
一人旅の第5弾‼️
先ずは、府中三人衆の城🏯を巡る🏯
府中三人衆とは、織田信長より越前国を任された柴田勝家の与力・目付として、越前国府中一帯を治めた不破光治・佐々成政・前田利家の三人を指す☺️
龍門寺城🏯に不破光治、府中城🏯に前田利家、小丸城🏯には佐々成政が入り、三人合わせて十万石を領した😳
先ずは前田利家が築いた府中城🏯へ🚙💨

織田信長軍には、馬廻から選抜された信長直属の使番である「黒母衣衆」と「赤母衣衆」があり、前田利家は、その「赤母衣衆」の筆頭として多くの武功を挙げ、「槍の又左衞門」「槍の又左」などの異名をもって呼ばれていた👏若い頃は血気盛んで、短気で喧嘩っ早く、派手な格好をした「傾奇者」だったと云う😳

かつては二層の天守を擁していたと云うが、府中城🏯本丸跡には越前市役所が建ち、遺構は壊滅的な状態となっている😱
この石垣は発掘調査で発掘されたものを積み直したモノだが、元のまま遺して欲しかった😥
ここから暫くはチャリ🚲での移動🚴♀️💨

越前市役所から南西800mほどにある正覚寺は、もともとは南北朝時代に越前守護職であった足利(斯波)高経の新善光寺城🏯だった🤔
この正覚寺の山門は、府中城🏯の表門を移築したモノで、府中城🏯唯一の現存建造物だ👏
続いて、これまた近隣にある不破光治の龍門寺城🏯へ🚴♀️💨

不破光治は、もともとは美濃国の戦国大名「美濃のマムシ」こと斎藤道三に仕え、稲葉良通・安藤守就・氏家直元の3人(西美濃三人衆)に加え、西美濃四人衆と称されることもあったと云う🤔

1573年の朝倉攻めの際、織田信長がここ龍門寺城🏯に本陣を構えた🤔
朝倉氏滅亡後は越前の門徒領国化を狙う一向一揆勢によって支配されたが、1575年には一揆討伐のために信長は羽柴秀吉・明智光秀らに龍門寺城🏯を攻めさせ、再び龍門寺城🏯に入っている😳
一揆平定後は不破光治が城主となった🤔

卍が辻😳
龍門寺城🏯の北50mほどにある桝形の四つ角に小道が接続する特殊な四つ辻で、どの道からも見通しがきかない形状から「卍が辻」と呼ばれている👏

地図で見るとこんな感じ😳
織田信長が足軽の人数を数えるための「人桝」として造ったとも、見通しを悪くすることにより攻めにくくするための軍事的な施設だったなど諸説あるが、宅地開発などで失われることなく、現在も遺っていることが素晴らしい👏
続いて、真柄十郎左衛門直隆の館があったとされる興徳寺へ🚙💨

真柄十郎左衛門直隆は、身長7尺(210cm)の「鬼真柄👹」と呼ばれた豪傑で、黒鹿毛の馬に跨り、「太郎太刀」と呼ばれる刃長七尺三寸(約221cm)の大太刀を振り回して戦ったことで有名だ😳
姉川合戦図屏風にも大太刀を振るう真柄十郎左衛門直隆が、蜻蛉切を携えた本多平八郎忠勝と一騎討ちを演じる様子が描かれている😆
単騎で敵陣を突き進むも、討たれる時には潔く、「我頸を御家の誉れにせよ」と敵に首を献上して果てたと云う👏

案内板には鬼👹

真柄十郎左衛門直隆の墓🙏
墓石🪦の前には、鉄製の下駄が置かれている😳
鬼真柄👹が履いていた下駄は、長さ41cm・幅27cm・高さ14cm・重さ5.3kgだったと云う😳
続いて、佐々成政の小丸城🏯へ🚙💨

佐々成政は、前田利家の赤母衣衆に対し、黒母衣衆の筆頭として、数々の戦場で戦功を挙げた豪胆かつ実直な武将だったと云う🤔
1584年の小牧・長久手の戦いの際、豊臣秀吉と和睦しようとした徳川家康を説得するため、厳冬❄️の立山連峰🏔️🏔️🏔️を越える「さらさら越え」を敢行したことで知られる😳

本丸跡の櫓台☺️
小丸城🏯は1575年、味真野の扇状台地末端の比高約7mの小丘に、佐々成政が築いた輪郭式平城で、50m四方の本丸を中心に基底幅20mほどの土塁、幅20mの堀を擁する👏
1580年、佐々成政が越中の富山城🏯に移ると僅か5年足らずで廃城となったことから、小丸城🏯は未完成な状態であった可能性も考えられており、遺構も良好な状態で遺されている😆

本丸を囲む野面積みの石垣👏

野面積みの石垣が荒々しい本丸虎口👏

本丸南東隅の櫓台部分に設けられた穴蔵門形式の地下階への入口と考えられている😳
小規模な天守があったのだろうか🤔

大迫力の虎口の石垣は上部に巨石が渡されている😆
続いて、日本一複雑な屋根を持つという岡太神社⛩️大瀧神社⛩️へ🚙💨

岡太神社⛩️大瀧神社⛩️は、霊山 大徳山🏔️山上にある「奥の院(上宮)」と、山の麓にある「下宮」から成り立ち、奥の院では岡太神社⛩️と大瀧神社⛩️それぞれの社殿をもっているのに対し、下宮では両社の建物として一つになっているのが特徴だ😳

岡太神社⛩️・大瀧神社⛩️の神門と燈籠☺️
大瀧神社⛩️の起源は、推古天皇の時代(592~638年)に大伴連大瀧が神様の降臨を請う「勧請」を行なったことが起源と伝わる🤔
一方、岡太神社⛩️の歴史はもう少し古く、1500年程前、岡太川の上流に、一人の美しい姫が現れ「この地は清らかな水に恵まれているから、この水で紙漉きをして生計を立てよ」と、里の人々に紙漉きの技を教えたと云う🤔
里の人々は、姫を「川上御前」と崇め奉り、全国的にも珍しい「紙の神様」を祀る岡太神社⛩️を建ててお祀りしたのが始まりとされる😳
因みに、大蔵省印刷局抄紙部に川上御前の分霊が祀られていて、岡太神社⛩️は、全国和紙業界の総鎮守とされている😳

下宮の御社殿は岡太神社⛩️と大瀧神社⛩️の遙拝所になっている☺️
正面から見ると、そんなに違和感を感じないが…🤔

斜め前から見ると、その複雑怪奇な屋根の形状に圧倒される😳
入母屋造りに千鳥破風に唐破風😳そしてまた入母屋に唐破風が重なっていく屋根は、まさに「日本一複雑な屋根」だ👏
社殿は1843年に建立されたもので、曹洞宗本山永平寺の勅使門を手掛けた名棟梁 大久保勘左衛門の考案した美しさと複雑さを併せもつ唯一の社殿は、建築技術の限界に挑んだかのような精巧な作りが迫力を放ち、国の重要文化財にも指定されている👏
2日目の行程はこれで終了💦
豪雨🌩️予報だったので、キャンプは中止してネットカフェに泊まる😅
⑥へと続く
Posted at 2025/08/27 19:51:33 | |
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