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バーンスタインのブログ一覧

2017年07月31日 イイね!

「珍」な演奏と曲

今日は突然の雨に驚きました。
ザッとふって10分程度でやみましたが、こんな豪雨が一時間続いたらと思うとゾッとします。
近隣の某国は相も変わらず、ICBM花火を上げて喜んでいる始末ですし、せめて天気くらい良くなって欲しいものです。

さて、今日も相変わらず車のネタが無いので音楽ネタです。

クラシックの曲、特にオーケストラ作品は指揮者の解釈によって様々な表情を出します。
「深刻」な解釈の指揮者もいれば「打ち上げ花火」のような明るい解釈を信条とする指揮者。
そのこと自体に優劣はありません。
なぜなら「作曲家の意図を読み取って、さらにそこに自分の解釈を加えて演奏させる」のが「指揮者」という存在なのですから。

しかしたまーに「あんた、それ真面目にやってんのか?」という指揮者や音楽に出会うことがあります。
「真面目にやってんのか?」と言ってもふざけたり、聴衆をバカにしたような意味では無くて「どういう意図で?」とある意味、笑わされるという意味です。

例えばベートヴェンの交響曲第九番「合唱付」
我が国では「歓喜の歌」の部分だけが有名ですね。
「フロイデ シェーネル ゲッテルフンケン」で始まるあの部分。

大体のその曲の速さ(テンポ)は皆様の頭の中にあるとは思いますが、一応標準的なテンポということで下記の映像を。
カラヤン/Bph 1977年
12:56あたりから所謂「歓喜の歌」


大体、皆様の頭に刻まれている「歓喜の歌」はこの位のテンポだと思います。

しかし、面白い物を見つけました。
その存在は前から知っていたのですが・・・

まずは下記の「第九~歓喜の歌」を聴いてみてください。
1:34:15あたりから「歓喜の歌」


どうでしょう。
まるで「歓喜の歌」が仏教のお経のようですね(笑)
私が初めてこの演奏を聴いた時は腹を抱えて笑ってしまいました(^^)

第九の大体の演奏時間は第一楽章から第四楽章までで、70分~78分程度が普通ですが、この第九はなんと110分(笑)
演奏時間が長いためか、オーケストラはなんだかやる気無しで合唱団も殆ど「死んだ魚の目」状態(^^;)

この指揮者はふざけてこんなにゆっくりやっていると思われる方もいらっしゃるでしょう。
しかし、当の本人は大真面目にやっているんです。

彼の名は「マキシミアンノ・コブラ」
怖い名前ですね(笑)

彼の理論は「テンポ・ジュスト理論」と言って、通常は指揮棒の動きの「片道を一拍」として数えますが、彼の「テンポ・ジュスト理論」は指揮棒の「往復運動で一拍」と数えるという大真面目な理論なのです。
この理論の根拠は「メトロノームが用いられた最初期時代の作曲家は、メトロノームという器具への理解がいまひとつ統一されておらず、誤ったテンポ設定がなされた」からだそうです。

だとしても・・・
これはまさに「珍なる」演奏と勝手に認定します(笑)

普通の「第九」でさえ全曲聴くのは結構難儀しますが(笑)、コブラの第九は一年に一度聴けばもう十分です(笑)

でも、こういった「解釈」も指揮者に任されたものであり、それが如何に聴衆を惹き付けるかが勝負ですからね。
コブラ自身も「このテンポが絶対正しい!」と思ってやっているでしょうから「1つの解釈」ですね(^^)

是非、時間がある時「第四楽章」だけでも聴いてみてください。
眠くなります(笑)

次にご紹介するのはドヴォルザーク:交響曲第九番「新世界より」
この曲も有名曲の1つです。
第2楽章は「とーおきーやーまにーひーはおーちてー」と歌詞が付いたものを「家路」として音楽の授業で習ったかたも多いのでは?(^^)

その第二楽章も有名ですが第四楽章も有名です。
映画「ジョーズ」を思わせる出だしを聴けば「あ、あれか」と思われる方が殆どだと思います。

ドヴォルザーク:交響曲第九番「新世界より」

ロリン・マゼール指揮 ニューヨーク・フィルハーモニック
2008年、マゼール&ニューヨーク・フィルが平壌で行ったライブです。
今の緊張状態からは考えられない光景です。


この曲はむしろ第2楽章より第四楽章の方が有名かもしれません。
この曲のラストは盛り上がって、最後は管楽器がテーマを伸ばして静かに終わります。
上の平壌での演奏会では10:55秒あたりからお聴きいただくと分かりやすいかと。

まず「新世界」交響曲の終結部はその長さの差こそあれど、どんな指揮者でもこのような終わり方です。
平壌ライブのものは歴史的映像だと思ってリンクしましたが音が悪いのでもう一つ。

グスターボ・ドゥダメル指揮 シュツットガルト放送交響楽団
ローマ法王臨席コンサート(どうやら80歳の記念公演?らしいです)


11:15あたりから終結部。

二人の演奏をお聴き頂いて「大体同じだね」という感じをお持ちになったかもしれません。

しかーし!

やっぱり面白い「新世界」交響曲もありました(笑)
惜しくも音声のみですが、下記をお聴きになってみてください。


出だしの金管の咆哮からして、上で挙げた2つの演奏と比べなんだか重戦車の進撃のような響きです。
これはこれでいい演奏ですね。
しかし、衝撃は終結部にやって来ます(笑)
10:40あたりから聴いてみてください。

・・・・・・

ほぼ「別の曲」のような終わり方です(笑)

こちらはロシアの巨匠、エフゲニー・スヴェトラーノフが指揮、ソビエト国立交響楽団の演奏です。
当時のソ連のオーケストラは国内中から腕利きばかりを集めたオーケストラが群雄割拠している状態でした。
西側の洗練されたオーケストラとは違う迫力を楽しむことが出来ます。

しかし、このラストを聴いたときも大笑いしました(^^)
いかにも当時のソ連らしいというか、こりゃもう作曲者の指示を無視してるでしょ(笑)

スヴェトラーノフは面白い逸話があって指揮台の前にある譜面台に「扇風機」を付けていたという話。
極度の暑がりだったのか不明ですが、その扇風機のファンの音が曲の静かなところではブンブン聴こえてオーケストラの団員が困ったとか、録音のときもその音を拾ってしまうので「マエストロ、扇風機は外してください」とエンジニアが言ったら「これが無いなら録音はしない!」と言ってそのまま録音したとか・・・
(確か、スヴェトラーノフの録音でそのファンの音を拾ってしまったのがあるとタモリ倶楽部でやってました笑)

さて、ここまでは「演奏が珍」なものを紹介しましたが、曲自体が珍なものを。

まずは作曲家の指示に「指揮者が倒れる」という指示がある曲(笑)



マウリツィオ・カーゲルという作曲家の作品のようですが、こちらも大笑い必至です(^^)

このカーゲル、もう一曲面白い曲が。
「ティンパニとオーケストラのための協奏曲」



カーゲルさん、あんた確信犯でしょ(笑)

もう一つ、恐らく真面目に作曲はしたのでしょうが大笑いというかシュールなこの曲。

アンディ・アキホ作曲 「ピンポン協奏曲」


真面目に演奏するオーケストラをバックに卓球・・・
シュール過ぎて笑えます(^^)

他にも色々な「珍」とも言える演奏や曲、歴史的な意味合いがある興味深い録音が多数ありますが、本日はこのへんで。

今日もしょーもない内容のブログ、最後までお読み頂き感謝いたします。
また、イイねも沢山頂戴し、感激しております。

Posted at 2017/07/31 22:25:57 | コメント(3) | トラックバック(0) | 徒然なるままに日常雑記 | 日記
2017年07月31日 イイね!

再考「BS 音楽サスペンス~亡命オーケストラの謎~マエストロ・ヒデマロ」を見て

今日はぐっすりと眠ってしまったため眠くなりません。
眠剤を処方されているので飲みましたが中々・・・

なので昨日(正確には一昨日)放送された「BSプレミアム 玉木宏 音楽サスペンス~亡命オーケストラの謎~マエストロ・ヒデマロ」を見ての内容の紹介と感想を。

「近衛秀麿」については拙ブログ「忘れ去られた「国際的日本人ミュージシャン」 で書きましたが、今回は改訂版ということで。

近衛家は5摂家の筆頭。藤原氏の本当の「直系」です。
ある意味「天皇家」の分家と言ってもよい存在でしょう。

そこの次男として生まれたのが秀麿。
兄は我が国の首相を努めた近衛文麿。

↓若き日の秀麿


言うまでも無く戦前の我が国の「エスタブリッシュメント」です。

秀麿の出生の経緯等はWikipediaや拙ブログをご覧いただくとしてYouTubeに興味深い映像を見つけましたので御覧ください。



ハーケンクロイツと日の丸をバックにベルリン・フィルを指揮する秀麿。
最初に「わが友邦国、日本から来た才能あふれる指揮者、グラーフ・コノエによる日独親善演奏会」と紹介されています。

残念ながらこの演奏会の模様はこれしか残っていないようですが、恐らくナチス政権の幹部(想像するにゲッベルス宣伝相やゲーリング航空相あたりがいたのではと推測してます)と当時、駐独大使だった大島浩(後にA級戦犯、日独伊三国同盟を推進した1人)あたりが出席した謂わば「プロパガンダ的」演奏会であったと思われます。

この映像は「マエストロ・ヒデマロ」でも紹介されていました。
この映像だけを見ると秀麿はナチスの文化政策に協力的であったと考えるのが一般的でしょう。

しかし、秀麿はまさに「同盟国の首相の弟」「才能溢れる指揮者」という仮面のもと、「ユダヤ人の亡命工作」を行っていたことは前にブログで述べました。

このユダヤ人亡命への関与について1つ興味深いというか、後の我が国のクラシック音楽に大きな影響を与えたであろうことが分かりました。
秀麿は著名なピアニストであったレオニード・クロイツァーの亡命を手助けし、クロイツァーを日本に亡命させます。
(クロイツァーはベルリン音楽大学の著名な教授でもありましたが、1933年のナチス政権樹立によりその職を追われ、同年秀麿の説得もあり我が国に亡命)

クロイツァーは戦後も日本にとどまり我が国のオーケストラやピアニストの育成に尽力しますが、そのクロイツァーの演奏会を聴いた1人の少年がいました。
彼はその音楽の魅力に取り憑かれ「音楽家」になることを決めたそうです。
その人の名は「小澤征爾」。
もしクロイツァーが日本に亡命していなかったら「世界のオザワ」は誕生しなかったのかもしれません。

↓レオニード・クロイツァー


「クロイツァー」で画像検索すると「ヨコハマ」のアルミホイールが出てきました(笑)
クロイツァーは好きなデザインのアルミです(^^)

クロイツァーはベルリンに奥さんを残して来てました。
奥さんもユダヤ人だったためナチスの迫害を受け、夫のクロイツァーもいなくなってしまった為、生活も困窮していたようです。
そのクロイツァー夫人に秀麿は経済的援助を惜しまなかったようですが、この事がナチスに露見、逮捕・勾留されてしまい(しかしVIPな事が判明し即釈放)、ドイツ国内での演奏禁止という処分を受けます。

話は少し脱線しますがナチス統治下のドイツでは音楽家達も「政争の具」となっていました。
ヒトラーは有名な「ワグネリアン」でしたが、それをいい事に部下の閣僚達はお追従の意味合いもあったのでしょう。

リヒャルト・シュトラウスは「帝国音楽院総裁」というポストに就かされ、その事が戦後、彼の栄光に影を落とすことになりました。

ちなみにこのリヒャルト・シュトラウス、我が国の「皇紀2600年」に際し「日本の皇紀2600年に寄せる祝典曲」という作品を残しています。同盟国、日本の為に書いた曲ですが、現在は殆ど演奏されることがありません。嫌々書いた曲なのでシュトラウスの曲の中でも「駄作」との評価があります。
↓リヒャルト・シュトラウスとゲッベルス宣伝相


ヴィルヘルム・フルトヴェングラーはナチスに抵抗しますが、結局は狡猾なゲッベルスの罠に嵌り「プロイセン枢密顧問官」というポストにこれまた就かされ、このことも戦後の彼の活動に暗い影を。
↓フルトヴェングラーの演奏会に臨席するヒトラー


この写真にはある意味が込められていると言います。
当時ドイツでは「ハイル・ヒトラー」とともに右手を高く上げるのが「総統に忠誠」を尽くすという意味で一般化していました。
しかしフルトヴェングラーはヒトラーを忌み嫌っていたため一計を案じ、タクトを持っていればそれをしなくて済むと言っていたそうです。確かに軽く会釈程度ですね。

そのゲッベルスの政敵であったゲーリング航空相はフルトヴェングラーのライバルとして「ヘルベルト・フォン・カラヤン」に目をつけ、その若き指揮者を「奇跡のカラヤン」とセンセーショナルに登場させ、ゲッベルスに対抗します。
このことがフルトヴェングラーとカラヤンの対立につながっていきますし、戦後、カラヤンの「ナチス入党疑惑」としてこれまた暗い影を落としてしまいます。

勿論、ユダヤ人音楽家たちはドイツに留まれば生命の危険があるわけですからその殆どがアメリカへ亡命、アメリカの音楽界は隆盛を極めることになるのですが、アメリカでは無く日本を目指した音楽家たちもかなりいました。
この事が我が国の音楽界の本格的夜明けとなったのは言うまでもない事実です。

話を元に戻すと、そのような治世下のドイツでしたから同盟国の首相の弟で貴族、そして才能の溢れる秀麿をナチスはプロパガンダに、ひいては「政争の具」としても使いたかったことでしょう。
現にゲッペルス宣伝相は猛アプローチをかけ、秀麿も「乗った」ふりをします。
そして彼はその「仮面」を上手く利用し、ナチスへの反逆とも言える行動をしていたことになります。
(クロイツァー夫人への援助でバレてしまうのですが)

ドイツ国内での演奏ができなくなった秀麿はポーランド、フランスで活動をしたようです。
ポーランドも当時はナチス占領下で、ポーランド人はナチスから見ると「劣等民族」なので「偉大な作曲家の残した作品を聴くこと、演奏することは罷りならん」という状況だったそうです。
(それにしても「劣等民族」とか「選民思想」という言葉には虫唾が走ります。)

因みに、かのアドルフ・ヒトラーは「我が闘争」の中で「日本人」を「小手先だけが器用な民族で我々ゲルマン民族が光を当ててやらなければ何も出来ない民族」「想像力に劣った民族だが、我がゲルマン民族の手足として使うには好都合」と書いてあります。しかし戦中、それらの表記は削除され、戦後、鈴木東民らによって暴露されました。また、米内光政は原語版を読み、ヒトラーの本心を知っていたため日独伊三国同盟に反対したという説もあります。

そのポーランド・ワルシャワで秀麿は演奏会を開きます。
客はドイツ軍の将校やドイツ人に限られた演奏会だったようですが、ワルシャワ人で組織されたオーケストラを指揮をすること自体が危険な行為であったと番組では紹介されていました。
上で挙げた通り「演奏することもダメ」なわけですから。

その事について秀麿の孫、水谷川優子さんが仰っていました「秀麿はきっとナチスに一矢報いた買ったのだと思いますし、抑圧されたポーランド人に勇気を与えたかったのではないでしょうか」と。
いくらVIPとは言え秀麿の行動には頭が下がりました。

その後、秀麿は「オーケストラ・グラーフ・コノエ」を私費で組織し、ナチ占領下のフランス各地で演奏を行いました。
(本来、秀麿は「子爵」なので「ヴァイカウント」なのですが、当時のドイツに「ヴァイカウント」はなかったため、プロトコールで一つ上の「グラーフ」=伯爵と呼んだそうです)
秀麿の戦後の手記に拠れば「オーケストラは50人弱」となっているのですが、このオーケストラの団員サイン帳には30名程度のサインしかありません。

ここからは番組の推測でしたが残り20人はユダヤ人で演奏旅行中に亡命させたのではないか?という推測でした。

残念ながら当時、フランスとスイス国境で亡命の手伝いをした人々、唯一の生き残りの方にインタビューをしていましたが秀麿の事は知らないとのことでした。
ただ、近衛家に伝わる話として孫の近衛一さん(オランダ放送フィルファゴット奏者)が語っていた「祖父はこのオーケストラのユダヤ人楽団員を愛車のフィアットのトランクに隠して亡命させたことがあったと聞いています」という話がありました。

いくら同盟国のVIPでもこの活動がバレたら一巻の終わりでしょう。
秀麿という人は貴族でありながらナチスの思想とは相容れず、自らの命を賭けてまで勇気ある行動をとっていた・・・
杉原千畝もユダヤ人を多く救いましたが、戦後暫くの間、その存在すら忘れられていましたが、もう一人そのような活動をしていた(であろう)人がいた事に同じ日本人として誇らしい気持ちになりました。
(杉原は当時の外務省訓令に背いてビザを発給したため、戦後外務省を追われてしまっています。しかし、彼のビザのお陰で命を救われた方がイスラエルで大臣になり、その存在が明らかとなった経緯があります)

ドイツ降伏後、秀麿は進駐してきた連合国軍に出頭しました。
この時、周りの人々は彼を匿おうとしたようですが「皆さんに迷惑を掛けるから」と言って出頭したそうです。
やはり秀麿の行いを周りの人々も賞賛していた証左だと私は思います。

戦後、秀麿は様々な著書を出しますが、ユダヤ人救出の事はほんの少ししか触れていません。
きっと彼の性格上、その事は「人間として当然の事をしたまで」という気持ちだったのではないでしょうか。
彼こそ「日本男児」だったのかもしれないと思います。

前回の「戦火のマエストロ」では放映されなかった新事実が色々と出てきた上に、相当掘り下げられていたいい番組でした。

月並みですが戦争の無情、非情、憎悪etc・・・それらをつとに感じさせられました。
それでも人間は「戦い」を止めない困った生物・・・

ただ「近衛秀麿」という音楽家としては勿論、1人の人間として「ナチス」という巨大な存在と闘った人物がいた事が少しでもこうして世間に広まっていってくれればと思っています。

↓晩年の秀麿


戦後は自らの活躍譚を語ることも無く、自分が手塩にかけて育てたNHK交響楽団からもぞんざいに扱われ、詐欺にあったりと不遇な晩年を過ごした秀麿。
しかし、彼の行った勇気ある行動が評価され、そして評価される日はもうそこまで来ていると思います。

「グラーフ・コノエ」よ、永遠なれ。

本日も最後までお読み頂きありがとうございました。
Posted at 2017/07/31 04:02:03 | コメント(2) | トラックバック(0) | 徒然なるままに日常雑記 | 日記

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