
今回は群馬県をまわってみました。
名付けて群馬県、新田義貞ゆかりの地を巡ってみる☆
です。
ちなみにちょーーー長いですので万が一読んで頂けたら本当に本当にお時間取らせてすみません。。。
って感じの内容です。
まず、新田義貞とは?
鎌倉時代後期から南北朝時代にかけての御家人そして武将である。
河内源氏義国流新田氏本宗家の8代目棟梁。
父は新田朝氏、母は不詳(諸説あり)。
官位は正四位下、左近衛中将。
明治15年(1882年)8月7日贈正一位。
建武の元勲の1人。
上野国新田荘の御家人であったが、元弘の乱(1331年 - 1333年)では後醍醐天皇に呼応して、足利高氏の名代・足利千寿王(後の足利義詮)を総大将とする鎌倉討伐軍に参加する。
義貞の軍はいち早く鎌倉に侵攻し、東勝寺合戦で鎌倉幕府・北条得宗家の本隊を滅ぼすという軍功を立てた。
後醍醐天皇による建武の新政樹立の立役者の一人となった。
しかし、建武の新政樹立後、同じく倒幕の貢献者の一人である足利尊氏と対立し、尊氏と後醍醐天皇との間で建武の乱が発生すると、後醍醐天皇により事実上の官軍総大将に任命される。
各地で転戦したものの、箱根や湊川での合戦で敗北し、のちに後醍醐天皇の息子の恒良親王、尊良親王を奉じて北陸に赴き、越前国を拠点として活動するが、最期は越前藤島で戦死した。
東国の一御家人から始まり、鎌倉幕府を滅ぼして中央へと進出し、その功績から来る重圧に耐えながらも南朝の総大将として忠節を尽くし続けた生涯だった。
軍記物語『太平記』等でその活躍が描かれ、楠木正成に次ぐ南朝の武将として顕彰された。
(Wikipedia抜粋)

こちらは、群馬県太田市新田市野井町にある生品神社。
主祭神は大穴牟遅神(大国主)。
旧社格は県社。
境内は国の史跡に指定されている(国の史跡「新田荘遺跡」の一部として指定)。
生品神社は、平安時代の上野国神名帳に「新田郡従三位生階明神」として記載される古社である。主祭神は大国主であるが、平将門を祀っているという伝説もある。
(Wikipedia抜粋)

手水舎。

本殿。
元弘3年(1333年)5月8日、新田義貞が後醍醐天皇より鎌倉幕府倒幕の綸旨を受けた際に、産土神である生品神社境内で旗揚げをし、鎌倉に攻め込んだと伝えられる。
このとき、旗揚げに参集した武将は150騎だったと伝えられている。
境内には社殿の他、新田義貞公像、義貞公旗揚げ塚、神木、記念碑等がある。毎年5月8日には例祭として鏑矢祭が行なわれる。
(Wikipedia抜粋)

神代木。

こちらは、新田義貞の倒幕の挙兵の地とされる。
さて、この時代がどうゆうものだったか?
深堀りしてみた。
時は鎌倉時代。
この時代は、源頼朝が開いた鎌倉幕府が置かれていた時代。
まさにNHK大河の鎌倉殿と13人の時代。
鎌倉幕府初代将軍は源頼朝で在位は1192~1199年。
2代将軍は源頼家で在位は1199~1203年。
頼朝が36歳の時に、北条政子との間に生まれた長男である。
頼朝急死後、2代将軍となるも、「13人の合議制」が敷かれた。
これがまさに鎌倉殿と13人だ☆
1203年、後見役であった比企能員をはじめとする比企一族が北条氏によって滅ぼされると、北条氏を後ろ盾とする実弟の実朝に将軍職をとって代わられ、21歳で伊豆で誅殺される。
そして3代将軍が源実朝で在位は1202~1219年。
藤原定家に和歌を学び、歌集「金槐和歌集」を遺した歌人としても知られている人物である。
源頼朝と政子との次男。
北条氏が2代頼家と比企一族を滅ぼし、12歳で征夷大将軍に任命される。
実際の政治は初代執権の時政、2代執権の義時が主導した。
北条義時、これが大河で小栗旬さんが演じている役柄だ。
しかし、源実朝は鶴岡八幡宮で頼家の子・公暁(くぎょう/こうきょう)に暗殺され、26歳で死没。
これをもって、鎌倉幕府の源氏将軍は断絶となる。
ここからは摂家将軍をおくことになる。
つまりは摂政・関白に任ぜられる家柄。
藤原良房が最初に摂政となってから藤原北家が独占していた。
鎌倉時代には近衛・九条・二条・一条・鷹司 (たかつかさ) の五摂家に分かれた。
とゆうわけで、4代将軍は藤原(九条)頼経で在位は1226~1244年。
関白、九条道家の子である。
頼朝の妹のひ孫にあたり、3代将軍・源実朝暗殺後、皇族を将軍に迎えようとした幕府の画策は不調に終わり、頼朝の遠縁である頼経が迎えられた。
反・執権勢力が頼経に接近し勢力を強めたことで北条氏から追放され、将軍職を嫡子頼嗣に譲った。
5代将軍は藤原(九条)頼嗣で在位は1244~1252年。
6歳で父から将軍位を譲られるが、九条家の政治勢力拡大を嫌った5代執権の北条時宗によって、14歳で追放される。
18歳で死没。
6代将軍は宗尊親王で在位は1252~1266年。
後嵯峨天皇第一皇子。
皇族初の征夷大将軍。
九条道家(頼嗣祖父)の政治介入を嫌った執権北条時頼に迎えられたが、政治的権限はほとんど与えられなかった。
そして謀反(むほん)の嫌疑をかけられ解任される。
7代将軍は惟康親王で在位は1266~1289年。
6代、宗尊親王の嫡男。3歳で将軍就任。
26歳で解任され京に戻された。
8代将軍は久明親王で在位は1289~1308年。
後深草天皇皇子。
従兄にあたる惟康親王が京に送還されたことにより、征夷大将軍に就任。
政治的力はなかったが、鎌倉歌壇の中心的存在。
在任長期化を嫌う北条氏に解任された。
そして鎌倉幕府9代将軍が守邦親王で在位は1308~1333年。
久明親王の子。
父が解任され、8歳で将軍就任。
そして最後、新田義貞の挙兵により鎌倉陥落後、将軍職を辞して出家となる。
(nippon.com引用、抜粋、要約)
これが鎌倉幕府の将軍一覧だ。
このことから、京都の朝廷に対抗し、有力御家人(武士)たちを抑えられるだけの高貴な血統の出身者が必要とされたことから、初めは摂関家の子弟を将軍職に就けたが(摂家将軍)、北条氏に離反した。
このため、北条氏は摂家将軍を廃して皇族(宮将軍・親王将軍)を京都から迎え将軍職に就けた。
将軍とは名目的存在となったが、形の上では将軍はあくまでも幕府の長であり、全ての御家人の主君であることから、御家人たちに対して一定の求心力を持ち続けた。
これを警戒した北条氏は、幼少の将軍を迎えては成人すると解任して京都に送還するということを幕末まで繰り返したようだ。
そもそも3歳や5歳で将軍って(笑)
源頼朝以降、源氏将軍は3代で終わり政治の実権は北条氏が掌握していた。
それは鎌倉時代中期から後期の話である。
ホント、将軍とは名ばかりであったのだろう。
さて、その頃の朝廷はというと。。。
もともと天皇や貴族を中心とする政治のしくみができてからは,朝廷による政治が続いていました。
しかし鎌倉幕府ができてからは政治の実権は武士か行う幕府に移り,幕府による政治は江戸幕府が倒れるまで続きました。
ただ,幕府の政治が続いている間も,天皇を中心とする朝廷の勢力がなくなったわけではありませんでした。
鎌倉時代には,後鳥羽上皇が政権を朝廷に取り戻そうとして「承久の乱」を起こしましたが失敗しました。
鎌倉幕府が倒れると,後醍醐天皇が「建武の新政」を行って天皇中心の政治にしようとしました。

(Wikipedia 皇室の系図一覧)
ここで注目なのが88代後嵯峨天皇以降。
後嵯峨天皇は、1246年(寛元4年)、久仁親王(後深草天皇)に譲位したが、1259年(正元元年)には、後深草天皇の弟恒仁親王(亀山天皇)へ譲位させた。
さらに、亀山天皇の皇子世仁親王を皇太子として崩御してしまう。
亀山天皇(大覚寺統)→後宇多天皇(大覚寺統)
→伏見天皇(持明院統)→後伏見天皇(持明院統)
〈持明院統と大覚寺統〉
後深草天皇の系統は持明院で院政を行ったことから「持明院統」、亀山天皇の系統は大覚寺で院政を行ったことから「大覚寺統」と呼ばれる。
系統をみていくと、
後嵯峨天皇は自分の子供の兄に譲位し、後深草天皇に。
後深草天皇は弟に譲位して亀山天皇に。
ところが亀山天皇は自分の子供に譲位して後宇多天皇にする。
それじゃ、私の子供をと、後深草法皇は自分の子供に譲位する。
それが伏見天皇。
そして、伏見天皇はまた、自分の子供に譲位し後伏見天皇になる。
もともと上皇が院政を行うには、その上皇が、在位している天皇の直系尊属である必要があるため、基本としては、持明院統と大覚寺統が二代ずつ交替で皇位に就く必要がある。
(直系尊属とは、父、祖父、曾祖父のこと。)
その後は交互に、
→後二条天皇(大覚寺統)
→花園天皇(持明院統)と継承されていく。
ところがやはり自分の子供を永遠に直系にしたいと考えるのはごく普通の話で・・・
「文保の和談」
1317年(文保元年)、伏見法皇が崩御すると、持明院統と大覚寺統との間で皇位継承に関する対立が激しくなり、後宇多法皇の要請によって、幕府は今後の皇位継承についての仲裁を行った。
これを「文保の和談」と呼ぶ。
その内容とは・・・
①花園天皇から大覚寺統の尊治親王(後醍醐天皇)に譲位すること。
②在位年数を10年として両統が交替で皇位に就くこと。
これを両統迭立(交代で天皇になる)という。
③皇太子は邦良親王(大覚寺統)とし、その次を量仁親王(光厳天皇)とすること。
(鎌倉手帳~yoritomo-japan.com)

(Wikipedia 皇室の系図一覧)
ところがここから後醍醐天皇がキーポイントになってくる。
なんと約束をやぶるのだ!
後醍醐天皇(大覚寺統)は光厳天皇(持明院統)に皇位を譲らなければならないものを反故にする。
さらに政治は自分がする!
武士が作った幕府ではなく朝廷による実権を今こそ取り戻すのだー!
と。
長々時代背景を書いたが、新田義貞の歴史はここから始まるのだ。

群馬県太田市、反町館跡。
反町館は新田荘を代表する館跡です。
昭和33年に群馬県史跡に指定されましたが、平成12年に新田荘遺跡として国史跡に指定されました。

築造された年代は明らかではありませんが、鎌倉時代から南北朝時代ころに築造されたと考えられます。
その後、室町時代に金山城の支城となりましたが、戦国時代になって三重の堀を巡らす城郭に拡張されたと推定されています。
そのため常時水をたたえる掘がめぐらされ、土塁も残っています。
(ホームページより)

新田義貞は新田氏本宗家の7代当主・新田朝氏の嫡男として生まれた。
義貞の生年については判然としていない。
藤島で戦死した際、37歳から40歳であったといわれ、生年は正安3年(1301年)前後と考えられている。
ちなみに新田義貞出生場所は3ヶ所説があります。
①新田郡宝泉村由良(太田市宝泉地区):『新田義貞正伝』より
②新田郡生品村反町館(太田市新田地区): 『新田氏根本資料』「筑後佐田・新田氏系図」より
③碓氷郡里見郷(高崎市榛名地区):『新田正伝記』「里見氏系譜」より
(Wikipediaより)
新田義貞が居住したとも、大館氏の館跡とも伝わる新田荘における代表的な館跡は現在、高野山真言宗瑠璃山妙光院照明寺とし、反町薬師尊と称されています。
照明寺本堂の裏には、
新田義貞が軍議を開いた時に、
鳴いている蛙の声を静めたという伝承を持つ
「不鳴の池」があり
ます。

鐘楼堂。

本堂。
実は、義貞が家督を継承した頃の新田宗家の地位はとても低かった。
新田氏(上野源氏)はもともと河内源氏3代目である源義家の四男・義国の長子である新田義重に始まり、広大な新田荘を開発していたが、義貞の代には新田氏本宗家の領地は新田荘60郷のうちわずか数郷を所有していたに過ぎず、義貞自身も無位無官で日の目を浴びない存在であった。
加えて、足利氏と比べると、新田氏は北条得宗家との関係が険悪で、鎌倉幕府から冷遇されていた。
文保2年(1318年)10月に義貞が長楽寺再建のため、所領の一部を売却した際の書状が残っているが、それに対して12月に幕府が発給した安堵状には、売主が新田「貞義」と誤記されており、鎌倉幕府での新田本宗家の地位の低さを表している。
しかしながら幼少期の義貞は、当時、広漠な荒地が広がっていた群馬県太田市の笠懸野という地名にて、弓術などの武芸を鍛練し、弓馬といった武芸の研鑚を積み、利根川で水練に励みながら強靭に育っていったと考えられている。
気象変化に富む新田荘での生活が、義貞の激しい気性と義理人情に厚い性格を形成したとされている。
元服もいつか定かではないが、文保2年(1318年)には、義貞が世良田氏の菩提寺である長楽寺再建のため、私領の一部を売却していることが文書に記述されている。
世良田宿は長楽寺の門前町で交通の要所として当時の北関東屈指の経済都市であった。
長楽寺を庇護していた世良田氏は衰退して長楽寺再建に積極的に関与できる状況ではなかったことから、そこに目をつけた義貞が「売寄進」という方法で世良田の有力者であり北条得宗(とくしゅう)家(北条氏惣領の家系)とも繋がりの深い大谷道海を介在させて長楽寺に寄進を行うことで世良田氏に代わって長楽寺及び世良田宿の庇護者となってその経済的権益の掌握を目指したもので、併せて得宗勢力との関係強化を図ったものであったとみられている。
(Wikipedia抜粋、要約、引用)

世良田東照宮。

徳川家康公の先祖は、新田氏の始祖である義重から新田荘の内、当地「世良田」 他5カ郷を譲り受けた子の義季である。
義季は5カ郷内にある利根川沿いの押切を徳川と改称し、徳川義季と称した。
南北朝時代に南朝方として活躍したが、9代目の親氏に至り北朝の猛勢により徳川郷を追われた同志や一族の居所を頼りに出国。
それから7代を経て家康公は誕生した。家康公は三河一国を統一した25歳の時、松平姓から徳川・世良田を開発した徳川義季にあやかり、徳川に復姓したという。
徳川2代将軍秀忠は、久能山と日光山に東照宮を2社創建。
家康は遺書のとおり久能山東照宮に葬られ、その後日光東照宮に移された。
1644年、3代将軍徳川家光は、日光東照宮から古い社殿と宝物を世羅田に移しました。
家康がこの地域の守護神であることを認め、世良田は徳川家発祥の地であることから、「江戸を見るなら世羅田に来い」と言われてきたそうです。
(ホームページ引用)

そして世良田東照宮に隣接するこちらが天台宗世良田山長楽寺☆
1221年(承久3年)世良田義季の開山、臨済宗の僧釈円栄朝を開山として創建されたという。
早い時期から官寺として扱われていた。室町時代初期(南北朝時代)には室町幕府から関東十刹のひとつに列せられた。
鎌倉時代の開基~江戸時代までは新田家および足利家(鎌倉公方)の帰依を得、臨済宗関東十刹中でも大寺院であった。
徳川家の祖とされる世良田義季(得川義季)が創建したとされることから徳川家の帰依を得、江戸時代江戸幕府に起用された天台宗の僧天海により天台宗に改宗となった。
(Wikipedia抜粋)

鐘楼堂。

本堂。

本尊は釈迦如来。
境内は「新田荘遺跡」の一部として国の史跡に指定されている。
いづれにしろ長楽寺及び世良田宿の庇護者となってその経済的権益の掌握を新田義貞は可能にしたのだ。
ただし、新田本宗家による世良田宿の支配は近隣の武士に対して排他的なものではなく、本宗家が世良田宿を彼らの経済活動の場として提供し、保護する「共生」関係を築くことで彼らへの影響力を強めたと考えられている。
また、義貞は得宗被官(御内人)の安東氏から妻を迎えており、世良田宿の掌握による経済力の強化と得宗勢力への積極的な接近を通じて、衰退した新田氏本宗家の勢力回復に乗り出していたと考えられている。
(Wikipedia抜粋、引用)
さぁ、ここからの新田義貞は一気に駆け上がる!
ここで出てくるのが後醍醐天皇だ!
後醍醐天皇は、天皇親政を志す。
1331年(元弘元年)、後醍醐天皇と楠木正成は鎌倉幕府を倒そうと「元弘の変」を起こすが、失敗する。
鎌倉幕府、得宗は北条高時。
実はこの頃、鎌倉幕府には御家人の不満が相当高まっていた。
これは元寇がきっかけとしている。
元寇とは、モンゴルの大軍が二度も襲来してきたあれです。
本来御家人同士の争いでは領地や財産も没収することが出来ます。
であるからして没収した領地や財産を褒美として与えることも可能であるが蒙古襲来においては勝利をおさめても十分な褒美を与えることもできなかった。
そして、前段で書いた皇族の権威争いも背景にあった。
元弘の変にて後醍醐天皇は隠岐(おき)に島流しになりました。
新田義貞は、初め幕府側に付き「千早城の戦い」に参加しますが、
1333年3月(元弘3年/南朝・正慶2年/北朝)、病気を理由に途中帰国します。
実は新田義貞の帰国は後醍醐天皇の皇子「護良親王」(もりよししんのう)から北条氏打倒の詔を受け取り、急遽退去したのではないかと言われています。
さらに義貞は4月、新田荘の領民に重い徴税にやってきた幕府の使者2人を切り殺すという事件を起こしています。
地位も低いのに重い徴税を課されていたのがよほど我慢がならなかったのでしょう。
結果、所領は没収。
義貞は憤慨し、ついに反幕府の態度を示し、幕府も義貞討伐に動き出すのです。
5月、義貞は挙兵。
これが一番最初に紹介した生品神社での話です♪
このとき、義貞軍はわずか150の兵でしたが、反幕府に立ち上がろうと越後国から2,000の兵、甲斐・信濃国から5,000の兵が加わりました。
その後、武蔵国で尊氏の嫡男「千寿王」(後の室町幕府2代将軍、足利義詮、4歳)の200の兵と合流し、「新田・足利連合軍」を形成します。
これを知ると、各地から我も我もと兵が集まり、最終的には20万もの兵になったと言われています。
挙兵した義貞は周囲を制圧した上で南下、迎撃する鎌倉幕府軍を小手指ケ原、久米川、分倍河原の戦いにて、北条軍を撃破。
多摩川を渡って霞ヶ関に出て「関戸の戦い」に勝利。
ここは、今の多摩市関戸辺りです。
藤沢・片瀬・腰越・十間坂などの約50か所に放火し、鎌倉へは山側と海側からの攻撃に分かれます。
海側からは稲村ケ崎へ。
当時、稲村ケ崎の崖下は満潮でとても通過できませんでした。
しかし、義貞が太刀を海に奉じると、龍神が呼応してみるみる干潮になったと言われています。
この干潮を利用して、由比ガ浜へ。
激戦を繰り広げ、海・山両側から鎌倉御所を挟み撃ちにします。
最終的には、北条氏の菩提寺「東勝寺」まで追い込み、北条高時と家臣870人が自害。
義貞は、たった15日で、難攻不落と言われた鎌倉幕府を滅亡させるのです。
そしてちょうど同じ時期、尊氏は京都の六波羅探題(ろくはらたんだい)を攻め落とし、すぐに上洛。
六波羅探題とは?
1221(承久3)年、後鳥羽上皇による鎌倉幕府討伐事件である承久の乱以降、京都に設けた朝廷の監視、反幕分子の抑圧機関のこと。
ここでまた問題が。
後醍醐天皇は、千寿王の父でもある足利尊氏に、「従三位、武蔵守、鎮守府将軍」の地位を与えます。
一方、新田義貞は恩賞として「従四位上、左兵衛佐、上野守・越後守・播磨守」の地位を与えられる。
ここからも前段の話。
足利高氏も新田義貞も同じ清和源氏(清和天皇)の血統。
ただ、足利氏は北条氏との婚姻関係を結んだりしてきた名門で、無位無官の新田氏とは違った。
名声も官位も領地の規模や幕府内の地位もはるかに足利氏に劣ったばかりでなく、その差は広がるばかりであった。
もしかしたらずっと足利高氏に嫉妬していたのかもしれない。
ちなみに足利尊氏の名前。
後醍醐天皇の実名、尊治の1字を与えられて尊氏と名を改めました。
ちなみに高氏も時の鎌倉幕府執権北条高時から1字をあたえられた。
そのことからも足利高氏の地位がわかると思う。
鎌倉幕府を倒幕したのは義貞なのに、明らかに不当な扱いだったのも確かだろう。
ただ、最近の研究においては、足利尊氏と新田義貞は対立していたわけではなく、鎌倉時代を通して婚姻関係もあり、また、失態の処理の融通などから後期には新田家は足利家に対して従属関係にあり、建武の乱以前の義貞は尊氏の指揮下の一部将であったとする研究もある。
また、近年では「新田氏本宗家」「新田氏一門」という概念自体が『太平記』によって作り出されたフィクションであり、新田家は創設(初代新田義重)以来、足利家を宗家とする庶家の1つに過ぎなかったとする見解も出されている。
(Wikipedia抜粋)
なにはともあれ、鎌倉幕府が滅亡するとすぐに、後醍醐天皇は新しい政治「建武の新政」を始める。
これは、幕府も院政も摂政も関白も否定して、天皇の理想を実現する物ですが、武家の慣習を無視していたため、結局、多くの武士から不満を呼びます。
そこへ1335年(建武2年)、鎌倉幕府の末裔「北条時行」が「中先代の乱」(なかせんだいのらん)を起こします。
尊氏はあっという間に時行を討伐。
もともと多くの御家人から圧倒的な人望のあった足利尊氏は後醍醐天皇の新政権に反旗を翻す決意をします。
1336年(建武3年/北朝・延元元年/南朝)、尊氏は、「持明院統」の光明天皇を立てて「北朝」と称し、「大覚寺統」の後醍醐天皇に譲位を迫ります。
一方、後醍醐天皇は吉野に逃れ、皇位は自分の「南朝」にあることを主張、朝廷が二分します。
そして尊氏と義貞の確執を知った後醍醐天皇は、南朝の総大将に、義貞を大抜擢します。
1336年、2月に足利尊氏は新田義貞・楠木正成・北畠顕家らに豊島河原合戦で敗れて、京都を追われ九州へ落ち延びていた。
ここで、正成が後醍醐天皇に、状況が宮方に有利な今のうちに足利方と和睦する事を進言するが、公家たちの失笑を買うだけだった。
(『梅松論』)
当時の天皇や公卿には、世評とは違い、楠木正成より新田義貞を信任していたことが分かります。
後醍醐天皇は、3月に義貞を総大将とする尊氏追討の軍を西国へ向けて派遣しました。
義貞は播磨国の白旗城に篭城する足利方の赤松則村(円心)を攻めている間に時間を空費し、この間に尊氏は多々良浜の戦いで九州を制覇して体制を立て直すと、京都奪還をめざして東進をはじめた。
尊氏は高師直らと博多を発ち、備後国の鞆津を経て、四国で細川氏・土岐氏・河野氏らの率いる船隊と合流して海路を東進しました。
尊氏軍の東上に遭い、撤退を始めた新田軍に赤松勢が追撃を仕掛け、新田軍は大量の寝返りや足利軍への投降者を出しながら敗走しました。
一気に陣営がやせ細ってしまった義貞は、5月13日に兵庫(現・兵庫県神戸市兵庫区)まで兵を退いて軍の立て直しを図る。
足利軍が京に迫り、義貞から兵庫へ退却したとの早馬がもたらされると、後醍醐天皇は正成を呼び出しました。
正成が京都から撤退して足利軍を京都に引き入れた後に新田軍・楠木軍で挟撃する作戦を主張したのに対し、公家の坊門清忠はたびたびの動座(天皇の行在所への移動)は体面が悪いとしてこれを退けたそうです。
楠木正成はこう進言したそうです。
勢いに乗ってる尊氏の大軍に正面から戦うのは無謀です。
尊氏に勝つにはこちらから進軍するのではなく、尊氏を一度京に誘き寄せ、奇襲を仕掛けるのが得策です。
京での戦いだったら地元(河内)の味方たちを活かすことができます。
そして、帝(後醍醐天皇)には、一時的に比叡山に避難していただきます。
逃げ帰ったと思わせといて、その間に私が京で長旅で疲れているであろう尊氏に奇襲を仕掛けます。
さらに私と尊氏が戦っている間に、新田義貞殿が比叡山から駆け下り、背後から尊氏に襲いかかるのです。
こうして京に尊氏を閉じ込め、包囲してしまえば尊氏軍は兵糧に苦しみ、敵の離反も誘えますから、敵を殲滅することができましょう。
正成のなんとも巧妙なもっともな作戦だったが受け入れられなかった。
後醍醐天皇は坊門清忠の意見を受け入れ、正成に兵庫で足利軍と戦うよう命じ、5月16日に正成は援軍として兵庫に下向した。
ここからは『太平記』による熱い伝説!
この時、楠木正成は感じたらしい。
もうダメだと。
「義を重んじ、死を顧みぬは、忠臣勇士の存ずる処なり」
と言って、わずかな兵を率いて死地へ赴きます。
『桜井の別れ』
楠木正成、息子との生涯の別れ。
楠木正成には11歳の正行(まさつら)という息子がいました。
正行は、父正成と共に死地へ出陣しようとしますが、正成はこれを食い止めこう言ったそうです。
息子よ、よく聞いてほしい。
この戦いは天下分け目の戦いである。
私が討ち死した時、おそらく足利の時代になるであろう。
しかし、(後醍醐天皇への)長年の忠節を忘れてはならぬ。
(もし私が亡くなったら)一族を率いて立派に戦い、名を残して欲しい。
それが私に対する一番の親孝行である。
24日、正成は兵庫に到着し、義貞の軍勢と合流した。
正成は義貞と合流したのち会見し、義貞に朝廷における議論の経過を説明した。
その夜、義貞と正成は酌み交わし、互いに胸の内を吐露した。
義貞が官軍総大将としての辛く苦しい胸の内を明かすと、正成は義貞が武徳によって鎌倉幕府を滅ぼしたことや尊氏を九州に追いやったことなどを褒めたたえ、玉砕覚悟の義貞を慰めると同時にたしなめた。
きっとこんな会話だったのだろう。
載せている記事があった。
新田義貞:
私は箱根・竹の下の戦いで足利軍を止めることができず、人々に嘲笑されたが、今回も兵庫で足止めを食らい作戦に失敗してしまった。
こうなっては、次の戦い(湊川の戦い)ではもはや勝敗など考えずに、ただただ忠義を示すために戦おうと思う。
楠木正成:
愚かな大勢の意見は、賢者の一人の意見には及びません。
だから、義貞殿が気にすることはないですよ。
義貞殿は、鎌倉攻めでは北条高時を打ち破り、今回も足利尊氏を九州へ追いやったではありませんか。
もはや、勝ち目のない戦、新田義貞は楠木正成のこの言葉で総大将としての重圧から解放され顔が明るくなったと言われています。
死を覚悟した二人の勇将は盃を交わし、語り合いました。
『楠木正成』
出生、家柄は謎多く、
①河内の土豪説
②得宗被官・御家人説
③悪党・非御家人説
などがある。
ただ、楠木正成は圧倒的に人気がある。
後醍醐天皇に忠誠を尽くし、圧倒的な戦術と武力運、勝ち目のない戦での交戦、そして「桜井の別れ」のエピソード☆
湊川を挟んで、西に楠木正成軍、東に新田義貞軍が構えます。戦力の詳細は不明ですが、楠木・新田軍の圧倒的不利だったことは間違いありません。
楠木正成は背後に湊川を、新田義貞も北以外を海に囲まれた和田岬に陣を構えており、まさしく「背水の陣」にふさわしい陣形で最終決戦に挑みます。
水軍を持っていない、西の楠木と東の新田は兵を分断され、楠木正成は四方を敵に囲まれた絶体絶命の状況に陥ります。
新田軍は兵が分断されて後退するばかりでした。
一見、新田義貞が楠木正成を見捨てたような行動ですが、生田方面(東)を敵に制圧されると、東西からの挟み撃ちにされてしまうわけで、やむを得ぬ選択だったのでしょう。
楠木正成は、わずか700騎を率いて湊川の西に陣を構えていました。新田義貞と兵を分断されてしまったことを知った楠木正成は、最後の特攻を試みます。
こうして、楠木正成は尊氏の弟である足利直義めがけて特攻を開始しました。
足利尊氏が水軍の総指揮官なら、直義は陸軍の総指揮官だったのです。
太平記によれば、直義軍50万は楠木正成わずか700騎に圧倒され、退却を余儀なくされたと言います。
(直義の兵力はおそらく誇張されています。)
退却する足利直義は一時、特攻する楠木兵に討ち取られそうになりますが、辛うじて苦境を脱出。
和田岬に上陸していた足利尊氏はこれを知ると、援軍を送り湊川の東側を占拠しました。
楠木正成の退路を断つためです。
しかし、これは最初から死を覚悟していた楠木正成には意味のないこと。足利の軍たちも、次第に楠木正成の凄まじい気迫を見て状況を冷静に捉え始めます。
足利軍は、楠木軍が特攻すると、兵を左右に広げ距離を取って包囲することで特攻をかわし、ジワジワと楠木軍を追い詰めます。
わずか700騎で一時は直義を追い詰めた楠木正成でしたが、敵の冷静な対処により次第に疲弊し、兵は遂に70にまで減っていました。
楠木正成は、知略と武勇を兼ね揃えた当時なら誰もが知っている最強の武将です。
足利尊氏・直義は、小勢となったとて楠木正成に対して手を緩めることは決してありませんでした。
そもそも、楠木正成は小勢でのゲリラ戦を得意としていたからです。
楠木正成は、湊川の北にある民家に隠れ落ち、郎等ともどもそこで腹を切る決意をします。
楠木正成、正氏兄弟は次に生まれ変わっても朝敵と戦おうと誓い、互いに手を取り、刺し違えて自害を果たしました。
ここに楠木正成は散る。
その頃、新田義貞軍は、東へ移動したことで敵の挟み撃ちを免れることができましたが、多勢に無勢は変わらず、不利な状況に立たされていました。
これで、敵(足利軍)の作戦を防いだように見えますが、実はこれは足利尊氏の想定通り。
東西に分断され空白地帯となった和田岬からいよいよ足利尊氏が船から上陸。
敵兵十数万に対して、新田義貞の兵はわずか4万。生田川を背にして、残り3方に兵を進めます。
しかし、不利な状況は打開できず、遂に撤退することを決断します。
新田義貞は総大将であるにも関わらず、自ら殿(しんがり)を務めます。
しんがりとは、撤退時に後方に構え、追撃する敵を抑えるポジション。
逃げながら戦うという非常に難しい立ち位置で、優秀な人物が担うことが多いポジションでした。
ここに新田義貞の男気を感じます。
世の中上司が責任を持たない会社はたくさんあるし(笑)
降り注ぐ矢を振り払いながら逃げる新田義貞ですが、敵の弓矢により馬が負傷。
別の馬に乗り換えようにも、孤軍奮闘で戦っていたため代わりの馬もおらず、窮地に立たされます。
しかし、新田義貞もまた、楠木正成と並ぶ勇将です。
馬を失った後も弓矢で敵を的確に射ぬき、敵を寄せ付けません。
新田義貞を恐れた敵兵らは、離れたところから雨の如く弓矢を降り注ぎ、新田義貞を討ち取ろうとしますが、これも失敗。
新田義貞は、源氏代々に伝わる鎧と、同じ源氏代々から伝わる名刀、鬼切丸(おにきりまる)によって矢を次々と打ちはらい、敵の攻撃を振り払います。
そうこうしているうちに、小山田高家という人物が新田義貞が窮地に陥っているのを見つけ、自らの馬を新田義貞に託し、自らは追っ手を防ぐため孤軍奮闘し、命を落としました。
こうして、湊川の戦いは集結しました。
後醍醐天皇方の惨敗です。
特にこれまで神懸かり的な活躍を続けてきた楠木正成を失ったのは致命的でした。
とは言え、楠木正成を失った原因の半分以上はおそらく朝廷の判断にあるものと思います。
湊川は後醍醐天皇側から見れば、そのタイミングや地勢的に京都の最終防衛ラインでした。
ここを突破されると足利尊氏の京都侵入を止めることはできず、後醍醐天皇は比叡山へ避難することになります。
その後、足利尊氏は北朝方の光厳天皇を連れて、入京。
7月になると息子の光明天皇が即位し、光厳上皇は治天の君(天皇家の家督)として君臨することになります。
一方、敗北した新田義貞は、比叡山の麓の東坂本に落ち延び、比叡山の後醍醐天皇との連携を強め、京の足利尊氏との攻防が続きます。
京での攻防の記録は東寺に今もなお残されています。
湊川での汚名を返上しようとし、鬨の声を上げて押し寄せる新田義貞軍に足利尊氏は敗走。
東寺へ戻るとすぐに門を閉じ、間一髪のところで新田義貞の侵入を防ぎました。
新田義貞は、東寺の門に向かって大きく叫んだそうです。
新田義貞:
皇統が2つに分かれ争っているが、これは私と尊氏の問題でもあるのだ。ただ自分の名誉のためだけにこれ以上多くの人々を巻き込むぐらいなら、私は尊氏と一対一での決着を望む。この言葉に偽りがあるかどうか、これから放つ矢をもって確かめよ!!
こう言って放った新田義貞の矢は、尊氏の座る陣幕の中へと飛んでいきます。
足利尊氏:
私とて、そもそも後醍醐天皇に牙を剥くつもりなどなかった。ただ、私を朝敵とする陰謀に加担した義貞のことが許せんのだ。一対一の決着はむしろ私も望むところ。門を開いて出向いてやろう。
ところが、足利尊氏の側近がこれを諌め、新田義貞V.S.足利尊氏の直接勝負はお預けとなってしまいます。
結局、門は開かれることなく、今ではその舞台となった東寺の門のことを「不開門(あかずのもん)」と呼ばれています。
両者対立する中、1336年10月。
尊氏と後醍醐天皇が突如、和睦を表明。
これにより、新田義貞のこれまでの活躍や部下たちの戦死はすべて水の泡に。
要するに、後醍醐天皇は足利尊氏を頼りとして、新田義貞を切り捨てたのです。
後醍醐帝による新田一族切捨てと尊氏との和睦は、『太平記』にしか見られない記述であり、創作の疑いもある。
しかし、宮方がこの日を契機に分裂したことだけは確かであるそうだ。
後醍醐天皇に猛抗議の末、後醍醐天皇の息子らを引き連れることを認めさせ、北陸へ落ち延びようと考えます。
源平合戦時の木曽義仲と同じようなことをしているわけです。
ここにも出てくるのは楠木正成とともに後醍醐天皇を支え続けた北畠顕家です。
『北畠顕家』
南朝公卿の武将。
であるからして身分は高く後醍醐天皇の側近であった。
しかし、義貞、顕家らが円滑に連携することはできなかった。
1月に青野原の戦いで土岐頼遠、高師冬らに快勝した顕家は、進路を転じて伊勢を経由して奈良へと向かった。
その後は苦戦が続き、最終的に顕家は5月に和泉堺浦・石津で足利軍に敗北、戦死した(石津の戦い)。
ここに北畠顕家も散る。
『太平記』では、顕家が伊勢ではなく越前に向かい義貞と合流すれば勝機はあったかもしれないとある。
越前に合流しなかったのは、顕家が義貞に手柄を取られてしまうことを嫌がったからだと記述している。
一説では顕家、その父北畠親房ともに貴族意識が強く、武士に否定的であったため義貞と合流することを嫌った、また、この時北畠軍の中にいた北条時行にとって義貞は一族の仇であり、彼が合流に強く反対したため合流が果たせなかったともある。
しかしながら、北畠軍には義貞の次男義興もいたことから、時行に義貞への敵意、怨嗟はなく、時行が反対したとは考えられないという説もある。
また『太平記』の記述については、顕家は義貞に手柄を取られることを嫌がって進軍の段取りを変えるような人物ではなく、さらに顕家は義貞よりも官職が高いことから、手柄を取られるなどとそもそも考えるはずがないとして、明らかに誤りであると指摘している。
むしろ合流を拒んだのは義貞の方で、義貞と北畠親子の間にはやはり何らかの確執があり、両者は不信関係にあったのではないかと推測している説もある。
さらには、義貞がいる越前は未だ安定しておらず、義貞は上洛よりも越前の制圧、平定を重視していたとも考えられる。
その後足利尊氏と何度も死闘を繰り返すが連敗続きで、1338年(建武5年/南朝・暦応元年/北朝)、「藤島の戦い」にて、新田義貞は戦死する。
新田義貞ここに散る。
享年37歳でした。
義貞の首級は京都に送られ、『太平記』によると「朝敵の最たるもの、武家の仇敵の第一」として都大路を引き回されたのち、獄門に掛けられた。
獄門に掛けられた首を見た人々の中には義貞の恩恵を受けた人も多く、そういった人々は見るに堪えず嘆き悲しんだのだという。
なお、鎌倉幕府滅亡時に入手した清和源氏累代の家宝である名刀鬼切・鬼丸もこの時足利氏の手に渡った。
ここに、鎌倉攻めによって鎌倉幕府を滅ぼし、後醍醐天皇の治世を築いた新田義貞はその生涯を終えることになります。
新田義貞の死から500年以上のち、明治維新の後、義貞らおよびその他南朝側の諸将は朝廷のために尽し続けた「忠臣」「英雄」として再評価されるようになり、明治15年(1882年)8月7日に義貞は正一位を贈位された。
また、それに先立つ明治3年(1870年)には、福井知藩事・松平茂昭は新田義貞のために新田塚に祠を建て、明治9年(1876年)には「藤島神社」として別格官幣社に列された。
この神社は義貞を主祭神とし、彼の3人の息子、弟の脇屋義助、および一族の将兵を配祀している。
ものすごく長々歴史書のように新田義貞を主人公として書いてみた☆
これは、『太平記』に基づいてになる。
『太平記』の内容は、創作が多々含まれており、おそらくここに書いてある内容のすべてが真実ではありません。
例えば、湊川の戦い前夜に新田義貞と楠木正成が盃を交わしたシーン。
太平記では両者は良好な関係ですが、別の資料では正成と義貞の不仲を伝える資料もあったりして、本当に盃を交わしたのかは謎です。
新田義貞が、後醍醐天皇に裏切られて北陸に向かった話も諸説あり、『太平記』の話が真実かどうかはわかっていません。
(参考資料:Wikipedia、まなれきドットコム/湊川の戦い、刀剣ワールド/新田義貞と刀、太田市HP:新田義貞、鎌倉ぶらぶら:新田義貞の鎌倉攻め、より引用、要約、抜粋)
その後、後醍醐天皇は、1339年(延元4年/南朝・暦応2年/北朝)8月に崩御。
南北朝が統一されたのは、その53年後の1392年(元中9年/南朝・明徳3年/北朝)となります。
~新田義貞の文献からの評価~
鎌倉幕府を倒した悲劇のヒーロー。
後醍醐天皇の南朝にぶれることなく尽くした正義の人。
『太平記』では雑兵に討ち取られたその死を戦略的に批判されるが、京都の民衆や実在不明の愛人からはその死を深く悼まれるなど感情的には同情的な論調で描かれている。
鎌倉末期から南北朝の混乱の時代にあって、足利尊氏の対抗馬であり、好敵手でもあったという評価がある。
こうした評価は足利氏寄りの史書『梅松論』(14世紀半ば)に早くも現れ、義貞は「疑なき名将」として登場し、同書中では楠木正成さえも軍事的才能については義貞に一目置いており、義貞は「関東を落す事は子細なし」(鎌倉幕府を滅ぼす程度は容易くできる)と正成の口から絶賛されている。
尊氏に仕えた武将が記した『源威集』(14世紀後半)でも「建武ニ義貞、文和ニ将軍(中略)共ニ名将」と、義貞と尊氏が同格の名将として並称されている。
その一方で、『梅松論』に登場する正成は、人望については、義貞よりも尊氏の方がより多くを集めていると義貞を低く評価する。
一説には、義貞には戦は武士のものという鎌倉武士的な固定観念があり、公家大将と連携が取れず、また寺社勢力との繋がりが弱かったという弱点があったのではないかという見方がある。
なにはともあれ、過去のNHK大河の『太平記』でも主人公は足利尊氏である。
楠木正成は人気がありエピソードも多く主役は十分ある。
しかし、いろいろ読んだ中では新田義貞を主人公にした大河があってもよいのではないか☆
謎が多い分脚色もしやすいし。
そんなこんなで最後、新田家ゆかりの場所として2つあげようと思う。

新田金山城跡。

標高235.8メートルの独立峰、全山アカマツに覆われた金山に築かれた日本の城(山城)である。

1336年(建武3年)に佐野義綱が新田庄の新田城を攻め落としたという記録がある。

割りと標高もあるので眺めは非常にキレイである。

月ノ池。

大手虎口。

この新田城が新田義貞によって金山に建築されていたのではという説があるが、最近行われている発掘調査ではその時代の遺構や遺物は検出されていない。

日ノ池。

史跡金山城址全形。

金山城模型。

山頂には鳥居があります。

見えてくるのが新田神社です。

新田神社本殿。
群馬県太田市金山町にある新田神社。
新田義貞を祭神として祀っている。

新田金山に築城された戦国時代の城の新田金山城の本丸跡とされている山上に鎮座している。
静かに手を合わせてきました☆

摂社:御嶽神社。

新田神社の裏にまわる。

丸裏に残存する石垣。

結構な散策になりました。
まだこの日は暑く大変でした(笑)

太田市を一望できます。
以上が金山城跡でした。

そしてその麓にあるのが大光院です。
大光院正面の大手門は徳川家康の大坂城落城の日当日に落成したため、吉祥門と名づけられたという。

鐘楼堂。

正式名は、浄土宗義重山大光院新田寺。
通称「子育て呑龍(こそだてどんりゅう)」もしくは「呑龍様(どんりゅうさま)」。
東上州三十三観音特別札所、群馬七福神の弁財天。

慶長16年(1611年)3月、徳川家康は徳川一族の繁栄と天下泰平、さらにご先祖の新田義重の追善供養のため菩提寺を建立する計画を立てた。
家康は、この問題を芝増上寺の観智国師(かんちこくし)に相談し、菩提寺建立の適地として太田金山南麓が選ばれた。
そして、観智国師の門弟で四哲(してつ)の一人といわれる呑龍上人(どんりゅうしょうにん)が招聘され創建された。
境内裏には、新田義重や呑龍上人の墓がある。
義重は九条兼実に従い法然上人に帰依したという。
(Wikipedia抜粋)
源 義重 / 新田 義重
平安時代末期から鎌倉時代初期にかけての武将。新田氏の祖。
武家の棟梁として名を馳せた八幡太郎義家の孫。
新田氏本宗家(上野源氏)の初代であり、上野国新田荘を本拠としたため新田義重と称する。
新田義貞は仍孫にあたる。

弁財天。
以上、新田義貞ゆかりの地を巡ってみた☆
『自評』
新田氏は徳川家の祖先にして清和源氏の一流、河内源氏義国流新田氏本宗家。
その8代目棟梁、家督を継いだ新田義貞。
足利尊氏と同格の名将。
鎌倉幕府、倒幕の功績。
足利尊氏のように生まれ持った官位や裕福さもなく、己の力のみで時代を築いた。
足利尊氏のような人望も得られず、楠木正成のような伝説も語られず、後醍醐天皇に忠誠心を持ちながら正当な評価もなかなか得られず、湊川では楠木正成を見捨てたとも言われ、死後はまるで朝敵のように罪人扱いを受けた悲劇のヒーロー、それが新田義貞。
もともと歴史は好きだが初めて詳しく調べてみた結果非常に興味深く楽しかった☆
なぜ、新田義貞は後醍醐天皇に忠誠を誓ったのか?
足利尊氏のことを本当はどう思っていたのか?
湊川の戦いで楠木正成と本当に盃を交わしたのは事実か?
どんな想いで戦ってきたのか?
是非とも大河ドラマ化して頂きたいものだ。
少なくとも正直で優しくカッコ悪くとも人間らしさのある天才名将であり義理人情の深い最高の主人公として扱って頂きたいものだ(笑)
しかし、エライ長々伝記かよ!ってくらい書いてしまった(笑)
これは、自分の記録と勉強の為のブログであり、万が一読んで頂けた方がいるならば大変大変ありがたい限りである☆

ご当地グルメ太田やきそばを食べて帰りましたとさ(笑)
それではまた☆
長々失礼しました。。。