
娘の用事に付き合わされ「喜んで😅」仙台へ🚐💨
せっかくなので続日本百名城のひとつ白石城🏯へ

白石市役所に併設されている駐車場に駐め、「城来路(シロクロード)」を通り、いざ攻城‼️

白石城🏯は、奥羽山脈と阿武隈高地に囲まれた白石盆地にある標高76m、比高20mほどの独立丘陵地の北端に築かれた梯郭式平山城で、丘陵の頂きに本丸・二ノ丸・中ノ丸・西曲輪を置き、中段には沼ノ丸・南ノ丸・巽曲輪・帯曲輪・厩曲輪、平地部分には三ノ丸・外曲輪という六丸五曲輪構成だ👏
奥州街道が南北に縦断し、西は米沢、東は相馬へと繋がる交通の要衝に位置する🤔

三ノ丸側から進むと帯曲輪下の切岸に堀跡と思われる水路が続く🤔

登城口で折り返して坂を登る💦
左手は本丸の切岸だ😳

二ノ丸大手二ノ門跡‼️
城の東側にある奥州街道沿いの大手口から二ノ丸へ通ずる門だった😳

白石城🏯の二ノ丸大手ニノ門は市内の当信寺山門として移築現存する👏

野面積みと切込接ぎの石垣が同居する本丸跡外郭石垣👏

「歴史探訪ミュージアム」に展示されている白石城🏯の模型😳
白石城🏯の築城時期は不明とされ、伊達氏の城であったが、豊臣秀吉の奥州仕置以降は、蒲生氏郷の家臣蒲生郷成が入り、近世城郭へと改修した🤔
1600年、徳川家康の会津征伐に乗じて、伊達政宗が白石城🏯を攻め取り、1602年には政宗の側近である片倉小十郎景綱が白石城🏯を受領した🤔

伊達政宗の腹心片倉小十郎景綱☺️
政宗がまだ梵天丸のころ、天然痘の後遺症により外に飛び出てしまった右目👁を刀で潰すよう近習たちに命じたが、恐れて誰も従うものはなかった😨
そこで景綱は切腹覚悟で、小刀で政宗の右目を潰したと云う😳

片倉小十郎景綱の「神符八日月前立筋兜」のレプリカ☺️

滑らかな弧を描く本丸石垣👏

土塀には狭間が並ぶ🤔

本丸には天守の代用として、大櫓(三階櫓)が建っていた👏
仙台城🏯の支城という格と幕府への配慮から天守の名を憚り、「大櫓」と名づけられたと云う🤔

1823年の構造に基づき、忠実に木造復元された複合式層塔型三重三階の大櫓(三階櫓)👏

古絵図にも描かれている井戸屋形🤔

本丸は高さ9.3mの石垣上にあり、大櫓の高さはその石垣天端から約16.7mで、合計26mの姿はまさに圧巻だ😳
戦後の木造復元天守のなかでは高さ・広さ共に日本最大級だ👏

厩口門跡🤔
実はこの厩口門も市内の延命寺に移築現存している👏

片倉家屏風絵による厩口門は、入り母家風に描かれているが、移築の際、屋根は切り妻に、一階両側の壁に「火灯窓」、二階に「眼象窓」を設け、山門らしく改造されたと伝えられる🤔

大櫓の石垣は野趣溢れる野面積みで、復元に野面積みを採用したのは、全国でも白石城🏯が初めてとのこと😳

二ノ丸から大櫓をパチリ📸
右の銅像は、白石市出身の身長194cm、体重134kgの巨漢力士‼️明治の大横綱「大砲万右エ門(おおづつ まんえもん)」だ😳

二ノ丸と本丸に挟まれた馬場跡🐴
左手は未申櫓の切岸だ🤔

二ノ丸には神明社⛩が鎮座する🙏

手水社と白石城🏯大櫓😊

神門☺️

平安時代初期の807年、征夷大将軍・坂上田村麻呂の勧請が創始とされ、その後藤原秀衡、蒲生氏郷、上杉景勝に庇護された👏
1600年、「白石城の戦い」によって伊達政宗が城を奪取したのち、片倉景綱が城主となり片倉家の崇敬社、白石城🏯の鎮守社となった🤔

拝殿🙏

御祭神は、天照皇大神・天御中主神・高御産巢日神・神産巢日神に、伊達政宗公(神号 武振彦命)・片倉小十郎景綱公(神号 奇敏鎌田彦命刈)も合祀されている😳

大手門より本丸へ🚶♂️

復元された大手一ノ門👏
小さな塀中門で菱門とも呼ばれ、桝形に入る前に敵の勢いを止めるため、狭く扉がないのが特徴🤔

復元された大手二ノ門👏
桝形は土塀で囲まれ、大手二ノ門前で折り曲げる工夫がされている🤔
重厚な櫓門には鉄砲狭間が配され、敵兵を一網打尽にする備えだ😳

本丸に入り、大手二ノ門と大櫓を望む👏

本丸を囲う土塁を貫く裏御門跡☺️

本丸辰巳櫓跡☺️

本丸土塁の上を歩いてみる🚶♂️💦
北半面と違い、南半面は中世城郭の雰囲気が顔を覗かせる☺️

本丸跡にデーンと建つのは…よくある「忠魂碑」かと思ったら、「片倉小十郎景綱頌徳碑」👏
初代「小十郎」の通称は片倉家代々当主が踏襲するようになった☺️

「片倉小十郎景綱頌徳碑」と大櫓📸

「白石城」の碑と大櫓📸

二ノ丸側からの姿とはまた異なる壮麗な佇まいだ🤔

大櫓の東の鐘堂☺️
鐘は伊達郡桑折町の傳来寺に買い取られたそうだ😅

大櫓には付櫓が付されている☺️

大櫓と土塀の間にスペースがあり付櫓からの通用口になっている😳外観を大きく見せる工夫だろうか🤔

本丸土塁に遺る石垣👏

大櫓と本丸土塁☺️石段には大きな覆屋が施されている🤔

石段を登り内部へ🚶♂️

片倉家の旗印「白地黒釣鐘」☺️
この旗印は、伊達政宗の乳母「片倉喜多」の考案と云われ、「片倉の名を天下に鳴り響かせよ」との意味と、「戦死した霊を弔い慰めるための黒鐘」との説がある🤔

白石城🏯を取り囲む夥しい旗指物が描かれた「白石城旗験屏風」の本丸には片倉家の馬印「白地黒釣鐘」が描かれている😳
実は攻められているのではなく、初代小十郎が入城した2月初卯の日を記念して、毎年、家中の旗指物を立てて祝っていたと云う🤔

黒釣鐘は、宮城県白石市の市章となっている🤔

こっちの☆は「奥羽越列藩同盟旗」🤔
戊辰戦争の際、陸奥国・出羽国・越後国の31藩が、新政府軍に対抗するために結成した同盟はここ白石城🏯で結ばれた🤔

北側と西側には石落があり、壁には矢狭間と鉄砲狭間が備えられている👏

後ろに掲げられた絵は、景綱の子、鬼の小十郎こと片倉小十郎重綱が大坂の夏の陣の大勝に感謝し、山城国愛宕神社⛩に奉納した「烏天狗と猪の大絵馬」を描いたもの👏

やっぱり急な階段☺️

武者走り☺️

けっこう広い大櫓の最上階🤔

最上階からの眺望👀
一ノ門から二ノ門へと狭まり角度をつけて広がる大手桝形の構造がよくわかる🤔

片倉小十郎景綱は、かつて豊臣秀吉から直臣に誘われたほど、有能な人物で、伊達政宗の家臣でありながら、破格の15000石の大名並みの禄を受けていた😳
幕府の一国一城令を白石城🏯が免れたのも、景綱の力量と功績を認められたことが一因とも云われている🤔以降、明治維新までの260年以上の長きにわたり、片倉家の居城として存続し、現在も随所に往時の面影を遺している白石城🏯お見事でした👏
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2021/10/07 15:18:14