
夏の城&国宝めぐり一人旅の第3弾は、日本百名城のひとつ、戦国の風雲児織田信長の最後の居城 安土城🏯へ🚙💨
その前に、腹が減っては攻城はできぬ🤤

せっかく滋賀県に来たのだから、近江牛牛丼🐃
結構なお値段だったけど、今まで食べた牛丼の中で断トツに旨かった😋
流石‼️松阪牛・神戸牛に並ぶ「日本三大和牛🐃」のひとつ近江牛👏
因みに、これで日本三大和牛制覇🏆

先ずは攻城前の妄想タイム😑

「安土城天主 信長の館」で、絢爛豪華な安土城天主🏯(5階〜6階復元)を見てイメージを膨らます😌

安土城考古博物館はリニューアル中で見れず😱
安土城🏯へ🚙💨

木陰の駐車場🅿️に駐められてラッキー🤞

元祖アフロサムライ「黒坊主」こと弥助もキャラに🤔
イエズス会の宣教師にモザンビークから奴隷として連れてこられた弥助は、織田信長に気に入られ家臣に召し抱えられた😳

安土城🏯は1579年、天下統一目前の織田信長の命により、琵琶湖の東岸、標高198m・比高110mの安土山に築かれた梯郭式山城で、山上に聳え立つ高さ33mの五重天主は、日本史上初の天守閣であり、世界でも初めての木造高層建築と云われ、のちの城郭建築に大きな影響を与えた😳

黒漆で塗られた三重の主殿に廻縁、高欄で飾られた金・赤・群青の二重の望楼を載せた絢爛豪華な天主は、人々の度肝を抜いた👏
山上に燦然と輝く、華美を極めた巨大な天主の威容に、イエズス会宣教師のルイス・フロイスは、その著書『日本史』において、安土城天主🏯を次のように紹介している🤔
「中心には、彼らがテンシュと呼ぶ塔があり、私たちの塔より気品があり壮大な建築である。この塔は七層からなり、内外共に建築の妙技を尽くして造営された。事実、内部にあっては、四方に色彩豊かに描かれた肖像たちが壁全面を覆い尽くしている。外部は、これらの階層ごとに色が分かれている。あるものは黒い漆塗りの窓が配された白壁であり、これが絶妙な美しさを持っている。ある階層は紅く、またある階層は青く、最上階は全て金色である。このテンシュは、その他の邸宅と同様に我らの知る限りの最も華美な瓦で覆われている。それらは、青に見え、前列の瓦には丸い頭が付いている。屋根にはとても気品のある技巧を凝らした形の雄大な怪人面が付けられている」
フロイスの書簡等によって、ヨーロッパにまでその名を轟かせた安土城🏯であったが、築城から僅か3年余、主である織田信長が本能寺で倒れると、まるで後を追うかのように炎上🔥地上から姿を消し、安土城🏯は「幻の名城」となった😭

大手口の石垣が出迎えてくれる☺️
山上に天主が現存していたら…と想うと胸が熱くなる🔥
安土城🏯は二度目の攻城だが、前回は弾丸だったので、今回はじっくりと攻城出来そうだ😁

定期購読しているDeAgostiniの『決定版日本の名城』でしっかり予習してきたのでバッチリなハズ😁

これぞ安土城🏯というショット📷
左右を3mほどの石垣で固め、6〜7m幅の直線の大手道の石段は180mにも及ぶ😳
安土山麓から城の中核部へ直線状に伸びる大手道は防御に適さないつくりと云われ、城下との連携、即ち軍事より内政を優先したという説や、天皇の行幸への備えという説などがある🤔

前田利家邸跡😳
大手道の左右は有力な家臣の屋敷で固められていた🤔

羽柴秀吉邸👏

規模の大きさと立地が、秀吉の織田家臣団に占める地位と信長からの信頼度を示している😆

こちらは徳川家康邸😳

現在は1854年に火災🔥により焼失した摠見寺の仮本堂となっていて、寺宝として、織田信長所用の永楽銭を散らした銀象眼の鉄鍔(まけずの鍔)や陣羽織が伝えられているとのこと😳見たかった〜っ😭

おーっ😳かなり登ってきたな💦

直線的な大手道はここで終わり左に折れる🤔

祐筆の武井夕庵邸址🤔

まだまだ大手道は続く💦

築城を急いだためか❓信長流の偶像崇拝への皮肉か❓石仏もただの材料扱いされた😳
流石は「第六天魔王信長」😆

次はジグザグの石段が続く😳

織田信長の長男 織田信忠邸😊
信長から生前に家督を譲られ織田家当主となったが、本能寺の変🔥の際、二条城で自刃した🙏

まだまだ進む🚶💦

織田信長に謀殺された実の弟、織田信行の嫡男 織田信澄邸と森蘭丸邸☺️
天主に近いのは、信長からの信頼が厚い証🤔
信長が如何に蘭丸を寵愛していたかがわかる😆

安土城🏯中枢部への虎口である黒金門👏
これまでの石垣よりも特に大きな石を使って組まれている😳

左、右とクランクになっている🤔

正面は二の丸の石垣と枡形虎口👏左右どちらにも進める寄せ手を惑わせる構造だ😳
前田利家邸、羽柴秀吉邸、徳川家康邸と犬・猿・狸に挟まれた真っ直ぐな大手道からジグザグの石段、織田信忠邸、織田信澄邸、森蘭丸邸と来て、黒金門と枡形虎口😳
これで防御弱いってないわ😁

左側には織田信雄の家系の供養塔🙏

右手方向に進む🚶💦

二の御門跡👏

佛足石、御釈迦様の足跡👣を表現したものだが、仏石と同様に石材として集められたらしい😓

三の御門跡と二の丸東溜り☺️

奥の石碑は、護國駄都塔(ごこくだととう)と読むらしいが、意味はわからず😅
裏には「天保十三年建立」と刻まれている🤔
1842年か…ますますわからん🤯

二の丸へ🚶💦

二の丸と伝わるが、本来は安土城🏯本丸の表御殿、御座敷跡だと云う🤔

1583年に羽柴秀吉らが建立した織田信長公本廟🙏8年前に攻城した時と比べて綺麗に建て替えられている😳
信長が自身を神格化し、摠見寺に「盆山」という石を御神体として置き、人々に拝ませたことは有名だが、奥に安置されている石は、一説によるとこの「盆山」だとも云う😳

本丸へ🚶💦

天主台の石垣👏

高さは約12mに及ぶ天主台の石垣は、反りを持たない直線的な勾配となっている😳

隅部は直角ではなく、鈍角となる鎬積になっている🤔

本丸から天主台へ向かう🚶💦

本丸北虎口のあたりは発掘調査で入れない😭

天主台北側の石垣はかなり崩れていて、400年の時の流れを感じさせる☺️

天主への虎口👏
日本全国のお城で「天守閣」ではなく、「天主閣」と呼ぶのは唯一安土城🏯のみだ😆

キターっ‼️天主閣址‼️
28m四方の台地に巨大な礎石が整然と並ぶが、中央にだけ礎石がないことが安土城🏯の謎の一つとなっている🤔
織田信忠邸まで戻り、摠見寺へ🚶💦

石段がキツい💦

礎石が残る摠見寺本堂址☺️
天正10年(1582年)5月19日に徳川家康を招いた「安土饗応」の際には、信長はここ摠見寺に能舞台を整え、舞と能で家康をもてなしたと云う😳
信長が好んで舞ったという幸若舞の「敦盛」
『人間五十年、下天のうちを比ぶれば、夢幻の如くなり、一度生を享け、滅せぬもののあるべきか』
を舞ったのだろうか😆

現存する摠見寺三重塔👏
室町時代の建物で、棟札に享徳三年(1454年)建立、天文二十四年(1555年)修理との墨書きがある😳

安土城🏯築城に際し、織田信長が甲賀の長寿寺から移築したものとされている👏

570年前に建てられ、445年前に信長も見上げた三重塔が現存してるってことに感動🥺

百々橋口の急な階段を下りるとニ王門が見える👀

こちらの二王門も現存建造物👏
棟木に「元亀二年(1571年)七月甲賀武士山中俊好建立」とあり、三重塔と同様に信長が移築させたものと伝わる😆

二王門を守護するのは、1467年因幡院朝作の金剛力士像👏
三重塔・二王門と共に金剛力士像も国の重要文化財に指定されている😳
数々の前代未聞を樹立し、築城後、僅か3年で紅蓮の炎🔥に包まれ、灰燼に帰すも、後世の城郭建築に大きな影響を与えた幻の名城‼️
織田信長の天下布武の集大成、安土城🏯お見事でした👏
④へつづく
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2024/08/31 11:52:15