このまえ
黒い弁当箱みたいな純正エアフィルターを排除し、汎用パワーフィルターを設置したのですが、やっぱり突然の雨が不安になってきました。雨粒がフィルターに付着したら、その水分を吸ってしまい、ストールの原因となる。降りしきる雨の中バイクを押す様はとても悲しいものですが、そのバイクが半分チャリのような有様ではバカ丸出しです。
雨天時もある程度の走行が可能で、雨宿りするだけの猶予のある状態がとても好ましいように思えます。フィルターが前を向いてしまうカブですから、この命題はかなり差し迫った問題として取り上げるべきではないでしょうか。
それに加えて予算がない。
700円以内で何とかしたいのです。よって、カバー付きのフィルターを買い直すという軟弱な手段は破棄されます。だって悔しいじゃん。今のこの状態から、700円以内でフィルターのカバーを作る、というのが今回の課題です。
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――とその前に。
これは反省を兼ての挿入文なのですが、
前回ふざけ過ぎてしまいました。私としては全く深い意味を込めたつもりはありませんが、見方によっては不快な思いをした方もいたはず。その発言を以下に抜粋します。
(グローブの塗装をする文脈にて)
『近所に聖教新聞が置かれている場所があるので、一応速読で目を通してから、ありがたく利用させてもらってます。オイル交換の時には創価学会の神様に感謝することにしています。あ、仏教系だから仏様か。ギョーテーギョーテー。』
コレって、やり過ぎてる感がすごいですよね。特定の宗教団体を頭ごなしにバカにしている、と言われてしまえば言い返せません。そこで、私の持っている宗教観をここに手短に開示いたします。決して宗教に対して無条件なマイナスイメージを持っているものではない、という事をご理解いただければ幸いです。興味のない方は次のパラグラフまでず――――っと飛ばしてください。
私にとって、宗教とは自分自身に対して課した規範、と捉えています。その規範の具体的な内容を示したものが宗教なのです。宗教の規範は常に内に向かっています。自己をどう高めていくか、自分自身がより高次の段階に向かうためにはどうすべきか、というヒントがその教義の中に示されているのです。
具体的にいうなれば、例えば物事に対して感謝する、という行為を当然のことのように行動規範に組み込んでいるのは、宗教の教えによるものなのです。感謝の対象を作る、と言った方がいいかもしれません。
例えば、外に出るときに何となく傘を持って行った方がいいような気がする。そこで鞄の中に折り畳み傘を入れて行った所、帰宅時には雨が降っていて、濡れずに済んだ。この時に何の信仰心も持たぬ人ならば、「おお、ラッキー、傘持ってきてよかった。俺って先見の明があるんじゃねーの」とこれだけで済ましてしまいます。しかし、己の信仰心に基づいて無意識的に行動しているのであれば、この「ラッキー」にたいして、感謝する対象を持っているわけです。
こうした何事に関しても「感謝の対象を持つ」という姿勢から、人間関係がうまくいくコツを無意識化に教育していくのです。このような思考を持つ人は、物事の起承転結を多岐に渡って想像することができます。「あの人がこういった行動をとったから、このようなインスピレーションが生まれ、結果的にこうした事象を引き出した」といった考え方です。このような思想回路を根付かせることこそ、宗教の本質的な意味であると考えています。
80年代後半から90年代にかけて、終末思想がある種のブームを呼び起こしました。ノストラダムスの大予言に基づいた、1999年の8月(7月だっけ? いや、9月?)に大魔王が降臨し云々…といった厭世主義的な思想です。これが多くの人々を駆り立て、刹那主義に走らせました。それに新興宗教が関与し、様々な衝撃的事件を巻き起こしたのは事実です。そして、それをして日本は宗教に対して、ある種アレルギーのようなものを持ってしまいました。
しかし、先に述べたように、宗教とは常に個人に対して内向きのベクトルを持ったものです。自己実現のために如何にすべきか、といった事をひたすらに探求していきます。仏教のベースが哲学思想であることがその根拠です。修行というものはつまり、人間が当然のように持っている欲求を排除していくことで、より高邁な精神を手にできるのではないか、という思想がベースとなっています。すべての喜怒哀楽を自分のうちに収め、常に平静でいる状態を仏教では『涅槃』と呼びます。よく頭の足りないギャル(死語かしら?)が口にする「チョームカツク」は「ムカツク」を「超越した」モノですから正しくは「ニルバーナ」なのです。――ハナシ逸れましたね。
私が軽蔑する(あえて強い言葉を使わせていただきますが)のは、それに反した宗教です。つまり、「こうすることで超常現象的な力を手にできる」といった触れ込みで教団員を募るやり方です。はっきり言ってヨガを極めたことで空を飛べるようになったり、瞬間移動ができるようになったり、はしません。しかし、それがあたかもできるかのような恐怖感、危機感を与えて服従させるようなやり方は『宗教』ではありません。極端な例かもしれませんが、天草四郎が水の上を歩いた、といって教徒を集めたあのキリシタンのやり方は、私から言わせると的の外れたものです。
これに通ずるのが、すべての利益が『教祖』に向かうやり方です。宗教は無私の境地にたどり着くべきです。よってあらゆる権力から解放されます。国家から一切干渉を受けない、というものが「宗教の自由」であり、「政教分離」なのです。よって、宗教は国家、あるいは政治団体と関わりを持つべきではありません。なんたって、宗教は個人に帰属するものであるからです。
ここで強く主張しておくべきことは、私は政治活動に関与する宗教団体に所属する人を否定しているわけではない、という事です。何度も述べるように、宗教は個人の内側に作用するものです。その宗教が政治的な側面を持ったからと言え、所属する個人を否定する理由はどこにもありません。要は、個人がその経典に従って個々に課したルールを守って生活することが重要なのです。経典を信ずる彼ら彼女らが、生活の上で感謝の対象とする存在がフレキシブルであればあるほど、その宗教は高邁であると言えます。ここでは団体の方針はあまり重要ではありません。団体が与える経典=自己実現のヒントを、個人が自由に解釈でき、それを伸ばしていける環境があれば、この上ない素晴らしいものになります。
逆に、感謝の対象が常に教祖であったり、癒着する巨大な組織だったりする宗教は、歴史を見ればわかるように『邪教』と呼ばれてしまいます。宗教は統治の手段になってはならないのです。
バカみたいに長くなってしまいましたが、最後に言わせていただくとします。人々は世間の流れに飲まれてしまいがちです。世論がこうあるから、自らの意見を主張することが難しくなる。誰でも仲間外れにされたくないから、周りのいうことに同意する。こうした状態を「沈黙の螺旋」など面倒くさい用語で表現しますが、この螺旋に対して、行動に移せなくとも自らの意見を持てることが宗教の意味だと思います。自分自身にルールを持つ。コレって、宗教に対してニュートラルな私にとって結構ハードボイルドでカッチョいいと思うのです。で、コレが個人と宗教の関係のキーワードだと思っているのですが、どうでしょうか。
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よーし、かなりの長文を一気に書いてしまったから、これから先はバカなことを書きますよー。なんたって、カスタムの計画ですから、書くことが少ないんです。
700円以内でパワーフィルターのカバーを作る。一見ムチャなように思えますが、よくよく考えたらかなり楽勝です。だって、雨水が入らないようにある程度覆いを付ければいいんだもん。
しかし、そこに吸気の良さを加味したら、ちょっと難しくなるかもしれません。でも、ナーニ、要するに空気が入ればいいんでしょ。空気なんて地球上にいっぱいある。何なら私の周りの空気、売ってあげましょうか? 2リッターのペットボトル1本当たり200円くらいで。
キャブのオーバーホールに成功し、容姿端麗なるご婦人方からの「ステキッ、抱いて♡」コールを待つのみとなった私にとって、この程度の問題など朝飯前です。とりあえず、カスタムパーツショップとして名高い最寄りのビバホームに行ってきます。
――高い、高すぎる。
いい素材は売っているんです。排水管のにおい逆流防止の釣り鐘とか、ステンレス製の計量カップとか。ですが、値段を見ると気絶レベルです。なんちゅうか、加工して取り付けるには「モッタイネエ(大分昔の口臭ケアのCMの浅野温子サンの口調で)」のです。さて、どうするか。
ビバホームからさらに数百メートル先の100円ショップ、「キャンドゥ」に向かいます。「Can Do?」って疑問形にするとなんだか挑発的です。
で、見つけました。
ステンレス製マグカップ(450ml)です。探してたら夜になっちゃいました。
「ハジメテはちゃんと洗ってネ♡」などとカマトトぶっていますが、私は知っています。このマグカップが漢のためのカスタムパーツであることを。
こいつを…
こんな感じにつけるんですよ。――ってくらい上にピンボケですね。
固定方法は検討中ですが、これが付いたらかなり大口径で横から見たら角形、というかなりガッチリしたものになると思うんです。 フェンダーにはギリギリ当たりません。また、直径も大きいように見えて、実はフィルターにピッタリ。吸気もうまい事行きそうです。
ここで悩むのは、取っ手を切り取るか否か。あえて残してマグカップ感をアピールするのもありかな。でもカスタムの方向としてはクラシックなレーサーだし。うーむ、未だにラットっぽくするのもいいんじゃないか(その方が楽だし)と思ってしまいます。