さて、前回に引き続き『魂の駆動体』について。
作品中では「車」二つの呼称で分けています。つまり、移動手段であるところの「自動車」、そして、「魂の駆動体」である「クルマ」。「自動車」は自動的に路面に従い、ほかの車両を追従する完全なる自動操縦で、「所有」という概念がありません。予約を入れれば指定の場所に届けられ、乗り込むと行き先を指定する。で、あとは乗ってるだけで目的地に到着します。要するに水平方向を移動するエレベーターなのです。
では、この世界における「クルマ」はどこに行ったのか? 何とも悲しいことに、公道は自動運転システムを搭載した「自動車」以外の通行は認められず、「クルマ」が存在できるのは私有地のみ。なので物好きな金持ち以外は「クルマ」を所有できないのです。
「もう一度クルマに乗りたいぞう、できればレストアとかもやりたいぞう」という気分で悶々とした日々を過ごしている<私>に子安さんがとある本を手渡します。それが『ミニ・ストーリー』です。彼がその本を読んだ時の感想は――
<引用>
P.115,L.10
小さなクルマといえばそういうものだという、その手本となった原点が、この本に書かれたミニというクルマなのだと、私はあらためて知った。幼い私が見ていたクルマのほとんどが、このミニというクルマのバリエーションにすぎなかったというのは、驚きだ。
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これはあくまで、「構造上の新しさで」という意味での発言です。つまりそれ以前のクルマはRRを採用していたことと対比して、外形はコンパクト、室内はなるべく広く、という条件下でもっとも理にかなった、「横置きエンジンをミッションに重ねたFF」という構造のことを言っています。ようするに、職人気質の技術屋の魂が、オリジナルのミニには宿っている、と。
ただ、主人公はミニのことをこんな風にも言っています。
<引用>
P.120,L.14
「私はこのクルマ自体には興味がないんだ」
(略)
<ミニ・ストーリー>という本の内容には感心したが、しかし私はミニというクルマの時間を共有してはいなかった。だからミニというそのクルマが好きかというと、私は一度だけ昔乗ったことのあるそれを思い出し、あんな重いハンドルで乗り心地の悪い車には二度とのりたくないと思うし、例の父のプレリュードのような思い入れもミニにはなかった。
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何とも手厳しい。個人的にはミニが好きなだけにちょっと残念。なんたって、ハイマー号を買う前には候補に挙がっていたから。ただ、実車を見に行ったら
「きみ、ちょっと写真と違くない?」という状態だったので敬遠したわけで、あれが素晴らしいコンディションであったら、きっと今頃ミニ・オーナーでした。ちょっとした「運命のひとひねり」で「ハード・ミニ・オーナー」にはなれたけど。
話を小説に戻しましょう。そんなこんなで「クルマ造りてえな」という思いを抱いた悶々オジサンと化した<私>は、子安の提案で「オリジナルのクルマの設計図」を描くことに。
――どんなクルマがいいか?
<引用>
P.137,L.17
「…自分で運転できてどこにも行けるやつだ。エンジンの鼓動でクルマの状態がわかり、自分が操っていることが実感でき、しかも心地よく、運転自体が楽しくて、目的地などどこでもいい、というやつだ」
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ソレですよ、ソレ。ソレがなければクルマじゃない。スウィングしなけりゃ意味がない、です。そういったコンセプトから二人のジジイによる設計図づくりが始まります。車幅、車高、全長、ホイールベース…といった各所の寸法や、タイヤ径、サスペンションの方式、等々、細かいところまで設計していきます。重量バランス等は子安の持つコンピュータでシミュレート。高性能な3D描画ソフトと物理エンジンがあるのが近未来のありがたい所。
そして主人公はあることを思い出します。
<引用>
P.170,L.4
私は自分がこの計画をやりはじめて、自分がどのようなクルマに実は乗りたかったのか、忘れていたそういうクルマがあったことを思い出した、それを言った。
「(略)…1980年前後にあったGTIというカテゴリーのクルマだ。コンパクトな実用車をベースに、それには不釣り合いな高性能エンジンを載せた、過激なやつ」
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主人公は、ロングノーズ・ショートデッキのクルマやオープンカーは「不釣り合い」、キャデラックやジャガーやフェラーリは「乗ってみたいが、エキゾチックすぎて所有したいとは思わない」と言っていましたが、その点ゴルフGTIはコンパクトかつ見た目が実用車でありながら速い、階級制度に切り込むような存在として評価しています。そして、「実用車っぽいスポーツカー」であるGTIは、「スポーツカーっぽい実用車」に負け、また環境問題によって時代がスピードを求めなくなったために、その存在理由を失って廃れていった。
主人公は基本的に「新しいものが良い」と考えていたので、「こういうクルマが新車で手に入れば…」と思っていましたが、彼がクルマを運転できる歳になった時には、GTIは過去の遺物となって、そういったジャンル自体がなくなっていたのです。
――と、ここまで来て旧車オーナーの諸兄殿は「アレ、なんだかだんだん旧車が関係なくなってきたぞ」とお思いの事でしょう。ワタクシもこの本を読み進めていくうちに、やはり主人公とは好みが違う、しょせん彼は彼であり、自分の分身としてあてはめてはイカンのう…などと思っておりました。ですが、設計を進めるうちに主人公はスンバラシイ「計画変更」を行います。それはエンジンの設計に入る段です。
<引用>
P.191,L.6
「一からは無理だが、改造はできる」
「どこをいじるんだ。ボアアップかい」
「排気量はそのままでいい。燃料供給を、インジェクタから、キャブレタにしよう」
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コレです。このシーンが個人的に大好きです。もちろん子安さんはこれを聞いて、「なんだって? それじゃあ退化じゃないか、キャブなんて始動しないぞ、運が良くて始動、という感じだぞ」とメチャクチャなことを言い出します。しまいには「せめてオートチョークにしよう」と。それに対する主人公の返しもよかった。
<引用>
P.191,L.16
「なにをやりたいんだ」と子安。「始動で苦労したいのか」
「そのとおりだ」と私は言った。「エンジンをかけるというのは、わくわくする。ガソリンエンジンというのは、電気モーターとは違う。スイッチを入れれば即、回るというものじゃない。コンピュータ制御の燃料噴射装置だと、それを忘れそうになる。ガソリンに着火してエンジンが回るというのは、一種、奇跡的なことだ。それを味わいたい。キャブ仕様にしよう。気化器を設計するんだ」
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主人公殿、よくやった。子安に負けずによく頑張った、感動した。なんともまあ、全国のキャブ車オーナーの気持ちを上手く代弁してくれました。そうなんです。キャブがついているからこそ、クルマはより生物的になるんです。
なんやかんやで色々なこだわりを乗せた車の設計図が完成します。それを子安が調達してきたプロッター(この時代にも残っていたのか!)でもって描き出している最中に事件が起こります。が、それは次回。実は先ほど文章を書きあげたのですが、あまりにも長くなってしまったので、ここで一旦ぶった切ります。
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世迷言 | 日記
Posted at
2017/06/16 09:40:55