静かで素敵です☆
なにより涼しい。

ロビー。





お部屋です。
結構広いです☆
もちろん1人なんで1人ぶんの布団ひいてありました☆

夕食です♪


旅館のホームページ画像とともにご紹介☆







夕食はビュッフェで当然食べ放題(笑)
やわらかいお肉に、刺身に鮎の天ぷら、それはもう和洋中と品数多く味も美味しかったです☆

デザートも北海道ソフトクリームがめちゃくちゃ美味しかったです。

飲み物はアルコールは有料ですがソフトドリンクは無料でした☆

そして、お風呂です!

多分別館を増設したのでしょうかめちゃくちゃ広いです☆

途中の多目的コーナー♪
卓球とかできるようです(笑)

温泉の紹介はこれまたホームページより。







とにかくお風呂がたくさんあってデカイ☆
私が行った夕食時間でも30人くらいはいたはずですがお風呂はどの時間もお客さんがほぼおらず貸し切り状態でした☆



すぐのぼせちゃうので行きませんでしたがサウナや岩盤浴もありました。

まるで空いているスーパー銭湯のようでした(笑)

この日は東京で34℃を記録しておりましたがこちらは18℃にてちょっと寒いくらい。

夜の露天風呂なんか星も出ていてほぼ貸し切りですごい長く入れました☆

夜、朝含め計5回も入ってしまいました(笑)

夜はいつも通りテレビを観てゆっくりしました。


朝ごはんもまたたくさん食べてしまった☆

お風呂だけでも全然楽しめる良い旅館でした☆

帰りはこちらのバスにて1000円で新千歳空港まで送って頂けます。

また札幌駅までだと行きと同じく無料になります。



ちょっと雨模様。
きのこ王国にてトイレ休憩です。



着きました。
新千歳空港です☆

空港内のラーメン道場は大変な人でした(笑)

とゆうわけでフードコートにて札幌味噌ラーメンを。
味はまぁ、◯◯でした(笑)
なんせ、札幌にはめちゃくちゃ旨いお店たくさんあるからなぁ(笑)



こちらも空港内の日本航空のミュージアムです☆

制服♪

こちらは別の展示場のスカイウォーク☆



模型ですね。

帰りもジェットスター☆
こちらは窓から見えた、スカイマークエアラインのポケモン号(笑)





北海道での雨も関東に近づくと晴れてました☆





そして無事成田空港に着陸☆
ナイスランディングでした(笑)
蒸し暑い。。。

たった2日間の帰省でしたが意外と有意義な時間を過ごせました♪

また冬帰省と共にどっかに訪れたいなぁ~☆

それではまた(笑)
Posted at 2022/09/24 11:53:18 | コメント(1) | トラックバック(0)
2022年08月19日 イイね!

群馬県神社巡り~貴船神社、貫前神社編☆

群馬県神社巡り~貴船神社、貫前神社編☆今回は群馬県です。
寺社巡りの神社編になります。

どちらも初めて来たわけではないですが、そこそこ遠いので久しぶりになります☆



群馬県みどり市、貴船神社です♪

えっ、逆に群馬県にあるの?
って思う方はさすがですね☆



平安時代の天暦十(九五六)年、東国(関東地方)がひどい干ばつに襲われたとき、山城国(京都)の貴船神社の祭神が、古来より祈雨・止雨祈願の神として信仰されてきた高おかみ大神で、その分霊を奉り降雨と五穀豊穣を祈願したところ、それがかなえられたので、関東平野の最北端、渡良瀬川流域の山地に祭られ、現在地に建立されたのは、江戸時代の寛文8(一六六八)年といわれています。
(ホームページより)

拝殿及び本殿。



『貴船神社(きふねじんじゃ)』

京都市左京区にある神社です。式内社(名神大社)、二十二社(下八社)の一社。

旧社格は官幣中社で、現在は神社本庁の別表神社になります。


以前もかいておりますが927年にまとめられた延喜式神名帳に記載されているこちらは名神大社です。

名神とは名神祭を祀る神社です。
名神祭とは国家的事変が起こり、またはその発生が予想される際に、その解決を祈願するための臨時の国家祭祀です。

まっ、要するにすごい霊力を持った神社であるということ。
さらに大社である。

そして二十二社の1つ。

これは、国家の重大事、天変地異の時などに朝廷から特別の奉幣を受けた22社のこと。

主に畿内の神社から選ばれた。

一覧をWikipediaからそのまま拝借致します。

22社の上から上七社、中七社、下八社と数えられた。

更に旧社格とは明治維新以降新たに作られた近代社格制度で第二次大戦後廃止されたものである。

その官幣中社。

官幣社と国幣社があり、官幣社とは官(国)から幣帛(へいはく)、つまり神様に奉納される神社。
そして、国幣社は国(国司)、つまり地方から幣帛を受けた神社である。

それも大、中、小に分けられた。

まっ、それだけ京都の貴船神社はすごいということである。

ちなみに現在の神社本庁において、近代社格制度が廃止されてから神社というものは伊勢神宮以外同列、対等の立場で扱うということになっている。

しかしながら、旧官国弊社や一部の規模の大きい神社は神職の人事等の問題から別の表に書いておきましょ!
ってことから別表神社と記されている☆

まっ、要するに京都の貴船神社はすごいとこで、そこから分霊されたこちらもすごいところと言うわけですね。



主祭神:
高龗神
大山祇神
大穴牟遅神

水神である高龗神(たかおかみのかみ)を祀り、古代の祈雨八十五座の一座とされるなど、古くから祈雨の神として信仰された。

水の神様として、全国の料理・調理業や水を取扱う商売の人々から信仰を集めているらしい。


『高龗神』

日本神話では、神産みにおいて伊邪那岐(イザナギ)神が迦具土(カクヅチ)神(火の神)を斬り殺した際に生まれたとしている。

『古事記』及び『日本書紀』の一書では、剣の柄に溜った血から闇御津羽神(くらみつはのかみ)とともに闇龗神(くらおかみのかみ)が生まれたという。

高龗神は水神であるから平安時代の東国での干ばつから分霊したのだろう。

京都の貴船神社は「絵馬の発祥の社」と言われている。

古来より歴代天皇は干ばつの時には黒馬を、長雨には白馬を奉納して祈願をしていたといい、後に生きた馬に替えて、馬形の板に着色した「板立馬」を奉納したと伝えられる。

これが現在の絵馬の原形となったという。
(Wikipedia抜粋)





ちなみに京都の貴船神社を検索すると、

「貴船神社 怖い」
「貴船神社 呪い」
「貴船神社 行かない方がよい」

とか、ネガティブワードがたくさん挙がっている。

「呪いがある」といわれる理由の1つは、貴船神社が「丑の刻参り」の発祥の地とされていることかららしい。

貴船神社の呪いの由来は、「平家物語」の異本「源平盛衰記」に収録の「剣巻」に記載されている言い伝えからです。



①『宇治の橋姫』

嵯峨天皇の時代に公卿の娘の橋姫は、嫉妬心に狂い夫を呪うために鬼になろうとしました。

貴船神社に7日間こもり貴船大明神に「私を生きながら鬼神にしてください」と願います。

貴船大明神は橋姫を哀れに思い、「真に鬼になりたければ、姿を変え宇治川に21日間浸かりなさい」と告げられます。

橋姫は都に戻った後、髪を5つに分けて角にみたて、顔に朱をさし、体には鉛丹を塗り赤くしました。鉄の輪に3本の脚がついた台を逆さにして頭に乗せ、3本の脚に松明を燃やしました。

口には両端を燃やした松明をくわえ5つの火を灯していました。橋姫の鬼のような姿を見た人はショックで亡くなってしまいました。

宇治川に21日間浸かっていた橋姫は本当に鬼になりました。

橋姫は妬んでいた女性や夫の親族だけでなく、関係ない人々まで襲うようになりました。

京の人々は恐れ「申の時(15時~17時)」を過ぎたら家にこもるようになりました。

その頃、源頼光が四天王の1人の源綱(渡辺綱)を一条大宮に向かわせます。

夜の危険に備えて源綱は名刀「髭切」を手にして向かったのです。

源綱が一条堀川の戻橋を渡るときに、雪のように白い肌をした20前後の女性を見かけました。

「夜は危険なので、五条まで送りましょう」といい、馬から降りて、その女性を乗せました。

正親町付近で女性が「家は都の外なのですが、送っていただけませんか?」と聞いてきたので、源綱は「わかりました。お送りします。」とこたえました。

すると突然女性は鬼に姿を変えて、源綱の髪をつかみながら「愛宕山へいきましょう」といい、共に北西へ飛んでいきました。

しかし慌てず源綱は名刀の髭切で鬼の腕を切り落とします。

源綱は北野天満宮に落ち、鬼はそのまま飛んでいきました。

源綱から見せられた鬼の腕に、源頼光は大変驚き、安倍晴明に相談します。

安倍晴明は「源綱は7日間休養をしてください。鬼の腕は私が仁王般若経を読んで封印します。」といいました。

鬼になった橋姫は安倍晴明により退治されたのです。

宇治川には「橋姫神社」があり、宇治橋を守っています。この神社の御祭神は「橋姫」「瀬織津姫」とされています。

橋姫は現在は橋を守る神様となっています。

ただ、橋姫は嫉妬深いので縁切りのご利益があるともされています。



②『丑の刻参りの発祥の地』

「貴船神社は奥宮が怖い」とか「貴船神社の奥宮の呪い」とか言われております。

それは、実は現在も丑の刻参りが行われているといわれているからです!

神社の境内で、五寸釘が打ち付けられた藁人形が見つかることがあるようです。

特に奥宮周辺の木には五寸釘で藁人形が打ち付けられたような穴がいくつも残っているようです。

奥宮は「龍穴」があるといわれているため、パワーが強いスポットでもあります。


③『呪いの絵馬』

「開運招福」「諸願成就」と名高い貴船神社ですが、そのなかには、ネガティブな願いの「呪いの絵馬も紛れている!」といわれます。
(lani.co.jp「貴船神社」より抜粋)

しかしながら、貴船神社は「開運招福」「諸願成就」の絵馬の効果も絶大といわれ、縁結びの神としての信仰もあり、小説や漫画の陰陽師による人気もあり、若いカップルで賑わっているようです。
その一方で縁切りの神、呪咀神としても信仰されておりますので非常に強いパワースポットには違いないのかもしれませんね。

京都に行けなくとも群馬県みどり市にも分霊社としてありますので是非行ってみると良いかもしれませんね☆



続きまして、日にち改めて訪れたのはこちら。

高台からの景色も素晴らしい群馬県富岡市一之宮貫前神社です♪

一之宮貫前神社(いちのみやぬきさきじんじゃ)は、式内社(名神大社)、上野国一宮。

旧社格は国幣中社で、現在は神社本庁の別表神社になります。

大鳥居。

表参道と大鳥居。
大鳥居までは表参道の石段を上がる。



総門(惣門)。
大鳥居と総門は同じ高さにある。

唐銅製燈籠(市指定重文)。

楼門。
総門から先、楼門・社殿へは石段を下りる。
 
非常に珍しい下り宮になります。
大鳥居まで上り、楼門・社殿まで下る造りになっています。

一ノ宮貫前神社に祀られている神様はその川に現れたという伝説があります。

つまりこの谷に現れた神様を祀るため、そしてこの土地の特殊性がこの珍しい下り宮の誕生につながったと言えます。
(ホームページ、Wikipedia抜粋)

社伝によるとは鷺宮(さぎのみや:現在の安中市)に物部姓磯部氏が、氏神である経津主神を祀り、その鷺宮の南方、蓬ヶ丘綾女谷(よもぎがおか・あやめがたに:当地の古い呼称)に社を定めたのが安閑天皇の元年(531年)と云われ、これが創建にあたります。 
また、天武天皇の時代に初の奉幣(ほうべい)がありました。

奉幣とは天皇の命により神社に幣帛を奉ることで、当時遠く奈良の都にまで貫前神社の存在が知られていたと云えます。

醍醐天皇の時代に編纂の始まった『延喜式』のなかの『神名帳』にも記載され、上野国一之宮として朝野をとわず崇敬をあつめてきました。


『一之宮とは』

ある地域の中で最も社格の高いとされる神社のことである。

一の宮・一之宮などとも書く。

通常単に「一宮」といった場合は、令制国の一宮を指すことが多い。

一宮の次に社格が高い神社を二宮、さらにその次を三宮のように呼び、更に一部の国では四宮以下が定められていた事例もあります。

通説によると一宮の起源は国司が巡拝する神社の順番にあると言われています。

『延喜式神名帳』のようにまとまった一覧があるわけではなく、多くが習慣的に呼ばれ始めて定着したもので、そのため、各国に複数あったり、「当社こそが一宮」というような論争になる場合もあるそうです。

関東・北関東で言えば

①相模国鶴岡八幡宮(神奈川県鎌倉市)
②相模国寒川神社(神奈川県寒川町)
③武蔵国小野神社(東京都多摩市)
④武蔵国氷川神社(埼玉県さいたま市)
⑤武蔵国氷川女体神社(埼玉県さいたま市)
⑥安房国安房神社(千葉県館山市)
⑦安房国洲崎神社(千葉県館山市)
⑧上総国玉前神社(千葉県一宮町)
⑨下総国香取神宮(千葉県香取市)
⑩常陸国鹿島神宮(茨城県鹿嶋市)
⑪下野国二荒山神社(栃木県宇都宮市)
⑫下野国二荒山神社(栃木県日光市)
⑬上野国貫前神社(群馬県富岡市)

などがある。

旧社格は国幣中社。

近代社格でも国幣中社なんで格式がとてもありますね☆



御祭神は「経津主神」(ふつぬしのかみ)と「姫大神(ひめおおかみ)」(養蚕機織の神)で、現在の社殿は3代将軍徳川家光公の命によって建てられました。
(江戸時代初期の漆塗りで極彩色の社殿は国の重要文化財に指定されています。)

経津主神は『日本書紀』などの国譲りの場面で神名がみえる、葦原中国(あしはらのなかつくに:日本の異称)平定に功績があったとされています。

拝殿。



本殿。



神楽殿。





本殿、拝殿、楼門、回廊は、江戸幕府第3代将軍徳川家光による寛永12年(1635年)の造営。元禄11年(1698年)、第5代綱吉による大規模な修理で極彩色の漆が塗られ、現在の華麗な造りとなった。

いずれも国の重要文化財に指定されている。
(Wikipedia抜粋)

摂社:抜鉾若御子神社
抜鉾若御子神社(ぬきほこわかみこじんじゃ)
祭神:本社祭神の御子神

経蔵址。

写真ではわかりにくいが本殿の雷神小窓や拝殿の彩色はとてもあざやかでキレイです。





末社:月読神社。

齋館。





末社:日枝神社
伊勢神宮内宮・外宮。





スダジイ。
樹齢推定1000年。富岡市指定天然記念物。

銀杏。
富岡の名木10選の1つ。



貫前神社は、日向國鵜戸神宮、及び、肥後國草部吉見神社と共に、参拝の為に石段を昇らず降る事で稀有の存在とされ、日本3大降り神社として有名である。

眺めがよくとてもキレイでした☆

御朱印です。


以上群馬県の貴船神社と一之宮貫前神社でした。
まだ8月中旬で暑い中でしたが、とても天気がよく素晴らしい神社巡りになりました(笑)

それでは☆
次回は群馬県寺院編です♪
Posted at 2022/10/08 18:42:33 | コメント(1) | トラックバック(0)
2022年08月06日 イイね!

茨城県寺院巡り~興正寺、安福寺編☆

茨城県寺院巡り~興正寺、安福寺編☆今回は茨城県の寺院巡りです☆
庭園のキレイなこちらのお寺。





山門。



仁王像。



中雀門。



茨城県常総市、曹洞宗石気山地蔵院興正寺です。







薬師堂。

本堂。

寺伝によれば1393(明徳4)年、平田慈均禅師の開山。

江戸時代初期のころには、七堂伽藍(がらん)を備える大寺院となっていたそうだ。

本尊は延命地蔵菩薩である。

延命地蔵菩薩は、女人泰産(五体満足な赤ちゃんを安産できる)、身体具足(身も心も健全で生活ができる)、寿命長遠(丈夫で長命が出来る)など、十福の幸徳があるとされているらしい。
(ホームページより)



客殿。

禅宗寺院は特に庭園がキレイである。
こちらもこじんまりとしているがとても整備されていて美しい。

石下城主、石毛次郎正重、太郎正家親子の墓のもあるようだ。



道を求める道元禅師像。



この奥は學楽庵と枯山水がある。



この辺りも整備中であったが、景観もすばらしく素敵だった。

豊川稲荷。



お地蔵尊霊場。



本堂裏。





本堂裏には小さな滝がみえる。

招福の滝。

以上が興正寺だ。

8月上旬で夏まっさかりであったがなぜか少し涼しさを感じられる場所でした☆




さて、続いて向かったのがこちら。

なかなか立派な仁王門だ☆



大仁王門。

鐘楼堂。

火ぶせ大師。

茨城県つくば市、真言宗豊山派、金剛山無量寿院安福寺です♪

無縁五輪塔。

手水舎。

ぼけ封じぽっくり観音。

撫で仏。





七福神参りができます(笑)


ここで、




『七福神とは』


七福神とは一般におめでたい存在、縁起物とされています。

昔から正月、枕の下に「七福神の乗った宝船の絵」を入れておくと、良い初夢が見られるなんてことも言われていました。

そもそもはインド伝来の仁王経の中にある「七難即滅 七福即生」という仏教語に由来するようです。

つまりは福徳の神として信仰される七人の神として日本で信仰されている七柱の神である。

一般的には、恵比寿、大黒天、福禄寿、毘沙門天、布袋、寿老人、弁財天とされており、それぞれがヒンドゥー教、仏教、道教、神道など様々な背景を持っているようだ。

インドのヒンドゥー教の神である大黒を祀ることは最澄が比叡山で始めたことで、徐々に民間に広まったという。

これが民間において日本の土着信仰の神である恵比寿とセットで信仰されるようになった歴史的な経緯はよくわかっていないらしい。


『恵比寿天』

(イラストはyoritomo‐japan.comより)

伊邪那岐命・伊邪那美命の間に生まれた子供「蛭子」(ヒルコ)、もしくは大国主神の息子である「事代主神」(コトシロヌシ)などを祀ったもので古くは「大漁追福」の漁業の神である。

時代と共に福の神として「商売繁盛」や「五穀豊穣」をもたらす神となった。唯一日本由来の神である。

釣竿と鯛をもっている☆


『大黒天』

(イラストはyoritomo‐japan.comより)

インドのヒンドゥー教のシヴァ神の化身マハーカーラ神。
日本古来の大国主神の習合。
大国様と大黒様は厳密に言えば違うのだが融合されて考えられており特に神社では同一化されているものも多い。

大黒柱と現されるように食物・財福を司る神となった。
また親子関係から恵比寿と並んで描かれることが多いようだ。

それは日本神話の「因幡の白兎」からも読み取ることができる☆
大きな袋と打出の小槌を持っているのが特徴だ。



平安時代以降、京都の鞍馬の毘沙門信仰からはじまった毘沙門天を恵比寿・大黒に加え、三神として信仰されることが起こった(初期の恵比寿は毘沙門天を本地とすると考えられていた)。


『毘沙門天』

(イラストはyoritomo‐japan.comより)

元はインドのヒンドゥー教のクベーラ神。
福徳増進の神であったが、仏教に取り入れられてから、戦いの神としてしだいに民衆に信仰される。日本では毘沙門天(ヴァイシュラヴァナ)と呼ばれる。


そして、平安末期 ~鎌倉初期の頃、近江の竹生島の弁天信仰が盛んになると毘沙門天ではなく「恵比寿・大黒・弁才天」とするケースも増えていったそうだ。


『弁才(財)天』

(イラストはyoritomo‐japan.comより)

七福神の中の紅一点で元はインドのヒンドゥー教の女神であるサラスヴァティー神。
仏教に取り入れられ、音楽・弁才・財福・知恵の徳のある天女となり選ばれた。七福神の一柱としては「弁財天」と表記されることが多い。


さらに室町時代、仏教の布袋、道教の福禄寿・寿老人なども中国から入ってきてそれぞれに知られるようになり、それらをまとめて七柱の神仏のセットができたのは室町時代末頃、近畿地方から始まったものである。


『福禄寿』

(イラストはyoritomo‐japan.comより)

道教の宋の道士天南星、または、道教の神で南極星(カノープスのこと)の化身の南極老人。

寿老人と同一神とされることもある。
長寿と福禄をもたらす。

頭が長い。
髪はない。
背が低く髭が長い。
鶴を従えている。


『寿老人』

(イラストはyoritomo‐japan.comより)

道教の神で南極星(カノープスのこと)の化身の南極老人。

日本の七福神の一人としては白鬚明神とされることもある。

帽子被ってる。
白髪。
鹿をつれている。

左手に桃(神聖な果物、不老不死)やうちわ(災難を遠ざける力)を持っている。

なかにはひょうたんを持たせることもあります。このひょうたんの中に(不老不死の霊薬)といわれる仙丹が入っているとされています。



*福禄寿と寿老人は同一神とされることも多いため持ち物に関しては非常に難しくこの特徴が入れ替わることもあるようだ。

寿老人の代わりに吉祥天・お多福・福助・稲荷神・猩猩・虚空蔵菩薩が入れられることがあった。

他に宇賀神・達磨・ひょっとこ・楊貴妃・鍾馗・不動明王・愛染明王・白髭明神が七福神の一人に数えられたことがあった(不動明王と愛染明王、またはお多福とひょっとこはセットで入る場合があった)。


そして最後に、


『布袋』

(イラストはyoritomo‐japan.comより)

唐の末期の明州(現在の中国浙江省寧波市)に実在したといわれる仏教の禅僧。

その太っておおらかな風貌が好まれ、手にした袋から財を出し与えてくれる。
弥勒菩薩の化身ともいわれている。


とにもかくにも人々は別々に信仰されていた7つの福の神を集め、七福神とした☆


*ちなみに、七福神に一神を加えて八福神としているケースがある。


『お多福』

京都の清水寺の「清水寺八福神」、横浜市鶴見区の横浜熊野神社の「鶴見八福神」ではお多福を加えて八福神とする。

お多福の起源は、鎌倉時代初期の大工の高次の妻、阿亀(おかめ)。

これに女性を表わす舞の面(お多福)や、天之宇受売命のイメージが習合した神格。


『吉祥天』

千葉県八千代市の「八千代八福神」、東京都八王子市の「八王子七福神」、埼玉県久喜市栗橋の「くりはし八福神」では吉祥天を加えて八福神とする。

吉祥天とはインドのラクシュミー女神のことで、毘沙門天の妹または妃という。

幸福・美・富などの神。弁天の代わり(または福禄寿の代わり)に七福神に入れられることもある。


『達磨』

横浜市瀬谷区の「瀬谷八福神」、愛知県豊橋市の「吉田七福神」では達磨を加えて八福神とする。

達磨は、5世紀頃の人で南インドの王子ともペルシア人ともいわれる高僧で、中国の南朝の宋に渡り極東の禅宗の開祖となった。

少林寺において坐禅9年、手足が腐って落ちたと伝わる。

日本の曹洞宗や臨済宗もその門葉。


『宇賀神(男弁天)』

東京都文京区の「小石川七福神」では弁才天が通常の弁天像ではなく「宇賀神」となっている。

宇賀神は人間の頭で首から下は蛇という神で、弁財天と習合した日本土着の神である。

宇賀神を弁才天とすること自体は、他の一般的な七福神でもままあることで珍しいことではないが、小石川七福神の場合「男弁天」「女弁天」の二神となっており合わせて八福神となっている。

この男弁天・女弁天は、どちらも通常の弁天像ではなく、宇賀神であり、男弁天は老人(男性)の宇賀神、女弁天は若い美女の宇賀神となっている。
(Wikipediaより引用、要約、抜粋、編集)


話しは戻ります(笑)

安福寺本堂。

寺伝によると鎌倉時代中期に創建され、中興第一世は永国大聖寺住職第六世の弟子、良栄が文明元年に再興し大伽藍を建立したが元禄年間に焼失、のちに再建し大師信仰の中心地として今に至る。

常光院、万蔵寺、真珠院、観喜院、明光院の五ヶ寺の抹寺を有しているそうだ。

大師堂。



本尊:阿弥陀如来。

万人講。
弘法大師石像を安置しているようです。

以上が安福寺でした。


比較的新しい建造物でしたがキレイに整備されており、仁王門は非常に素晴らしかったです♪

ちなみに2か月前の8月上旬の参拝でしたので、めちゃくちゃ暑かったです(笑)

まだ、あと4、5ヶ所書いてないのを調べて書こうと思います☆


それではまた♪


Posted at 2022/10/06 22:38:56 | コメント(1) | トラックバック(0)
2022年07月29日 イイね!

栃木県、慈覚大師円仁ゆかりの地を巡る~壬生寺、高平寺、高平寺別院誕生寺、大慈寺、村檜神社編☆

栃木県、慈覚大師円仁ゆかりの地を巡る~壬生寺、高平寺、高平寺別院誕生寺、大慈寺、村檜神社編☆あー、暑い。。。
連休に入って暇もてあましているがとにかく暑い。。。

しかし、たまにはお出かけしようと思い立ち栃木県の旅をしてみた♪


名付けて、


~円仁ゆかりの寺院巡り~


さぁ、行ってみよう♪

まず円仁とは、第3代天台座主である。

慈覚大師(じかくだいし)ともいい、入唐八家(最澄・空海・常暁・円行・円仁・恵運・円珍・宗叡)の一人です。

『入唐八家とは』

平安初期に唐に渡り、密教経典を伝えた八人の僧のことである。


794年(延暦13年)下野国の景勝の地、安蘇山の裾野脇の湖畔みかもノ山の越奈良の須(美加保の関、みかもの崎)に豪族壬生氏の子として生まれる。


誕生地は3つの説があるようだ。

こちらが生誕地と言われる、栃木県栃木市岩舟、髙平寺別院誕生寺。

安蘇山麓手洗窪(安蘇郡下津原、現・栃木市岩舟町下津原)。

どうやら落石かなんかで立入禁止になっていた。
中にはこじんまりとしたお堂なんかが見えた☆


ちなみに狭い林道にあってこのパイロンの方に車停めようとしたら草むらになんか石みたいのがあったらしくサイドステップを傷つけてしまった( ´⊇`)

Uターンして車降りて見たもののどこに当たったのかよくわからずこの車で初めて当ててしまいサイドステップのステーとクリップを破損し傷もついてしまったようだ(笑)


※7/31補修と塗装をし自力で直す。



さて、話を円仁様に戻そう(笑)

円仁、小さい頃から仏教に心を寄せ9歳まで高平寺で養育、修行をしたようです。


こちらが栃木県栃木市岩舟、真言宗豊山派高岡山髙平寺です。

山門。



鐘楼堂。

本堂。

高平寺のそばにあるみかも山(三毳山)は、7世紀の後半~8世紀後半にかけて編纂された日本最古の歌集である万葉集にも登場しています。

建立は779年のことと伝えられる。

真言宗?

そう、こちらもともとは天台宗のお寺だったそうですが、1600年に真言宗のお寺へと改宗されたそうです。


こちらは弘法大師像。





現在の本堂は1826年の建立だそうで、中には狩野派の絵師・狩野秀益の描いた天井絵や、客殿内には襖絵が保存されているようです。


梵字の池。

行の井。

西相智水。

千手の滝。





以上が高平寺。


ちなみに同じ岩舟に慈覚大師円仁の母が住んでいた実相院跡に母が亡くなられた後、お墓が建てられたようです。

慈覚大師御母公の墓。




そして、円仁は9歳になり大慈寺に入って修行を始める。

大慈寺の師・広智は鑑真の直弟子道忠の弟子であるが、道忠は早くから最澄の理解者であって、多くの弟子を最澄に師事させている。




栃木県栃木市岩舟、天台宗準別格本山小野寺山転法輪院大慈寺。





御霊水。



本堂。

慈覚大師円仁像。

幼少期でしょうか。
とてもかわいい(笑)


創建の正確な時期は不明ながら、寺伝によれば、大慈寺は天平9年(737年)に行基が開基した寺院で、二祖は道忠、三祖は広智とされる。

道忠は鑑真の高弟で最澄とも親交があった僧であり、東国の化主と称された。広智のときに、大慈寺で修行していた円仁(慈覚大師、後の第三代天台座主)、安慧(後の第四代天台座主)などを最澄のもとへ弟子入りさせ天台教学を学ばせている。


円仁堂。


弘仁8年(817年)、最澄(伝教大師)が弟子たちとともに東国を巡錫した際、当寺にて大乗戒の授与を行い、東国への天台布教の足場とした。

また、法華経による国家鎮護のため、最澄が日本国内の6箇所に建立を計画した六所宝塔の1つが当寺に建てられた。

二度の火災(天正年間、弘化年間)などにあったが、絶えることなく今日まで法灯を伝えているようだ。

これは比叡山延暦寺の法灯と同じですね。


薬師堂。


鐘楼。
開運の鐘。

昭和39年3月3日にエドウィン・O・ライシャワー元駐日大使が参拝するために訪れた。

ちなみに高平寺やこの後紹介する壬生寺にも訪れている。

記念樹。



左に見えるのが相輪橖。

相輪橖(そうりんとう)

最澄が建立した宝塔に起源をもつが、現存するものは享保10年(1725年)の再建。

開山堂。

小野寺稲荷。

小野小町伝説。

伝説によれば、小町は大慈寺の本尊薬師如来に病気平癒の祈願をし、その結果治癒したため、終世大慈寺所在の小野寺の地に住んだとされる。

境内に小町の碑があり、近隣には小野小町の墓と称するものも現存する。

ちなみに時宗開祖一遍上人が来院し、雨宿りをしたとの伝承があり、『一遍上人絵伝』にも描かれているようである。


これが幼少期の円仁である。


ちなみに大慈寺に隣接して村檜神社もあるので行ってみる☆

しかしどうでも良いが暑くてたまらん( ´-`)







石段多い(笑)



こちらは下野国三之宮村檜(むらひ)神社☆

創建は孝徳天皇の御宇大化二年(646)と伝えられ、熊野大神、大山咋命の二柱を祀り、佐野庄小野寺十郷の総鎮守として崇敬され、のち平城天皇の御宇大同二年(807)に皆川村小野口に鎮座せる八幡宮を当社に合祀、主祭神と仰ぐ。

醍醐天皇の御宇延喜年間には勅命により、国内神社を調査せし時にその撰に入り、延喜式内社に列せられ、下野國三之宮として今もなお崇敬されている。


社殿。

現在の社殿は室町後期の建物で三間社春日造屋根は檜皮葦にして国の重要文化財の指定を受けている。



西宮神社(摂社)。

なかなか厳かなよい神社である。

村檜神社境内からは奈良時代にさかのぼる古瓦が出土しているようで、この地に古代から寺院が存在し、東国における天台系仏教の拠点となっていたことは確かであるようだ。

御朱印は書き置き。



さて、また円仁に戻るが、円仁生誕地については3つの説があるようだ。

①一番最初に紹介した髙平寺誕生寺。
安蘇山麓(現在の三毳山のふもと岩舟町下津原手洗窪)元、安蘇郡下津原の手洗窪の説。

②順徳天皇撰による「八雲御抄」では、「みかほの関」山也「みかほノ山」古名所での誕生が記されている美加保ノ関(栃木市藤岡町三鴨の都賀字館・佐野市越名)説。

③壬生寺(現・下都賀郡壬生町大師町)説。


紹介しよう♪
こちらは以前訪れた壬生寺。

栃木県下都賀郡壬生町にある天台宗紫雲山壬生寺☆

山門。

鐘楼。



大師堂。



本堂。


寺伝によると、延暦十三年(794年)下野国都賀郡(壬生町)に生まれ、俗名壬生円仁といい生家は有力地方豪族という。

平安時代に書かれた慈覚大師の伝記にて、円仁が生まれたとき、その家の上に良いことの印である、 

『紫色の雲がたなびい た』

といいます。

円仁が生まれた所は、都賀郡というだけで、はっきりした場所は分かりませんが、 壬生町の 

『紫雲山壬生寺が誕生の地である 』

と長く言い伝えられてきました。

江戸時代の貞享三年(1686年)日光山輪王寺の 門跡天真親王が日光への道すがら、慈覚大師の旧蹟が荒 廃しているのを嘆き、時の壬生城主三浦壱岐守直次に 命じて、大師堂を建立し、飯塚(現小山市)の台林寺を その側に移建して別当とした。

幕末の文久二年(1862年) 大師一千年遠忌 に当り 日光 山輪王寺 慈性法親王 により、大師堂の改修が行われた。

その後台林寺は元の飯塚に戻る。(年代不詳)



産湯の井戸。

壬生寺には円仁が生まれた時に産湯として使ったという「産湯の井戸」が残っています。



地蔵堂。



大いちょう。
天然記念物


円仁は壬生寺にも9歳まで養育、修行していて大慈寺に行ったとされている。


3つの説で未だに論争が起きているようだ(笑)


さて、少年時代の円仁は、鑑真の弟子である広智と道忠との関係から、下野薬師寺でも多くのことを学んだのではないか と想像できる。

延暦二十一年
(802年) 小野寺村大慈寺の僧広智の弟子 となり
大同三年(808年) 比叡山に登り、伝教大師最澄の弟子になる。


このことからとんでもない天才だったと言える☆


その後、承和五年(838年)遣唐使の留学僧として、唐に渡り、約十年間五台山、長安などで念仏、密教、悉曇(しったん)、声明(しょうみょう)などを 学び多くの教典や仏具を持ち帰った。



ちなみに簡単に遣唐使として唐(中国)に渡ると言っているが、今のように飛行機や豪華客船で渡ったわけでは当然ありません(笑)


フリー写真素材photoAC。
再現『遣唐使船』より。


ちなみに遣唐使の候補はイケメンだったとか(笑)


中国の皇帝に日本の存在感をアピールする重要な立場にあったゆえ、高身長、高学歴、そしてなによりも眉目秀麗なイケメンであることが求められたようです。


ウソかホントか(笑)


9代皇帝の玄宗は、日本大使のあまりの礼儀正しさとルックスの良さに感激し特別な称号を与え、肖像画も描いて保管しましたそうで、そうした逸話は、日中双方の記録に見られるようです(笑)

しかしながら遣唐使は命懸けの任務だったようです。

最初の遣唐使の派遣は、630年、舒明天皇の治世で飛鳥時代のこと。

その後も、奈良、平安と3つの時代にまたがって、計36隻の遣唐使船が派遣されました。

しかし、戻ってこれたのは26隻に過ぎなかったようです。

その多くは、座礁、沈没、異国の地に漂着したりと大変だったのです。


①803年の第14回遣唐使。
遣唐大使は、藤原葛野麻呂(かどのまろ)。
瀬戸内海にて暴風に遭って船は大破。溺死者多数の大惨事となり、航海は中止。

その翌年、再チャレンジにて4隻の遣唐使船が出港。
しかし、暴風に巻き込まれ、2隻は九州に着岸。

他の2隻のうち、1隻は割と順調に航海を続け、中国大陸に到着。

この船には留学僧の最澄が乗っており、天台山へと向かい修行と勉学を始めたそうです。

そしてこの時、もう1隻に乗船していた葛野麻呂と空海だったそうです。

彼らは、強風に流されること1か月、福州に漂着。ところがそこは、本来の上陸地から1000キロも南に離れたところでその時の福州の長官は、遣唐使のことなぞ知らず、不審船扱いにしたそうです。

水も食料もない状態から海賊か密航者かと思われ、全乗員は船から追い出され、砂浜に座らされたそうです。

葛野麻呂は、長官宛の親書をしたためたそうですが、3回も長官は見てすぐに捨ててしまったそうです。

そこで葛野麻呂は同乗の留学僧である空海に代筆を頼んだそうです。

空海は能筆な中国語の文書を書き長官に提出しました。

打って変わって名文と達筆の書が送られてきたことからすぐに仮設住宅を13軒建てて、乗員を収容し世話係をつけて食事でもてなしたそうです。

やがて長安から役人が迎えに来て約2千キロの距離を馬や運河船を大活用して案内し無事に唐に渡ったらしいです。


②奈良時代に派遣された第9回遣唐使は、594人という遣唐使史上最大の人員規模で行われました。

彼らは4隻に分乗し、往路はとくに災難もなく大陸にたどり着きました。

しかしながら逆に帰路は、多難に満ちたものだったようです。

4隻とも同時に蘇州の港を出たのですが、不安定な強風で、離れ離れに流されてしまいます。

1隻は、なんとか種子島に着き、そこから4か月かけて平城京に帰還しています。

もう1隻は、(蘇州の北の)越州に舞い戻ってしまい、翌々年に再度の帰国を試みて、それには成功しています。

そして、1隻は記録に残っておらず、沈没して全滅したか、無事帰国したのかは不明。

最後の1隻は、断片的な記録が悲惨なものだと伝わっております。

この船には115人が乗っていましたが、風と波に流されて崑崙(こんろん)に漂着。

ここは現在のベトナム沿岸で、3時代にわたる全遣唐使船の中で、もっとも南に流された船となりました。

船は、接岸して間もなく現地の賊に取り囲まれてしまいます。

約20人は彼らに殺されるか、逃亡してそのまま行方不明に。残る90人余りもマラリアなど風土病に倒れ、帰らぬ人となります。

生き残ったのは、大使・副使に次ぐナンバー3の平群広成(へぐりのひろなり)を含む4人。

彼らは、命からがら崑崙王に面会することができますが、そこで監禁状態になります。

不幸中の幸いと言えるのは、唐の皇帝が捜索に尽力し、役人が崑崙に来て、彼らを救い出したことです。

4人は遠路長安へと戻り、日本に遣使を予定していた渤海国の船に便乗して帰国。

日本を出てから6年ぶりに故国に戻ったのでした。

この4人は、古代において東アジアのもっとも広い文化圏を踏破した日本人として、歴史に名をとどめているそうです。


③第10回遣唐使。
遣唐大使は、藤原清河(きよかわ)です。

船は4隻用意され、おそらく500人ほどが乗り込みました。

行きは無事に到着し玄宗皇帝に拝謁。

皇帝は、清河らに官職・位階を下賜するほど厚遇しました。

帰国の準備を始めたのが、翌年(753年)11月。

しかし、揚州の延光寺にいる鑑真和上を連れ帰ることがミッションでした。

当時の日本には、正式な僧となるための授戒の制度が整っておらず、その道の大家である鑑真を招請する試みがなされていました。

ところが、その試みは5度も失敗。6度目の正直で、清河は自分の乗る第1船に鑑真を乗せるつもりでいましたが…

出発する直前になって清河は、自ら延光寺に赴いて来日を懇請しときながら、土壇場で船から退去させました。

当時の唐は、自国民の無断出国は禁止しており、特に鑑真和上は、過去何度も出国を試みては、官警に捕まった経緯がありました。

要するに清河はビビったのです。

この行為に義憤を感じたのが、副使の大伴古麻呂(こまろ)でした。

下船して途方に暮れる鑑真を、第2船にこっそり乗せました。

更に今回の帰還では、もう1人日本史上の重要人物が乗船しました。

それは、阿倍仲麻呂です。

仲麻呂は、留学生(るがくしょう)として十代後半の若さで第8回遣唐使に参加しました。

唐で大学に入り、科挙にも合格し、官吏になった人物です。

玄宗皇帝の信頼も厚く、遣唐使一行の橋渡し役として活躍しました。

唐で暮らすこと30余年。
仲麻呂は望郷の想いが募り、清河と同乗しての帰国を決断。


『天の原ふりさけ見れば春日なる三笠の山にいでし月かも』


その時に詠んだこの歌は、百人一首にも収録され、とても有名なものです。

753年12月、4隻の船は同時に出帆。

しかし、各船は風にもてあそばれ、特に第4船は火災を起こす大難に見舞われます。

この船は、さいわいにも火災は消し止め、どうにか今の鹿児島県沿岸に到着。

ほかの3隻は、沖縄に流されました。

そこから翌年1月7日に出航しますが、第1船はまたも押し流され、今度は今のベトナム北部沿岸へと漂着。

上陸するや現地人の襲撃を受け、約200名の乗員はほぼ全滅。

清河や仲麻呂を含む十数名が、船を捨てて長安へ逃げ戻りました。

清河と仲麻呂は、帰国の機会がないまま、大地に骨を埋めたそうです。

第2船に乗っていた鑑真は、日本にたどり着き、唐招提寺を開きました。

このように、約20回に及んだ遣唐使の派遣は、得るものは大きかったのですが、人的・物的損害もまた大きなものだったようです。

894年、菅原道真が遣唐大使に任命されますが、道真は没落しかかっている唐王朝に、多大な危険を冒して行くのはいかがなものかと上申し、遣唐使の歴史にピリオドが打たれたようです。


だいぶ脱線しましたがこのように遣唐使とは中国との外交や先進文化の習得、書籍その他の文化的所産に大きく貢献したがまさに命懸けの状況だったことがわかりますね。




そんな遣唐使を経て円仁は帰国後、日本各地を行脚し、仏教を広めるかたわら、地方文化の興隆につとめ、 土地の開拓、架橋、施寮、施楽、麻の栽培奨励などを行い社会事業の先覚者と言われております。


また何よりも慈覚大師円仁の創立した寺院は、全国で五百余寺にのぼります。

日光山輪王寺、松島の瑞厳寺、平泉の中尊寺、毛越寺、恐山地蔵堂、山寺立石寺などなどそれはそれは凄いお寺ばかりである☆


このように、最澄の遺業を大成し、仁寿四年(854年) 大三世天台座主 となり、 貞観五年(864年)七十一歳で入滅しその生涯を終えました。

滅後二年目、日本で初めて「慈覚大師」という大師号を贈られました。

なお在唐中の日記「入唐求法巡礼行記」は、玄奨三蔵の「大唐西域記」やマルコポーロの「東方見聞録」に比すべき旅行記として有名であり、 当時の旅の困難さや唐の時代の様子を知る貴重な資料だそうです。




慈覚大師円仁♪

『まとめ』

天台宗の確立に尽力した最澄のもとで円仁は
学問と修行に専念しました。

最澄が止観を学ばせた弟子10人のうち師の代講を任せられるようになったのは円仁1人であったと伝えられています。


838年45歳で最後の遣唐使として唐に留学し、山東省の赤山法華院や福建省の開元寺、中国仏教三大霊山に数えられる五台山で修行しました。

唐での9年間を
「入唐求法巡礼行記」全4巻にまとめて847年に帰国。

この書はマルコポーロの「東方見聞録」、玄奘三蔵の「西遊記」とともに、三大旅行記として今の時代も高く評価されております。

持ち帰った経典は584部802巻に及び金剛、胎蔵界の両界曼荼羅などの
図像法具は21種もあったそうです。

任明天皇はこの功績によって円仁(慈覚大師)を「伝燈大法師位」、「内供奉十禅師」に任命しました。

その後854年、円仁(慈覚大師)はそれまで17年半、空位であった延暦寺第3代天台座主に任命されました。

それからも円仁(慈覚大師)は天台密教の振興に尽力し、戒律に新見解を示しました。

円仁の最期(死因)
864年1月、円仁は熱病にかかり亡くなったそうです。
享年71歳。

866年、円仁の死を悼んだ清和天皇より「慈覚大師」という日本で初めての大師号が贈られました。

ちなみに最澄も円仁と同じく866年に日本初の『伝教大師』を、空海は921年に醍醐天皇から、『弘法大師』の諡号(しごう)を送られました☆

ちなみにこの諡号、今でも天皇から送られているんですよ。

最近は、令和4年2/25、黄檗宗開祖の隠元に3つ目の諡号『厳統大師』が送られました♪

そんな話はまた今度(笑)


まっ、ともかく一番思うのは出生地の論争はともかく栃木県から慈覚大師円仁という天才が生まれ天台仏教の発展に尽力しているわりにどうしてこんなに寂しい地域性なのだろうか(笑)?

という疑問( 。゚Д゚。)


栃木県としてもう少し推してみてもいいと思うのだがなぁ(笑)


さて、長々失礼いたしました。

参考文献:

Wikipedia、栃木県神社庁ホームページ、栃木市観光協会ホームページ、とちぎふるさと学習、岩舟町観光情報、奈良まちあるき風景紀行(遣唐使)、フリージャーナリスト鈴木拓也氏記載culture(遣唐使)、東京新聞(天皇が高僧に送る大師号)

から抜粋、引用させて頂きました。


ちなみに岩舟町にてお蕎麦食べました☆

円仁庵さん。

せいろと野菜天☆
美味しかったです。


以上慈覚大師円仁ゆかりの地を巡る旅でした☆

それでは、また♪
Posted at 2022/08/01 17:56:00 | コメント(1) | トラックバック(0)
2022年06月17日 イイね!

栃木県太平山散策~あじさい坂と六角堂、太平山神社と謙信平編☆

栃木県太平山散策~あじさい坂と六角堂、太平山神社と謙信平編☆今日も休み☆
精力的に活動してみます。

まずはご飯です♪
いつものようにお蕎麦です(笑)

今回は茨城県古河市にある森ファーム、ゆるりの森さんでのお食事です。



自然の中にあるオアシスです。

にんじんのポタージュと蕎麦豆腐。

畑のごはんランチセット。

お蕎麦は、 自家栽培・ 自家石臼製粉・手打ち蕎麦で、蕎麦つゆは、利尻昆布と厚削りの特上鰹節で出汁をとり、地元の醤油で味を調えているそうです。

野菜天ぷらも自家栽培の野菜と自家栽培の全粒粉小麦粉を素材としているようです。

ただ、一番思ったのは、天ぷらの衣が軽く、油のしつこさがないこと☆

とても美味しく頂きました♪
ただ、こちらオーガニックの健康志向が高いお店ですので女性のお客様が大変多いです☆

おじさん1人での来店は若干勇気がいります(笑)




ファーム内には小さな動物エサやりスポットがあります☆

ひつじとうさぎです♪
近づいた瞬間に何かもらえるのかとたくさん寄ってきます(笑)

少し癒しになりました☆


さて、時間もあるのであじさいでも見に行くことにしました。

栃木県栃木市のあじさい坂にやってきました。







石段にはあじさい坂と呼ばれ様々な種類のあじさいが約2500株あるそう。



有料の駐車場に停めた時、案内図を渡され1時間半ほど歩くと言われたのだが、その時あまり気にしていなかったが、その後地獄をみることになる(笑)



弁財天。

太平山銭洗弁財天?
ほどよく登ってきてやっとわかる…。

ここは太平山(おおひらさん)神社の参道だと(笑)





蛇頭の滝。

太平山神社は太平山の頂上にあって、表参道の石段は約1,000段ある。

西暦827年、慈覚大師(円仁)により創建されたといわれている神社である。

当然何度も来ているのだが、山頂にある神社までいつも車でしか行ったことなかったので約1000段の石段を登ることになったのだ(T_T)

一応写真は撮っているが、ほとんど見ていない(T_T)

太平山神社鳥居。

手水舎。

もう山の中。

見れども見れども石段。

同じ写真ではない。
そしてまた見れども見れどもまた石段。

なんかワクチン打った次の日から足のしびれが凄くて治らず、医者に行けども何でもないと言う診断。

そんな中電車のホームまでの階段でもキツいのにまさかこんなに登るとは(笑)

ただ、神社まで車でしか行ったことなかったから太平山神社随神門を初めて見る☆

随神門。







天井絵。

もう何回休んだだろう。
道行くご年配の方々がすいすい登っていくのを横目で見ながらひたすらまた石段を登る。



あじさいの写真を撮ってはいるが正直目がチカチカしてきて、もうあじさいなどどうでも良くなっていた(笑)

せめてもの救いは石段の数を知らないで登ったことが良かったのかもしれない。

今、Wikipediaを見て初めて約1000段と知る(笑)

着いた♪
太平山神社だ!

…って、知ってるよ。
何回も来ているし(笑)

太平山神社拝殿。

太平山神社の歴史は『諸神座記』を始め多くの古文書によれば、垂仁天皇の御宇に大物主神(おおものぬしのかみ)・天目一大神(あめのまひとつのおおかみ)が三輪山(現在の太平山)に鎮座されたときに始まると云われております。

今からおよそ二千年も前のことですが、太平山神社の周辺からは古い時代の祭祀遺跡・祭祀遺物が出土しており、太平山は非常に古くから信仰されていた山であったことが伺い知れます。

『太平山開山記』によれば、「円仁(慈覚大師)は何年にもわたり太平山の入山を拒否されていたが、淳和天皇の御代の天長4年(827)、天皇の勅額を奉じることでついに入山を果たした」とあります。

これが今日伝えられている「天長四年慈覚大師開山説」で、旧暦1月8日に執り行われる神蛇祭(しんださい)の祝詞にも伝えられています。

こうして太平山神社は「神仏」を祭る山としての第一歩を迎えたのです。

この後、太平山は神鎮まる御山として一大宗教の霊地となり、摂末社および寺院が八十余遷座・建立されました。

さらに明徳3年(1392)には後小松天皇から「太平山神社」の額を下賜されましたが、天正13年(1585)の戦火で、これら淳和・後小松両天皇の額は焼失してしまいました。

戦国時代に北条氏と対立する上杉謙信が太平山から関東を臨んだという言い伝えが残っているほど、関東平野を一望できる地に太平山神社は鎮座しております。

天正年間に兵火によって社殿が焼失してしまう不幸がありましたが、近世の初期には早くも復興し、徳川幕府から朱印地50石を認められました。

さらに寛政年中(1789~1801)には「御願御抱場」となるなど、民衆のみならず朝廷や幕府からも「天下太平を祈る社」として信仰されました。

『雲上明鑑』『雲上明覧』にも「下野 太平山宮司」「野州 大平山神主」または「野州 大平山別當」と記載されるなど、武家伝奏が朝廷へ執奏する社でもありました。

太平山神社は様々な歴史を経て参りましたが、古い昔から、多くの人々の心を支え続けてきたのです。
(ホームページ抜粋)


主祭神:

瓊瓊杵命
天照皇大御神
豊受姫大神

創建827年(天長4年)
旧社格は県社。

神仏習合の神社で慈覚大師円仁開山からか非常に建造物がお寺に近い感じがします。

ちなみに何気なく書いているこの慈覚大師円仁は、栃木県出身の豪族壬生氏の子でとても凄い人なんですよ。

第3代天台座主で唐に留学し密教経典を伝えた入唐八家(最澄・空海・常暁・円行・円仁・恵運・円珍・宗叡)の一人にかぞえられています☆






数々の摂社、末社。

山頂なんで非常に空気が澄んでおり、雰囲気良いですよ。

ただ、次回はやはり上まで車にしよう(笑)

歩いて登ってきたので歩いて別ルートで帰ります。

そして見えてくるのが謙信平。

謙信平。

戦国時代の頃、関東平定を競い対立した越後の上杉謙信と、小田原の北条氏康は、当時の大中寺(以前ブログで七不思議のお寺で取り上げました。)
住職虎溪和尚(こけいおしょう)の斡旋により、永祿11年(1568)9月、大中寺において和議を結んだ。

そのあと、上杉謙信は太平山に登り、兵馬の訓練を行い太平山上から南の関東平野を見渡し、あまりの広さに目を見張ったという故事から謙信平の地名が生まれたいわれる。
(ホームページ抜粋)

まー、キレイですよ。
ただ、謙信平も以前、車で来ていて無料駐車場あります(笑)

そして茶屋を左に下る。

そこから遊歩道へと入ります。
またひたすら歩く。
ただ、約1000段の石段を思うと楽です(笑)

そして最後に見えてくるのが六角堂です☆
正式名称は太平山連祥院です。



太平山連祥院六角堂本堂。


慈覚大師が開創 天長2年(825)、比叡山延暦寺の天台座主慈覚大師の開創で、もとは太平山の別当寺、現在の太平山神社境内にありました。

江戸前期の寛永18年(1641)に、東叡山寛永寺の直末に補された天台宗の大寺で、三光院、報恩院、多門院、安楽院の四寺を支配していた。

ご本尊は、慈覚大師作と伝えられ、県内で最も古い木造彫刻の虚空蔵菩薩で、平成2年(1990)県指定有形文化財(彫刻)となりました。

その後、明治元年(1868)の神仏分離令により、太平山の旭岳(現在の太平少年自然の家敷地)に仮堂を建て移転しました。

この仮堂は、明治35年(1902)の暴風雨の際、堂宇が崩壊し、同年信徒有志の浄財により、現在地に京都頂法寺の六角堂を模し堂宇を建立したため、通称六角堂とよばれ、平成6年(1994)市指定有形文化財(建造物)となりました。
(ホームページ抜粋)




御朱印。
字がキレイ☆


以上をもってやはり約1時間半の散策になりました。

普段は動かないおじさんには超キツい道のりでした(笑)


それではまた☆















Posted at 2022/06/26 13:55:50 | コメント(0) | トラックバック(0)

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秋田竿燈まつりドライブ(2日目) 
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愛車一覧

スズキ ワゴンR ワゴンRちゃん (スズキ ワゴンR)
H10年式スズキ ワゴンR RRのMT車に乗っています。 もともと車屋さんの代車を安 ...
日産 シルビア 日産 シルビア
これが乗りたくて免許取りました♪ 事故して壊れてまた、買い変えました☆ 最初のはフルノ ...
三菱 ミラージュ ミラージュちゃん (三菱 ミラージュ)
あーもう一度乗りたい🎵 この車今でもほしい車😃 僕の中ではよく回る、よく曲がる見た ...
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実はDIY 始めて1年半にして、これから一生懸命工具を揃えていこうと思っています♪ もち ...
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