
アップ⤴️が遅れる中、番外編😅
せっかく米沢に来たので、「天下御免の傾奇者」前田慶次の足跡👣を辿ってみようってことで、慶次が晩年を過ごした堂森の地へ🚐💨

車を10分ほど走らせ🚐💨 米沢市万世町堂森にある堂森善光寺の駐車場に到着‼️

米陽八景・堂森秋月の図☺️
1695年に描かれた善光寺・堂森山・月見平・仁王門・阿弥陀堂・本堂・鐘楼堂・庫裡・寺侍屋敷・郷民の生活環境などが克明に描かれている👏

寺歴不詳ながら平安時代以前に開山されたとされる堂森善光寺🤔

米沢市前田慶次マスコットキャラクター「けーじろー」

前田慶次供養塔
堂森松心山善光寺の住職酒井清滋氏により昭和55年10月に建立された👏
供養塔には慶次の戦功と堂森での生活が記されている😊

徳利と盃😳

前田慶次郎兜むくりモニュメント🤔

慶次の力石🤔

寺務所で「無苦庵」と「慶次清水」の場所を教えて貰った🙏

無苦庵付近は駐車スペースがないので、市営八幡原野球場🏟の駐車場に駐めて散策🚶♂️💦

米沢駅東線を米沢駅方面に進み、徒歩🚶♀️5分ほどで、案内板が見えて来る👀

無苦庵は東に堀、西に土塁を配した東西109m、南北72mの規模だった😳

図面に残る水堀の名残りだろうか🤔

無苦庵跡に住めるなんて羨ましい🥺

西側の小径を進むと土塁を発見👏

西側に続く土塁に案内板がある‼️

北側😳土塁にも見えるが、個人宅なので中に入れず😥

土塁脇の堀跡👏

嘗て、前田慶次がここ「無苦庵」で余生を過ごしていたと思うと感慨深い☺️

無苦庵記の一節
「そもそもこの無苦庵は、孝を勤むべき親もなければ、憐むべき子もなし
こころは墨に染めねども、髪結ぶがむづかしさに、つむりを剃り、手のつかひ不奉公もせず
足の駕籠かき小揚やとはず、七年の病なければ三年のもぐさも用ひず
雲無心にして岫を出るもまたをかし、詩歌に心なければ、月花も苦にならず、寝たき時は昼も寝、起きたき時は夜も起きる
九品蓮台に至らんと思ふ欲心なければ、八萬地獄に落つべき罪もなし
生きるまで生きたらば、死ぬるでもあろうかとおもふ」
ん〜この境地に至りたい☺️
続いて「慶次清水」へ🚶♂️💦

八幡原野球場のスコアボードの裏側を抜けていくと、「慶次清水」の入口がある👀

えっ😳この道なの⁉️

暫く進むと、小径が鮮明になってくる😊

「慶次清水」里の名水・やまがた百選にも選ばれている👏

慶次の詩:樵路躑躅
山柴に 岩根のつつじ かりこめて 花をきこりの 負ひ帰る道

今も水をたたえる「慶次清水」👏
瓢箪の形をしているのも興味深い☺️

畔に座って清水を喫していたのだろうか🤔

ちょっと呑んでみよう😁
冷たくて美味しい☺️

嘗ては慶次もこの景色を眺めながら清水を楽しみに行ったのだろうと思いを馳せる☺️
続いて、前田慶次の甲冑を見に宮坂考古館へ🚐💨

ものの数分で宮坂考古館へ🚐💨
堂森善光寺と米沢城🏯の中間点ほどに位置する☺️
故宮坂善助初代館長が80余年の生涯をかけて蒐集した約7百余点の貴重な資料を収蔵している私設博物館だ👏
※撮影不可なので、写真は本やネットからの拾い物です😅

水原常陸介親憲所用「紫糸威二枚胴具足」👏
兜に「風の神、雷の神、火の神」と書かれた団扇をあしらった前立てをつけていた😊
大坂の陣では、先祖伝来の古い具足を一領しか持っていなかった親憲は、具足の上に猿楽の装束能法被を着て戦っていたと云う👏

水原親憲は、上杉謙信、景勝の二代を支えた上杉家の剛の者で、鴨居に額をぶつけるほどの大男だが、分け隔て無く人と交わる人柄で、手足のように軍を動かし、数々の武功をあげた😳
「長谷堂城の退却戦」でも前田慶次とともに親憲は鉄砲隊を率いて殿軍を務め、大激戦の中、敵大将最上義光の兜に銃弾を当てたと云う👏

※山形城のブログでも触れたが、現存する最上義光の兜には鉄砲玉の痕があり、篠垂 (兜の一部) が吹き飛ばされている👏

鬼小島弥太郎所用「赤金塗紫白糸威二枚胴具足」
月の前立てに赤と金を交えた具足は鬼気迫る異様な迫力がある👏

上杉謙信の幼少期からの側近で、力士衆でもあり、身の丈は六尺(約180cm)を超す剛力無双の豪傑で、数々の武勇や兜の前立てと背中の指物に鬼があったことから「鬼小島」と恐れられていた👏

上杉綱憲所用「本小札紺糸威胴丸 」
兜は六十二間筋小星兜で前立は表が金色、裏が朱色の木製日輪と云う粋な造りだ👏
上杉綱憲は米沢藩四代藩主であり、吉良上野介の実子だ😳
綱憲は諸事派手好きで、惜しげもなく金を使い財政窮乏を悪化させた😱
また、赤穂浪士の仇討事件が起きた時、実家の吉良家に救援に駆けつけなかった米沢藩は「腰抜け」と評判を落としたと云う😩

上杉憲政所用「三仏前立総覆輪阿古陀形筋兜 素懸紫糸威黒塗板物五枚胴具足」👏
臑当ても黒塗竹雀の金蒔絵と三枚筒に牡丹獅子を金蒔絵にした「流石は関東管領」といった豪華な一領だ👏
山内上杉家15代当主で関東管領職の上杉憲政だが、何かと評判が悪いことでも有名だ😥
『甲陽軍鑑』でも「弱過ぎる大将」と辛辣に貶められている😔
三千の城方を八万の大軍で囲み、圧倒的有利だった「河越城の戦い」で大敗した憲政は、上野平井城🏯に逃れ、さらに敗戦と離反で勢力を減らし、越後で上杉謙信を養子にし、関東管領職を譲った🤔
「河越城の戦い」の際に上杉憲政が築いた柏原城🏯に先日訪れたが、護りはしっかりしてたのになぁ😥

上杉謙信所用「葵前立黒韋張懸頭巾兜 素懸白綾威具足皺葦包板物腹巻」
前立ては金属製の蜻蛉(勝虫)で、謙信らしくない甲冑だなぁと思ったら、謙信が上杉憲政から拝領したと伝えられる一領だった🤔
上杉謙信と言えば五度にわたる「川中島の戦い」での宿敵武田信玄との因縁というか友情めいたものを感じざるを得ない☺️
今川氏真の塩止めに対しても「戦いで決着をつけるべきだ」と、信玄に塩を送り、信玄は感謝の印として、福岡一文字の在銘太刀「弘口」一振(塩留めの太刀)を謙信に送った👏
また、信玄の死を伝え聞いた食事中の謙信は、「吾れ好敵手を失へり、世に復たこれほどの英雄男子あらんや」と箸を落として号泣したと云う😢

上杉景勝所用「日輪双瑞鳥前立黒漆小星兜 浅葱糸威黒皺葦包板物二枚胴具足」
上杉景勝は、謙信の死後、上杉家の家督をめぐる「御館の乱」で上杉景虎を破り、謙信の後継者となった☺️
景勝は、武骨で謹厳実直、規律や権威にはとても厳格で、寡黙でほとんど感情を表に出さなかったと云う🤔
家中での酒宴のとき、水原親憲が顔に紅、白粉を塗りたくり、真っ赤な頭巾を被り、上杉景勝の前で舞ったところ、景勝の表情が少し崩れたと云う😳
なんとなく、前田慶次に通ずるエピソードだ🤔

直江兼続所用「梵字鍬形前立錆色塗六十二間筋兜 浅葱糸威錆色塗切付札二枚胴具足」
前立に戴く梵字は「アン」で普賢菩薩(胎蔵界)を表わし、最上合戦のおり着用したと伝えられる🤔
前田慶次は茶は古田織部に、連歌は里村紹巴に師事し、松井友閑や大村由己、戦国武将の中でも文化人として名高い細川幽斎などとも交流があった😳
頻繁に連歌会を開き、それがきっかけで兼続と慶次は出会い、友人関係になったのではないかと云われる🤔

前田慶次所用「黒漆編笠形兜 朱漆紫糸威最上胴具足」
前田慶次は別名、利貞・利卓・利太・利大・利興
・宗兵衛・慶次郎・慶二郎・啓次郎・慶次
と多数あり、穀蔵院飄戸斎・穀蔵院忽之斎・龍砕軒不便斎という人を食った道号も伝えられている😁
慶次にとって家名や号など符牒に過ぎないってことだろう😊

小説『一夢庵風流記』や漫画『花の慶次』で「身の丈六尺五寸(197cm)の大柄の武士」として描かれているが、現存の甲冑も、一緒に並ぶ甲冑と比べても大きさは然程変わらない😥まぁ、水原親憲も鬼小島弥太郎も直江兼続も長身だったけど…

前田慶次は天性豪放磊落奇行に富み、天下に武名を轟かせた武辺者でありながら、広く諸芸道にも通じ、一流の文化人でもあった☺️
慶次の傾奇者ぶりを聞き付け、面会した豊臣秀吉に対しても、髷を頭の片方に寄せ、秀吉に平伏しても、髷は正対しているが、顔はそっぽを向いていた👏
秀吉は慶次の傾きっぷりの褒美にと馬一頭を与えたが、慶次は礼も言わずにその場を去った😳
が、すぐに立派な正装姿で現れて、改めて深く平伏したと云う👏
秀吉は「向後何方にて成とも、心の儘に衡き候へ」と「傾奇御免」の御意を与え、慶次は名実ともに「天下御免の傾奇者」になった👏

前田慶次所用瓢箪徳利👏
高さ約25センチの木彫りの徳利で、表面には
「戦雲如墨疾雷雨祝出陣神酒一益 利貞」という文字と、「へのへのもへじ」が彫られており、根付には、刀の鍔を用いている☺️
「長谷堂城の戦い」の慶次の出立ちは、「黒き物具に猩々緋の羽織を着、金のいら高の数珠の房に金の瓢箪付たるを襟にかけ、山伏頭巾にて十文字の鎗を持、黒の馬に金の山伏頭巾かぶらせ唐鞦 かけたり」という異装で、もちろん黒の馬は松風だ👏
この日の瓢箪は別のモノの様だ🤔
先鋒大将・上泉主水正泰綱(剣聖上泉伊勢守信綱の嫡孫 )を失い、人も馬も血で真っ赤に染まる「長谷堂城の戦い」の中、石田三成率いる西軍が遠く離れた関ヶ原で東軍に大敗したとの報が入ると、史上稀に見る大激戦「長谷堂城の退却戦」へと様相を変える😳
最上義光軍と伊達政宗軍に阻まれ、退却が出来ない兼続に代わり、殿軍を引き受けた前田慶次は、水原親憲の鉄砲隊二百の一斉射撃を味方に、「朱槍の勇士」水野藤兵衛・韮塚理右衛門・宇佐美弥五右衛門・藤田森右衛門の四人を従え、朱柄の大槍を振りかざしながら敵陣へ突っ込み縦横無尽に暴れ回り、無事、殿軍の役目を果たした👏

前田慶次所用「編笠」
全て馬の尾の毛で編まれ、目だけが露出する形状になっている🤔
慶次には、世を軽んじ人を小馬鹿にする悪戯癖があり、「たとえ万戸候たりとも、心にまかせぬ事あれば匹夫に同じ、出奔せん」と、主君前田利家を騙して水風呂を浴びせて出奔したり、林泉寺の傲慢な和尚を戒めたりなど、数々の逸話が残っている🤣
時には、身を滅ぼしかねない悪戯を命懸けで楽しむ悪童、ひとたび合戦になれば悪鬼羅刹のような強さで戦さ場に花を咲かせる、そうかと思えば一流の文化人にして風流人にもなる🥰
戦国時代を駆け抜けた天下御免の傾奇者、前田慶次👏お見事でした👏
堂森の地に「無苦庵」を構え、悠々自適に花鳥風月を愛で、酒🍶を呑み、風流に暮らした慶次の晩年を想い、「道の駅あいづ」で今夜もソロキャンプ😊

今夜のお酒も檸檬堂の塩レモン🍋

今夜のチキンはハーブ🌿味😊

そして豚肉の辛味噌炒め🐖

三品目は手抜きして、イワシの蒲焼き缶詰😅

そしてタコわさ🐙
ひとり楽しんでいたらパトカー🚓が巡回に来た😅

山形城🏯、米沢城🏯を巡り、前田慶次の足跡👣を辿った一日😊
前田慶次、直江兼続、水原親憲、そして最上義光…「長谷堂城の戦い」に集った武将の甲冑四領を目に浮かべながら、お酒を呑み、タバコ🚬をふかす…何ものにも替え難き至福の瞬間☺️
350㎖缶を5本空けてしまった🥴
翌日は最終日、早めに就寝😪💤