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Hiro.Yのブログ一覧

2020年10月12日 イイね!

江戸大本山巡り②☆~上野寛永寺編

江戸大本山巡り②☆~上野寛永寺編さて、親友T.OHTANI君の案内で江戸大本山巡り、日蓮宗大本山池上本門寺、浄土宗大本山増上寺に続いて最後に向かうのは上野寛永寺です♪

まず…。


①徳川家菩提寺の話。

徳川家、家康公、秀忠公、家光公が帰依した天台宗の僧天海僧正の願いで江戸に天台宗の寺院が開かれたのが寛永寺の始まりだそうです。

もともと徳川家の菩提寺は増上寺でしたが、家光は自分の葬儀を寛永寺で行いその後東照宮へ葬るように遺言し、4代家綱、5代綱吉の廟は寛永寺に営まれました。

当然当初、増上寺側の反発もありましたが、6代家宣の廟が増上寺に営まれてからは幕末まで将軍の廟は増上寺と寛永寺に交互に造営されてきました。


②徳川家菩提寺としての増上寺の話

徳川家の菩提寺であることは、他に檀家を持たない寺を意味します。

大政奉還以降衰退の一途をたどり、明治時代には伊藤博文などが檀家となり復興の道を模索するも、再び昭和20(1945)年の空襲でほとんどの堂宇と多くの寺宝が焼失してしまったようです。

増上寺復興の為に、土地や焼失から免れたわずかな寺宝や建築物なども各方面へ移譲されたらしい。

現在の東京タワーやホテルなどが建つ場所もすべて増上寺の元境内であったのにこれらの売却によって堂宇の復興が可能になったと言ってもよいほど、増上寺の復興は困難にみまわれたようです。

安国殿(現在の芝・東照宮)の再建も終わったのは、平成23(2011)年のことである(それ以前は大殿の仮堂を利用していた)。

そして大門という地名の由縁である山門までの一般道にかかる「大門」の権利も、東京都から再び増上寺へ戻ったのは平成28(2016)年とのこと。

尚、台徳院霊廟惣門や御成門、二天門などは未だに増上寺の所有へ戻っているわけではないそうです。
(AERA dot.より引用。)

つまり、徳川家の菩提寺であった故に衰退から第二次大戦による空襲での堂宇や寺宝などの焼失、そこからの復興は並大抵なことではなかったに違いない!


そして上野寛永寺も悲劇を迎えるのだが、その話は後半にしよう。


さぁ、雨が降りしきる中着きました。



鐘楼堂。



上野寛永寺根本中堂。


東京都台東区上野、天台宗関東総本山東叡山(とうえいざん)寛永寺円頓院。

開基(創立者)は徳川家光
開山(初代住職)は天海
本尊は薬師如来。





創建は寛永2(1625)年。

ちなみに寛永とゆう年号。
実は調べてみると年号は勅許でしか寺号には容認されず、4ヵ寺しかないらしい。

それは、寛永寺、建長寺、仁和寺、延暦寺の4例。


つまり東叡山寛永寺の「東叡山」は東の比叡山を指すことから天台宗比叡山延暦寺と同等の格付けをされていたことがわかる。


寛永寺の伽藍は延暦寺の様式に準じて造営された。

寛永4年(1627年)には法華堂、常行堂、多宝塔、輪蔵、東照宮などが寛永8年(1631年)には清水観音堂、五重塔などが建立された。寺の中心となる根本中堂が落慶したのは開創から70年以上経った元禄11年(1698年)、5代将軍徳川綱吉の時である。

根本中堂の建設は元禄10年7月1日に柳沢吉保が惣奉行を拝命し開始され、元禄11年8月11日に上棟式が行われ落成した。
(Wikipedia抜粋)

寛永寺は元々、上野公園一帯を占める実に広大な面積を誇る寺でした。

上野公園一帯を散策しました☆


まずは上野東照宮です♪

神門。



神楽殿。













拝殿と唐門。

旧社格は府社。三大東照宮を自称してはいないが、その豪華さや、近隣の芝東照宮が「日光東照宮・久能山東照宮・上野東照宮に並ぶ四大東照宮の一つ」としていることから三大(もしくは四大)東照宮の一つに数えられることが多い。

正式名称は東照宮であるが、他の東照宮との区別のために鎮座地名をつけて上野東照宮と呼ばれ、別名「三処権現」とも呼ばれる。

主祭神は徳川家康、徳川吉宗、徳川慶喜。

寛永4(1627)年創建。

現在の社殿は徳川家光公が慶安4(1651)年改築。
関東大震災や第二次世界大戦での焼失は免れている。
国の重要文化財に指定。




旧寛永寺五重塔(重要文化財)

寛永8年(1631年)建立の初代の塔が寛永16年(1639年)に焼失した後、同年ただちに下総・古河城主 土井利勝によって再建された。

塔は旧境内地を使って作られた恩賜上野動物園の園内に位置しており、1958年に寛永寺が東京都に寄付したため、現在の所有者は東京都になっている(名称に「旧」とつくのはそのため)。

塔の初重に安置されていた釈迦如来・薬師如来・弥勒菩薩・阿弥陀如来の四仏は、東京国立博物館に寄託されている。
(Wikipedia抜粋)



旧寛永寺五重塔は東京都の上野動物園内にあるため上野動物園に入らなければ五重塔は見れない為遠くからの撮影です♪
おそらく上野動物園も都立動物園であるため五重塔を含め拝観料を取ろうと考えてしまうのは私だけだろうか(笑)

上野大仏(うえのだいぶつ)。

現在の東京都台東区上野恩賜公園内にあった大仏。像高約6メートルの釈迦如来坐像だった。

関東大震災に至る度重なる罹災により損壊し、胴体も戦時の金属供出で失われた。

現在では顔面部のみがレリーフとして保存される。所在地は上野精養軒に隣接する大仏山という丘の上。

薬師仏を祀るパゴダ様式の祈願塔と志納所が併設される。
(Wikipedia抜粋)

胴体を失った顔面は「これ以上落ちない」という意味で「合格大仏」とも呼ばれるそうです♪

なかなか愛嬌がある(笑)





清水観音堂。

清水観音堂は、寛永8(1631)年に天台宗東叡山寛永寺の開山、慈眼大師天海大僧正(1536~1643)によって建立されました。

比叡山が京都御所の鬼門(艮=東北)を守るという思想をそのまま東叡山寛永寺に導入することを意味し、江戸城の鬼門の守りを意図したようです。

そして比叡山や京都の有名寺院になぞらえた堂舎を次々と建立しましたが、清水観音堂は京都の清水寺(きよみずでら)を見立てたお堂になります。

清水観音堂は、京都の清水寺の義乗院春海上人から、同寺安置の千手観世音菩薩像が天海大僧正に奉納されたことにちなみ、清水寺と同じ舞台作りで、初めは上野公園内の「擂鉢(すりばち)山」に建てられました。

しかし元禄初期、今の噴水広場の地に、寛永寺総本堂の根本中堂建設が決まると、その工事に伴って元禄7(1694)年9月に現在地に移築されました。

上野の山に現存する、創建年時の明確な最古の建造物です。

平成2年12月から文化財保存修理が行われ、平成8(1996)年10月に竣工、元禄移築時の面影を再現するに至る、国指定重要文化財です。
(Wikipedia抜粋、引用)


新型コロナの影響で上野大仏も清水観音堂も拝観時間が早まり4時までで参拝出来ませんでした(>_<)



清水観音堂。

不忍池。







天然の池であった不忍池を琵琶湖に見立て、また元々あった聖天(しょうてん)が祀られた小さな島を竹生島に見立て、さらに水谷伊勢守(みずのやいせのかみ)勝隆(かつたか)公と相談して島を大きく造成することで竹生島の「宝厳寺(ほうごんじ)」に見立てたお堂を建立したのです。

琵琶湖と竹生島に見立てられたお堂であったため、当初はお堂に参詣するにも船を使用していたのですが、参詣者が増えるにともない江戸時代に橋がかけられました。

昭和20年の空襲で一帯は焼けてしまいましたが、お堂は昭和33(1958)年に復興し、また昭和41(1966)年には芸術院会員であった児玉希望(こだまきぼう)画伯による龍の天井絵が奉納されました。
(ホームページ抜粋)





辯天堂の辯天さまは八本の腕があり、手に煩悩を破壊する道具を意味する武器をお持ちになっている「八臂辯才天(はっぴべんざいてん)」さまです。
(ホームページ抜粋)







大黒堂。

こちらの大黒さまは豊臣秀吉公が大切にしていたという伝説があり、幕末の戦争や太平洋戦争といった難を免れ、今日に伝わっています。
(ホームページ抜粋)



開山堂(両大師)。

1644(正保元年)創建
1654(承応3年)後水尾天皇第3皇子の守澄法親王が寛永寺の第3代貫主となり日光山主を兼任し、
1655(明暦元年)天台座主も兼ねることとなった。

同年、日光山の満願寺は後水尾上皇の院宣により輪王寺と改称。
1989(平成元年)火災により天明元年(1781年)再建の開山堂と寛政4年(1792年)再建の本堂が焼失
1993(平成5年)本堂再建。

守澄法親王は、天台座主、寛永寺貫首、日光山主の「三山管領宮」となり「輪王寺宮」または「輪王寺門跡」と呼ばれた。以後、幕末まで皇族が関東に下向し輪王寺宮となった。戊辰戦争の後、15世輪王寺宮の公現法親王は還俗となり、輪王寺宮は廃絶された。
(ホームページ抜粋)




歴代寛永寺貫首は天海、公海(天海の弟子)、それ以降は幕末の15世公現入道親王(北白川宮能久親王)に至るまで、皇子または天皇の猶子が寛永寺の貫主を務めている。

つまり東叡山寛永寺は絶大なる権力、格式、宗教的権威を保持していたことがうかがえる!


時間的に厳しくなりましたが、上野恩賜公園周辺には他に、輪王殿、旧本坊表門、歴代将軍御霊廟、釈迦堂、徳川慶喜公墓所がある。








花園稲荷神社。

御創祀の年月は不祥ですが、古くからこの地に鎮座し、忍岡稲荷(しのぶがおかいなり)が正しい名称ですが、石窟の上にあった事から俗称、穴稲荷とも云われていました。

承応三年(約340年程前)、天海大僧正の弟子、本覺院の住僧、晃海僧正が、霊夢に感じ(家光の命とも言われている)廃絶していたお社を再建し上野の山の守護神としました。

幕末、彰義隊の戦では最後の激戦地(穴稲荷門の戦)としてしられています。

後、明治六年に岩堀数馬、伊藤伊兵衛等の篤志家によって再興され、花園稲荷と改名、五條天神社が現地に御遷座になるに及び、社殿も南面して造営され神苑も一新されました。
(旧社殿は俗称お穴様の処です)
(ホームページ抜粋)









五條天神社。

日本尊命(やまとたけるのみこと)が東夷征伐の為、上野忍が岡をお通りになられた時、薬祖神(上記の二柱)の大神に御加護を頂いた事を感謝なされて、この地に両神をおまつりなされました(約1890年前)。
(ホームページ抜粋)




旧因州池田屋敷表門。
(重要文化財)



③東叡山寛永寺衰退と復興

芝増上寺と同様上野寛永寺も壮絶な歴史を送ることになる。

江戸時代後期、最盛期の寛永寺は寺域30万5千余坪、寺領11,790石を有し、子院は36か院に及んだ(現存するのは19か院)。



以前江戸五色不動尊巡りの際の目黒不動(瀧泉寺)、目青不動(教学院)、目赤不動(南谷寺)等も寛永寺の子寺、末寺であったのも調べてわかった。



当時の寛永寺は現在の上野公園のほぼ全域が境内であった。

最盛期には、今の上野公園の2倍の面積の寺地を有していたことから、相当な規模だった。

現在の東京国立博物館の敷地は寛永寺本坊跡であり、博物館南側の大噴水広場は、根本中堂のあったところだそう。

江戸時代には飛鳥山と並ぶ桜の名所として知られており庶民の行楽地であった。

慶応2年12月に将軍となった徳川慶喜は、翌3年12月に王政復古の政変で将軍職を失い、明けて慶応4年の1月3日(新暦1月27日)に勃発した鳥羽・伏見の戦いの最中、大坂城を抜け出して江戸城へ入った。

新政府軍から追討令が出されると、慶喜は即座に江戸城を勝海舟に任せ、寛永寺で謹慎を始める。

この慶喜の元へ抗戦派の幕臣たちが集まり、その数2千とも3千とも言われるようになる頃、錦の御旗を掲げた新政府軍が江戸城に進軍、やがて無血開城で徳川幕府は最後の砦を失うのである。

慶喜は、江戸城が明け渡されたその日、寛永寺を後に水戸へ謹慎の場を移す。

しかし、寛永寺に集まった幕臣たちはそのまま彰義隊を結成し、徹底抗戦へと傾倒していった。

慶喜がいなくなって1カ月後、ついに上野で戦争が始まった。

とはいえ、幕臣たちと新政府軍の装備には差が大きく、戦闘はわずか半日。

この時戦死した幕臣たちは、そのまま見せしめのように野ざらしにされていたらしい。

現在の東京国立博物館あたりが本坊で、噴水前広場あたりが根本中堂。

ここからまっすぐ不忍池までが戦火にかかった。

残ったのは、池に浮かぶ弁天堂と少し離れた観音堂、五重塔、そして鉄砲跡の残る黒門と本坊表門などわずかなものだった。

明治時代になると30万坪以上あった敷地の多くを没収され、廃寺の危機に見舞われた。

明治12年(1879年)子院の1つの大慈院があった場所に川越の喜多院(天海が住していた寺)の本地堂を移築して本堂(中堂)とし復興の途についたが、江戸時代の面影はもはやどこにもなくなってしまったという。

徳川家の菩提(ぼだい)寺という同様の境遇である増上寺が、ここまでの被害を受けなかったのは、徳川慶喜が関係してこなかったということもあるだろうが、寛永寺が政治に巻き込まれた最大の理由は、輪王寺宮という創建以来貫主を務めてきた血筋にもあったようだ。

これは天皇家の血筋で、幕府が有事の際に東国で「天皇」を擁立するための策だったのではないかとも言われている。実際、上野戦争の時には彰義隊に輪王寺宮は担ぎ出されている。

今も根本中堂の裏側には「慶喜公蟄居の間」という部屋が残されているらしい。

江戸時代の境内地だった場所は上野公園や上野駅の用地となり大きく変貌をとげた。

しかし、第二次世界大戦の空襲では、当時残っていた徳川家霊廟の建物の大部分が焼失した。

上野戦争で焼け残り、第二次世界大戦の戦災もまぬがれたいくつかの古建築は、上野公園内の各所に点在している。


明治政府は、神道を推し進め、恭順の意を示した徳川慶喜のお墓は──たった1年だけの将軍とはいえ──15人の将軍の中で唯一神道系の姿で、谷中の墓地で常に一般に公開されている。
(Wikipedia、AERA dot.より抜粋、引用)



徳川慶喜公は264年ほど続いた江戸幕府を終わらせた。勝海舟は江戸の町を戦火にさせず無血開城をした。

慶喜公は大政奉還をする。新政府から、要職から、まるで逃げたかのような振る舞いに見えるが、私には慶喜公が最高の将軍だったと思えてならない。

慶喜公による徳川幕府終焉は新政府軍に倒幕させる口実を失くす徳川家臣達の為、江戸の町を戦火に巻き込み苦しむ江戸町人の為だったのではないか?

…なーんて勝手に私は思う(笑)

そして徳川家によって繁栄し徳川家によって苦難の道を歩んだ増上寺と寛永寺。

東京の歴史と共に深く学べた寺社巡りとなりとても良かった(笑)


上野寛永寺御朱印。

上野東照宮御朱印。





さて…。
あれ…?
こんな評論みたいなブログではいけない(笑)

これは親友T.OHTANI君との楽しい寺社巡りの旅だった(*^^*)

雨の中結構歩いてスニーカーはべちゃべちゃになってしまった(゜_゜)

この後、夜ご飯食べに行きました。
また親友に都内の運転、首都高代、駐車代を払わせてしまった(T_T)

すみません。
いつもありがとう(T_T)


ファミレスのすき焼(笑)

なかなか美味しかった☆

今回の江戸大本山巡りも楽しかった。
建築物こそ新しいが江戸と寺院の歴史を改めて学べたことは歴史好きとしては大変良かったです♪

親友のT.OHTANI君今回もありがとう☆









Posted at 2020/10/13 22:45:37 | コメント(0) | トラックバック(0)
2020年10月08日 イイね!

江戸大本山巡り①☆~池上本門寺、増上寺編

江戸大本山巡り①☆~池上本門寺、増上寺編東京寺院巡り第2弾をまた親友のT.OHTANI君に案内してもらいました(*^^*)

今回は大本山巡りです♪

また親友T.OHTANI君の地元までマイカーで行き駐車場に車を停めて親友の車で私は助手席の旅☆


いつもありがとうございます!

まずは大本山日蓮宗池上本門寺です!

ちなみに日蓮宗祖山(総本山)は身延山久遠寺です♪

八王子に住んでいた頃は山梨県や静岡県も行けましたが最近はしばらく行っておりません(T_T)

どうやら最後は8年前のようです(-_-)

そして大本山のうち、誕生寺(千葉)、清澄寺(千葉)、中山法華経寺(千葉)は以前参拝しました!





残りの大本山、北山本門寺(静岡)、池上本門寺(東京)、妙顕寺(京都)、本圀寺(京都)のうち今回は東京の池上本門寺に向かいました☆


今日は台風も近づいているあいにくの雨(T_T)
1人ではないので躊躇しましたが親友が快く案内してくれました☆



雨は最悪だ!
って思うでしょ。

仏教には、「甘露の法雨」という言葉があります。

これは、仏様の教えが多くの人々の苦悩を取り除き救う様子を乾いた大地を潤す雨に例えた言葉です。

お釈迦様が誕生した際、天からお祝いの甘露の雨が降ったと言われています。

ですから、お釈迦様の誕生を祝う『花まつり』では今でも「甘茶」をそそぐ習慣があるそうです。

もちろん台風や水害がもたらす自然災害は脅威で日本では毎年たくさんの方に被害をもたらせていることも事実なので一概にいえませんが!

ただ、雨を憂鬱な気分にさせるものではなく、少し良い意味に捉えることも大事では?と。
簡単に言えば物は言い様ではないかと(笑)

まっ、そんな悟りの世界のプラス思考、全てに出来ませんが(笑)


さて、雨の中着きました☆
東京都大田区池上にある日蓮宗大本山池上本門寺です!







此経難持坂(大田区指定有形文化財)。

総門を抜けたら石段があります!
こちらの石段、加藤清正の寄進によって造営されたものです。



仁王門。

大堂正面に建つ二重門。旧国宝の山門は、1945年(昭和20年)空襲で焼失。仁王門として1977年(昭和52年)に再建された。門内には彫刻家圓鍔勝三が、アントニオ猪木をモデルに制作した仁王像が安置されたが、近年修理を機に本殿内に移設。新たに仏師原田佳美作の仁王像が2001年(平成13年)10月に開眼供養が行われ奉られている。
(Wikipedia抜粋)





大堂(祖師堂)。

本尊は三宝尊。





日蓮宗大本山長栄山大国院本門寺♪

こちら、日蓮入滅の霊場として日蓮宗の十四霊蹟寺院のひとつとされ、七大本山のひとつにも挙げられています。

弘安5年(1282年)9月8日、病身の日蓮は身延山を出て、湯治のために常陸(茨城県)へ向かう。

9月18日に武蔵国池上郷(東京都大田区池上)の池上宗仲の館に到着。
生涯最後の20数日間を過ごすこととなる。
同年同月に、池上氏館の背後の山上に建立された一宇を日蓮が開堂供養し、長栄山本門寺と命名したのが池上本門寺の起源という。

同年10月13日に日蓮が没すると、池上宗仲は法華経の字数(69,384)に合わせて六万九千三八四坪を寺領として寄進し寺院の基礎が築かれ、以来「池上本門寺」と呼びならわされている。

その後は日蓮の弟子・日朗が本門寺を継承した。

池上氏館の居館部分は本門寺西側の谷の一帯にあったと考えられており、現在は、1276年(建治2年)建立された池上氏館内の持仏堂(法華堂)を起源とする本門寺の子院・大坊本行寺の境内となっている。

こちら本行寺。





本堂。

日蓮宗本山 池上 大坊 本行寺は、日蓮宗の宗祖である日蓮聖人がご入滅(にゅうめつ)、すなわちご臨終された地(ご霊場)。

「ご臨終の間」は、日蓮聖人がお亡くなりになられた池上宗仲公邸の仏間であったお部屋の跡に建てられたお堂です。

ご臨終の間。



本堂の彫刻☆





本堂内裏手のお庭がキレイです♪



御硯井戸。

こちら本行寺御朱印。


さて、池上本門寺に戻ります!

本門寺は、鎌倉・室町時代を通じて関東武士の庇護を受け、近世に入ってからも加藤清正や紀伊徳川家等諸侯の祈願寺となり栄えた。

江戸時代、不受不施派を奉ずる本門寺は、身池対論を経て久遠寺の傘下に収まった。第二次世界大戦の空襲によって五重塔、総門、経蔵、宝塔を除く堂宇を焼失したが、戦後順次復興した。
(Wikipedia抜粋)





日朝堂。

ここに祀られる日朝は身延山11世で、61歳の時に失明したが後に視力を回復したことから、眼病平癒、学業成就の利益があるとされている。
(Wikipedia抜粋)



五重塔(国の重要文化財)。

鐘楼堂。




長栄堂。


経蔵(大田区指定有形文化財)。

そして少し離れたところに、本殿、霊宝殿、宝塔があります。





宝塔(国の重要文化財)

日蓮聖人「入滅の地」池上本門寺。
荘厳な雰囲気のある寺院でした。

御朱印です♪

ちなみに大本山のほとんどはご首題帳がなければお題目は頂けないのが現状です!
大本山誕生寺や一部本山では普通の御朱印帳にお題目を頂けることもあります☆






さて、続いては東京都港区芝公園にある増上寺です♪

旧総門。
なお、この付近の町名(芝大門)や地下鉄の駅名(大門駅)に使われている「大門」(だいもん)とは、増上寺の旧総門のことを指す。
現在の大門は昭和12年に東京市が市民の寄付を募って改築したコンクリート造のものである。
(Wikipedia抜粋)





三解脱門(重要文化財)。

戦災を免れた建物の1つで、元和8年(1622年)建立の二重門(重層で、各層に屋根が付く門)。この門をくぐると、三毒(3つの煩悩、即ち貪、瞋、癡)から解脱できるとされる。内部には釈迦三尊像と十六羅漢像が安置されている。
(Wikipedia抜粋)

これはテレビで観たことがあるが素晴らしいものです!


東京のシンボル、東京タワーのすぐ側の大本山。
なんとも都会ならではの素敵な光景です♪




水盤舎。

今、手水舎は新型コロナの影響でほとんどの中止です(T_T)

塗香持ち歩かないといけないなぁ♪







大梵鐘。





大殿本堂。

ちなみに大門から大殿本堂に至る道程は、穢土(えど・我々の世界)から極楽浄土に至る世界を表しています。
三門をくぐり、煩悩を解脱して、大殿へと向かうと、ご本尊である阿弥陀仏が鎮座し、西方極楽浄土の如き、西に位置している点が特徴だそうです。




東京都港区芝公園四丁目にある浄土宗三縁山広度院増上寺(さんえんざん こうどいん ぞうじょうじ)。








光摂殿。

9世紀、空海の弟子・宗叡が武蔵国貝塚(今の千代田区麹町・紀尾井町あたり)に建立した光明寺が増上寺の前身だという。

その後、室町時代の明徳4年(1393年)、浄土宗第八祖酉誉聖聡(ゆうよしょうそう)の時、真言宗から浄土宗に改宗し、寺号も増上寺と改めた。この聖聡が、実質上の開基といえる。

開基聖聡の弟子には、松平氏宗家第三代松平信光開基の信光明寺開山釋誉存冏(そんげい)や、松平氏宗家第四代松平親忠開基の大恩寺開山了暁(りょうぎょう)慶善がいた。

また松平親忠の第四子で、浄土宗総本山知恩院25世の超誉存牛や、徳川将軍家菩提寺大樹寺開山の勢誉愚底(せいよぐてい)はいずれも聖聡の孫弟子であり、中世から松平氏や徳川氏とのつながりが深かった。

中世以降、徳川家の菩提寺となるまでの歴史は必ずしも明らかでないが、通説では天正18年(1590年)、徳川家康が江戸入府の折、たまたま増上寺の前を通りかかり、源誉存応上人と対面したのが菩提寺となるきっかけだったという。

貝塚から、一時日比谷へ移った増上寺は、江戸城の拡張に伴い、慶長3年(1598年)、家康によって現在地の芝へ移された。

風水学的には、寛永寺を江戸の鬼門である上野に配し、裏鬼門の芝の抑えに増上寺を移したものと考えられる。

また、徳川家の菩提寺であるとともに、檀林(学問所及び養成所)がおかれ、関東十八檀林の筆頭となった。

なお、延宝8年(1680年)6月26日に行われた将軍徳川家綱の法要の際、奉行の一人で志摩国鳥羽藩主内藤忠勝が、同じ奉行の一人で丹後国宮津藩主永井尚長に斬りつけるという刃傷事件を起こしている(芝増上寺の刃傷事件)。

なおテレビドラマ『水戸黄門・第17部』においては、この一件が水戸光圀の旅立ちのきっかけとして描かれている(光圀の諸国漫遊はフィクション)。

また元禄14年(1701年)3月に江戸下向した勅使が増上寺を参詣するのをめぐって畳替えをしなければならないところ、高家の吉良義央が勅使饗応役の浅野長矩に畳替えの必要性を教えず、これが3月14日の殿中刃傷の引き金になったという挿話が文学作品『忠臣蔵』で有名である。

畳替えの件が史実であるかは不明。なお、長矩は内藤忠勝の甥である。
(Wikipedia抜粋)

後、増上寺は徳川幕府の崩壊とともに縮小。


経蔵。

慈雲閣。









徳川家霊廟。

安国殿安置の「黒本尊阿弥陀如来」は、かの徳川家康公の念持仏です。

家康公出陣の際は、戦勝を祈願し共に戦場に赴いたと伝えられています。幾多の危難を逃れ家康公が勝利を得ることができたのも、黒本尊の功徳の賜物でした。

以後、黒本尊阿弥陀如来は「勝運黒本尊」として、徳川家のみならず、現在に至るまで人々の信仰を集めているそうです。
(ホームページ抜粋)


浄土宗7大本山の1つ、増上寺。浄土宗正統根本念仏道場として創建され徳川家の菩提寺として栄えました。

その偉大さは別格です!
しかし、徳川幕府崩壊以降の増上寺は数々の困難を迎えたそうです!

それはこの次のブログで(笑)

滝と東京タワー。
やはり東京タワーは良い!

とゆうわけで今回は東京大本山巡り。
日蓮宗大本山池上本門寺と浄土宗大本山増上寺に親友のT.OHTANI君の案内で来ました!

また、駐車代等お世話になりっぱなしの旅でした♪

次回は上野寛永寺編です!
それでは。









Posted at 2020/10/12 23:01:03 | コメント(0) | トラックバック(0)

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スズキ ワゴンR ワゴンRちゃん (スズキ ワゴンR)
H10年式スズキ ワゴンR RRのMT車に乗っています。 もともと車屋さんの代車を安 ...
日産 シルビア 日産 シルビア
これが乗りたくて免許取りました♪ 事故して壊れてまた、買い変えました☆ 最初のはフルノ ...
三菱 ミラージュ ミラージュちゃん (三菱 ミラージュ)
あーもう一度乗りたい🎵 この車今でもほしい車😃 僕の中ではよく回る、よく曲がる見た ...
その他 工具箱 工具ちゃん (その他 工具箱)
実はDIY 始めて1年半にして、これから一生懸命工具を揃えていこうと思っています♪ もち ...
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