
あー、暑い。。。
連休に入って暇もてあましているがとにかく暑い。。。
しかし、たまにはお出かけしようと思い立ち栃木県の旅をしてみた♪
名付けて、
~円仁ゆかりの寺院巡り~
さぁ、行ってみよう♪
まず円仁とは、第3代天台座主である。
慈覚大師(じかくだいし)ともいい、入唐八家(最澄・空海・常暁・円行・円仁・恵運・円珍・宗叡)の一人です。
『入唐八家とは』
平安初期に唐に渡り、密教経典を伝えた八人の僧のことである。
794年(延暦13年)下野国の景勝の地、安蘇山の裾野脇の湖畔みかもノ山の越奈良の須(美加保の関、みかもの崎)に豪族壬生氏の子として生まれる。
誕生地は3つの説があるようだ。

こちらが生誕地と言われる、栃木県栃木市岩舟、髙平寺別院誕生寺。

安蘇山麓手洗窪(安蘇郡下津原、現・栃木市岩舟町下津原)。
どうやら落石かなんかで立入禁止になっていた。
中にはこじんまりとしたお堂なんかが見えた☆
ちなみに狭い林道にあってこのパイロンの方に車停めようとしたら草むらになんか石みたいのがあったらしくサイドステップを傷つけてしまった( ´⊇`)
Uターンして車降りて見たもののどこに当たったのかよくわからずこの車で初めて当ててしまいサイドステップのステーとクリップを破損し傷もついてしまったようだ(笑)
※7/31補修と塗装をし自力で直す。
さて、話を円仁様に戻そう(笑)
円仁、小さい頃から仏教に心を寄せ9歳まで高平寺で養育、修行をしたようです。

こちらが栃木県栃木市岩舟、真言宗豊山派高岡山髙平寺です。

山門。

鐘楼堂。

本堂。
高平寺のそばにあるみかも山(三毳山)は、7世紀の後半~8世紀後半にかけて編纂された日本最古の歌集である万葉集にも登場しています。
建立は779年のことと伝えられる。
真言宗?
そう、こちらもともとは天台宗のお寺だったそうですが、1600年に真言宗のお寺へと改宗されたそうです。

こちらは弘法大師像。
現在の本堂は1826年の建立だそうで、中には狩野派の絵師・狩野秀益の描いた天井絵や、客殿内には襖絵が保存されているようです。

梵字の池。

行の井。

西相智水。

千手の滝。
以上が高平寺。
ちなみに同じ岩舟に慈覚大師円仁の母が住んでいた実相院跡に母が亡くなられた後、お墓が建てられたようです。

慈覚大師御母公の墓。
そして、円仁は9歳になり大慈寺に入って修行を始める。
大慈寺の師・広智は鑑真の直弟子道忠の弟子であるが、道忠は早くから最澄の理解者であって、多くの弟子を最澄に師事させている。

栃木県栃木市岩舟、天台宗準別格本山小野寺山転法輪院大慈寺。

御霊水。

本堂。

慈覚大師円仁像。
幼少期でしょうか。
とてもかわいい(笑)

創建の正確な時期は不明ながら、寺伝によれば、大慈寺は天平9年(737年)に行基が開基した寺院で、二祖は道忠、三祖は広智とされる。
道忠は鑑真の高弟で最澄とも親交があった僧であり、東国の化主と称された。広智のときに、大慈寺で修行していた円仁(慈覚大師、後の第三代天台座主)、安慧(後の第四代天台座主)などを最澄のもとへ弟子入りさせ天台教学を学ばせている。

円仁堂。
弘仁8年(817年)、最澄(伝教大師)が弟子たちとともに東国を巡錫した際、当寺にて大乗戒の授与を行い、東国への天台布教の足場とした。
また、法華経による国家鎮護のため、最澄が日本国内の6箇所に建立を計画した六所宝塔の1つが当寺に建てられた。
二度の火災(天正年間、弘化年間)などにあったが、絶えることなく今日まで法灯を伝えているようだ。
これは比叡山延暦寺の法灯と同じですね。

薬師堂。

鐘楼。
開運の鐘。

昭和39年3月3日にエドウィン・O・ライシャワー元駐日大使が参拝するために訪れた。
ちなみに高平寺やこの後紹介する壬生寺にも訪れている。

記念樹。

左に見えるのが相輪橖。

相輪橖(そうりんとう)
最澄が建立した宝塔に起源をもつが、現存するものは享保10年(1725年)の再建。

開山堂。

小野寺稲荷。

小野小町伝説。
伝説によれば、小町は大慈寺の本尊薬師如来に病気平癒の祈願をし、その結果治癒したため、終世大慈寺所在の小野寺の地に住んだとされる。
境内に小町の碑があり、近隣には小野小町の墓と称するものも現存する。
ちなみに時宗開祖一遍上人が来院し、雨宿りをしたとの伝承があり、『一遍上人絵伝』にも描かれているようである。
これが幼少期の円仁である。
ちなみに大慈寺に隣接して村檜神社もあるので行ってみる☆
しかしどうでも良いが暑くてたまらん( ´-`)

石段多い(笑)

こちらは下野国三之宮村檜(むらひ)神社☆
創建は孝徳天皇の御宇大化二年(646)と伝えられ、熊野大神、大山咋命の二柱を祀り、佐野庄小野寺十郷の総鎮守として崇敬され、のち平城天皇の御宇大同二年(807)に皆川村小野口に鎮座せる八幡宮を当社に合祀、主祭神と仰ぐ。
醍醐天皇の御宇延喜年間には勅命により、国内神社を調査せし時にその撰に入り、延喜式内社に列せられ、下野國三之宮として今もなお崇敬されている。

社殿。
現在の社殿は室町後期の建物で三間社春日造屋根は檜皮葦にして国の重要文化財の指定を受けている。

西宮神社(摂社)。
なかなか厳かなよい神社である。
村檜神社境内からは奈良時代にさかのぼる古瓦が出土しているようで、この地に古代から寺院が存在し、東国における天台系仏教の拠点となっていたことは確かであるようだ。

御朱印は書き置き。
さて、また円仁に戻るが、円仁生誕地については3つの説があるようだ。
①一番最初に紹介した髙平寺誕生寺。
安蘇山麓(現在の三毳山のふもと岩舟町下津原手洗窪)元、安蘇郡下津原の手洗窪の説。
②順徳天皇撰による「八雲御抄」では、「みかほの関」山也「みかほノ山」古名所での誕生が記されている美加保ノ関(栃木市藤岡町三鴨の都賀字館・佐野市越名)説。
③壬生寺(現・下都賀郡壬生町大師町)説。
紹介しよう♪
こちらは以前訪れた壬生寺。

栃木県下都賀郡壬生町にある天台宗紫雲山壬生寺☆

山門。

鐘楼。

大師堂。

本堂。
寺伝によると、延暦十三年(794年)下野国都賀郡(壬生町)に生まれ、俗名壬生円仁といい生家は有力地方豪族という。
平安時代に書かれた慈覚大師の伝記にて、円仁が生まれたとき、その家の上に良いことの印である、
『紫色の雲がたなびい た』
といいます。
円仁が生まれた所は、都賀郡というだけで、はっきりした場所は分かりませんが、 壬生町の
『紫雲山壬生寺が誕生の地である 』
と長く言い伝えられてきました。
江戸時代の貞享三年(1686年)日光山輪王寺の 門跡天真親王が日光への道すがら、慈覚大師の旧蹟が荒 廃しているのを嘆き、時の壬生城主三浦壱岐守直次に 命じて、大師堂を建立し、飯塚(現小山市)の台林寺を その側に移建して別当とした。
幕末の文久二年(1862年) 大師一千年遠忌 に当り 日光 山輪王寺 慈性法親王 により、大師堂の改修が行われた。
その後台林寺は元の飯塚に戻る。(年代不詳)

産湯の井戸。
壬生寺には円仁が生まれた時に産湯として使ったという「産湯の井戸」が残っています。

地蔵堂。

大いちょう。
天然記念物
円仁は壬生寺にも9歳まで養育、修行していて大慈寺に行ったとされている。
3つの説で未だに論争が起きているようだ(笑)
さて、少年時代の円仁は、鑑真の弟子である広智と道忠との関係から、下野薬師寺でも多くのことを学んだのではないか と想像できる。
延暦二十一年
(802年) 小野寺村大慈寺の僧広智の弟子 となり
大同三年(808年) 比叡山に登り、伝教大師最澄の弟子になる。
このことからとんでもない天才だったと言える☆
その後、承和五年(838年)遣唐使の留学僧として、唐に渡り、約十年間五台山、長安などで念仏、密教、悉曇(しったん)、声明(しょうみょう)などを 学び多くの教典や仏具を持ち帰った。
ちなみに簡単に遣唐使として唐(中国)に渡ると言っているが、今のように飛行機や豪華客船で渡ったわけでは当然ありません(笑)

フリー写真素材photoAC。
再現『遣唐使船』より。
ちなみに遣唐使の候補はイケメンだったとか(笑)
中国の皇帝に日本の存在感をアピールする重要な立場にあったゆえ、高身長、高学歴、そしてなによりも眉目秀麗なイケメンであることが求められたようです。
ウソかホントか(笑)
9代皇帝の玄宗は、日本大使のあまりの礼儀正しさとルックスの良さに感激し特別な称号を与え、肖像画も描いて保管しましたそうで、そうした逸話は、日中双方の記録に見られるようです(笑)
しかしながら遣唐使は命懸けの任務だったようです。
最初の遣唐使の派遣は、630年、舒明天皇の治世で飛鳥時代のこと。
その後も、奈良、平安と3つの時代にまたがって、計36隻の遣唐使船が派遣されました。
しかし、戻ってこれたのは26隻に過ぎなかったようです。
その多くは、座礁、沈没、異国の地に漂着したりと大変だったのです。
①803年の第14回遣唐使。
遣唐大使は、藤原葛野麻呂(かどのまろ)。
瀬戸内海にて暴風に遭って船は大破。溺死者多数の大惨事となり、航海は中止。
その翌年、再チャレンジにて4隻の遣唐使船が出港。
しかし、暴風に巻き込まれ、2隻は九州に着岸。
他の2隻のうち、1隻は割と順調に航海を続け、中国大陸に到着。
この船には留学僧の最澄が乗っており、天台山へと向かい修行と勉学を始めたそうです。
そしてこの時、もう1隻に乗船していた葛野麻呂と空海だったそうです。
彼らは、強風に流されること1か月、福州に漂着。ところがそこは、本来の上陸地から1000キロも南に離れたところでその時の福州の長官は、遣唐使のことなぞ知らず、不審船扱いにしたそうです。
水も食料もない状態から海賊か密航者かと思われ、全乗員は船から追い出され、砂浜に座らされたそうです。
葛野麻呂は、長官宛の親書をしたためたそうですが、3回も長官は見てすぐに捨ててしまったそうです。
そこで葛野麻呂は同乗の留学僧である空海に代筆を頼んだそうです。
空海は能筆な中国語の文書を書き長官に提出しました。
打って変わって名文と達筆の書が送られてきたことからすぐに仮設住宅を13軒建てて、乗員を収容し世話係をつけて食事でもてなしたそうです。
やがて長安から役人が迎えに来て約2千キロの距離を馬や運河船を大活用して案内し無事に唐に渡ったらしいです。
②奈良時代に派遣された第9回遣唐使は、594人という遣唐使史上最大の人員規模で行われました。
彼らは4隻に分乗し、往路はとくに災難もなく大陸にたどり着きました。
しかしながら逆に帰路は、多難に満ちたものだったようです。
4隻とも同時に蘇州の港を出たのですが、不安定な強風で、離れ離れに流されてしまいます。
1隻は、なんとか種子島に着き、そこから4か月かけて平城京に帰還しています。
もう1隻は、(蘇州の北の)越州に舞い戻ってしまい、翌々年に再度の帰国を試みて、それには成功しています。
そして、1隻は記録に残っておらず、沈没して全滅したか、無事帰国したのかは不明。
最後の1隻は、断片的な記録が悲惨なものだと伝わっております。
この船には115人が乗っていましたが、風と波に流されて崑崙(こんろん)に漂着。
ここは現在のベトナム沿岸で、3時代にわたる全遣唐使船の中で、もっとも南に流された船となりました。
船は、接岸して間もなく現地の賊に取り囲まれてしまいます。
約20人は彼らに殺されるか、逃亡してそのまま行方不明に。残る90人余りもマラリアなど風土病に倒れ、帰らぬ人となります。
生き残ったのは、大使・副使に次ぐナンバー3の平群広成(へぐりのひろなり)を含む4人。
彼らは、命からがら崑崙王に面会することができますが、そこで監禁状態になります。
不幸中の幸いと言えるのは、唐の皇帝が捜索に尽力し、役人が崑崙に来て、彼らを救い出したことです。
4人は遠路長安へと戻り、日本に遣使を予定していた渤海国の船に便乗して帰国。
日本を出てから6年ぶりに故国に戻ったのでした。
この4人は、古代において東アジアのもっとも広い文化圏を踏破した日本人として、歴史に名をとどめているそうです。
③第10回遣唐使。
遣唐大使は、藤原清河(きよかわ)です。
船は4隻用意され、おそらく500人ほどが乗り込みました。
行きは無事に到着し玄宗皇帝に拝謁。
皇帝は、清河らに官職・位階を下賜するほど厚遇しました。
帰国の準備を始めたのが、翌年(753年)11月。
しかし、揚州の延光寺にいる鑑真和上を連れ帰ることがミッションでした。
当時の日本には、正式な僧となるための授戒の制度が整っておらず、その道の大家である鑑真を招請する試みがなされていました。
ところが、その試みは5度も失敗。6度目の正直で、清河は自分の乗る第1船に鑑真を乗せるつもりでいましたが…
出発する直前になって清河は、自ら延光寺に赴いて来日を懇請しときながら、土壇場で船から退去させました。
当時の唐は、自国民の無断出国は禁止しており、特に鑑真和上は、過去何度も出国を試みては、官警に捕まった経緯がありました。
要するに清河はビビったのです。
この行為に義憤を感じたのが、副使の大伴古麻呂(こまろ)でした。
下船して途方に暮れる鑑真を、第2船にこっそり乗せました。
更に今回の帰還では、もう1人日本史上の重要人物が乗船しました。
それは、阿倍仲麻呂です。
仲麻呂は、留学生(るがくしょう)として十代後半の若さで第8回遣唐使に参加しました。
唐で大学に入り、科挙にも合格し、官吏になった人物です。
玄宗皇帝の信頼も厚く、遣唐使一行の橋渡し役として活躍しました。
唐で暮らすこと30余年。
仲麻呂は望郷の想いが募り、清河と同乗しての帰国を決断。
『天の原ふりさけ見れば春日なる三笠の山にいでし月かも』
その時に詠んだこの歌は、百人一首にも収録され、とても有名なものです。
753年12月、4隻の船は同時に出帆。
しかし、各船は風にもてあそばれ、特に第4船は火災を起こす大難に見舞われます。
この船は、さいわいにも火災は消し止め、どうにか今の鹿児島県沿岸に到着。
ほかの3隻は、沖縄に流されました。
そこから翌年1月7日に出航しますが、第1船はまたも押し流され、今度は今のベトナム北部沿岸へと漂着。
上陸するや現地人の襲撃を受け、約200名の乗員はほぼ全滅。
清河や仲麻呂を含む十数名が、船を捨てて長安へ逃げ戻りました。
清河と仲麻呂は、帰国の機会がないまま、大地に骨を埋めたそうです。
第2船に乗っていた鑑真は、日本にたどり着き、唐招提寺を開きました。
このように、約20回に及んだ遣唐使の派遣は、得るものは大きかったのですが、人的・物的損害もまた大きなものだったようです。
894年、菅原道真が遣唐大使に任命されますが、道真は没落しかかっている唐王朝に、多大な危険を冒して行くのはいかがなものかと上申し、遣唐使の歴史にピリオドが打たれたようです。
だいぶ脱線しましたがこのように遣唐使とは中国との外交や先進文化の習得、書籍その他の文化的所産に大きく貢献したがまさに命懸けの状況だったことがわかりますね。
そんな遣唐使を経て円仁は帰国後、日本各地を行脚し、仏教を広めるかたわら、地方文化の興隆につとめ、 土地の開拓、架橋、施寮、施楽、麻の栽培奨励などを行い社会事業の先覚者と言われております。
また何よりも慈覚大師円仁の創立した寺院は、全国で五百余寺にのぼります。
日光山輪王寺、松島の瑞厳寺、平泉の中尊寺、毛越寺、恐山地蔵堂、山寺立石寺などなどそれはそれは凄いお寺ばかりである☆
このように、最澄の遺業を大成し、仁寿四年(854年) 大三世天台座主 となり、 貞観五年(864年)七十一歳で入滅しその生涯を終えました。
滅後二年目、日本で初めて「慈覚大師」という大師号を贈られました。
なお在唐中の日記「入唐求法巡礼行記」は、玄奨三蔵の「大唐西域記」やマルコポーロの「東方見聞録」に比すべき旅行記として有名であり、 当時の旅の困難さや唐の時代の様子を知る貴重な資料だそうです。
慈覚大師円仁♪
『まとめ』
天台宗の確立に尽力した最澄のもとで円仁は
学問と修行に専念しました。
最澄が止観を学ばせた弟子10人のうち師の代講を任せられるようになったのは円仁1人であったと伝えられています。
838年45歳で最後の遣唐使として唐に留学し、山東省の赤山法華院や福建省の開元寺、中国仏教三大霊山に数えられる五台山で修行しました。
唐での9年間を
「入唐求法巡礼行記」全4巻にまとめて847年に帰国。
この書はマルコポーロの「東方見聞録」、玄奘三蔵の「西遊記」とともに、三大旅行記として今の時代も高く評価されております。
持ち帰った経典は584部802巻に及び金剛、胎蔵界の両界曼荼羅などの
図像法具は21種もあったそうです。
任明天皇はこの功績によって円仁(慈覚大師)を「伝燈大法師位」、「内供奉十禅師」に任命しました。
その後854年、円仁(慈覚大師)はそれまで17年半、空位であった延暦寺第3代天台座主に任命されました。
それからも円仁(慈覚大師)は天台密教の振興に尽力し、戒律に新見解を示しました。
円仁の最期(死因)
864年1月、円仁は熱病にかかり亡くなったそうです。
享年71歳。
866年、円仁の死を悼んだ清和天皇より「慈覚大師」という日本で初めての大師号が贈られました。
ちなみに最澄も円仁と同じく866年に日本初の『伝教大師』を、空海は921年に醍醐天皇から、『弘法大師』の諡号(しごう)を送られました☆
ちなみにこの諡号、今でも天皇から送られているんですよ。
最近は、令和4年2/25、黄檗宗開祖の隠元に3つ目の諡号『厳統大師』が送られました♪
そんな話はまた今度(笑)
まっ、ともかく一番思うのは出生地の論争はともかく栃木県から慈覚大師円仁という天才が生まれ天台仏教の発展に尽力しているわりにどうしてこんなに寂しい地域性なのだろうか(笑)?
という疑問( 。゚Д゚。)
栃木県としてもう少し推してみてもいいと思うのだがなぁ(笑)
さて、長々失礼いたしました。
参考文献:
Wikipedia、栃木県神社庁ホームページ、栃木市観光協会ホームページ、とちぎふるさと学習、岩舟町観光情報、奈良まちあるき風景紀行(遣唐使)、フリージャーナリスト鈴木拓也氏記載culture(遣唐使)、東京新聞(天皇が高僧に送る大師号)
から抜粋、引用させて頂きました。
ちなみに岩舟町にてお蕎麦食べました☆

円仁庵さん。

せいろと野菜天☆
美味しかったです。
以上慈覚大師円仁ゆかりの地を巡る旅でした☆
それでは、また♪