二戸史跡探訪~九戸城跡
投稿日 : 2008年04月22日
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馬淵川右岸の段丘上に立地している。
西を馬淵川、北を白鳥川、東を猫渕川が囲む天険の要害で、地続きの南側は自然の谷地を利用した大きな堀で区切られている。
本丸、二の丸、三の丸、若狭館、石沢館、松の丸から構成されているが本丸、二の丸、三の丸、松の丸部分は九戸の乱後に改修された福岡城としての遺構で、九戸氏在城時代の九戸城は石沢館や若狭館のような構造であったと思われる。
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九戸城は九戸氏の居城で、前九年の役時には安倍貞任の弟の白鳥八郎行任の居城・白鳥館があったともいわれている。
城主の九戸氏は南部氏庶流の九戸南部氏の出といわれてきたが、最近では二階堂氏の執事であったとも、結城氏惣大将小笠原政康の子孫とともいわれている(室町幕府の記録・「光源院殿御代当参衆并足軽以下衆覚」には南部大膳亮(南部晴政か?)と並んで「九戸五郎奥州二階堂」と記されている。
また、軍記物では九戸政実が自らの出自を「結城惣大将小笠原政康の・・・」と語っている描写がある。
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いずれにせよ、最近の歴史関係の展示・企画展等では九戸南部氏との表記は使われなくなってきている。
九戸城の築城時期は定かではないが、一戸町実相寺の古文書によれば九戸光政の頃(明応年間1492~1501)に築城されたと考えられている。
また、九戸城は永禄十一年(1568)、九戸政実が鹿角奪還の功により二戸地方を拝領し、築城したという説もある。
天正十九年(1591)九月一日、九戸城は南部信直や豊臣秀吉麾下の軍勢6万(実数3万か?)に包囲された。
いわゆる九戸政実の乱である。
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九戸政実の乱は南部晴継暗殺後の南部家の家督を巡っての争いが発端となっている。
結局、南部家の家督は南部信直が継いだがこれを不服とした九戸政実は決起、「糠部中錯乱」といわれる、南部領内を二分する大きな戦いとなった(南部家の家督争いに南部一族ではなかったとも考えられる九戸氏がどのように関係していたのかは不明だが、一般的な九戸の乱の経緯解説に従う)。
これに対して城兵側は約5千。
数に勝る包囲軍は天険と九戸政実の手腕に苦戦を強いられて力攻めを断念。
包囲軍は謀略を持って攻め落とすことにし、九戸氏菩提寺・長興寺住職の薩天和尚を使者に、城兵らの命と引き替えに降伏を勧告した。
政実はこれを受け降伏開城したが城兵5千は皆殺しにされ、九戸城は落城した。
降伏した政実らは栗原郡三ノ迫・上品寺で斬首され、息子・亀千代は逃亡途中に田子(青森県三戸郡田子町)家臣の佐藤外記の手にかかり殺害された。
落城後、九戸城は蒲生氏郷の手によって改修を受け、織豊系の技術が導入された近世城郭として生まれ変わった。
九戸城に入った南部信直は城名を福岡城とあらため、以降寛永十三年(1636)に南部利直が盛岡城に移るまで三戸城や高水寺城とともに南部氏の居城の一つとして使用された(盛岡城が洪水によりたびたび被害を受けたため南部氏の居城は転々としていた)。
なった。
その後、盛岡城が居城として定まるまで三戸城や高水寺城とともに南部氏の居城として使用されたが寛永十三年(1636)、廃城となった。
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とまあ、なんたらかんたら、九戸城について書かれているものを、そっくりそのまま!?コピペで説明いたしてきました。
最後に、インプと九戸城跡ということで・・・・・
ここは、高台なので桜はまだ3~4分咲きってとこでした。
満開になると、ほんと綺麗なんですよ~
夜はライトアップもされているし・・・・・・・・実は、この場所、地元では有名な!?野外○○○のスポットなんです。
といっても、その現場を見たわけではなく、残骸が転がっているのを昔見たんだよね~(爆)
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