2016年11月17日
「先生、オザキユタカってこの街の出身だそうですけど、本当ですか?」
これは私が小学生だった時分、教頭先生に訊いた質問である。
「そうだよ。私は彼が学校にいた頃の教師をしていてね。君は尾崎豊が好きなのかい?」
その問いに私は肯定の返事をした。教頭はその時意外そうな眼をしたが、その裏側にあったものは一人の少年の将来に対する不安だったのかもしれない。
まとまった金を貯め 一人町飛び出して行くことが
新しい夢の中 歩いて行くことだから
尾崎豊。彼は「十代の教祖」「心の代弁者」として人気を博した。そして、波乱万丈たる青春を過ごしたのち、酒と薬に溺れて26歳にして急死した。「彼は若者たちを虜にした偉大なるミュージシャンであった」。
――違う。そんな安っぽい修辞句で片付けないでくれ。誰かが叫んでいた。
八月某日、私はとある坂の上に車を停めた。埼玉県朝霞市の溝沼という地区である。近隣には「滝の根公園」がある。公園内には湧水の池があり、そこをアクリル製の窓が付いた木製の柵が囲っている。ホタルの生息地なのだ。しかし私の目的地はこの公園ではない。「この坂」に来ることが目的だったのだ。
彼はこの坂の下の町に住んでいた。そして、彼はこの町を飛び出した。この町は彼を縛り付けるあらゆるものの象徴であった。彼にとってこの街を出る事は大人になるための第一歩であった。それは『スタンド・バイ・ミー』のゴードン少年の奪われた野球帽であり、『さらば青春の光』のジミーが崖下に落としたベスパであった。彼はこの街を捨てなければならなかったのだ。
でも 寂しそうに 見送りに立ち尽くす母親にさえ
サヨナラが 言えず仕舞いでアクセル踏みこんでいた
私は漠然とした不安を抱えていた。それがなんなのか判らない。――これでいいのだろうか。誰ともなしに問いかける。主語のない問いである。つかみどころのない漠然とした、それでいて何か重大であるような、そんな疑問であった。
彼は理由を求めた。なぜ従うのか? 自分はどうあるべきなのか? 押し付けられた理想像は、自分にとって理想的なものなのか? 何処へ行き、何処に安らぐのだろう? 「シェリー、どこに行けば俺は這い上がれるだろう」
私は5歳から17歳までの約12年間を朝霞の街で過ごした。周りを畑に囲まれた集合住宅であった。風の強い日は畑のホコリが吹き付け、黄色い砂が路肩に山を作った。近所に住む友人のN君の家は農家で、外のトイレは「雪隠」と呼ぶにふさわしく、汲み取り式であった。近所には狸が出た。
駅へと続くメインストリートもまた畑に囲まれ、アスファルトは風に運ばれた砂で薄く黄色掛かっていた。その道から分岐する新興住宅予定地への通りは、途中で土地買収に失敗し、分断されていた。何処へも通じる事のない、しかし道幅だけは十分なこの新道は、子供たちの遊び場となった。
彼の父は自衛官であった。自衛隊という理不尽な立ち位置の職業が身近にあったところに、彼の世間に対する猜疑心が芽生えた一つの要因があるのかもしれない。
「君達は自衛隊在職中、決して国民から感謝されたり歓迎されることなく自衛隊を終わるかもしれない。きっと非難とか叱咤ばかりの一生かもしれない。御苦労だと思う。しかし、自衛隊が国民から歓迎されちやほやされる事態とは、外国から攻撃されて国家存亡の時とか災害派遣の時とか、国民が困窮し国家が混乱に直面している時だけなのだ。言葉を換えれば、君達が日陰者である時のほうが国民や日本は幸せなのだ。どうか、耐えてもらいたい」
これは、自衛隊発足時に吉田茂が行った演説である。「正しい」とは何なのか? 理不尽に押し付けられた自己犠牲の美徳にを垣間見ていたのかもしれない。
あなたの夢に育まれて その夢奪っていく訳じゃない
小さな俺を眠らせた 壊れちまったオルゴールが
バッグの中で時を奏でている
彼の歌には実在場所をモデルにしたものが多い。『17歳の地図』で振り返って夕日を眺めた歩道橋は青山通りに存在する。『米軍キャンプ』は光が丘を歌ったと言う事だそうな(彼は田柄にも住んだ時期がある)。しかし私はこの歌詞を、市役所前にある「キャンプ・ドレイク」と重ねてみる。
この基地はリトル・ペンタゴンと呼ばれる施設があり、マッカーサーが駐留したこともある。朝鮮戦争時にはジャミング攻撃の基地局となり、ベトナム戦争時には重症を負った兵士が療養の為に送られ、ここで多くの命が絶たれた。大戦時は大日本帝国陸軍の被服廟であったが、戦後、米軍に接収されてからは周辺で無秩序的な事件が多発し、「リトル上海」と呼ばれた。これは朝霞警察が置かれる原因ともなった。その名残から、この周辺には嘗て、米兵目当ての売春宿まがいの店が立ち並んだ。
『米軍キャンプ』は、水商売をする恋人を持つ男の葛藤を描いた歌だ。彼女に自分に対する愛、そして自分の彼女に対する愛は本物なのか? いつ終わるともしれない関係に焦燥を感じている。 「大切なものを引き裂く何かに 二人が気付くまで」。
私がこの場所を訪れたのは何も、郷愁によるものではない。その理由は私自身にもわからないが、どうしてもここに来たかったのだ。ここに来れば何かをつかめる気がしていた。
彼が歌手となったのは偶然に偶然が重なったからだ。卒業を前にして高校を退学した彼は、一縷の望みをかけてレコード会社にカセットテープを送りつけた。もう後へは引けなかった。「従うとは負ける事、と言い聞かせた」。
そのテープは「新人発掘」をしていたSプロデューサーの手に渡った無数のテープの中の一本となり、Sが手にした最初のテープとなった。Sはランダムに手に取った最初のテープしか聞かない事にしていたという。
「最初に聴いた時はヒドい歌だと思った。しかし良い声をしていた」
後にSが語った言葉である。こうして彼はその後の運命を決定づけた。
彼が私に語りかけたようだ。どんなコンプレックス・劣等感も結局は乗り切っていかなければならないんだ、と。逃げてはならない、決して負けてはならない、と。「受け止めよう 自分らしさに打ちのめされても あるがままを受け止めながら 目に映るものすべてを 愛したい」。
私は深呼吸を一つし、この街に再びの別れを告げた――彼の家の目の前を通るような無粋な真似はしなかった。結局なんだったのかは判らない。これからも判る事はないだろう。何かまた躓くことがあればまたここに戻ってくるつもりだ。そんな場所があってもいいじゃないか。
俺は車を停めて手を振っていたよ
――坂の下暮れてゆく町に
Posted at 2016/11/17 03:14:53 | |
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世迷言 | 日記