今日は昨日と打って変わって暑いです・・・
出かけようかという気も失せ、本日はCDとラジオを聴きつつ読書の日です。
今日は車ネタではありません。
読書しながらCDを聴いていたのですが「聴くと涙が出てしまう」演奏を聴いてしまったので・・・
ベドルジハ・スメタナ作曲 連作交響詩「我が祖国」
ラファエル・クーベリック指揮 チェコ・フィルハーモニー管弦楽団 (1990年 プラハの春 オープニングライブ)
スメタナの「我が祖国」というと二曲目「モルダウ(ブルタヴァ)」が有名です。
「ぼへーみあーのかーわーよーもーるだーうよー」のアレです(笑)
(今は歌詞が「なつーしきかーわよーもーるだうよー」に変わっているのかな?)
この曲は中学の合唱コンクールの課題曲でした。
(恐らく同じ経験をされた方も多いのでは)
因みに私は指揮者でして(汗)
その頃からクラシックばかり聴いていたので普通なら二拍子を振るだけなのですが、「カラヤンやバーンスタイン」に心酔しまくっていた生意気ざかりな中学生(笑)は、まるでその真似をするかのような指揮をして1人、悦に浸っていました(笑)
お陰で「指揮者賞」なるものを貰いました(^^;)
そのときのビデオが残っていてちょっと前に見返したのですがコレが酷い(笑)
目を閉じ、かき回すような指揮姿、完全にカラヤンに「成りきって」ます。
同級会の時に同級生がその事を思い出して「あの時、歌う側は笑いを堪えるので大変だった」と皆、口を揃えていました(大笑)
これが功を奏したのか(笑)卒業式での「大地讃頌」も指揮者を任されました。
こっちもビデオがあったので見返したのですが「モルダウ」より酷い(笑)
歌う側300人は「卒業」ですから涙で顔がグシャグシャ、そして指揮者の私も涙でグシャグシャ(笑)
そんな涙と鼻水グシャグシャで今度はバーンスタインばりに飛び跳ね、山田一雄先生なみにキューを出しまくってます(汗)
あぁ、消したい黒歴史(^^;)
でも同級生、みんなにこのビデオ配布されたんだったなぁ・・・等と思い出しながら。
いつもこのビデオの存在が同級生と会うとネタにされるのは「過去の過ち」として仕方無いですね(笑)
話が脱線しました(笑)
ラファエル・クーベリックについて紹介します。
クーベリックは世界的ヴァイオリニスト、ヤン・クーベリックの息子としてチェコに生まれました。
言葉を憶えるより楽譜を読むことの方が先に出来たという逸話が残っているほどその才能を父親から受け継いだようです。
わずか28歳でチェコ・フィル音楽監督に就任、栄光の時代が始まるかと思いきや。
1948年、チェコスロバキア政変(所謂二月事件)が起き、共産党政権が樹立されます。
クーベリックは「共産政権」が「人民の平等」の名を借りた「独裁政権」であることを喝破し、イギリスへ亡命、活動を西側へ移します。
その後、シカゴ交響楽団の音楽監督に就任しますが、当時「シカゴ・トリビューン」誌の「ある意味」名物であった女流評論家「クラウディア・キャシディ」の激しい攻撃(演奏自体というより個人的攻撃までされたようです。キャシディに賞賛された指揮者のなんているか?という具合だったようですね)を受けシカゴ響を退任。
クーベリックは人格者ぶり、温厚さは有名で滅多な事では怒りを露わにする人物ではなかったそうですが、シカゴ響時代のことを聞かれると「あの女!!!」と罵ったとのこと・・・
その後、クーベリックはドイツのバイエルン放送交響楽団の音楽監督に就任。
バイエルン放送馨を「ドイツを代表するオーケストラ」へと、その存在を押し上げます。
1986年、持病の悪化もあり指揮活動から引退、悠々自適の生活を送るはずでしたが・・・
1989年、当時のチェコスロバキアでも「民主化革命」(所謂ビロード革命)が起き、共産党政権は崩壊。クーベリックの祖国、チェコスロバキアはハーヴェルを大統領とする民主国家となります。
チェコスロバキアでは毎年「プラハの春」と呼ばれる音楽祭が開催されています。
ハーヴェル大統領は1948年に祖国を離れて以降、チェコスロバキアの土を踏んでいない「世界的指揮者・ラファエル・クーベリック」に是非、祖国で指揮して欲しいとの希望を伝えます。
クーベリックは祖国の民主化をとても喜んだようですが、指揮活動から身を引いて既に4年経ち、最初はハーヴェルの希望に難色を示したといいます。
また「自分は1948年に祖国を「捨てた」と言われても仕方ない。そんな人間をチェコスロバキアの人達は果たして迎え入れてくれるのだろうか?」との葛藤もあったようです。
しかし祖国、チェコスロバキアの民主化の翌年、1990年の「プラハの春」音楽祭にラファエル・クーベリックは帰って来ました。
42年ぶりに踏む、祖国の土。
この演奏会に望むまでのクーベリックの模様がドキュメンタリーとして残されています。
何処へ行っても歓呼の声で迎えられるクーベリックが向かったのは父、ヤン・クーベリックのお墓でした。
クーベリックは祖国を離れた1948年以来、父の墓参も出来なかったのは共産圏から西側へ亡命した者の運命として当然だったでしょうが、過酷です。
そこで父、ヤンのお墓に向かってラファエルが語りかけるシーン・・・
これは何度見ても年甲斐も無く泣けるのですが・・・
「お父さん、お久しぶりですね。ラファエルです。すっかりご無沙汰してしまって・・・申し訳ありません。こちらは我が妻、そして息子に娘。そして私の孫です。お父さんから見ると孫とひ孫ですよ。こうして何十年も会いにも来ないで・・・親不孝をお許しください」
ダメだ、書いていてまた目頭が熱くなってきた・・・
そしてラファエル・クーベリックは42年前、自らが音楽監督を努めたチェコ・フィルハーモニー管弦楽団の指揮台に立ちます。
曲目は「プラハの春」音楽祭、オープニングを飾る曲となっているスメタナ「我が祖国」
上で挙げた経緯があるクーベリックが「我が祖国」を指揮するだけでもう・・・
クーベリックは「我が祖国」を亡命後、4度録音しています。
シカゴ響、ウィーン・フィル、ボストン交響楽団、バイエルン放送交響楽団。
その録音全てを私は持っていて、どれも「鉄のカーテンの向こう側」にある「我が祖国」を想った名演です。
しかしこのチェコ・フィルとの42年ぶりの再会演奏はこの4度の録音には無い「感動」が詰まっています。
メカニカルな部分で見るとチェコ・フィルとのこの演奏・録音はオケの技術もバイエルンから見れば劣る部分もありますしライブ故のキズもあります。
しかし、それを補っても余りある「感動」がそこにはあります。
(勿論、バイエルンを始めとした4度の録音、全てが「名盤」と誉れ高いものです。特にバイエルンとの録音はベルリン・フィルにも匹敵するであろうオーケストラの技術とクーベリックの解釈が素晴らしく融合した超・名演であると思っています。)
YouTubeにこのライブの模様がありました。
「我が祖国」全曲は結構長いのですが、最後の曲「ブラニーク」ではオーケストラ団員も感極まっているように見えますし、それを感情を抑えながらも指揮するクーベリック、終わった後の聴衆の歓呼の声・・・
クーベリックは1996年に波乱と栄光に満ちた、そして何十年踏むことが出来なかった「祖国」の土を踏むことが叶った生涯を閉じました。
そのお墓は長年、墓参が許されなかった父、ヤン・クーベリックの隣にあります。
長年会うことが出来なかった親子、きっと今は四方山話で賑わっていることでしょう(^^)
クーベリック親子のお墓は「ヴィシェフラット墓地」の「スラヴィーン」という地域にあるそうです。
そこはチェコ民族の発展に貢献した方だけが眠る墓地だそうで、アメリカで言えばアーリントンのようなものでしょうか。
そこにはクーベリック親子の他にスメタナ・ドヴォルザーク・画家、ガラス工芸家のミュシャのお墓もあるそうです。
「西側」と「東側」に別れたことによって引き裂かれた人々は多くいます。
「ラファエル・クーベリック」もその1人。
しかし42年と時を経て彼は祖国の指揮台に戻ってきました。
その時、彼の胸の去来したのはどういった想いだったのでしょう・・・・・
「東西冷戦」という言葉が最早、過去の出来事となっている現在。
東側の民主化革命の嵐が吹き荒れたあの頃、私はまだ子供でしたが、今になって思うのは「東西冷戦とは何だったのか?」と。
イデオロギーの違いで片付けるのは簡単ですが、それで多くに人々が引き裂かれ、また民主化を志した人々が同じ国内の体制によって殺されていった事実。
無情としかいいようがありません。
またもや話が脱線しますが、「イデオロギーの違いで闘うことの無情」を明朗に喝破した人間がいます。
その人は第19代内閣総理大臣、原敬。
曰く「(前略)戊辰戦役は、政見の異同のみ。当時勝てば官軍負くれば賊との俗謡あり。その真相を語るものなり。(後略)」
原は当時、戊辰の役で「賊軍」とされた「盛岡藩」(現岩手県中部~青森県八戸地方)家老職の家出身でした。
戊辰の役以降、奥羽列藩同盟に加わった地方の人々は「白河以北一山百文」(白河から北の人間は一山いても100文程度の価値しか無いという説、白河以北の山の価値は100文しか無いという説等あり)と蔑まれ、原自身も相当苦労しながらも「内閣総理大臣」、それも「平民宰相」として国のトップに立ったわけですが、その原自身の言葉「政見(政治への意見、見解)の違いのみで争い(戊辰の役)は起きた。しかし勝てば官軍の言葉が全てを物語っている。(勝てば官軍~)=即ちはこのような事で争うとは非常に無駄な事である」と。
これは戊辰の役で「賊軍」「朝敵」「逆賊」として死んでいった東北諸藩(奥羽列藩同盟)の武士達慰霊の牌建立の際の言葉です。
「西側」と「東側」から見るとスケールの違いこそあれ、当時小さな日本でも「イデオロギーの違い」により多くの人間が亡くなり、辛い別れが多くあったことでしょう。
それを原は平明かつ明朗にこの言葉で喝破したと思います。
「勝者が歴史を創る」と言いますが仮に「戊辰の役」で新政府軍が敗れていれば、そちらが「逆賊」となったでしょうし、東側(共産体制)が隆盛を誇り、西側で革命が起きていれば「資本主義・民主主義」の敗北という歴史になっていたことでしょう。
(因みに原は「平民宰相」と呼ばれますが、盛岡藩の「家老職」の家出身なので歴代首相の中では「東久邇宮稔彦」「近衛文麿」に次ぐエスタブリッシュメント出身と言ってもいいでしょう。維新の志士達は殆どが下級武士でした。また原の雅号「一山」は「白河以北~」から取ったもので彼の反骨精神をよく表しています)
まぁ、この「イデオロギー」の犠牲になった人々が「勝者の側」は靖国に立柱され、賊軍、即ち「敗者」は成されないのも「勝てば~」で原が皮肉っているとおりですね。
(A級合祀やら何やらの問題は置いておいて)
話が相当脱線してしまいました(笑)
ラファエル・クーベリックには名盤が多く残されています。
バイエルンとの録音は「ハズレ」が無く、彼の誠実な人柄が伝わってくる名演ばかりですし(特にモーツァルトやシューマンの交響曲集は皆さんに自信を持ってお勧めできます)、若き日のシカゴ響との録音は音が悪いのが難点ですが「新天地アメリカ」での溌剌とした演奏、9つのオーケストラを振り分けたベートヴェンの交響曲全集は各オケの特色を見事に引き出した名演揃い。
ラファエル・クーベリックは「恐怖型トスカニーニ・ライナー・セル」「カリスマ型カラヤン・バーンスタイン」とは違った「人柄」でオーケストラを魅了してしまう人だったのかもしれません。
と言いつつ、彼のマーラー交響曲全集はバーンスタインのような内生する「どす暗さ」や「死生観」を抉り出したこれまた名演なのですが・・・
クーベリックのCDはどなたにもお勧めできる名盤揃いですので
「これから聴いてみたいけど誰が指揮したのを買ったらいいか分からない」
という場合には「カラヤン」と並んでお勧めいたしますので頭の片隅にでも憶えておいて頂ければ・・・
(ただし所謂「歴史的録音」なんてのは音が悪いのが常ですのでそのあたりは要注意ですよ笑)
本日も最後までお読み頂きありがとうございました。
また、先日より沢山の「イイね!」を頂き感謝致します。