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2020年08月10日 イイね!

【三春城】越後〜出羽〜陸奥 城攻め一人旅⑧

【三春城】越後〜出羽〜陸奥 城攻め一人旅⑧城攻め一人旅も遂にラスト🥺
全編アップ⤴️に1ヶ月近く掛かってしまった😅

先ずは腹拵え🤤
友人が総支配人をやってる裏磐梯レイクリゾート🏨で、オススメの馬刺丼を食す😊温泉卵と絡めると堪らん🤤
温泉♨️も勧められたが、眠くなってしまうので、断腸の思いでカット😭

続日本百名城のひとつ陸奥国田村郡にあった三春城🏯へ🚐💨

田村郡の名は、坂上田村麻呂による蝦夷征討後、その子孫である田村氏がこの地を代々支配してきたことに由来する🤔

三春城🏯は、その田村氏が治めていた戦国時代、標高407mの丘陵地の頂に築かれた典型的な山城で、山頂の本丸を中心とした「主城」の東南には「東館」、谷を挟んだ北西には「月斎館」と呼ばれる独立した曲輪があった🤔

奥州仕置によって、一旦は伊達政宗に預けられ、片倉景綱が置かれたが、間もなく蒲生領となったと思ったら、豊臣秀吉の命によって三春城🏯は廃城😳
その後、上杉領〜蒲生領〜加藤領となり、1628年に松下長綱が三春城🏯に入り、それまでの戦国城館から近世城郭に改修し、さらに秋田氏時代になると、藩主の居舘を山頂の本丸から山麓に移し、名実ともに近世的な階郭式平山城へと生まれ変わった🤔

三春町保健センター脇の「城坂」と呼ばれる狭い急坂を登る🚐💨

駐車場の入口の狭さに躊躇し、公園内の車道でちょっと広くなってる所に路駐😅

二の丸の切岸🤔

田村氏時代の二の丸の切岸と松下氏時代の二の丸に挟まれた堀切状の道👏
三春城🏯は、中世までは山頂部分だけだったため、本丸の一段下が二の丸だったが、近世城郭に改修されてからは、旧二の丸よりグッと下がった中腹に新たに二の丸が築かれたため、二の丸が二つあって結構ややこしい😵

右手の松下氏時代の二の丸に上がると児童公園になっている😳絵図で見ると、館の様なものがあったのかも🤔

少し降っていくと🚶‍♂️「二の丸散策路」とある🤔

九十九折の小径が出迎えてくれる👏

先ずは直進🚶‍♂️松下氏時代の二の丸の切岸下を犬走り状に進む💦

二の丸虎口、だが先ずは直進🚶‍♂️

この切岸と崖ギリギリの犬走りが堪らん☺️

二の丸はそれほど大きくなく、すぐ突き当たる🤔

もっと進めるかと思ったら、行き止まり🚧

奥側の二の丸虎口から侵入🚶‍♂️

松下氏時代の二の丸👀

二の丸の北側の崖下には集落が見える👀

二の丸は階段状になっていて、上段は先ほどの児童公園だ😳

現在、城山公園となっているが、崖はそのまんま👏都市部なら絶対に柵が設置されているだろう😅

先ほどの九十九折を降っていく😊

三春小学校のプール🏊‍♂️に出た😳
秋田氏時代の居館はこの三春小学校🏫の場所にあった🤔

藩校明徳館の表門が三春小学校🏫の校門として現存している👏

ニの門跡😊

三春城🏯は、伊達政宗の正室「愛姫」生誕の地だ😳鬼っ子👹松平忠輝室の五郎八姫、仙台藩二代藩主伊達忠宗の母にあたる🤔
黒川城🏯の蘆名氏、小高城🏯の相馬氏、岩城郡の岩城氏、米沢城🏯の伊達氏、常陸の佐竹氏に囲まれた田村氏は、日の出の勢いの独眼竜、伊達政宗と血縁関係を結ぶことを選んだ🤔

聚楽第の伊達屋敷に住みながら、政宗に京都の情勢を知らせ、「天下はいまだ定まっておりませぬ。殿は天地の大義に従って去就をお決め下さりませ。私の身はお案じなさいますな。匕首を常に懐に持っております。誓って辱めは受けませぬ」という手紙を送っている😳ん〜烈婦ですな☺️

今も遺る竪堀👏

もともと崖に囲まれた様な城山だから、切岸の角度がキツイ😳

なので九十九折に登っていく🚶‍♂️💦

石垣😳と思ったら岩壁だった😅
もともと岩の多い山なのだろう🤔

揚土門跡を折り返して三の門へ🚶‍♂️💦

これはっ😳 矢穴も見えるし、石垣だろ👏

本丸切岸に沿って、藪だらけの道を南から東に廻ってみる🚶‍♂️

本丸南側の石垣👏

もっと奥へ🚶‍♂️
本丸東側は切岸&犬走り&崖のセット😨

本丸東側の崖上には石垣が見て取れる😳

崖を攀じ登り💦石垣を近くで👏

ん〜まさに「兵どもが夢の跡」👏

北側にも廻りたかったが、行き止まり🚧

三の門まで戻る🚶‍♂️

田村氏時代の二の丸虎口手前の巨大な岩壁😳
まさに天然の石垣👏
よく見ると、岩壁と石垣のコラボになっている👏

二の丸虎口💦

振り返って見る👀右手は断崖だ‼️

田村氏時代の二の丸、松下氏時代は本丸‼️って、ホントややこしい🤯
足下にあるのは門の礎石だろうか🤔

三春城🏯には天守は無かったが、松下氏時代には本丸下段の崖端に天守代用の御三階櫓が威容を誇っていた🤔

石垣と「舞鶴城址」の碑😊
今回の城攻め一人旅で、米沢城🏯、村上城🏯に続き三つ目の「舞鶴城🏯」

本丸虎口🚶‍♂️

本丸👏

けっこう広い大広間跡👀

おっ😳天守台みたいなモノが見える👀

なかなか立派なモノだ🤔

上に上がってみよう🚶‍♂️

なにかある👀

「秋田家祖先尊霊」と書かれている👀
藩主秋田氏を祀る祠のための基壇らしい🤔
秋田氏は幕末まで三春藩主として君臨し、戊辰戦争の際、板垣退助らと密談し、三春藩は奥羽越列藩同盟を脱退し、無血降伏したため、逆賊の誹りを受けずに済んだ😅

本丸からの眺望👀一歩先は崖だ😨

搦手方面に向かうと石垣を発見😳

上部だけを石垣とする「鉢巻石垣」だ👏
なんか土塁に石を貼り付けた様な石垣だ😅

矢倉跡‼️

搦手門跡まで廻る🚶‍♂️
何故か搦手の入口は立入禁止🚧になっていた😥

上にも石垣と岩壁が見える👀

城山の地形を最大限に活かし、近世城郭に改修されながらも、中世城郭の遺構が色濃く遺る三春城🏯お見事でした👏


郡山から東北自動車道〜圏央道を🚐💨抜け、無事に帰宅😅

新発田城〜村上城〜鶴ヶ岡城〜山形城〜米沢城〜向羽黒山城〜鶴ヶ城〜三春城
全行程約1,200km💦
ソロキャンプしながらの城攻め一人旅、サイコーでした😊
Posted at 2020/09/06 23:40:14 | コメント(2) | トラックバック(0)
2020年08月10日 イイね!

【鶴ヶ城】越後〜出羽〜陸奥 城攻め一人旅⑦

【鶴ヶ城】越後〜出羽〜陸奥 城攻め一人旅⑦またまたアップ⤴️が遅くなってしまった😅
本来予定にはなかったが、向羽黒山城🏯を早朝から攻め、余裕が出来たので…子供の頃から通算すると4回目の攻城🤨日本百名城のひとつ鶴ヶ城🏯(会津若松城🏯)へ🚐💨

会津若松城🏯は、地元では鶴ヶ城🏯と呼ばれ、古くは黒川城🏯と称した🤔
戦国時代、蘆名盛氏が版図を拡大した黒川城🏯は、東西に伸びる舌状台地を堀切った連郭式平山城だったが、伊達政宗との「摺上原の戦い」で蘆名氏が滅亡すると、豊臣秀吉の命で蒲生氏郷が入り、城郭構造も梯郭式平山城に改めた近世城郭に大改修し、町の名を「若松」、城の名も「鶴ヶ城」とした🤔

蒲生氏の後は上杉景勝、蒲生秀行、加藤嘉明が入封し、加藤氏の代にも大改修を行ない、高低差を利用した北出丸と西出丸が出来、現在の鶴ヶ城🏯の形となった👏
1643年、3代将軍徳川家光の庶弟である保科正之が入封すると、以後、明治維新まで会津松平家(保科氏から改名)の居城となった🤔
三の丸の駐車場に駐め、東門に架かる橋から攻城開始‼️

橋を渡ると、二の丸を囲う濠が目に飛び込んでくる👀

右手の伏兵郭側は水が枯れている🤔

東門‼️見事な石垣👏

門以外の部分は土塁で囲まれている🤔

広大な二の丸👀

南門から一旦、外へ🚶‍♂️💦

本丸の西、南、東を囲う五軒丁濠😳
出丸や二の丸がない本丸南側は、濠と湯川により防御を高めていた👏
角の部分は月見櫓跡だ🤔

二の丸を囲う外濠は水草が凄い😳

外濠は左右に折れ、初めの東門の所まで続いていた😅ふりだしに戻って、再度、東門から攻城‼️

本丸を囲う内濠‼️手前角が御弓櫓跡、奥には追手門が見える😳

廊下橋門に架かる城内唯一の木橋「廊下橋」👏

鶴ヶ城🏯の中で最も高く、東日本でも有数の高さを誇る圧巻の高石垣👏
打込接ぎ布積みの高石垣は加藤氏の時代に築かれたもので、高さは19mあり、上に行くに従って勾配がキツくなる構造で「忍者落とし」と呼ばれている😳
突き出た部分は茶壺櫓の櫓台だ👏

廊下橋を渡り🚶‍♂️

廊下橋門は枡形石垣門となっている👏

帯郭を囲う土塁は腰巻石垣になってる👏

延々と続く「走長屋」の打込接ぎの乱積石垣は蒲生氏の時代のものだ👏

天守が見えてきた😳

これはなんだろう⁉️
「お城ボくん」といって「会津若松市観光PRキャラクター」らしい😳
「ヤッターマン」でお馴染みのタツノコプロダクションで活躍する会津出身の笹川ひろしさんにより制作されたものだそうだ😊
確かに「ヤッターマン」に出てきそうだ😁

天守を見ないようにササッと一旦、外へ出て追手門から改めて攻城😅
追手門は北出丸にあり、西出丸と同様に、本丸が位置する台地の下にあり、高所からの迎撃が可能となっていて、特に大手である北出丸は、後方は伏兵郭と二の丸、左手は本丸と帯郭、御弓櫓、北角櫓、太鼓門、前方には弓櫓、西出丸があり、三方向の高所からの狙い撃ちが可能で、その防御の堅さから「鏖丸(みなごろしまる)」と称された😱

追手門の前面の擁壁の裏側には大腰掛と呼ばれる雁木が両側に配されている😳
伏兵を配すことも出来、上からの攻撃も可能だ👏

北出丸と西出丸は加藤嘉明の子・明成の時代に本丸の防御を補強するために築かれた🤔

枡形にもなっている👏
「戊辰戦争」の一戦闘である「会津戦争」ではここが一番の激戦地だった😱

籠城する会津勢は新政府軍の近代兵器の砲撃に晒され、鶴ヶ城🏯はボロボロになったが、1ヶ月間持ち堪えた末、降伏開城した😢
その新政府軍でさえも北出丸を攻略することは敵わなかった👏

大腰掛の枡形を抜けると追手門👏

追手門を抜けると椿坂で太鼓門の真正面にっ😳
自分が寄せ手だと思うと生きた心地しない😅

左手を見ると三岐濠‼️伏兵郭と北角櫓跡から丸見えだ😳

椿坂脇から見る加藤氏の時代に築かれた本丸の鉢巻石垣👏

椿坂の右手は鐘撞堂下三角濠、右手前に北出丸、左手前は弓櫓跡、奥に西出丸という構えだ😨

往時は城の大手として、多聞櫓が構えられていた太鼓門👏

巨大な石に矢穴が遺る🤔割り忘れたのか⁉️途中で諦めたのか⁉️

太鼓門を過ぎ、内側に廻ると、「合坂」と呼ばれるⅤ字の「武者走り」がある😳
敵を迎え撃つため、二倍の城兵が一度に石垣上に駆け上がることが出来る合理的な造りだ👏

ハート♥️

壮大な五層の天守👏
400年以上前に、蒲生氏郷が穴太衆に築かせた野面積みの天守台👏
1611年8月21日、会津盆地の西縁を震源とするマグニチュード6.9、震度6以上と推定される大地震が発生し、望楼型七重層の天守も傾く大惨事だったが、天守台の石垣は持ち堪えたと云う😳穴太衆恐るべし👏

帯郭に遺る上杉謙信公仮廟所跡🤔
甲冑姿で甕に納められた謙信の亡骸を春日山城🏯から移した場所と云われている🤔

天守台石垣は荒々しい野面積みだが、南走長屋の石垣は打込接ぎだ😳

壁面を鉄(くろがね)で覆われている鉄門👏
ここの石垣は切込接ぎだ😳
戊辰戦争中は藩主松平容保がこの門上で指揮を執ったと云う🤔
北に天守、東に走長屋、南には鉄門という構図で、鉄門を突破しても、北に鉄門、西に走長屋、南には干飯櫓の三方向からの攻撃を再度受けることになり、息つく暇もない鉄壁な守りだ👏

鉄門、走長屋、天守👏
現在の天守は、加藤氏の時代の層塔型五重五階地下ニ階の天守を元に外観復興されたものだ🤔

天守内部へ🚶‍♂️

凝った入口だ😳

地階は塩蔵になっている🤔

鶴ヶ城🏯と言えば蒲生氏郷😊
蒲生氏郷と言えば黒漆塗燕尾形兜(通称銀鯰尾兜) 👏「燕尾形」なのに「鯰尾形」🤨
展示されてる兜は複製品なのに撮影不可😢
本物は岩手県立博物館に所蔵されている😵
マジンガーZのモデルになったとも云われている🤔

氏郷は新参者の家臣に「我が家中には、銀の鯰尾(なまずお)の兜をつけて奮戦する者がいるから、劣らぬ働きをするよう励め」と語ったと云う🤔家臣が戦場に出て、銀の鯰尾の兜をつけて先陣切って敵勢に切り込み奮戦する猛者を見つけると、なんと主君の氏郷その人だったと云う👏

逆に、豊臣秀吉が氏郷を評して、「蒲生氏郷の兵10万と、織田信長様の兵5千が戦えば、勝利するのは織田軍である。蒲生側が織田兵4千の首を取っても、信長様は必ず脱出しているが、逆に織田側が5人も討ち取れば、その中に必ず氏郷の首が含まれているからだ」と語ったと云う😅

天守最上階からの眺め👀

木造復元された南走長屋と干飯櫓を俯瞰👀

外に出て本丸北側の帯郭から天守を望む👀

蒲生時代の表門跡🤔

本丸にあった櫓の一つである「御三階」跡🤔
1870年、廃城令の出る前に、同じ会津若松市内にある阿弥陀寺に移築されたため、現存している👏

現在、阿弥陀寺にある御三階は、本丸の大書院の唐破風の表玄関と合体し、魔改造が施されている😳

井戸🤔

天守東から👀ん〜お見事👏

子供の頃見た鶴ヶ城🏯は黒い屋根瓦に朱色の高欄だったが、2011年3月、会津松平藩の藩祖保科正之の時代に倣った赤瓦に葺き替えられた👏

時代によって異なる石垣が荒々しさや優雅さを魅せ、蒲生氏郷、加藤嘉明・明成親子が築き上げた戦国の城が幕末に至ってその本領たる「闘う城」であったことを身を以て証明した鶴ヶ城🏯
お見事でした👏
Posted at 2020/09/01 23:25:17 | コメント(1) | トラックバック(0)
2020年08月10日 イイね!

【向羽黒山城】越後〜出羽〜陸奥 城攻め一人旅⑥

【向羽黒山城】越後〜出羽〜陸奥 城攻め一人旅⑥城攻め一人旅も最終日☺️
興奮して朝5:00に目が覚めてしまう😳

朝靄がかかる中、朝食開始‼️

コーヒーは直火で😅

ん〜3日間同じ朝食になってしまった😅
でも、自然の中で食べると旨い😋

どうせなら早朝から行ってしまおうってことで、蘆名盛氏の巨大山城、続日本百名城のひとつ向羽黒山城🏯へ🚐💨

途中の公園で巨大な赤べこの滑り台を発見😳さすが福島👏

向羽黒山城🏯 は、東を流れる阿賀川を天然の堀とし、白鳳三山の最高峰・向羽黒山(岩崎山)の地形を活かした天然の要害で、1568年に蘆名盛氏が8年もの歳月をかけて築いた、東西1.4km、南北1.5kmの規模を誇る東北最大級の巨大な連郭式山城だ👏

二つの山が向かい合っている🤔右手前が羽黒山で左奥が向羽黒山😲なるほど、名前の由来はそうゆうことか🤨

狭い道だが、早朝なので対向車が来なくて良かった☺️

二曲輪下の駐車スペースに駐め、攻城開始‼️

向羽黒山山頂の一曲輪の背後は崖となっており、その前面には二曲輪、北曲輪、三曲輪、羽黒山曲輪が連なる👏
蘆名盛氏の死後、僅か数年で「摺上原の合戦」で伊達政宗に大敗し蘆名氏は滅亡してしまう🙏
その後、会津領主となった伊達政宗、蒲生氏郷、上杉景勝らも向羽黒山城🏯を改修し、最後の砦としていたが、上杉景勝の米沢転封で廃城となった🤔

登ってきた道は一曲輪と二曲輪を隔てる堀切と門跡だった😅

二曲輪へ🚶‍♂️
熊🐻の絵がコワイ😨

二曲輪虎口☺️

向羽黒山城🏯の実質的中枢となる二曲輪は中城と呼ばれ、東西約60m、南北約40mの規模で、現在は展望台として整備されている🤔

展望台からの眺め👀なんも見えん😅

もともとは城の大手口だった三日町口虎口から降りてみる🚶‍♂️

急坂の下に複雑な地形が見えてくる😳

降りて虎口を見ると、「さすがは大手口」と云える蒲生氏郷時代の大きな山石を積んだ石垣が遺る👏

二曲輪の下には、自然地形を活かした土塁と堀が複雑に入り組んでいる👏

堀底を歩いているかと思えば、土橋、そうかと思えば土塁上になっている😳

正直、自分がどこにいるのか判らなくなる🤯

まるで押し寄せる波🌊の様な堀と土塁の連続😳

二曲輪北側の横堀👏

右側は二曲輪の切岸で犬走りというか、受け皿のように横堀が走る☺️

横堀の土塁上から👏

降ってみよう🚶‍♂️💦

案内が無く、このままでは迷子になりそうだ😅

見上げてみる😳

不安になり、二曲輪に戻る🚶‍♂️💦

御茶屋方面に向かうため、犬走りを進み🚶‍♂️💦

抉られたような横堀を突き進む🚶‍♂️💦

振り返ってみる😳
なぜなら坂の名前が「みかえり坂」だから😁

石垣を発見👀遺構だろうか🤔

御茶屋跡🍵

車道を登っていくと、弁天神社⛩に到着💦

弁天神社⛩というと、池があると思ってたが…
でも良い雰囲気だ☺️

一曲輪へ🚶‍♂️💦

「古城のみち」と呼ばれる一曲輪への階段‼️
この階段がキツイ💦
よ〜く見ると、階段の脇に長さ約70mの斜面を縦に掘った幅8mの巨大な竪堀と、竪土塁がある👏
城を全体的に囲む大規模な竪堀と竪土塁は、上杉景勝が大改修した時期の遺構と云われている🤔

上に登って竪堀観察👀

やっと西上段曲輪群に辿り着いた💦
昨日までが嘘の様に暑い😵

曲輪下の横堀👏

ちょっと土塁に登り寄り道😊

横堀は曲輪に沿ってグイと上に上がっていく👏

元に戻り、曲輪の虎口へ🚶‍♂️

虎口は自然地形を利用し、枡形を形成している👏

自然地形がそのまま防衛に繋がる縄張だ☺️

一曲輪とは反対の曲輪側に行ってみる🚶‍♂️
かなりゴツゴツした岩が多い😳

尾根上にあるため、曲輪と呼べる広さではない🤔

崖下を覗き込んで見る😨

段々とただ尾根を歩いている状態に💦

眼下に阿賀川が流れる👏

元に戻り一曲輪へ🚶‍♂️
虎口を抜け右に折れると、一見堀で行く手を阻まれる感覚になる😳実際は左に折れている🤔

土橋と横堀、切岸のコラボ👏

振り返って👀

一曲輪の北、西、南を幅2mほどの横堀が囲んでいる👏
虎口を2ヶ所抜けると頂上の一曲輪だ‼️

やっと着いた‼️と思うと更に上がある😅

一曲輪へ🚶‍♂️💦

到着〜💦
最高所の一曲輪は、実城と呼ばれ、南北約40m、東西約25mの広さで、高さ約50cmの土塁が廻る🤔

朝靄が晴れてサイコーの眺望😊
標高約408m、比高は約190mだ‼️

東側には阿賀川を擁する☺️

あまりにも広い城域と暑さ🌞で、ここで断念😵
汗だく💦になりながら、複雑に絡み合う土塁、横堀、竪堀に興奮して、ひとり山の中で奇声をあげていた😅
廃城から400年経った今も、蘆名盛氏から伊達政宗・蒲生氏郷・上杉景勝までが手掛けた中世山城の姿を色濃く遺す向羽黒山城🏯
お見事でした👏
Posted at 2020/08/28 12:46:10 | コメント(2) | トラックバック(0)
2020年08月09日 イイね!

【前田慶次道中日記】越後〜出羽〜陸奥 城攻め一人旅番外編

【前田慶次道中日記】越後〜出羽〜陸奥 城攻め一人旅番外編アップ⤴️が遅れる中、番外編😅
せっかく米沢に来たので、「天下御免の傾奇者」前田慶次の足跡👣を辿ってみようってことで、慶次が晩年を過ごした堂森の地へ🚐💨

車を10分ほど走らせ🚐💨 米沢市万世町堂森にある堂森善光寺の駐車場に到着‼️

米陽八景・堂森秋月の図☺️
1695年に描かれた善光寺・堂森山・月見平・仁王門・阿弥陀堂・本堂・鐘楼堂・庫裡・寺侍屋敷・郷民の生活環境などが克明に描かれている👏

寺歴不詳ながら平安時代以前に開山されたとされる堂森善光寺🤔

米沢市前田慶次マスコットキャラクター「けーじろー」

前田慶次供養塔
堂森松心山善光寺の住職酒井清滋氏により昭和55年10月に建立された👏
供養塔には慶次の戦功と堂森での生活が記されている😊

徳利と盃😳

前田慶次郎兜むくりモニュメント🤔

慶次の力石🤔

寺務所で「無苦庵」と「慶次清水」の場所を教えて貰った🙏

無苦庵付近は駐車スペースがないので、市営八幡原野球場🏟の駐車場に駐めて散策🚶‍♂️💦

米沢駅東線を米沢駅方面に進み、徒歩🚶‍♀️5分ほどで、案内板が見えて来る👀

無苦庵は東に堀、西に土塁を配した東西109m、南北72mの規模だった😳

図面に残る水堀の名残りだろうか🤔

無苦庵跡に住めるなんて羨ましい🥺

西側の小径を進むと土塁を発見👏

西側に続く土塁に案内板がある‼️

北側😳土塁にも見えるが、個人宅なので中に入れず😥

土塁脇の堀跡👏

嘗て、前田慶次がここ「無苦庵」で余生を過ごしていたと思うと感慨深い☺️

無苦庵記の一節
「そもそもこの無苦庵は、孝を勤むべき親もなければ、憐むべき子もなし
こころは墨に染めねども、髪結ぶがむづかしさに、つむりを剃り、手のつかひ不奉公もせず
足の駕籠かき小揚やとはず、七年の病なければ三年のもぐさも用ひず
雲無心にして岫を出るもまたをかし、詩歌に心なければ、月花も苦にならず、寝たき時は昼も寝、起きたき時は夜も起きる
九品蓮台に至らんと思ふ欲心なければ、八萬地獄に落つべき罪もなし
生きるまで生きたらば、死ぬるでもあろうかとおもふ」
ん〜この境地に至りたい☺️

続いて「慶次清水」へ🚶‍♂️💦

八幡原野球場のスコアボードの裏側を抜けていくと、「慶次清水」の入口がある👀

えっ😳この道なの⁉️

暫く進むと、小径が鮮明になってくる😊

「慶次清水」里の名水・やまがた百選にも選ばれている👏

慶次の詩:樵路躑躅
山柴に 岩根のつつじ かりこめて 花をきこりの 負ひ帰る道

今も水をたたえる「慶次清水」👏
瓢箪の形をしているのも興味深い☺️

畔に座って清水を喫していたのだろうか🤔

ちょっと呑んでみよう😁
冷たくて美味しい☺️

嘗ては慶次もこの景色を眺めながら清水を楽しみに行ったのだろうと思いを馳せる☺️

続いて、前田慶次の甲冑を見に宮坂考古館へ🚐💨

ものの数分で宮坂考古館へ🚐💨
堂森善光寺と米沢城🏯の中間点ほどに位置する☺️
故宮坂善助初代館長が80余年の生涯をかけて蒐集した約7百余点の貴重な資料を収蔵している私設博物館だ👏
※撮影不可なので、写真は本やネットからの拾い物です😅

水原常陸介親憲所用「紫糸威二枚胴具足」👏
兜に「風の神、雷の神、火の神」と書かれた団扇をあしらった前立てをつけていた😊
大坂の陣では、先祖伝来の古い具足を一領しか持っていなかった親憲は、具足の上に猿楽の装束能法被を着て戦っていたと云う👏

水原親憲は、上杉謙信、景勝の二代を支えた上杉家の剛の者で、鴨居に額をぶつけるほどの大男だが、分け隔て無く人と交わる人柄で、手足のように軍を動かし、数々の武功をあげた😳
「長谷堂城の退却戦」でも前田慶次とともに親憲は鉄砲隊を率いて殿軍を務め、大激戦の中、敵大将最上義光の兜に銃弾を当てたと云う👏

※山形城のブログでも触れたが、現存する最上義光の兜には鉄砲玉の痕があり、篠垂 (兜の一部) が吹き飛ばされている👏


鬼小島弥太郎所用「赤金塗紫白糸威二枚胴具足」
月の前立てに赤と金を交えた具足は鬼気迫る異様な迫力がある👏

上杉謙信の幼少期からの側近で、力士衆でもあり、身の丈は六尺(約180cm)を超す剛力無双の豪傑で、数々の武勇や兜の前立てと背中の指物に鬼があったことから「鬼小島」と恐れられていた👏


上杉綱憲所用「本小札紺糸威胴丸 」
兜は六十二間筋小星兜で前立は表が金色、裏が朱色の木製日輪と云う粋な造りだ👏
上杉綱憲は米沢藩四代藩主であり、吉良上野介の実子だ😳
綱憲は諸事派手好きで、惜しげもなく金を使い財政窮乏を悪化させた😱
また、赤穂浪士の仇討事件が起きた時、実家の吉良家に救援に駆けつけなかった米沢藩は「腰抜け」と評判を落としたと云う😩


上杉憲政所用「三仏前立総覆輪阿古陀形筋兜 素懸紫糸威黒塗板物五枚胴具足」👏
臑当ても黒塗竹雀の金蒔絵と三枚筒に牡丹獅子を金蒔絵にした「流石は関東管領」といった豪華な一領だ👏
山内上杉家15代当主で関東管領職の上杉憲政だが、何かと評判が悪いことでも有名だ😥
『甲陽軍鑑』でも「弱過ぎる大将」と辛辣に貶められている😔
三千の城方を八万の大軍で囲み、圧倒的有利だった「河越城の戦い」で大敗した憲政は、上野平井城🏯に逃れ、さらに敗戦と離反で勢力を減らし、越後で上杉謙信を養子にし、関東管領職を譲った🤔
「河越城の戦い」の際に上杉憲政が築いた柏原城🏯に先日訪れたが、護りはしっかりしてたのになぁ😥


上杉謙信所用「葵前立黒韋張懸頭巾兜 素懸白綾威具足皺葦包板物腹巻」
前立ては金属製の蜻蛉(勝虫)で、謙信らしくない甲冑だなぁと思ったら、謙信が上杉憲政から拝領したと伝えられる一領だった🤔

上杉謙信と言えば五度にわたる「川中島の戦い」での宿敵武田信玄との因縁というか友情めいたものを感じざるを得ない☺️
今川氏真の塩止めに対しても「戦いで決着をつけるべきだ」と、信玄に塩を送り、信玄は感謝の印として、福岡一文字の在銘太刀「弘口」一振(塩留めの太刀)を謙信に送った👏
また、信玄の死を伝え聞いた食事中の謙信は、「吾れ好敵手を失へり、世に復たこれほどの英雄男子あらんや」と箸を落として号泣したと云う😢


上杉景勝所用「日輪双瑞鳥前立黒漆小星兜 浅葱糸威黒皺葦包板物二枚胴具足」

上杉景勝は、謙信の死後、上杉家の家督をめぐる「御館の乱」で上杉景虎を破り、謙信の後継者となった☺️
景勝は、武骨で謹厳実直、規律や権威にはとても厳格で、寡黙でほとんど感情を表に出さなかったと云う🤔
家中での酒宴のとき、水原親憲が顔に紅、白粉を塗りたくり、真っ赤な頭巾を被り、上杉景勝の前で舞ったところ、景勝の表情が少し崩れたと云う😳
なんとなく、前田慶次に通ずるエピソードだ🤔


直江兼続所用「梵字鍬形前立錆色塗六十二間筋兜 浅葱糸威錆色塗切付札二枚胴具足」
前立に戴く梵字は「アン」で普賢菩薩(胎蔵界)を表わし、最上合戦のおり着用したと伝えられる🤔
前田慶次は茶は古田織部に、連歌は里村紹巴に師事し、松井友閑や大村由己、戦国武将の中でも文化人として名高い細川幽斎などとも交流があった😳
頻繁に連歌会を開き、それがきっかけで兼続と慶次は出会い、友人関係になったのではないかと云われる🤔


前田慶次所用「黒漆編笠形兜 朱漆紫糸威最上胴具足」
前田慶次は別名、利貞・利卓・利太・利大・利興
・宗兵衛・慶次郎・慶二郎・啓次郎・慶次
と多数あり、穀蔵院飄戸斎・穀蔵院忽之斎・龍砕軒不便斎という人を食った道号も伝えられている😁
慶次にとって家名や号など符牒に過ぎないってことだろう😊

小説『一夢庵風流記』や漫画『花の慶次』で「身の丈六尺五寸(197cm)の大柄の武士」として描かれているが、現存の甲冑も、一緒に並ぶ甲冑と比べても大きさは然程変わらない😥まぁ、水原親憲も鬼小島弥太郎も直江兼続も長身だったけど…

前田慶次は天性豪放磊落奇行に富み、天下に武名を轟かせた武辺者でありながら、広く諸芸道にも通じ、一流の文化人でもあった☺️
慶次の傾奇者ぶりを聞き付け、面会した豊臣秀吉に対しても、髷を頭の片方に寄せ、秀吉に平伏しても、髷は正対しているが、顔はそっぽを向いていた👏
秀吉は慶次の傾きっぷりの褒美にと馬一頭を与えたが、慶次は礼も言わずにその場を去った😳
が、すぐに立派な正装姿で現れて、改めて深く平伏したと云う👏
秀吉は「向後何方にて成とも、心の儘に衡き候へ」と「傾奇御免」の御意を与え、慶次は名実ともに「天下御免の傾奇者」になった👏


前田慶次所用瓢箪徳利👏
高さ約25センチの木彫りの徳利で、表面には
「戦雲如墨疾雷雨祝出陣神酒一益 利貞」という文字と、「へのへのもへじ」が彫られており、根付には、刀の鍔を用いている☺️

「長谷堂城の戦い」の慶次の出立ちは、「黒き物具に猩々緋の羽織を着、金のいら高の数珠の房に金の瓢箪付たるを襟にかけ、山伏頭巾にて十文字の鎗を持、黒の馬に金の山伏頭巾かぶらせ唐鞦 かけたり」という異装で、もちろん黒の馬は松風だ👏
この日の瓢箪は別のモノの様だ🤔

先鋒大将・上泉主水正泰綱(剣聖上泉伊勢守信綱の嫡孫 )を失い、人も馬も血で真っ赤に染まる「長谷堂城の戦い」の中、石田三成率いる西軍が遠く離れた関ヶ原で東軍に大敗したとの報が入ると、史上稀に見る大激戦「長谷堂城の退却戦」へと様相を変える😳
最上義光軍と伊達政宗軍に阻まれ、退却が出来ない兼続に代わり、殿軍を引き受けた前田慶次は、水原親憲の鉄砲隊二百の一斉射撃を味方に、「朱槍の勇士」水野藤兵衛・韮塚理右衛門・宇佐美弥五右衛門・藤田森右衛門の四人を従え、朱柄の大槍を振りかざしながら敵陣へ突っ込み縦横無尽に暴れ回り、無事、殿軍の役目を果たした👏

前田慶次所用「編笠」
全て馬の尾の毛で編まれ、目だけが露出する形状になっている🤔

慶次には、世を軽んじ人を小馬鹿にする悪戯癖があり、「たとえ万戸候たりとも、心にまかせぬ事あれば匹夫に同じ、出奔せん」と、主君前田利家を騙して水風呂を浴びせて出奔したり、林泉寺の傲慢な和尚を戒めたりなど、数々の逸話が残っている🤣

時には、身を滅ぼしかねない悪戯を命懸けで楽しむ悪童、ひとたび合戦になれば悪鬼羅刹のような強さで戦さ場に花を咲かせる、そうかと思えば一流の文化人にして風流人にもなる🥰
戦国時代を駆け抜けた天下御免の傾奇者、前田慶次👏お見事でした👏

堂森の地に「無苦庵」を構え、悠々自適に花鳥風月を愛で、酒🍶を呑み、風流に暮らした慶次の晩年を想い、「道の駅あいづ」で今夜もソロキャンプ😊

今夜のお酒も檸檬堂の塩レモン🍋

今夜のチキンはハーブ🌿味😊

そして豚肉の辛味噌炒め🐖

三品目は手抜きして、イワシの蒲焼き缶詰😅

そしてタコわさ🐙
ひとり楽しんでいたらパトカー🚓が巡回に来た😅

山形城🏯、米沢城🏯を巡り、前田慶次の足跡👣を辿った一日😊
前田慶次、直江兼続、水原親憲、そして最上義光…「長谷堂城の戦い」に集った武将の甲冑四領を目に浮かべながら、お酒を呑み、タバコ🚬をふかす…何ものにも替え難き至福の瞬間☺️
350㎖缶を5本空けてしまった🥴

翌日は最終日、早めに就寝😪💤
Posted at 2020/08/26 00:45:04 | コメント(1) | トラックバック(0)
2020年08月09日 イイね!

【米沢城】越後〜出羽〜陸奥 城攻め一人旅⑤

【米沢城】越後〜出羽〜陸奥 城攻め一人旅⑤またまたアップ⤴️が遅れ、城攻め一人旅もやっと折り返し、山形城🏯から南西へ55km、第五弾は続日本百名城のひとつ、伊達政宗、上杉景勝、直江兼続ゆかりの城、米沢城🏯へ🚐💨

先ずは腹ごしらえ、山形ラーメン🍜

あとは、せっかく米沢に来たので、米沢牛🐂
この串一本で1,200円😳ラーメン🍜より高い😅
甘みがあって口の中でトロける芳醇な味わい☺️

米沢城🏯は鎌倉時代中期1238年に幕府の重臣・大江広元の次男・長井時広が出羽国置賜郡長井郷の地頭として赴任した際に築城したとされ、1413年から安土桃山時代までは伊達氏、以降、蒲生氏、上杉氏が治め、上杉景勝の命で直江兼続が城の大改修を行い、1613年に現在の様な本丸・二の丸・三の丸からなる輪郭式平城となった👏
往時は十基の櫓と十七棟の門が開かれ、石垣は少なく、土塁を多用し、天守は構えられず、本丸の東北隅と西北隅に二基の御三階櫓を建てて天守の代用としていた😳

現在、本丸跡は上杉神社⛩の境内となっており、この大手口も神社の参道となっている🤔

上杉鷹山の像🤔

二の丸世子御殿跡に創建された上杉神社⛩の摂社、松岬神社⛩
米沢藩中興の名君上杉鷹山と共に、上杉景勝、直江兼続、細井平洲、竹俣当綱、莅戸善政が祀られている👏

上杉謙信の軍旗であり、馬標でもあった「毘の一字旗」と合戦の突撃の合図に用いられた「懸かり乱れ龍」の旗がたなびく👏

大手橋を横から📸

本丸を取り巻く内濠🤔

土塁もしっかり遺っている👏

上杉謙信公の像🤔

「上杉景勝公と直江兼続公 主従像」🤔

「伊達政宗公生誕の地」の碑🤔
直江兼続と伊達政宗は犬猿の仲だったのに、兼続の像の目の前に政宗の碑があるのは面白い😅
二人の不仲エピソードもある🤔
豊臣政権下、伊達政宗が同席する諸将に天正大判を見せびらかしていると、直江兼続が扇子に乗せて見ていたので、政宗は「遠慮せず手に取って見ろ」と勧めたところ、兼続は「上杉謙信の代より采配を預かるこの手で不浄なものに触れるわけにはいかない」と言って、天正大判を政宗の下へ投げ返した😳

また、徳川政権下の江戸城🏯で直江兼続と伊達政宗がすれ違った時、挨拶もせずに素通りした兼続を政宗が咎めると、兼続は「戦場で幾度もお目にかかっていたが、負け逃げる後ろ姿しか拝見したことが無かったから、政宗公とは一向に気付かなかった」という返答をした😳

像や碑ばかり…ちょっと上に登ってみよう🚶‍♂️

ガーン😱またいつものやつだ〜

こちらは、少し趣きが異なる上杉謙信祠堂跡😳
米沢城🏯で最も高いこの場所には、上杉謙信の遺骸を納めた御堂が建てられていた🤔
現在、遺骸は上杉家御廟所へ移されている🙏

米沢城🏯本丸に鎮座する上杉神社⛩拝殿へ🚶‍♂️

狛犬🤔

狛犬も凛々しく上杉の家風を反映しているのか🤔

唐門👏

上杉神社⛩拝殿👏
草履が並んでるのは、なんのおまじないかな⁉️と思ったら、ソーシャルディスタンス🕴↔️🕴
御祭神は上杉謙信公🙏
1578年3月13日、軍神と謳われた上杉謙信が越後の春日山城🏯で身罷った時、城中の不識庵に鎮祭されたが、二代景勝が米沢に移封されるに当たり祠堂を米沢城🏯内に移して二百六十年、明治の世を迎え祠堂のまま神祭に改め、上杉神社⛩に祀った🤔

拝殿と奥殿を横から👀

拝殿脇の摂社、正一位福徳稲荷大明神⛩

御利益がありそうな名前だ😳

とにかく赤い‼️
取り敢えず、欲望の限りを祈願🙏

本丸周囲には土塁が遺る👏

北西の虎口👏

西側の内濠😊

本丸北門側の内濠‼️
蓮が凄いことになってる😳

本丸北門からの本丸👏

気になる道を発見‼️

ロープで区切られ入れない😳
結界が張られているのか⁉️

倒木の危険があり立入禁止🚧だった😅
「従三位上杉曦山公の碑」上杉家十三代斉憲の号で、明治以降の諸功績により従三位に任ぜられた🤔

外周を周り南側の堀へ🚶‍♂️💦
赤い橋の欄干が見える👀

堀の対面、二の丸にあたる所に冠木門がある😳
看板に「米沢牛ステーキフェア 上杉伯爵邸」と書かれている🤔

上杉伯爵邸は、明治29年、米沢城🏯二の丸跡に上杉家14代茂憲伯爵邸として建てられた大邸宅だ👏

菱門橋から本丸へ🚶‍♂️

春日神社⛩
祭神は春日四柱大神(春日権現)、米沢藩主上杉家の氏神で、春日山林泉寺の鎮守であった🤔
ここも倒木で立入禁止🚧になってた😢

庭園も往時の名残を遺しているのだろうか🤔

本日のメインディッシュ‼️実際、城跡よりも期待をしていた🥰、上杉神社宝物殿の「稽照殿」へ
※撮影不可だったので、画像はネットや本から拾ったモノです😅

上杉謙信所用の「金箔押頭形兜 素懸重葦脅腹巻」👏
謙信の甲冑では、あまり見ないタイプだ😳

上杉謙信所用、「日輪三日月前立黒漆兜 伊予札紫糸綴胴具足」👏
画像が全然ないっ💦

上杉謙信愛用の琵琶「朝嵐」👏
謙信はこの琵琶を自ら弾いていたと云う😳平曲「鵺」「那須与一」などを愛し、涙を流しながら平家の語りを聞いていたと云う🤔

自らを「毘沙門天の生まれ変わり」と称し、その神懸った戦績から後世、「軍神」や「越後の龍」などと称された上杉謙信公😊
辞世の句は、
「四十九年 一睡の夢 一期の栄華 一盃の酒」
カッコイイ☺️そんな辞世をつくれる人生を送りたい☺️

直江山城守兼続所用の「違い櫂棒に日輪前立兜 金茶糸威最上胴具足」👏
バットとボール⚾️かと思った😅

直江山城守兼続所用、「愛ノ字瑞雲前立鉄錆地六十二間筋兜 浅葱糸威最上胴具足 」👏
やっぱり、これが見たかった〜っ🥺「愛」の前立て😭
「愛」の由来は、
①上杉謙信が「愛宕神社」に武田信玄、北条氏康の打倒を戦勝祈願した
②上杉謙信の毘沙門天信仰の「毘」に対し、軍神「愛染明王」を信仰していた
③民を愛する気持ちを戦場でも忘れないようにする『愛民』から来た

正直、③は後付け感がありすぎるだろ😅
最近、LOVE❤️推しな風潮強いけど😥

陪臣でありながら、豊臣秀吉に「天下の仕置きを任せられる」と、米沢三十万石を与えられ、徳川家康に「直江状」で宣戦布告したほどの名将で、且つ一流の文化人でもあるが、伊達政宗をディスり、果ては閻魔大王にまで手紙を書いちゃう破茶滅茶ぶりも魅力☺️

米沢城🏯&上杉家の至宝✨お見事でした👏

城攻め一人旅はまだ続きます😅
Posted at 2020/08/21 21:27:48 | コメント(2) | トラックバック(0)

プロフィール

「@はらペコ星人 さん
幻想的な写真ですね👏
金曜ロードショーを思い出しました😁」
何シテル?   07/20 17:15
ATSUPHARD改め、ATSUP_HARDです。よろしくお願いします。
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