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2021年10月21日 イイね!

栃木県那須烏山、益子町寺社巡り②~円通寺編

栃木県那須烏山、益子町寺社巡り②~円通寺編栃木県那須烏山、益子町寺社巡り①の続きです♪

大平寺、地蔵院、綱神社・大倉神社を後にして向かったのは同じく益子町。


栃木県芳賀郡益子町、浄土宗大沢山虎渓院圓通寺です☆
本尊は阿弥陀如来様。

圓通寺は600年以上もの歴史をもつ、由緒正しいお寺で、歴史的文化財も多く現存している浄土宗名越派の総本山です!



表門 (国指定重要文化財)

室町時代の1402(応永9)年に建築に伝わり、1511(永正7)年に墨書が残る。

表門は、応永9年(1402)建立の唐様式四脚門形式、切妻造り茅葺き型銅板葺きの建造物である。
中央の棟通し柱は径30㎝で、前後の柱はやや細く上下に棕をつけ、柱下には基盤を置いている。
柱上は唐様三斗組で、大斗の下端に皿斗をつけ、肘木は笹繰付である。軒廻りは二重繁垂木で丸桁には手挾が組み込まれており破風板に繰形をつけ、懸魚は鰭付きの無形である。

構造意匠は大胆、奇抜、独創的であり全体的には彫刻は流麗で特に海老虹梁はみごとで、室町時代の特色をよく表しているようだ。
(ホームページより引用)

まずは全体図を。




表門を抜けると

本堂が見えてきます。



円通寺(えんつうじ)は、1402年(応永9年)良栄の開山により創建されたと伝えられ、当初は学問寺だった。1541年(天文10年)に大伽藍の一部が焼失。1574年(天正2年)には勅願所となっている。江戸時代には江戸幕府から朱印状が与えられていたという大変素晴らしいお寺なのです!
(Wikipediaより引用)

非常に珍しく本堂内写真撮影が許されていた為仏様に合掌の上撮らせて頂きました☆

まず向かって正面右側に、

銅造阿弥陀如来立像・両脇侍が安置。

この仏像は、善光寺式阿弥陀三尊で鎌倉時代末期の銅製の鋳造物として特色がある。

阿弥陀如来立像は43㎝、観世音菩薩立像29.1㎝、勢至菩薩立像29.1㎝であり、円通寺の開祖良栄上人がこの三尊像を笈に入れて各地をまわり、円通寺創建時に持参したといわれ、代々の住持の護持仏とされている。背面地付部近くに「大沢山」の陰刻がある。

そして向かって正面左側には、

木造阿弥陀如来坐像が安置。

この仏像は、鎌倉時代に作られた像高50㎝、膝開25㎝、台座15㎝の寄木造、彫眼、金箔の仏像である。
二重円相の光背をバックに上品上生の印を結んで台座上に結跏趺坐している。
(ホームページより引用)

両方とも県指定重要文化財である。



『阿弥陀三尊』


阿弥陀三尊は、仏教における仏像安置形式の一つで、阿弥陀如来を中尊とし、その左右に左脇侍の観音菩薩と、右脇侍の勢至菩薩を配する三尊形式である。

観音菩薩は阿弥陀如来の「慈悲」をあらわす化身とされ、勢至菩薩は「智慧」をあらわす化身とされている。


もちろん全てではないが阿弥陀如来を本尊とするのは浄土教の教えを引き継ぐ浄土宗、浄土真宗が比較的多い。

ただし、浄土真宗が浄土宗と異なる点は阿弥陀三尊ではなく、阿弥陀如来一仏の立像であることだ。

阿弥陀一仏であるのは、浄土真宗においては、救いはすべて阿弥陀如来のみによるとされているからである。




本堂内。


円通寺の県指定重要文化財は他に
一切経塔、木造良栄上人像、正親町天皇綸旨、聖鬮賛、浄土総系図、月形函文書、浄土鎮西義名越派代々印璽脈譜、入定塚古墳である。

いずれも大変貴重な重要文化財だ。




願かけ夢観音。

観音堂。

一切経塔の前に鎮座する涅槃仏。

涅槃仏(ねはんぶつ)とは、お釈迦様が入滅する様子を仏像としてあらわしたものである。
寝仏、寝釈迦像、涅槃像とも呼ばれ、主にタイの仏教寺院などで見ることが出来、足の裏には宇宙観を示す文様などが描かれている。
なお、釈迦入滅の様子を描いた絵画を涅槃図(ねはんず、仏涅槃図)と呼んでいる。



一切経塔。
(県指定重要文化財)

天文10年(1541)に円通寺は火災で伽藍の大部分が焼失した。
その再興に尽力したのが良迦上人で学寮や一切経塔を建設したのである。
一切経塔は、重層方形造り柿葺き型銅板葺きの建造物。中世より江戸時代まで文化の中心を成した大沢文庫の面影を伝える建物である。
上下層とも三間四面で下層正面および両側に桟唐戸を設け左右に花頭窓を開けている。
上層は正面一間に板唐戸を設け、左右に丸窓を配しているので、正面の柱間装置が変化に富んでいる。
上層は二重扇垂木で露盤上に宝珠を設けている。
(ホームページより引用)



鐘楼堂。

この鐘楼堂は東日本最大の鐘楼である。





本堂裏側にまわると庭園を見ることができる。





境内の四季折々の草花が美しいです。





滝。


ちなみに伝説でいうと、まんが日本昔ばなし「鬼のつめ」は圓通寺が舞台となったお話だそうです。

夫婦観音。

ここで庭園を写真で紹介。













圓通寺。

かつて諸国に五百八ヵ寺と称する末寺をもち、江戸時代には十万石の格式をもって幕府に遇された寺院。

八万坪の広大な浄域には、壮麗な七堂伽藍と三十八宇の学寮が豊をならべて林立し、大沢文庫としてその名が全国に知られ、学を志す若い人たちが続々と螺集し、「名越檀林」として盛観を讃えられた名刹である。
歴史の流れとともに、衰亡荒廃の一途をたどり、一時は「廃寺」の押されようとしましたが、歴代の師たちによる営々努力の末、昭和23年12月25日には、「名越大本山」号の認証を京都総本山知恩院門跡岸信広猊下から受けることができた。
以後、20年以上もの年月を経て、檀信徒のご協力のもとに、全山の環境整備から大殿の修覆、内陣諸荘厳の整備、大書院、庫裡、旧国宝の表門、通用門、県文化財の一切経堂の改修、観音堂の移転加築、寺務所の新築、大庭園の造成、参道、石段ならびに塀の修築、町水道の誘致、防火貯水大池、参詣者休憩所、納骨堂、開山上人廟ならびに歴代上人墓地、学頭墓地などの新築、改築により、現在の形に至りました。
先々代の住職「大島彦信」が、今までの圓通寺の歴史を研究し、まとめあげたものが本書「名越大本山 圓通寺開山 良栄上人傳」になります。
(ホームページより抜粋)





自然豊かな境内はライトアップもされ、素晴らしい景観を醸し出しています。

更に数々の重要文化財にて名刹の名にふさわしい寺院でしたよ。


帰りは道の駅ばとうにて食事しました。
自然薯と手打ち蕎麦、天ぷらセットです。

美味しく頂きました♪



次回ももう少し周辺を探してみようと思います。

北関東の魅力は尽きない(笑)
出来れば観光大使にでも任命してもらえないだろうか(笑)?
歴史ある日本の風土をより感じられるよう努力するのだが(笑)


それではまた☆
Posted at 2021/10/29 11:54:20 | コメント(2) | トラックバック(0)
2021年10月21日 イイね!

栃木県那須烏山、益子町寺社巡り①~大平寺、龍門の滝、大倉神社、綱神社、地蔵院編♪

栃木県那須烏山、益子町寺社巡り①~大平寺、龍門の滝、大倉神社、綱神社、地蔵院編♪今日は休み☆
どこか行こうとネット検索し栃木県の益子の方へ車を走らせる☆

そしてまずは栃木県那須烏山市、天台宗瀧尾山大平寺と龍門の滝に来てみました☆







山門。
市指定文化財。







本堂。

大平寺は延暦23年(803年)に征夷大将軍、坂上田村麻呂が大願成就を祈願勧請のために創立した。

山門裏。


下野の国十一番札所。




市文化財指定の本尊千手観音像、県文化財指定の天蓋など多数の文化財が納められている。



川口松太郎の小説「蛇姫様」のモデルとなった「於志賀姫」の墓で知られる寺院である。



道路を挟み反対側には龍門の滝がある。






龍門の滝。

那珂川に注ぐ江川にかかる幅65m高さ20mの大滝で、大蛇が住むという伝説があり、名称の由来にもなっているそうだ。

滝までは遊歩道で整備されているので大変訪れやすかったです☆
ちょっと癒されます(笑)



さて、次に向かうとしよう。
益子町に入る。
益子町は陶芸が有名であり、私は坂東霊場の西明寺をよく訪れるのだが、今回は益子町をいろいろ調べてみた結果良いところがたくさんあることがわかった☆




栃木県芳賀郡益子町、真言宗智山派、大羽山地蔵院♪



糸桧葉(天然記念物)






本堂。
本尊は延命地蔵菩薩。

本堂(国指定重要文化財)
絹本著色 両界曼荼羅図 二幅(県文化財)



観音堂(町文化財)



1194年(建久5年)宇都宮城主宇都宮朝綱が建立した阿弥陀堂に始まると伝えられる。尾羽寺と称し、宇都宮氏の菩提寺だったが、地蔵院と称し、現在の真言宗の寺院となった時期は不明である。
(Wikipedia抜粋)

不動明王像。

地蔵院。
本堂はなんと室町時代の国指定重要文化財です!
大変貴重で素晴らしい♪


そしてこの地蔵院に隣接している神社がある。
ここがまた素晴らしい!





栃木県芳賀郡益子町、地蔵院に隣接した、
綱神社・大倉神社です。

綱神社は鎌倉時代初期の1195年頃の創建で、境内社の大倉神社はそれよりも400年ほどさかのぼる807年の創建と伝えられています。



長い参道を抜け鳥居をくぐると、石段が見えます。
ちょうど100段のようです。

見えてくるのが綱神社です。


綱神社本殿☆
(国指定重要文化財)

祭神:味耜高彦根命・大国主命

境内社:大倉神社・八坂神社・日枝神社・千勝神社・菅原神社

建久六-七年1195-96頃の創建。

建久五年(1194)土佐国に配流されていた宇都宮家三代朝網が土佐の加茂明神に帰還を祈った甲斐あって罪を赦されたことから帰国後、宇都宮家墓所の南山腹に加茂明神を勧請し,土佐明神を建立する。
ここから帰国の翌年あたり、つまり1195~1196年創建説が有力と思われる。

また別の伝説によれば,帰国前に加茂明神の勧請が国元に命じられており、村民は大晦日に間に合わせるため門松の準備も取りやめ,机を逆さにして祭神を祀ったとされており,建久五年1194創立の説が生まれてくる。
このため現在でもこの地では門松を飾らない。
この場合も社殿の建立は翌年か、翌々年の建久六-七年創建となる古い神社である。

土佐明神,通称は朝網の綱から綱明神と呼ばれていて、明治維新前まで使われた「綱大明神」鳥居額が残っている。
石段を登り切った左手に明治十三年1880石段造営の石碑が建てられている。
昭和25年1950大倉神社とともに国重要文化財指定。

昭和29-32年1954-57に大倉神社とともに解体修理がなされている。
風格のある美しい神社である。







椎(町指定天然記念物)




そしてこちらが摂社の大倉神社本殿☆
(国指定重要文化財)

祭神:大国主命

綱神社創立よりも400年ほど遡る大同二年807に現在地の西方向にあたる愛宕山の大倉林に創建され,往古に大倉権現と称した。
大永七年1527に改築され現在に伝わる。県内ではとても古い本殿である。

もとは現在地を西に降りたと旧大羽小学校校庭に鎮座していたが、境内地に小学校を建てるにあたって綱神社境内に遷座した。

境内地に移転が決まったのが明治四十二年1909であり,その後工事が始まる。
そこでまず御神体を綱神社に合祀。すぐには建造物を移すことかなわず昭和25年1950になって愛宕山に移してあった社殿を綱神社境内に移転した。
同時に旧大倉神社拝殿も移築して現在の社務所とした。『栃木県神社誌』(昭和39年発行)

こちらも質素な佇まいに時代を感じさせる美しい神社。
栃木県では大倉神社は珍しい社号で他には鹿沼市判官塚古墳に1社のみしかないようだ。


社務所。

社務所内。




地蔵院本堂及び綱神社本殿、大倉神社本殿ともに室町時代の貴重な国指定重要文化財である。

この地を訪れるだけでも独特な空気感に風格と尊厳を兼ね備えたその空間が、それはまさにその時代にタイムスリップしたかのような印象を焼き付ける。

久しぶりに感動を与えてくれるような場所でした☆



②につづく。
Posted at 2021/10/28 16:36:24 | コメント(1) | トラックバック(0)
2021年10月19日 イイね!

栃木県大田原市、那須塩原市、群馬県邑楽郡寺社巡り②~那須神社、金乗院、宝林寺編♪

栃木県大田原市、那須塩原市、群馬県邑楽郡寺社巡り②~那須神社、金乗院、宝林寺編♪前回のブログの続きです♪

禅宗2寺を後にしやって来たのは、那須神社です。



この辺一帯は金丸原と呼ぶらしいです。

本殿までは非常に広くキレイな境内です。











創建は平安時代末期の栃木県大田原市、那須神社です!

楼門。
国指定重要文化財。







本殿。
国指定重要文化財。

こちらは別名、金丸八幡宮と称し、仁徳天皇の時代に建立されたと伝えられる。

その後、黒羽城主大関氏の代々の氏神となり、明治6年(1873年)に現在の那須神社に改称した。

本殿は1641年建立。

楼門は1642年建立。

祭神は応神天皇。
おくのほそみち道風景地名勝に指定。

歴史のある趣ある神社です♪
国指定重文の楼門、本殿は素晴らしかったです!

御朱印です☆



ちょっと休憩がてらご飯です(笑)
蕎麦処、秀の家さんです!

中は非常に上品でした!

ここにも達磨絵が(笑)

ランチの蕎麦セットです。
手打そば、小鉢、漬物、野菜天ぷら、サラダ、自家製そばゼリー、食後にコーヒーがついて1200円。

安っ☆
小鉢もきんぴらごぼうとこんにゃくの酢味噌和えも美味しかった!

お蕎麦は香りものど越しも最高でした☆


さて、食事も終わりまだ時間あるので、那須塩原市まで行きました!

こちらは以前北関東36不動尊霊場巡りで訪れているお寺です☆



本堂。
栃木県那須塩原市、高野山真言宗那須波切不動尊金乗院です。



わらべ地蔵さま。

弘法大師様。

佛守護童子。

大日堂。

明運星。

こちらは火まつりと滝行の出来るお寺で有名です!



金乗院は、806年(大同元年)に創建されたと伝わる。

空海(弘法大師)が巡錫で当地を訪れた際に霊夢で地蔵尊が出現したことにより霊地と定め、この地に開山したことが始まりと伝えられる。

関東三霊場(北関東三十六不動尊霊場、関東薬師九十一霊場、関東地蔵百八札所)に指定され、巡礼に訪れる者が多い。

毎年6月28日、波切不動尊大祭である“火まつり”が行われることで有名であり、修行僧・修験者による柴燈護摩法要が執り行われた後に、参拝者が無病息災を祈って護摩ヒバを燃やした跡を素足で歩く火渡りの儀式などが執り行われる。
(Wikipedia抜粋)

こちらは下野新聞の画像です。
迫力あるでしょうね。

本尊は不動明王様です。



不動の滝。



慈母観音様。

御朱印です。
お姿も頂きました。
ちなみにお菓子も頂けます。
確か前にも頂きました☆

合掌(笑)

少し先に行くと奥の院があります。







金乗院奥の院地蔵堂。
(那須塩原市指定文化財)



大正7年から10年かけて建立されたらしく比較的新しいですが荘厳な雰囲気で良いです☆


以上、栃木県大田原市、那須塩原市の寺社巡りでした♪

ちなみに今回は禅宗寺院をメインにしたのでついでに今日行ったお寺を最後に載せます!




群馬県邑楽郡千代田町にある眞福山宝林寺です!

山門からみてわかる雰囲気。

そう、禅宗の1つ。
黄檗宗の寺院です。

鐘楼堂。

この梵鐘は千代田町の重要文化財に指定されています。

徳川綱吉がまだ館林城主の頃、家老黒田信濃守が1670年に寄進したもの。

本堂。
徳川の家紋が見えます!

寳林寺開山の大拙祖能禅師(勅謚 廣圓明鑑禅師)は14歳で仏門に入り、比叡山・東福寺・天竜寺等に学び、中国へ渡り中峰明本禅師の門をたたいたがすでに寂されており、禅師の弟子千巌元長禅師に就いて修行し、中峰明本禅師の法衣を賜り帰国。

足利義満の帰依を受けられました。

徳治元年(1306)の草創で、後に遠州大守を開基として、寳林寺を開創。

日本大拙派を築くに至りました。

寛文7年(1667)潮音禅師は中峰明本禅師の禅風を慕って進山し、中興となり館林宰相綱吉公の帰依を受け、直伝覚心居士(須田七郎兵政本、小山市寒川町)・大機宗信居士(吉田六左衛門、熊谷市四方寺)を中興開基として黄檗宗の宗風を振って道俗教化に務め、北関東最初の道場としました。

元禄3年(1690)堂宇は悉く竣工(再建)を遂げたが、慶応2年(1866)に至るまでに再三の火難に遭いましたが、京都七条佛所26代佛師康祐法眼・富小路友学流初祖康倫の造佛や什物等は消失せずに今日に伝えられている。現在の大雄寳殿(本堂)・山門は平成18年(2006)に重興され、本尊釈迦牟尼佛・迦葉尊者・阿難尊者も修復されました。
(Wikipedia抜粋)

口コミをみると普段は住職さんが本堂をご案内してくれるらしいのだが今日は本堂内が何だか慌ただしい様子。

スーツを着た1人のおじさまがおもむろに話かけて来ました。


おじさま
「参拝ですか?こちらは黄檗宗とゆう宗派なんですよ。ご存知ですか?」


「ええ。昔から寺社巡りが好きでちょうど今、禅宗の歴史を詳しく調べていまして、高崎の少林山達磨寺には良く行くのですがネットでこちらを拝見しまして訪れてみました」

と言ったら詳しく教えてくれました。
どうやらスーツのおじさまは多分ですけど文化庁の職員のようでした。
多分ですけど(笑)。

どうやら堂内にある本尊の釈迦如来坐像を含めかなりの仏像が歴史的にかなり価値のあるものであり千代田町の職員や館林市の職員(おそらく宝林寺の本尊、什宝等が廃寺となった館林の廣済寺から移転されたからだろうか。)そして多分、文化庁の方々が調査をしているようです。

もしかしたら重要文化財に指定されるのではないかな~と勝手に思いました。
もちろん憶測ですよ(笑)

タイミング悪い時に来たのだがこんなリアルな現場を目撃出来たのも奇跡のようで(笑)
警察の鑑識のように写真撮ってましたよ(笑)


20分近くおじさまとお話しましたが、禅宗3宗そして黄檗宗についても勉強しといて良かったなぁ~と思いました(笑)

おじさま
「ここも、もともとは臨済宗黄檗派だったんだよ。」


「確か明治9年には黄檗宗として独立してますけど今でも財団法人を臨済宗と一緒に運営してますよね?」

とかなんとか昨日、一昨日調べたものをあたかも知ったかぶりで返したりして(笑)

ただ、住職さんではない方に結構いろんな話を聞けて楽しかったです!

今度、また落ち着いた頃に訪れて見ようと思います☆


今回は主に禅宗について調べてみましたが私はどちらかと言えば仏教とその土地、寺院の歴史や時代背景を調べるのが好きなんでまた、興味のある場所を探していろんなところを訪れて見ようと思います☆

それでは、また♪
Posted at 2021/10/20 23:12:17 | コメント(0) | トラックバック(0)
2021年10月10日 イイね!

栃木県大田原市、那須塩原市寺社巡り①♪~雲巌寺、大雄寺編

栃木県大田原市、那須塩原市寺社巡り①♪~雲巌寺、大雄寺編10/10の日曜日、今日は1日空いたんで再度訪れたいところに出かけました☆

最初の2ヶ所は以前ブログにあげているので写真だけ(笑)




臨済宗妙心寺派の名刹、東山雲巌寺です。

JR東日本の大人の休日倶楽部「黒羽の芭蕉編」にて取り上げられたお寺になります。



立派な山門です。



芭蕉の句碑。

俳聖松尾芭蕉は、この地で「木啄も 庵は破らず 夏木立」の句を残しています。

鐘楼堂。

平和観音。

本尊は釈迦牟尼仏(銅造釈迦如来坐像)。
開山は高峰顕日(仏国国師)、開基(創立者)は叟元和尚(寺伝)北条時宗。

創建年は1126~1131年。

仏殿(釈迦堂)。

開山当時は、筑前の聖福寺、越前の永平寺、紀州の興国寺と並んで、禅宗の日本四大道場と呼ばれていた。

山門の正面にある朱塗りの反り橋を渡って石段を登ると、正面に釈迦堂、獅子王殿が一直線に並ぶ代表的な伽藍配置となっている。



ちなみに私のLINEの背景画像はこちらになります(笑)



方丈(獅子王殿)。

雲巌寺は、禅の修行のための道場ですので一般の方は堂内に入れませんが、参拝は自由に許されています。

非常に厳格な寺院になります。
観光寺院ではなく修行道場なのですね。





いつ来てもとてもキレイな寺院です。
境内少し外れたところに熊野神社が鎮座しています。

裏門。





そして三仏搭。





仏光国師、仏国国師、仏応禅師の三祖の搭。

御朱印は書き置きです。


いつ来ても雲巌寺は良い☆

さて、更に車で20分ほど走ると見えてくるこちら。

駐車場にあるお蕎麦屋さん行こうと思ったらお休みだった(ToT)

気を取り直して。





栃木県大田原市、曹洞宗黒羽山大雄寺(だいおうじ)です!



石仏十六羅漢像。

山門。







経蔵。

総門。

応永11年(1404年)、余瀬村(現大田原市余瀬)に創建された。

後に戦乱で焼失するが、文安5年(1448年)に大関忠増により再建され、天正4年(1576年)に大関高増の居城が余瀬白旗城から黒羽城に移った際に大雄寺も現在地に移築された。

大関氏の菩提寺であり、山中には大関氏累代の墓がある。
(Wikipedia抜粋)



水琴窟。

鐘楼堂。



本堂。

座禅堂。

回廊。

大雄寺(建造物)9棟全て国指定重要文化財。

(本堂、禅堂、庫裏、鐘楼、経蔵(附:棟札1枚)総門、廻廊 3棟(北東廻廊、南東廻廊、南西廻廊)



本堂内部。





本尊は釈迦如来坐像。





法身舎利殿。





不動堂。

御朱印。
ここもいつ来ても良い☆

臨済宗の雲巌寺、曹洞宗の大雄寺。
どちらも禅宗。


さて、ここで禅宗について触れておこう。

もともと禅宗は中国に渡った南インド出身の達磨大師が開祖になります。

日本仏教における禅宗は臨済宗、曹洞宗、黄檗宗(おうばくしゅう)日本達磨宗、普化宗があります。

まず第一に禅宗とは宗派ではなく、禅を主体とした宗派の総称であり、臨済宗、曹洞宗、黄檗宗などが宗派であるということ。



『日本達磨宗』

日本には、中国禅の教え自体は奈良時代から平安時代にかけて既に伝わっていたとされるが、純粋な禅宗が伝えられたのは、鎌倉時代の初め頃であり、室町時代に幕府の庇護の下で日本仏教の一つとして発展した。

日本の禅宗の最初は大日房能忍(平安時代末期~鎌倉時代初期)が多武峰(とうのみね、現在の奈良県桜井市南部にある山)で達磨宗(後に日本達磨宗と呼ばれる)を開いていた事実がある。

能忍が文治5年(1189)頃に建立した、檀林寺につぐ日本で2番目に建立された禅寺としてかつて三宝寺(大阪市東淀川)があり達磨宗の根拠地でしたが、室町時代末期に廃寺となってしまった。



『普化宗』

9世紀に中国で臨済義玄と交流のあった普化を始祖とするため、臨済宗(禅宗)の一派ともされる。

普化は神異の僧であり、神仙的な逸事も多く、伝説的要素が強い。虚無宗(こむしゅう)とも言い、虚鐸(尺八)を吹きながら旅をする虚無僧で有名である。

日本伝来の歴史としては1249年(建長6年)日本から中国(南宋)に渡った心地覚心が、中国普化宗16代目張参の弟子である宝伏・国佐・理正・僧恕の4人の在家の居士を伴い、1254年に帰国することで、日本に伝わった。

当初は16の派に分かれていたが、後に宝伏の弟子の2人(金先、括総)の派が盛んになり、他の派は滅びてしまったり、両派を触頭として支配下に入り存続した。

心地覚心の法孫にあたる靳全(金先古山居士)がでて、北条経時の帰依を受け、下総国小金(現在の千葉県松戸市小金)に金龍山梅林院一月寺を開創し、金先派総本山となった。

一方、括総了大居士は武蔵野国幸手藤袴村(現在の埼玉県幸手市)に廓嶺山虚空院鈴法寺を開創し、括総派総本山となり、一月寺と共に普化宗末寺120あまりの触頭となった。

普化宗を公称し、一つの宗派として活動するのは、近世に入ってからである。

江戸時代には虚無僧の入宗の資格や服装も決められるなど組織化され、諸国通行の自由など種々の特権を持っていたため隠密の役も務めたとも言われている。

しかし、江戸幕府との繋がりや身分制度の残滓が強かったため、明治になって政府により1871年に解体され、宗派としては失われている。

また、その後一月寺は日蓮正宗の寺院となり、鈴法寺は廃寺となった。

しかし尺八や虚鐸の師匠としてその質を伝える流れが現在にも伝わっており、尺八楽の歴史上重要な存在である。



『曹洞宗と臨済宗』

よく言われるのは、

「禅問答の臨済宗」

「只管打坐の曹洞宗」

どちらも禅宗ということで坐禅を大切にしている。

栄西が日本に伝えたのが臨済宗とされているけど、 実際は多数ある流派のうちの一つを栄西が日本に伝えたので、 臨済宗の祖という言い方は適切ではないらしい。

現在の日本臨済宗を確立したのは江戸時代に出られた白隠慧鶴(はくいんえかく)禅師とも言われている。

臨済宗では「公案」という禅問答を手掛かりに悟りの境地を目指す。

煩悩で覆われた人間が問答を通して「見性(明らかに見る)」によって迷いから脱するという教え。

現在臨済宗には、建仁寺派、南禅寺派、妙心寺派、広島県では仏通寺派など、十四派があります。

鎌倉五山、京都五山で知られる通り、上層階級に広く浸透した。


一方、曹洞宗は道元を祖とする。 ただひたすらに坐禅を行うことを肝要とし、 坐禅をすれば悟りが開けるという他の禅とは異なり、 坐禅そのものが悟りの目的であるという。

道元の言葉に「坐禅は心身脱落なり。只管に打坐して初めて得べし」と言われるように、坐禅によって、自分の心の底が抜けて、自らの仏性を見つけ出すことができると考えられている。

ただ、道元禅師自身は自らの教えを「正伝の仏法」として、縄張り意識、派閥主義的な宗派を否定したため、弟子たちには自ら特定の宗派名を称することを禁じていた(禅宗の一派として見られることにすら拒否感を示していた)ようです。

曹洞宗の本山は福井県の永平寺、鶴見の総持寺で○○派といったものはない。


臨済宗が貴族や武士に広まったのに対し、曹洞宗は民衆に広まったようだ。

手法は異なるが、当然、お釈迦様の教えを体現する宗派である。


よって禅をもとにまとめると臨済禅は看話禅(公案を考えながら坐る坐禅)、曹洞禅は
黙照禅(心を無にして黙々と坐る坐禅)といわれており、わかりやすいのは、

⇒通路の方を向いて坐禅しているのは臨済宗の坐禅。

⇒壁の方を向いて坐っているのは曹洞宗の坐禅。

と思って、まず間違いないらしい(笑)。



『黄檗宗』

黄檗宗は日本仏教における伝統的な13宗派のひとつです。

開祖は隠元隆琦(いんげんりゅうき)禅師で、本山は京都にある黄檗山萬福寺です。

教義・修行・儀礼・布教は日本臨済宗と異ならないとされる。

黄檗宗の宗風の独自性は、日本臨済宗の各派が鎌倉時代から室町時代中期にかけて宋と元の中国禅を受け入れて日本化したのに比較して隠元の来日が新しいことと、明末清初の国粋化運動の下で意図的に中国禅の正統を自任して臨済正宗を名乗ったことによるとされる。

宗風は、明時代の中国禅の特色である華厳、天台、浄土等の諸宗を反映したいわゆる混淆禅の姿を伝えている。

江戸時代以後から次第に教勢が拡大し、萬福寺の塔頭は33ヵ院に及び、1745年の「末寺帳」には、1043もの末寺が書き上げられている。

明治7年(1874年)、明治政府教部省が禅宗を臨済、曹洞の二宗と定めたため、強引に「臨済宗黄檗派」に改称させられたが、明治9年(1876年)、黄檗宗として正式に禅宗の一宗として独立することとなった。

座禅を大事にする禅宗として、江戸時代に広まった黄檗宗の教義は浄土とは西方にあるのではなく、自己の中に浄土を見いだし、阿弥陀仏を発見しようという、禅と浄土思想の合致した念仏禅の教えであり、普茶料理、煎茶等独自の文化を弘めました。

おなじみの、お経にリズムを与える「木魚」は、江戸時代にこの黄檗宗と共に伝えられたといわれています。

ちなみに黄檗宗における読経は、現在も近世中国語の発音で行われており、これを「黄檗唐韻(とういん)」と呼ぶ。

時代背景をみると江戸時代、中国の明朝の動乱から逃れた多くの中国人、華僑が長崎に渡来して在住しており福州出身者たちによって興福寺(1624年)、福済寺(1628年)、崇福寺(1629年)(いわゆる長崎三福寺)が建てられ、明僧も多く招かれていたことから主要寺院は西日本、それも九州や中国地方に非常に多いことがわかる。

東日本では、私も良く行く、
群馬県高崎市の少林山達磨寺。

群馬県邑楽郡千代田町の眞福山宝林寺。

神奈川小田原の長興山紹太寺。

宮城県仙台市の伊達家の菩提寺である両足山大年寺が有名である。
(Wikipedia、神奈川県横須賀市浄楽寺HPより抜粋、引用、要約させて頂きました。)



さて、現在の日本仏教における禅宗を簡単に紹介してみました。

それぞれの宗派、寺伝による時代背景や歴史も踏まえた上で訪れるとまた楽しいものです♪


それでは②に続く(笑)
Posted at 2021/10/20 10:56:46 | コメント(0) | トラックバック(0)
2021年10月07日 イイね!

栃木県下野市、寺社巡り♪~下野薬師寺跡、下野薬師寺歴史館、安国寺、龍興寺、下野八幡宮編☆

栃木県下野市、寺社巡り♪~下野薬師寺跡、下野薬師寺歴史館、安国寺、龍興寺、下野八幡宮編☆緊急事態宣言開けの初めての県外移動です♪

長かった!

新型コロナの感染防止に基づき自粛に自粛を重ね、たまのお出かけはひたすら埼玉県内の人気(ひとけ)のないマニアな寺社巡りだけをなんとか続けてきて、ようやく県外移動のお許しがお上から出ました(笑)

とはいえ遠く行くのも申し訳ないのでわりと近い栃木県下野市を訪れました!

ここは以前、下野薬師寺跡に来たものの歴史館がお休みだった為また来てみました!

まずは歴史館に顔を出しました!

車検中につき代車にて登場☆




まずこの下野薬師寺と言うものとは?


古来、日本仏教の伝来は、6世紀頃に伝わったとされています。

当時、日本には神道という独自の宗教があったため仏教の布教は前途多難だったが、仏教に帰依していた推古天皇が592年に天皇に即位したことをきっかけに、状況は変化し始めました。

仏教伝来から聖徳太子の時代までは、朝廷が飛鳥(あすか)に置かれていましたので、飛鳥時代と呼ばれている。

この時代は、いまだ蘇我氏などの豪族を中心とする仏教だった。

その後、大化の改新や壬申の乱を経て、天皇を中心とする律令制国家となっていく。

そして奈良時代には、仏教もまた天皇を中心として国家政策の一環として進められていった。

いわゆる「国家仏教」の時代。

この時代の仏教は、国家を鎮護するいわゆる『鎮護国家』の思想が目的で国家を中心に寺院が建てられ、経典の写経と読誦が行われました。

一方で、僧侶らも官僚の一部として管理され、その活動は制限されました。

聖武天皇は、国の安寧と平和を願って、全国に国分寺を建立し、さらに東大寺に有名な大仏を建立した。

また、唐とも遣唐使を通じて中国の諸宗派が伝来することにより、「南都六宗」が成立する。

南都六宗とは、三論(さんろん)宗・成実(じょうじつ)宗・法相(ほっそう)宗・倶舎(くしゃ)宗・律(りっ)宗・華厳(けごん)宗 の六つを指す。

後世の宗派と違って、いずれも学問としての宗派であり、僧侶らは自由に行き来し、各宗派の学問を学んでいました。

このうち、法相宗は興福寺が、華厳宗は東大寺が、 律宗は唐招提寺が中心となって活動し、現在に至っている。

律宗の唐招提寺は、鑑真(がんじん)が建立したことで知られている。

本来僧侶になるには、戒律を受けてそれを遵守しなければいけない。

しかし、当時の日本には、正式な受戒の儀式が伝わってなく、唐から授戒のできる人物を呼ぶことになります。

それが鑑真でした。

鑑真の来日により、日本でも受戒が可能となり、東大寺とその他の二カ所に戒壇(かいだん)が設置されます。

奈良時代では、僧侶は僧尼令(そうにりょう)によって管理され、出家するにも国の許可が必要だった。

僧侶の活動は制限があり、一般の人々に自由に布教することは許されていませんでした。

それに対して、国の許可を受けずに私的に出家する「私度僧(しどそう)」と呼ばれる僧侶らが現れます。

その代表的な人物が、行基(ぎょうき)です。

行基は、人々のために仏教の教えを説き、 各地に橋を設けるなど布教と社会奉仕活動に従事しました。

初めは行基の活動を禁止しようとしていた朝廷も、大仏の建立の際に、行基の助けを借りることになる。

行基は、日本で最初に「大僧正(だいそうじょう)」という一番高い僧侶の位についた人物になりました。

中世には密教が中心となりますが、それをもたらした空海もまた最初は「私度僧」の一人だったそうです。

そして平安時代へと入っていく…。

薬師如来を信仰する「薬師信仰」は、飛鳥時代までに伝来したと考えられている。

日本で薬師信仰が盛んになったのは聖徳太子が用明天皇の病気治癒を祈って薬師如来像を造立して以来、天武天皇9年(680年)11月に天武天皇が皇后の病の治癒を願って大和国に薬師寺を建立してからのことである。

大和国の薬師寺建立発願より4年後の天武天皇13年(684年)11月、日本全国の52氏が天武天皇より朝臣を賜姓され、下野国造家である下毛野君も大三輪君や大野君、上毛野君、中臣連、石川臣や櫻井臣等とともに朝臣姓を賜っている。

その数年後以内、直広肆下毛野古麻呂は下野薬師寺の創建に尽力した。

「下野」(当時は「下毛野」)の文字が六国史に頻出している。

下野薬師寺が建立されたのもこの天武天皇から持統天皇の御代と考えられており、『類聚三代格』には「天武天皇所建立地」とあり、『続日本後紀』には「下野国言、薬師寺者天武天皇所建立地也」と見える。

下野市では下野薬師寺は7世紀末に下毛野古麻呂が建てた寺と考えられるとしている。

現在でも「薬師寺」と名付けられた寺は全て天皇の意向によって建てられた寺ばかりであることから、下野薬師寺も奈良時代以前に当時の日本の中央政府の権力者が建立した寺とされる。

つまりは国として天武天皇自らこの今の栃木県下野市に下野薬師寺を建立する意向を示したことになる。

それはそれは凄いことであろう。

発掘調査の結果、出土した瓦が大和川原寺系の八葉複弁蓮華文の軒丸瓦と重弧文軒平瓦とであることから、7世紀末の天武朝の創建であると推定されているようだ。
(東京大学仏教青年会、青少年のための仏教入門より抜粋、引用)


話は長くなってしまったが、これが下野薬師寺とゆうものである。


この歴史館ではそういった話をDVDにて観ることができる。

それから歴史的価値のある数々の出土品も。

歴史館2階から当時の下野薬師寺跡が一望できる。


向かってみる。

そりゃ今見ればただの野原。
跡なのだから。


当時の下野薬師寺を再現したものがこちら。
(関東歴史旅行情報より引用OKのイメージCG画像)

発掘調査によれば寺域は東西約250m、南北約330m。

伽藍配置は一塔三金堂で、伽藍中央に塔、そしてその北に規格の違う東西金堂が確認され、回廊北に中金堂が取り付く配置。

一塔三金堂の例としては飛鳥寺が挙げられるが、堂塔の配置は異なっている。

なお、昭和40年代の発掘調査の時点では、伽藍の中央に金堂、その北東に塔、北西に戒壇が想定されていた。

また中金堂の北には講堂があり、さらにその北には僧坊があったことが確認されている。

さらに伽藍東には、伽藍内の塔が焼失した後に改めて建てられた塔があったことが確認された。
(Wikipedia引用)




そして一部当時の回廊を復元したものがこちら。





蓮華文鬼瓦、軒丸瓦、軒平瓦など忠実に再現されています。


図面等の関係資料が一切なく、発掘調査の成果、法隆寺や山田寺のデータ等を参考にして下野薬師寺跡に回廊を復元したようです。

こちらも歴史館のDVDで観ることができます。




こちらが戒壇堂(六角堂)です。
薬師寺の戒壇跡に立てられたものです。



安国寺六角堂内には薬師如来像、鑑真和上尊像を安置。

さて、戒壇とは?
当時、空海や行基のような立派な私度僧ばかりではなかった。
当時日本においても僧侶は労働、納税、兵役を免除されていたため、勝手に僧侶になる者が続出し、国家の財政を脅かす事態となった。そこで「受戒」といういわゆるテストを受けるシステムを作った。
そのテストを行う場所を戒壇という。

これが戒壇をイメージした模型です。
戒壇を作ったのが唐の鑑真和上です。








ここ、下野薬師寺は本朝三戒壇の1つで日本国内には3ヵ所しかなかった。

まずは中央戒壇奈良東大寺、そして西戒壇福岡の筑紫観世音寺、最後に東戒壇が下野薬師寺であった。

つまり下野薬師寺は絶大なる権威を誇っていたことになる。


宝亀元年(770年)、中央政界で権力をふるった道鏡が称徳天皇の死により左遷され、下野薬師寺の造寺別当(造寺司の長官)となった。

このように下野薬師寺は特別な役割を担う官寺であったと考えられている。

道鏡は772年にこちらで没し、龍興寺に墓が伝わっている。

しかし平安時代、比叡山での戒壇設置により衰退していく。

その後鎌倉時代、源頼朝の後援で慈猛上人にて戒律、真言密教道場として再興される。

室町時代には安国寺に改名された。

この場所自体が安国寺の所有になっている。
戒壇堂(六角堂)も安国寺のものである。

安国寺山門。





安国寺本堂。

現在の安国寺。
正式名称は真言宗智山派医王山安國寺である。

こちらの安国寺当時のものではなく戦国時代に焼失している。

近世になり安国寺と龍興寺が薬師寺正統を争うことになる。




真言宗智山派生雲山龍興寺がこちら。




十二支の守り本尊。




下野薬師寺の別院だけあって立派な山門である。





奈良時代の天平宝字5年(761年)、鑑真が唐の龍興寺の舎那殿壇の法を移し「生雲山龍興寺」として開基したと伝えられている。







自治医大付属病院聖霊殿。
こちらは医学教育発展の為に御献体された方々で引き取り手のいないご遺体を供養しているようです。

見返り観音。



金堂。

鐘楼堂。





龍興寺本坊。








金堂裏。


薬師寺の跡に建てられ薬師寺不動院の流れをひく安国寺と薬師寺地蔵院の流れをひく龍興寺との間で、天和元年(1681年)から享保4年(1719年)にかけて薬師寺の正統を争う訴訟を起こしている。

議論の末、天保9年(1838年)、に「安国寺は戒壇、龍興寺は鑑真墓所を守護す」という合意に達し現在に至っている。




道教禅師の墓所。

境内には道鏡の墓と伝わる円墳や鑑真和尚碑のほか、自治医科大学附属病院聖霊殿の納骨堂がある。


大慈大慈母聖観音菩薩。

五輪北極搭。



天庭。



講堂。

龍興寺は、かつて存在した薬師寺地蔵院の流れをひくといわれる寺院である。

安国寺と龍興寺、下野薬師寺の伝統を今も受け継いでいることだろう。


そして、最後は…。





薬師寺八幡宮である。

薬師寺八幡宮のケヤキ。

願掛け灯籠。






下野薬師寺鎮座、鎮守八幡宮。

祭神は誉田別命
玉依比売命
息長帯比売命。

社格等旧村社。

別名鎮守八幡宮である。

縁起は2つの説がある。

貞観17(875)年清和天皇の御勅定により京都の石清水八幡宮より勧請された説。

そして下野薬師寺の鎮守神として天平勝宝元(749)年に九州宇佐神宮より勧請された説。


拝殿。

祖霊社。

庚申様。

金精様。

摂社。
千勝神社、五條天満宮、稲荷大明神。

神楽殿。

至福神社。


八幡宮本殿。


八坂神社拝殿。

八坂神社本殿。


神輿殿。




そして八幡宮に隣接する雷電神社。




天狗山雷電神社。

下野市にある雷電神社は、その昔京都の賀茂別雷神社より勧請されたと伝えられる古社です。

はて?
板倉町の総社雷電神社とは関係ないのだろうか?

拝殿。



本殿。



相当長々書いてしまった(笑)
下野薬師寺。

奈良時代とゆう、今から1250年も前のお話。

そして奈良の東大寺と同様、関東以北の寺院を統括していた官寺として絶大な地位をこの地が確立していたことは素晴らしいことである。

しかも鎮護国家としての官寺。

下野薬師寺の歴史。

安国寺と龍興寺がその当時の礎を今でも受け継いでいることだろう。
Posted at 2021/10/12 01:20:30 | コメント(2) | トラックバック(0)

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