
仙台出張からの宮城観光2日目になります!
1日目は定義山を柱に決め、2日目はやはり松島ともう1箇所(これは次のブログにて)を柱に決めたのですが、公共交通機関での移動になるのはやはり不便でした🥹
さて松島には仙台駅からJR仙石線にて松島海岸で下車します。
そして円通院に向かいます〜♪
松島は実は20年ぶりになります。
向かう途中に、綺麗な小堂がありました。

三聖堂

天和2年(1682)、瑞巌寺101世鵬雲東搏禅師によって建立されたお堂で、堂内正面に聖観世音菩薩像、左に達磨大師像、右に菅原道真像を安置したことから三聖堂と称されています。
(松島観光.com)
着きました!

円通院山門
町指定有形文化財

宮城県宮城郡松島町(日本三景・松島)、臨済宗妙心寺派円通院です✨
本尊は聖観世音菩薩。
通称「バラ寺」「薔薇寺」
入山料500円を払っていざ☆

縁結び観音

枯山水
石庭「雲外天地の庭」

ホームページによれば、
雲より⾼く、遥か天より燦燦と降り注ぐ光、四季折々の陽と影が織り成す色彩鮮やかな庭園。
光彩が生まれる場所「円通院」

庭園を歩くと見えて来るのが、

霊廟三慧殿
重要文化財(国指定)
圓通院霊屋 附厨子1基、棟札1枚

19歳で早世した伊達光宗の菩提寺であり、光宗の霊廟である三慧殿が「圓通院霊屋」の名で国の重要文化財に指定されている。
光宗は仙台藩第2代藩主・伊達忠宗の次男であり、仙台藩祖・伊達政宗からみると孫にあたる。
三慧殿の厨子には、慶長遣欧使節を率いた支倉常長が西洋から持ち帰ったバラと、フィレンツェを象徴する水仙が描かれている。
この厨子のバラをヒントに天野明道住職が、「白華峰西洋の庭」(6,000m2)にバラを植えて一般の観覧に供したため、「薔薇寺」の異名でも呼ばれるようになった。
ただし、バラは開花時期が限られるため、院内を覆うコケの方が印象深い。
(Wikipediaより)

紅葉時期はすごいらしいが冬の風景も風情があります。

バラ園

おんこの木

円通院本堂大悲亭
町指定有形文化財
大悲亭(本堂)

創建年は正保4年(1647年)
開山は洞水(瑞巌寺第100世和尚)
開基は伊達忠宗になります。

町指定有形文化財
木造聖観音坐像(本尊)

とても素晴らしい静観な雰囲気の場所でした☆

御朱印
続けて、その北側には国宝瑞巌寺があります。

総門(県指定文化財)

宮城県宮城郡松島町、正式名称は、臨済宗妙心寺派松島青龍山瑞巌円福禅寺です✨

洞窟遺跡群

西国三十三観音が奉られております。

復興地蔵
以前訪れた時参道がこんなに開けていたかなぁ〜と思っていたらやはり、2011年(平成23年)3月11日に発生した東日本大震災によって引き起こされた津波により境内にも浸入し、参道の杉木立の多くが枯死したようです😔

入山料は700円

法身窟/鎮海・揚柳観音像

庫裡(庫裏)

国宝
本堂(元方丈)御成玄関附属
庫裏及び廊下 2棟

正式名称、松島青龍山瑞巌円福禅寺(しょうとうせいりゅうざん ずいがんえんぷくぜんじ)。
平安時代の創建で、宗派と寺号は天台宗延福寺、臨済宗建長寺派円福寺、現在の臨済宗妙心寺派瑞巌寺と変遷した。
古くは松島寺とも通称された。
江戸時代前期の元禄2年(1689年)に俳人松尾芭蕉が参詣したことにちなみ、毎年11月第2日曜日には芭蕉祭が行われる。
また、大晦日には火防鎮護祈祷である「火鈴巡行」と一般も撞ける除夜の鐘が有名である。
境内には、「臥龍梅」と呼ばれる紅白二本の梅の木があり、伊達政宗の手植えと伝えられている。
また、参道にはシンボルとも言える杉並木があったが、平成23年(2011年)3月11日の東日本大震災の津波に見舞われ、その後の塩害によって立ち枯れが目立ったことから、約300本が伐採されることになった。
同じ東北地方にある平泉の中尊寺と毛越寺、山形立石寺と共に「四寺廻廊」という巡礼コースを構成している。
(Wikipediaより)

本堂
創建年は(伝)天長5年(828年)
開山は円仁
開基は(伝)淳和天皇
中興年
臨済改宗:正元元年(1259年)
瑞巌寺竣工:慶長14年(1609年)
中興
臨済改宗:北条時頼、法身性西(開山)
瑞巌寺竣工:伊達政宗、雲居希膺(開山)
『瑞巌寺縁起』
平安時代の延福寺については、南北朝時代か室町時代初期の成立と思われる『天台記』が記すだけで、確かなことはわからない。
それによれば、延福寺は天長5年(828年) 淳和天皇の勅願寺として慈覚大師円仁が開山した天台宗の寺であったという。
平安時代の延福寺は現在の瑞巌寺とは別の場所にあり、その位置は不明である。
鎌倉時代、禅に傾倒した北条時頼(鎌倉幕府執権)は武力で天台派の僧徒を追い、法身性西を住職に据えた。
『天台記』で、禅宗への転換は時頼の廻国伝説に付託して劇的に脚色されて伝えられている。
禅宗側が伝えるものは、江戸時代の享保元年(1716年)に瑞巌寺103世夢庵が記した『松島諸勝記』にある。
細部はどうあれ、天台宗から禅宗への転換という骨子は諸学者に承認されているが、廻回伝説は後世のものであろう。
いずれの伝でも天台宗徒は立ち退かされたことになっているが、その後も松島で活動を続けたらしく、南北朝時代に寺の支配をめぐって禅宗徒と争った。
訴訟に際して禅宗の僧景凱が観応元年(1350年)に書き上げた文書が「当寺雑掌景凱言上状」で、北条時頼の外護を得て開山の法身以来15世にわたって禅宗であったことを主張して天台宗に対抗した。
さらに江戸時代初めまで活動を続けたらしき事が記録に残っている。
しかし天台派の存在はこうした禅宗側の反応によって知られるのみで、具体的な活動内容は不明である。
開山となった法身性西は、中国の宋で修行してから帰国した僧である。
彼はしばらくして立ち去り、宋の出身で建長寺を開いた蘭渓道隆が円福寺第2代住持になった。
以後は蘭渓道隆の弟子が円福寺に住した。
臨済宗円福寺は将軍家が保護する寺社である関東御祈祷所に指定された。
更に北条氏の保護を得て最初五山・十刹に次ぐ諸山のうちに数えられ、後に関東十刹に昇った。
しかし、火災によって戦国時代の終わりには廃墟同然にまで衰退した。
天正6年(1573年)頃、93世実堂の代から臨済宗妙心寺派に属した。
江戸時代に入り、松島を含む仙台藩を領した伊達政宗は禅僧虎哉宗乙の勧めで円福寺復興を思い立ち、慶長9年(1604年)から14年(1609年)までの全面改築で完成させた。
今に伝わる桃山文化(桃山建築)の本堂などの国宝建築を含む伽藍は、伊達政宗の造営によるものである。
この折、寺の名を改めて「松島青龍山瑞巌円福禅寺」と称した。
住持が一時不在だったが、寛永13年(1636年)に雲居希膺が入った。
瑞巌寺は仙台藩の歴代藩主である伊達氏が大神主となって保護し隆盛を極めた。
この間、それまで瑞巌寺とは別個に存在した五大堂も瑞巌寺の管理下に入った。
政宗の隠し砦という説があり、政宗が徳川家康(江戸幕府)を滅ぼして天下を奪い取ったあかつきには、瑞巌寺に天皇を招き入れる予定であり、その証拠である天皇が座すための間である上上の段の間が存在する。
政宗が造った居城(自宅)である仙台城にも天皇を招き入れるための上上段の間があったとされる。
しかし、1868年の明治維新の際の戊辰戦争で仙台藩を盟主とする奥羽越列藩同盟(東武天皇を擁立した仙台朝廷)が明治天皇を擁立した薩長同盟を中心とする明治新政府に敗れると、同年,新政府は神仏分離令を発令し、これをきっかけとして廃仏毀釈運動が起こった。
瑞巌寺は明治政府に所領を没収され、収入を失った瑞巌寺は付属の建物の多く荒廃して失われた。
しかし、明治9年(1876年)に明治天皇東北巡幸の際に下賜金があり、その後徐々に財政難を脱していった。
大正12年9月、松島湾で捕れた鰻の供養として地元民の寄付金で鰻塚が建立された。
昭和28年(1953年)に本堂が国宝に指定されたほか、建築物等多くの文化財を有する。
昭和43年(1968年)に大書院が完成し、昭和48年(1974年)には宝物館を開設した。
宝物館には発掘調査などで出土した円福寺時代の遺物など約3万点が収められている。
平成20年(2008年)11月から平成30年(2018年)まで「平成の大修理」が行われ、2018年6月24日に落慶法要が営まれた。
(Wikipediaより要約、抜粋)

庭園

御成門(重要文化財)

中門(重要文化財)

本堂
なかなか深い歴史であるのは宝物館(青龍殿)を見ればよくわかり、障壁画など重要文化財を多数見ることができます✨
しかし昔来た記憶が全くない(笑)

御朱印

日本三景 松島
五大堂に向かってみたものの改修工事中で入れませんでした😔

五大堂(重要文化財)
しかし過去来たのに記憶が全くなく、逆に非常に新鮮に見れて素晴らしく見応えのある場所でしたが、観光客の半数以上は外国人(アジア人)でなんともマナーの悪い方々も多かったです。。。
雪がちらほら降る中、昼食とも思ったのですが、ほとんどのお店が今日は定休日で今日のスケジュールがギリギリの為、松島を後にしました。
次回は、最も行きたかった場所に向かいます☆
それでは、また(笑)