今日は幾分涼しい日。
定例の通院日でした。
行きも帰りもUSBに突っ込んでおいた音源を聴きながらチンタラと病院へ・・・
私がよく冷やかしに行くレクサスの前の信号が赤で停車したら納車待ちでしょうか、純白の「LC」が停まっていました。
カッコいいなぁ・・・
もうちょい安ければいいのに(涙)
さて、今日も先日の交響曲「通称」に続いて本日も音楽ネタです(笑)
しかも長いです(汗)
カッコいい「LC」を見た時にインスピレーションを受けたのと、みん友の山爺@Around60さんのブログ
「怖い顔の指揮者たち」に感化され、私は所謂「イケメン」な指揮者達をバーンスタインの独断と偏見で紹介します(^^)
まずはこの方から登場頂きましょう。
お一人目。
私のHNの由来、レナード・バーンスタインさん(笑)
↓青年期
どうです、派手めなジャケットを来てカッコいいでしょ(笑)
彼はアメリカ生まれでは初の「世界的指揮者」と言ってもいい存在で、20世紀を代表する音楽家と言っても良いでしょう。
また指揮活動のみならず、ミュージカル「ウエスト・サイド・ストーリー」や「キャンディード」の作曲者としても有名ですし、三曲の交響曲も残しています。
その才は小さい時にすでに現れていたようで赤ちゃんの頃、蓄音機の音楽を聴いては喜んでいたそうです。
彼は大指揮者、ブルーノ・ワルター(戦前から戦後にかけて活躍した大指揮者。ユダヤ人だったためドイツを追われアメリカで指揮活動をしていた)が急病の為指揮できなくなったニューヨーク・フィルを代役で指揮することになり、全米に生中継された演奏がセンセーションを巻き起こし、一夜にしてスターダムに上り詰めた「アメリカン・ドリーム」を地で行く人物でした。
また自分がそのようにしてスターダムに上り詰めた事もあったせいでしょうか、若い演奏家への教育活動に力を入れ、我が国の誇る小澤征爾もバーンスタインの弟子の1人ですし、晩年は札幌を会場にPMF(パシフィック・ミュージック・フェスティバル)を主宰し、若い才能の発掘に尽力しました。
また子どもや青少年への音楽啓蒙活動にも熱心であり、CBS放送で「ヤング・ピープルズ・コンサート(Young People’s Concert)という番組を持ち、子供や青少年に関心を持ってもらえるよう情熱を傾けた人物でもありました。
(この番組、ゴールデンタイム放送だったのはバーンスタイン人気の裏返しでしょう)
↓壮年期
ダンディなおじさんになりましたね(笑)
彼は音楽家ではよくある事なのでしょうが、所謂「陽性エキセントリック」な人間だったようで、ライバルと言われたヘルベルト・フォン・カラヤンのコンサートに行くと駄々をこねたり、大先輩で大指揮者のトスカニーニのレコードを聴いておかしいと思った箇所があったので自宅へ突撃訪問してそのことを指摘したり(が、家に帰ってよく見たら違う指揮者のレコードだったという笑い話)とかなり奔放な人物でもあったようです。
また当時、相当タブーであったであろうバイセクシュアルであったことを公言し、女優出身の美人な奥様が居たにも関わらず男性とイチャつくこともあったようです。
(奥様が見るに見かねて「男とイチャつくのはやめて!」と言ったら「何言ってんだ、音楽家はホミンテルン(ホモ+コミンテルン)なんだぜ」と言ったとか言わないとか・・・
ただ、このバイセクシュアルであった事を「神に背くもの」と相当、悩んでいたようです。
また本名は「ジョン・スミス」というアメリカでは「よくある」氏名だったため「レナード・バーンスタイン」という名前にしたとかしないとか・・・
ヘビースモーカーぶりと飲酒量の多さも有名でタバコは一日5箱、ウィスキー一本を日課としていたとか(笑)
↓晩年
彼は1990年に栄光に満ちた生涯を閉じました。
私はこのバーンスタインの「明け透けな陽性なエキセントリック」な所と若い才能の発掘に情熱を注いだ所や彼の創り出す「曲の内生を抉るような」演奏が好きです。
是非、彼の演奏をお聴き頂ければ・・・
ではお二人目に登場願いましょう。
ヘルベルト・フォン・カラヤンさん(^^)
バーンスタインと並んでこれまた私の崇敬する指揮者です。
HNを登録する時「バーンスタイン」と「カラヤン」で悩みました(笑)
↓青年期
バーンスタインとは違ったカッコよさですね。
彼はオーストリアで生まれ、当初は両親に音楽家になることを反対されたために「ウィーン工科大学」に入学しますが、やはりその夢諦め難く、モーツァルテウム音楽大学、ウィーン音楽院(現ウィーン国立音楽大学)に入学し直し音楽家の道をスタートしました。
彼も若い音楽家の育成には大変情熱を注いだ人で、小澤征爾はバーンスタインの弟子であったことは上で書きましたが、カラヤンの弟子でもありました。
何故カラヤンが若い音楽家の育成に情熱を注いだのか?
昔、何かの本で読みましたが、カラヤンがまだ若く、売れない指揮者だった時代に声がかかればありがたいという状況で、また経済的にも大変だったので夜行列車での遠距離移動やら何やらで音楽の勉強をする時間を取ることに苦労したから、才能を認めた若い音楽家達に自分と同じ苦労をさせたくなかったからと読んだことがあります。
また、カラヤンはポストを得るためナチスに入党したという苦い過去もあるのでそういう事をさせたくないという思いもあったのでしょう。
カラヤンはバーンスタインの陽気で明け透けな人物像とは真逆で、自らを「神秘的」な存在とし、全てにおいて「完璧」を求め、それを「演じた」人物でした。
写真も本人が認めたもの以外はNG、プライベートはほぼ秘密、人前に現れる時は計算され尽くしたかのような出で立ちという具合に・・・
例えば↓の写真
タートルネックの出で立ちに派手なストライプの入ったポルシェ911ターボ(^^)
まぁ私生活を滅多に出さないカラヤンでしたが、珍しく出す時もこのような写真です。
では演奏時の写真を。
これ、普通に演奏しているように見えますが、これも「カラヤン美学」が現れています。
というのも「オーケストラのヴァイオリン奏者」が普通に並んで演奏している写真を撮るとこの写真のように綺麗に各奏者の顔が並ぶことはありません。
これ、わざわざ各奏者の顔が綺麗に並んで映るように各奏者をずらして配置しているのです。
カラヤンが一番大きく映り、奏者の顔より目立つようになっているのもカラヤンの指令だそうです(笑)
曰く「奏者が私より目立ってはいけない。主役は私なのであり「カラヤン」の映像だから買うのだ」と。
また、これは噂ですが「頭の薄い」奏者が居ると光が反射して醜いという「カラヤン美学」のため、カツラをかぶらせて演奏させたとかさせないとか・・・
そこまで映像美に拘ったところがカラヤンらしいですね。
カラヤンも「ヘルベルト・カラヤン」が本名で貴族出身という事をあらわす「フォン」は付いていたとかいなかったとか・・・
まぁ、そのあたり全てがカラヤンの求める「完璧」だったのでしょう。
このような事からカラヤンの音楽は表面を取り繕っただけの薄っぺらい音楽と言った批判がありました。
しかし、カラヤンの創り出す音楽は非常に美しく、バーンスタインのような「抉る」感覚は無いのですが、だからと言って「空虚」だとは私は思いません。
カラヤン時代のベルリン・フィルを誰だったか著名な指揮者が言い表した言葉「ベルリン・フィルはオートマチックのスーパーカーだ」と。
言い得て妙ですね。
このカラヤンの「計算され尽くしたカッコよさ」にも憧れます。ただ彼の場合、計算されていたとしても「薄っぺらい」カッコよさでは無い所がいいんです(笑)
彼は音楽を如何にして最高の音と画像で世界中に届けるか、それを求道した一生であったと思います。
↓晩年
「楽団の帝王」ヘルベルト・フォン・カラヤンは1989年にこの世を去りました。
バーンスタインとは違った「徹頭徹尾美しい」という美学に拘ったカラヤン。
彼の名も忘れ去られることは無いでしょう。
カラヤンの残した名演奏も今や廉価で購入できます。
是非、ご一聴頂ければ・・・
では三人目。
この方に登場願いましょう。
↓青年期
え?分からない(笑)
彼こそ「世界のオザワ」こと小澤征爾さんの若かりし頃の一枚です。
男前ですねぇ。
小澤さんは日本統治下の満州・奉天で生まれました。
お名前の「征爾」の由来がまた凄いんです。
あの「関東軍作戦参謀」板垣征四郎の「征」と、同じく作戦参謀であった石原莞爾の「爾」を一文字ずつもらって名付けられたそうです。
言うまでも無くこの二人は「満州事変」の首謀者の二人なんですが、何故この二人からかと言うと・・・
小澤征爾さんのお父さん、小澤開作(開策とも)さんは本業は歯医者さんでしたが、満州の地で宣撫官という地位にありました。
宣撫官とは、相当簡単に言えば統治している土地の住民の不平不満を聞いて、政治に活かす役割です。
開作さんは「満州国」を「五族共和」の地に本気でしようと考えていたらしく、その活動は相当高度な次元で行われていたようで、板垣・石原の両参謀も一目置いていて、助言を請うていたそうですし、あの小林秀雄も満州の小澤家に居候していた時期があったとか。
しかし、彼の地で日本の統治政策が自らの理想とした「満州国」とは全く色合いを異にするに至り、その活動をやめてしまい帰国します。
(現に日中戦争には反対の立場をとり、戦後、ベトナム戦争に突入したアメリカを訪れロバート・ケネディに面会、日本の満州での失敗を説いたという話もあります)
昔、「笑っていいとも」のテレフォンショッキングに「小沢健二」さん(開作さんから見れば孫、征爾さんから見れば甥っ子)が出た時に「うちの爺さんは右翼の大物だったらしいです」と言ってました(笑)
そんな小澤征爾さんですが「世界のオザワ」になるまでには相当の苦労があったようです。
中々師匠である齋藤秀雄先生から手放して貰えず悶々とした日々を送り、齋藤先生に黙ってヨーロッパ行きを決意、富士重工からスクーターを一台借り、それを積んだ貨物船でフランスへ渡ります。
(齋藤先生からは一時「破門」を言い渡されたとか)
フランスに到着後はスクーターで欧州の地を音楽修業の旅。
そんな時にフランスの「ブザンソン」市で指揮者コンクールがあると知り、日本大使館を訪れコンクールへの推薦状を依頼しますが・・・
「君の学校は?桐朋学園?知らんね。うちは芸大じゃなきゃ推薦できないよ」と言われ意気消沈。
そこでアメリカ大使館に駆け込みダメ元で推薦状を依頼すると。
「お前は良い指揮者か?悪い指揮者か?」と聞かれ「きっと良い指揮者になるだろう」と答えると推薦状をくれたそうです。
昔から日本の役人根性はダメですね(笑)
ブザンソン指揮者コンクールで優勝を収め、いよいよ「世界のオザワ」の1ページが始まります。
シャルル・ミュンシュ(フランスの名指揮者)に認められ渡米。
そして生涯の師の1人となるレナード・バーンスタインにその才能を買われ「ニューヨーク・フィルハーモニック」の副指揮者となります。
↓ニューヨーク・フィル来日時の一枚
師であるバーンスタインと並んだ写真、まさに「凱旋帰国」ですね(^^)
このとき師・バーンスタインは「セイジ、よかったな!よかったな!」と我が事のように喜んでいたそうです。
が、順調に見えた出世階段ですがここで大きな落とし穴が。
所謂「N響事件」
1962年、小澤さんは我が国を代表する「NHK交響楽団」を半年に渡って指揮する契約を結んだのですが、年末好例のベートーヴェン「第九交響曲」のコンサートをN響がボイコットするという我が国のクラシック音楽の歴史に残る大事件が起こります。
こうなった経緯には諸説あって「練習にいつも寝坊して来る小澤さんにN響が頭にきた」「小澤さんのバーンスタイン仕込みの指揮ぶりが激しすぎて楽団員が反感をもった」「若い才能にN響の団員達が嫉妬心を憶えた」「小澤さんと同じく、若くしてコンサートマスターになった海野義雄さんが小澤さんに反感を持って煽動した」etc・・・
結局、真相は当事者達しかわかりません。
小澤さんはこの時「二度とこの国では音楽はやらない」と誓ったそうです。
しかし、この後のことを考えるとこれが更に彼を世界へ雄飛させる出来事になったのは皮肉です。
(小澤さんが再びN響の指揮台に立ったのは事件から33年後の1995年。当時を振り返って「あの頃僕は若くて生意気だった」と語っていたのが印象的でした)
N響事件の後、その才能を惜しんだ人々によって「小澤征爾の音楽を聴く会」が発足され、その方々が小澤さん擁護の論陣を張ります。
そのメンバーが・・・
井上靖、大江健三郎、石原慎太郎、浅利慶太、曾野綾子、谷川俊太郎、梶山季之、武満徹、黛敏郎そして三島由紀夫(抜粋)
うーむ、凄すぎる(汗)
やはり才のある方々は小澤さんの才を見出していたのでしょうし、このまま「終わらせてしまっては」という気持ちがあったのでしょう。
(三島さんと石原さんの所謂「右」の方々と大江さんという「左」の方が一緒に活動したというのも興味深いところです)
この時指揮した「日本フィルハーモニー交響楽団」が小澤さんの日本における「手兵」となります。
(日フィルは1972年に分裂、その後小澤さんは分裂した一方の「新日本フィル」が手兵となります)
追記:YouTubeにこの「小澤征爾の音楽を聴く会」顛末のニュース映像がありました。これを見て不覚にもジーンときました。仲間っていいですね(^^)
ここで「京子夫人」という言葉が出てきますが、小澤さんの前夫人「江戸京子さん(ピアニスト)」の事です。江戸英雄三井不動産社長のご令嬢でした。
この事件もあり、小澤さんは海外での活動がメインとなりカナダ・トロント交響楽団の音楽監督に。
↓トロント交響楽団との録音ジャケットより
若き日から見るとだいぶ重みが出てきましたね。
(と言ってもこの時は若干27歳)
この後の小澤さんの八面六臂の活躍ぶりは言うまでも無いでしょう。
「世界のオザワ」として君臨し続け、フリークであろうとアンチであろうと我が国で「指揮者」を目指す人の目標となった事は言うまでもありませんし、世界の楽団界でもその存在は無くてはならない存在とまでなりました。
(冷静に考えてみると・・・今の私より若くしてボストン交響楽団の監督か・・・)
↓山本直純さんとの友情も有名でしたね。
中々仕事が来ず、またヨーロッパ行きも決断できず腐っていた若き日の小澤さんに、当時すでに「寅さん」をはじめとする「映画音楽」で有名になっていた直純さんがかけた言葉
「小澤、お前は音楽の頂点を目指せ。お前が頂点を極めて帰ってきた時の為に俺は裾野を広げる」
直純さん、愉快なおじさんと思っていたけど泣けるぜ!そしてカッコよすぎ!!
(勿論、直純さんの指揮者・作曲家としての才能は凄かったようです。直純さんが亡くなった時、小澤さんは「直純さんこそ本当の天才だった」と語ったとか・・・)
↓ボストン交響楽団監督のあたり
遂には「ウィーン国立歌劇場総監督」という「ゴール」と言ってもいいところにまで上り詰めました。
最近はガンとの闘病等もあり指揮活動が少なくなって来ていますが、ずっと元気でいて頂いて「我が国の誇る世界的ミュージシャン」として君臨し続けて頂きたいものです。
↓最近
だいぶお痩せになってしまいました(涙)でも、まだまだ頑張って欲しいです。
↓ついでにご子息「小澤征悦」さん
女優の「杏」さんや「滝川クリステル」さんと浮名を流しましたね(笑)
ドラマや映画でも大活躍、お父さんの若き日より男前です(^^)
↓娘さん「小澤征良」さん
征良さんも美人ですね(^^)
征良さんは作家として活動されています。
私、小澤さんとは二度お会いしてお話したことがあります。
一度目は学生の頃、ちょっとした伝手がありお会いする機会に恵まれました。
生意気ざかりな学生の頃「世界のオザワ」を目の前にして緊張してたのもつかの間、だんだんと場に慣れてとんでもない事を私、言ってしまったのです。
「先生、先生のブラームスの第四交響曲の最後ってあっさり過ぎませんか?バーンスタインみたいにもっと伸ばしたら如何でしょう」と(汗)
楽器も出来ない聴き専門の二十歳そこらのガキが恐ろしい事を言ったものです(冷汗)
しかし小澤さん、怒るもせず
「そぉ?レニーのはちょっとくどいよ」と笑って仰ってました。
ホント、今思い出しても恐ろしい事を・・・(滝汗)
二度目は征良さんもいらっしゃいました。
とても綺麗で、尚且つ気さくな方で思わず「結婚してください」と言いたかったですが、もう大人になっていたので前回のような無茶はしませんでした(笑)
それにしても美男美女揃い、しかも才能ある血統でうらやましい・・・
お母さん(征爾さんの奥さん)は「入江美樹」さんというモデルさんだったそうで・・・
(親父に聞いたら昔、とんでもない美人モデルとして有名だったそうです(笑)、Wikipediaで調べたら吉田拓郎さんも大ファンで「入江剣」という別名を使うこともあるとか笑)
我が国の誇る「マエストロ・オザワ」の音源も沢山ありますので、是非こちらもどうぞ(^^)
さて、我が国を代表する「イケメン指揮者」にも登場願いましたので次の方。
四人目。「リッカルド・ムーティ」さんです。
↓若かりし頃
ムーティはイタリア出身の名指揮者で現在「世界三大オーケストラ」の1つに挙げられる(と言ってもウィーン・フィル、ベルリン・フィルは鉄板として、あとの1つが人によって違うのですが笑)シカゴ交響楽団の音楽監督をされています。
ちょっと「トム・クルーズ」似ですね。
この方も若い時から世界的指揮者として名を馳せた方で、その甘いマスクも相まって女性ファンが楽屋に押しかけない日は無かったとか・・・
↓そして現在
やはりお年を召しました(^^;)
トム・クルーズからブルドッグに・・・(汗)
しかしムーティを「現代の楽団の帝王」と見るむきもあります。
名だたるマエストロ達が鬼籍に入りカラヤンのように「世界を股にかけて」活躍するムーティを重ねるのも不自然ではありませんね。
(ムー帝というあだ名もあります笑)
ムーティのエネルギッシュな活動は今後も続くでしょう。
まだまだ聴く楽しみがあるマエストロです。
五人目。
グィード・カンテッリさん。
↓ジャケットより
なんか昔の洋画に出てきそうな男前です。
カンテッリも幼少期より「神童」と呼ばれる程の才能を持っていたそうで、かのアルトゥーロ・トスカニーニの秘蔵っ子とまで言われた指揮者でした。
彼の経歴は波乱万丈でムソリーニ統治下のイタリア軍に徴兵されましたが、それに反発。
イタリア降伏後にドイツ軍に逮捕され、脱走。レジタンス活動に身を投じました。
しかし、その後また逮捕され処刑寸前まで行きますが再度脱走成功(^^)v
この時、最終的に脱走に成功したのはたった二人だったそうです。
戦後、トスカニーニに見出されアメリカ、ヨーロッパで大活躍。
いよいよ「カンテッリ時代到来!」の筈が・・・
1956年、パリからニューヨークに向かう飛行機が墜落し、36年の短すぎる生涯を閉じました。
(この事故での生存者は二人。この時「奇跡の二人」に再びカンテッリは入ることができなかったとのこと。Wikipediaより)
カンテッリとイシュトヴァーン・ケルテスの二人が長命なら世界の音楽界の勢力図は違っていただろうとまで言われるまでの存在でした。(ケルテスはイスラエルで遊泳中に溺死しました。享年43歳)
そんなカンテッリ、晩年の一枚。
↓
長生きして名演奏を沢山残してほしかった指揮者です。
六人目。
トマス・シッパーズさん。
↓
こちらは「ジェームズ・ディーン」似の伊達男といった雰囲気。
彼はニューヨーク・フィルやシカゴ交響楽団等、アメリカのオーケストラとの演奏は絶賛され、バーンスタインのように「アメリカ生まれでアメリカで高等音楽教育を受けた」巨匠となり、彼の後を襲う存在となるはずでした。
しかし、彼も47歳という若さで病を得、この世を去ってしまいました。
カンテッリ、ケルテス、シッパーズ。
「音楽の神・ミューズ」も時に残酷な事をするものです・・・
では最後、おまけ編。
「美人指揮者達」(笑)
「女流指揮者」はまだ絶対数は少ないですが、美人さんが結構いらっしゃいます(笑)
まずは日本。
西本智実さんから。
↓
西本さんは「美人」というより、まるで「宝塚」から抜け出してきたかのような「男装の麗人」という感じです。
ロシアで音楽教育を受け、現在は国内外を問わず様々なオーケストラを指揮し、ご活躍しています。
数年前、ドヴォルザークの交響曲第九番「新世界より」を彼女が指揮する映像を「スズキ・スイフト」のCMで使っていました。
いや~かっこ良かったです(^^)
西本さんにも面白い話があって、彼女は大阪出身で大阪音楽大学OGですが、宝塚線に乗ると宝塚音楽学校の生徒から先輩に間違えられて挨拶されたり、小声で「あの人、宝塚よ」等と言われていたそうです(^^)
やっぱり美人は違いますね。
さて、日本から二人目。
三橋敬子さん。
↓
こちらは西本さんのような「凛々しい」感じでは無くチャーミングな方です。
私は実演に一度だけ接したことがありますが、ステージに出てきた時、背がちっちゃくて可愛いなぁ(笑)と思ったのですが、その小さな体でオーケストラをドライブする姿には感銘を受けました。
あの時はまだ20代後半位でしたから、今は更に円熟を重ねて素晴らしい指揮者になっていることでしょう(^^)v
次は外国編。
アロンドラ・デ・ラ・パーラさん。
私、この方知りませんでした(汗)
このブログを書くきっかけとなった山爺@Around60さんのブログで知った次第でありまして・・・
↓アロンドラ・デ・ラ・パーラさん
彼女はメキシコ出身のまさにこれからの次代を担う逸材のようです。
日本のオーケストラにも呼ばれたことがあるようなので、来日の時は是非行きたいですね(笑)
シーヨン・ソンさん
彼女は韓国の女流指揮者で、同国初めての音楽監督ポスト(ソウル市交響楽団)に就いた方とのこと。
↓シーヨン・ソンさん
こちらはオリエンティックな美人さんですね~(^^)
彼女も結構な頻度で日本のオーケストラに客演しているそうです。
こちらも見に行きたい(笑)
最後。アヌ・タリさん。
彼女はエストニア生まれとのこと。
北欧は美人さんが多いお国柄なのでしょうか?(笑)
↓アヌ・タリさん
まるでモデル誌から出てきたかのような美しさ(^^)
こういう方の指揮で演奏できるオーケストラマンが羨ましい・・・(笑)
もし、女流指揮者の演奏会を聴きに行くならサントリー・ホールの「P席」がお勧めです。
P席はオーケストラの後ろ側の席になっているので、普通なら後ろ姿しか見えない指揮者を正面から観ることが出来ます(笑)
なんか理由が不純ですが(大笑)
P席は音響的には少し難ありという見方もありますが、私は実演を聴くと全て感動する単純な質なので(^^;)
もちろん、「女流指揮者」の演奏会ではなくとも、指揮者の動きを見ることが出来るので楽しいですし、S席等から見ると価格も抑えられています。
(ただし、たまに気合が入りすぎてとんでもない変顔になる指揮者の時は笑いを堪える事も必要になりますが笑)
今日もダラダラと長文になってしまいました。
最後まで忍耐強くお読み頂きありがとうございますm(_ _)m
また先日来、沢山の「イイね!」、感謝の限りです。
暑い日がまだまだ続くと思われますので皆様、ご自愛くださいませ。
あ。
もう一人「超イケメン指揮者」を忘れていました。
この方。
↓
↓
↓
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↓
↓
↓
千秋真一さんでした(笑)
おそまつ・・・・・