2007年07月11日
結局、会社でのリハビリ出勤→落ち込み→休暇を2度ほど繰り返し、自宅静養が続きました。それまでのリハビリは、特に仕事を与えられる事も無く、ただ出勤するだけで、殆どが「メールの整理」と「読書(専門書)」と、「過去の栄光を振り返るかのようにドキュメント類を読んだり」、「ソフトウェアを眺めたり」と殆ど「放置プレイ」でした。こんなのでは当然自分のモチベーションも上がるはずも無く、落ちていくのは当然だと思っていました。結果、2回も落ちちゃったわけですが…
静養を毎日続けるにあたり、主治医から「外出をして体を動かすように」とか、「何かをして毎日を過ごしてみてはどうだろう」とアドバイスを受け、「出勤訓練」や「バイク弄り」を積極的にやりました。すると、だんだん色々やる気みたいなのが出てきて、毎日のようにRZと戯れる生活になってきました。時には弄りをし、時にはミニツーリングに出かける。こんなアクティビティな毎日を過ごせるようになってきました。
「普通二輪」の免許も取り、バイクを「原付2種」にしてそれこそ色々試行錯誤の毎日で、「200Km以内にエンジンを焼く」を数度繰り返し、それでもめげずにシリンダーとピストンを変えたりして乗っていました。
これと同時に、体調もすこぶる良くなってきたという事で、今年の1月くらいから、3度目の「リハビリ出勤」をスタート。最初は「週1日、午前中勤務」のペースで、1ヶ月単位で出勤日数を増やして行きました。会社側との連絡も、それまでは「放置プレイ」で何も無く、結果落ちていった経緯を踏まえて、今まで以上に念密になり、2週間に1回~月1ペースで社内診療所へ通い、上司、総務、先生、私の4者面談で、自分の今の調子を確認しあうようになりました。病院の主治医、会社の主治医の2つをようやく持つ事が出来ました。
休暇中に「ずいぶんと太った」ので、出勤日以外は毎日「出勤訓練」と「ウォーキング」を行い、少しでも「たまった脂肪」を燃やすよう努力しました、始めは近所をグルグル周ってましたが、徐々にその距離を伸ばし、「ウォーキング」の方がメインになってきてしまう始末。時には数時間かけて隣町まで歩いていったり、とにかく「歩きに歩き」ました。これが功を成したのか、1ヶ月単位での出勤日数増加は順調に進み、午前中だけですが5日間の出社が可能になりました。今度は、「放置プレイ」ではなく、ほぼ無期限で「評価測定アプリケーションの開発」という1つの仕事を任され、現在も毎日奮闘中です。何せ「アメリカ」の会社のベースアプリで、殆どのヘルプは「英語」、辞書片手に色々作り、計測器の制御をPCから行うという「自分で勝手に決めた課題」を毎日やっています。嘘のようなホントの話なのですが、それまでは「こんなの嫌やなぁ」と思っていたのが、復活し仕事を与えられると、とても楽しく思えるようになりました。
気が付くとここまで来るのにおよそ「2年間」が経過していました。2年のブランクは大きいかと思いながらも、会社の同じ部署の人たちは「現状開発製品」についてのDR(デザイン・レビュー)などに参加させてくれるようにもなりました。私が発言できるのは、「2年前の過去の不具合事例」「評価方法」が殆どなのですが、色々と記憶には残っているもので、打ち合わせに参加しても「お客さん状態」ではなく、過去事例についての評価は出来ているのかや、評価方法のアドバイスなどが普通に出来て、やっぱり「体に染み付いてるな」なんて思う毎日でした。
現在は、週5日のうち2日間だけ17時まで勤務し、残りは午前中のみのスケジュールでリハビリを行っています。もうすぐ1ヶ月が経つので、17時まで勤務できる日を増やす予定ですが、主治医からは「1日しか増やしてはいけない」と強く言われました。本当は調子が良いので「2日」増やそうかと思い先生に話したのですが、辞めた方が良いとのアドバイス。素直にそれに従おうと思っています。
とっても長かった「闘病生活」今も完全に直ったとは思ってませんし、むしろ「直らない」と今思っています。やはり今でも落ちる時は落ちてしまうからです。つい最近も「新しい製品」がリリースされ、初めて「私以外」の人がソフトウェアを担当し、物になっているという現実に、「もう俺は必要ないのかな」とネガティブに考えてしまい、かなり落ち込みました。ソフトウェアのベースは、私が開発したものといっていますが、ソースも見てませんし、デバック状況も知りません。「完全に蚊帳の外だな」と感じながら、実験室を見渡して考えていました。自分の実験ブースからは、評価用の駆動システムが一式盗まれており「もうお前はやるな」って事かなと考えたりもしました。とにかくすべてが「ネガティブ」になってしまい、その時は凄く落ち込み、涙しました。「あぁ、この病気は治らんなぁ」と思ったのは間違いありません。ですが、「ポジティブ志向」にさえなれば、治るのではないかと思ったりしますが…三十数年間続いたこの性格を180度変えるには、相当な時間と覚悟が必要だなと思っています。
そんな中で、やっと、病気と上手に付き合えるようになってきたかなというのが、正直な気持ちです。
徐々に社会復帰を進めるにあたり、周りや自分に負けないよう、毎日を過ごし、最終目標である「完全復帰」目指して頑張ろうと思っています。
発病から2年間を覚えている限りですが書き込んだつもりです。もし、皆さんの中で「とても辛い」「体がいう事を聞かない」などの症状があった場合、発病間もないサインでもありますので、一刻も早く「精神科」を受診される事をお勧めします。後、私が勤務している会社は、同様な病気で苦しんでいる方が多く、自ら命を絶つ人も多いとの事です。正直にいうと、私も「死」を意識した事もあります。「走っているクルマに飛び込めば楽になれる」とも思ったりした事もあります。ですが、それはとても「自分勝手な行動」であって、残された者の事を全く考えないで行動を起こした結果になってしまいます。私が思いとどまったのは、まさにその点で、「逃げてはいけない」というのと「会社に負けた」という2つの事が頭をよぎりました。負ける事がとっても嫌いな私は、この考えを持つ事で命を取り留める事が出来ました。それと同時に「何とかなるさ」と軽く考えるようにしようと思っています。
結論を出すのは本当に最後にして、そこにたどり着くまでに周囲の状況を踏まえて、考えていただき、自ら命を達つ人が1人でも減りますよう願いを込めて、このシリーズを終えたいと思います。
毎度、長文となってしまい大変申しわけありません。とっても国語が苦手なもので、うまく表現が出来ない結果、こんなに長くなってしまいました。
今まで、長文にも拘らず読んでいただいた方には、改めて感謝いたします。
本当に有難うございました。
次からはこのブログの本来の姿「クルマ/バイク」の事を書いていこうと思っています。引き続きごひいきの程よろしくお願いいたします。
Posted at 2007/07/11 05:52:51 | |
マイコンディション | 日記
2007年07月03日
バイクのバイブル「サービスマニュアル」を入手した私、しばらくは読みふけり、「ここはこうバラして復元するのか」「これとるのは厄介だなぁ」等と「RZ50の中身について」勉強しました。(仕事しろよって感じですが…)ソコソコの知識を身に付けた私、バイクにもソコソコなれて、全開走行を行うも、どんどん上がる「水温」に危険を感じ、アップガレージで「NSR250用ラジエータ」に交換。これで全開走行も安心といった感じでした。もう一つのバイブル「モトチャンプ」で、「RZ50用ハイパワーピストン」の存在を知り、つくばにあるショップへ赴く。ただのバイク好きのガレージのような店頭に「レーシングピストンありますか」の質問「ハイパワーしか在庫が無い」の答えに、わざわざ埼玉から来てるのにここで帰るのは勿体無い気持ちと、待つのが嫌だった私は、「ハイパワーピストン」を購入。ここから本格的に泥沼化して行きます。そんな10月頃のある日、「春~夏用のグローブが欲しいなぁ」と思った私、もうシーズンも過ぎてるんで安いだろうと、近所のDSに行くも、気に入ったのが無く、川越の「2りんかんへ」行こうと、幹線道路を飛ばし「気持ち良い~」なんて感じながらRZを進めていたところ、狭山のカルフールを越えた辺りの交差点で信号が赤に。当然バイクを止め、青になるのはまだかと待っていたとき。一人のオッサンが私を指差し、「おいでおいで~」をする始末。「なんやぁ」と思いつつ、足漕ぎでバイクを進め、路地へ。するとどうでしょう。「白黒ツートンカラーで、屋根にピカピカするものを付けた車が沢山居るではありませんか…まさか、これって。
バイクを指定場所に置き、免許証の提示。「しまったぁ」とマジで思いました。で、オッサンが私に話しかけてくる始末「これ、リミッターカットしてるなぁ」「部品はこれだなぁ」と、しきりにそればかりを連呼。「1回言えば分かるわい」と思いつつ、レーダーの記録用紙を確認。「76Km/h」…嘘やんそんなに出てたやろかと思う私。レーダー探知機は付けてましたが反応なし…って事は、「光電管か?」の質問に、嬉しそうに「そうです」と、
やられたぁ~
ここでオッサンが「原付って、制限速度何キロかご存知ですよねぇ」と嬉しそうに話しかける。一気に機嫌が悪くなる私は、吐き捨てるように「30Kmじゃ」といい、急いでましたぁと、嬉しそうに話す始末。嬉しそうに赤色の紙のノートに、私の免許証内容と、違反名の記述を行うオッサン。「46Kmオーバーだねぇ」と。後、色々質問され、それが調書として残り、証拠写真の撮影。「一緒に写ってくれませんか」のお願いに「こいつはバカか」と思いながら拒否。「撮るんならバイクだけで良いやろう」と文句を言い、呆然とする私。そんな中、「忘年会の資金集めかぁ」「ノルマは達成しそうかぁ」「ええのうおまいらの仕事は…」などと文句を言いながらも、どんどんとクルマが入ってきて「ネズミ捕り捕獲」車で溢れる現場…そんな中、調書が完成し、音読をしながら確認。「ウゼーよこれ」と思いながら怒りを抑えつつ、一緒に確認。赤色の紙を手渡され「安全運転でお願いします」の一言に「30Kmで走る方が危険じゃ」と言い残し、その場で開放。初めての赤切符。原付とは言え、まず心配したのは「罰金」車種は関係ないよなぁ等と思いつつ、家族へメールで連絡。返事は「知らないよ~」の一言。あのぅ、助けて欲しいんですけど…と思いながら、バイクを走らせ、グローブを購入。高いグローブになりました。結局本事件は12月末にて完了。被告人おおかわへの判決は「罰金6万円に処す」。あ~あ、片方3万円のグローブになってしまった。大事に使おう。と思い、今年も使ってます。
「罰が当たった…」とこの時思い。「一発免停のショック」「講習面倒くせぇ」と悔しさで一杯。この時、「普通二輪を取ろうかな?」と本気で考えました。
この頃の弄りは、チャンバー、CDI、ラジエターの他に、セパハン化、ハンドル右集中スイッチ取り付け(同時にKILLスイッチの有効化と、デジタルリレーを使いハザード機能有効化の実施)ピストン交換、リアテール、LEDバルブへ交換、ウィンカーLED化、ヘッドライトLED化、イリジウムプラグ、スーパーイグニッションコイルにNGKのシリコンケーブル、ミクニVM18直キャブ仕様、チェーン、ドリブン、リアスプロケ交換、リアカウルオリジナルカスタム、ミッションブリーザー、デイトナ水温計、ヒップアップ化くらいだったかなぁ…とにかく変えれる所はイロイロ変えてましたね。交通違反を起こし罰金もそれなりに払ったにも関わらず、懲りもせずに弄りは更にエスカレートしていき、現在も材料がいろいろ残ってるんで「現在進行形」ってところでしょうか。
このおかげで、SST(特殊工具)や通常の工具がどんどん増え、工具箱は今にもあふれ出しそうで、ふたをしっかり閉める事が出来ません。
そんな中、体調も戻りつつあったので、「長距離に挑戦するか」と1日かけての長距離ツーリングを数回行い、「知らないところをこんな原付で走るなんて…」と思いながら、時間的に1日で終わりそうなルートを見つけては、そこを走る。なんて事を繰り返していました。この時の気持ちは、「清々しかった」という記憶しかありません。今思えば、「ずいぶん良くなったなぁ」と自分でも思ってしまう位でした。
あと、「原付一種」ではターゲットにされやすく、走行面でも危ない(実際よくとめられ職質受けてたんで…)のと「二段階右折がうざい」と思い、「普通二輪免許」を取る事に。で、RZを「原付二種」にしてしまおうと計画。この計画が成功する事で、制限速度は自動車同様、二段階右折からの呪縛脱出が図れます。
十数年ぶりに教習所に通い、予約を入れるだけ入れてバイクに乗り練習。今乗ってるのがMTなんで、初めて外周を走った時もエンストなどせず、スムーズに加速、減速が出来「これはいける」と教習を進める毎日。ですが、「低速狭路通過(いわゆる「一本橋」)」が下手くそで…4Hオーバー。悔しい!の一言でした。
スラロームとかはうまくいって楽しかったのに…
ちなみに普通自動車の方は若い人が殆どで、「あぁ、危ない」って思ったり、「もうちょっと引っ張ってシフトアップだよ」とか、「遅すぎ」と思う始末。私が免許を取ったときもこんなんだったかなぁなんて思っちゃいました。私が苦手だったのは「クランク」「縦列駐車」くらいだったと思います。仮免の試験時も教官に「機械の扱い(クルマの操作)は完璧なんだけど、安全確認しない事が多いね」といわれた事を今でも忘れていません。
今回はこれくらいにしておきます。
次回は、私の事 その10 休暇中の生活6、3度目の正直。をお送りします。
Posted at 2007/07/03 05:46:39 | |
マイコンディション | 日記
2007年07月02日
バイクであちらこちらと行き、気分転換を図っていた私、まだ初心者なものと、精神的な理由から約30分~1時間で目的地に着くルートばかりを走ってました。とりあえずこの時点では「CDIの変更」によるリミッターカットのみで、60Km以上出る~6速が使える~と喜んでいました、そして季節は春になり、バイクはこれからトップシーズンを迎えるにも拘らず、またもや「うつ」の症状が…春先から、2度目のリハビリ出勤を開始し、前回と同じようなスケジュールでやってみる事にしました。(ここで一度失敗している事を念頭において置けばよかったのですが…)ですが、どうも「朝、やる気が出ない、行きたくない」気持ちの方が多く、毎日のように会社に「今日は調子が悪いんで休みます」の連絡を入れる日々が多くなり、再度休職する事となりました。当然のごとく、良いシーズンにも拘らず「バイク、クルマには全く興味がなくなった」私、何もしない生活の再開です。朝起きても、パソコンを見る程度で、何もしなくなりました。ですが、お昼にアウトドアで酒を飲みながらの食事は、カミさんと良くやりました。そんなこんなで数ヶ月が過ぎたころ、「一度入院してリセットするのはどうだろう」という提案が出、早速主治医に相談「入院も良いかもね」という事で、入院する事になりました。期間は約3ヶ月。入院時は主治医も変わり、通院を始めた頃の様に自分の事をありのまま主治医に話し、質問に対しては答えるというのをやり、MRI、血液検査、心理テストなどあらゆる検査をしながらの入院でした。しかし、入院はしたものの、生活のリズムが「家庭向き」だった私は、「消灯時間」「起床時間」が慣れなくて困りました。又、夜は薬に睡眠作用があったため、食事後はすぐに寝てしまう始末。「寝る前の薬」を飲むのに、看護士さんたちは私を起こすのに大変な思いをしたようです。案の定、「寝る前の薬」を飲んだ事は記憶に無く…毎朝3時半~4時半の間に目が覚める毎日。起床時間は6時なので、CDを聞いたりして時間をつぶして、6時の起床とともに「喫煙室」に入りタバコを一服。この朝のタバコがおいしくて仕方が無かったです。で、近くにコンビにもないし、自由があまり無かったというのが辛かったです。このような生活を3ヶ月ほど行い、退院。「シャバの空気はええのう」などど映画の台詞のような気持ちでした。退院後は、自宅療養に戻り、いつもどおり2週間ごとに病院に通いました。ちっとも気分は上がらずで、相変わらずの生活…そんな時、おおかわ実家から「ミラジーノ」を入院中に貰ったことから、「電装関係のイジリをして勘を取り戻そう」と思い、実行に。ナンバー変更、名義変更は入院中の「一時外出」でやったため、完全に自分のものになってから、オーディオの交換、6スピーカー+1サブウーファー化、ナビを探して購入、取り付け、セキュリティを選定しての取り付け。それこそ毎日「ミラジーノ」に接触をし、それなりのコンビニエンス機能も取り付けて「ミラいじり」が終了。実際はもう1箇所残っておりスタンバイ中ですが…
で、次に目に行ったのが「バイク」とりあえずバイク雑誌をあさり、「2StMini」がまだ弄れる事に気が付いた私は、「エアクリーナーを毒キノコ」にする事から始まりました。ノーマルのエアクリーナ、フレームにしっかりと固定されており、やわらかい樹脂なんでまげて取れるだろうを力を入れて取り外しにトライ。なるべくノーマルに戻せるようにしたかった私、「バキッ」という音と共に「方針変更、乗りつぶす!!」と思うようになり、ここからイジリがスタート。毒キノコに変えれば、「キャブセッティング」をせなあかんと、メインジェットとスロージェットをとりあえず購入、で、どうすれば良いんだ?と、私のバイブル「まさみ男の原付チューンナップ」さんでお勉強。そこそこ良いセッティングが出来ましたがあまり性能に変化が見られ無かったと思ってます。ただひとつ、プラグを初めてあけて、「真っ黒なカーボン堆積」に、ノーマルはやはり濃い目なのねと思いました。
この頃のバイブルは当然「モトチャンプ」Mini系バイクには欠かせない一冊で、これを読み色々勉強しました。で、いまだに「2StMini」用チャンバーを製造、販売している店を発見。値段も安い事から、「大蔵大臣」に相談。それならばとOKを貰い、いざ店へ、最後の1本でお金が少し足らなかったので、負けてもらっての購入。店員さんに「CDIは何使ってます」に「デイトナの青です」の返事に「ぜんぜんだめですよ、フルデジタルにしないと」との事で、POSHのデジタルCDIも同時に購入「なんかうまいなこの店員」と思いながら、店を後にし、早速チャンバーの取り付けと、CDIの交換を行いました。ここで、「キャブセッティングが必要である事を認識。とりあえずノーマルに近いところを数種類買って、テスト走行。マニュアルに書いてあるセッティングでは、とてもじゃないですが「まともに走れません」でした。なので、自分でセッティングしてはテスト走行をし…を繰り返し今もってるジェットで一番良いポイントを見つけ、しばらくはそれで乗っていました。
で、桶川に「大きなバイクショップ」の存在を知り、偵察に。やはりブームのせいか、Mini系はすべて「4St」、かつて一世を風靡した「2St」コーナーは端に追いやられ、小さなスペースに。しかもおいてあるパーツはすべてホンダ用(NSR50やNS-1用)、かろうじて「ヤマハ用」が置いてある感じでした。ですが私はあきらめず。「機械的なところはホンダ用でも付くやろう」と、色々部品を買いあさる始末。キャブのジェット類もここで殆どを揃え、細かいセッティングをやるぞと意気込んでた時「サービスマニュアルがあると良いなぁ」と思い出し、書籍コーナーへ、すると、するとあるではないですか、「RZ50用サービスマニュアル」当然「お買い上げ」。これで無敵!と思い、その日は店を後にしました。この本を手にしてから、自分のバイク弄り&整備は自分で行うようになり、その後、色々な改造が施されて行きました。
長くなったので今回はこの辺にしておきます。
次回は、私の事 その9 休暇中の生活4、ついに罰が当たる。をお送りします。
Posted at 2007/07/02 06:52:28 | |
マイコンディション | 日記
2007年06月27日
一度復活はしたものの、又休む事になった私、今度は「期間」を特別設定せず、とにかく落ち込むのを最小限に食い止める事に専念しました。「期間」は設定しませんでしたが、私の中では、「6ヶ月位かな」などと考えていました。とにかく「気分転換」を図り、落ち込む事を防ぐ為、外出を主にやってみました。外出ですが、行き先はいつも「秋葉原」。とにかく「アキバ」にはよく行きました。(メイド喫茶に通いづめだったわけではないですよ)目的は「ジャンクPC」の捕獲。そのため、いつも「チチブデンキ」(おでん缶の自販機があるところ)の奥から繰り広げられる、通称「DOS/Vパーツ&ジャンク屋街」で、ジャンクPCとの出会いを求めて歩き続けました。結局、十数台のノートPCを捕獲し、修理して使えるようにしました。そこそこノートPC用パーツがそろっていたので、家での修理は、「仕事をしているつもり」になってやっていました。それでもやっぱり「落ち込む時は落ち込む」で、好きなパソコンを弄ってても「こりゃまだ無理だわ」と自分で思ってしまう始末。それでも、掘り出し物を求めて「アキバ通い」は続きました。でも、気分が常に良くなる事など無く、時間だけが過ぎていきました。で、別の気分転換が出来るのではないのかと、そんな事をやりながらも、バイクの事を考えていた私、カミさんに相談するも、最初は「ダメ」の一言。何度かお願いしても、言う事は同じで「ダメ、だったら家計はパパが面倒を見て」と言われる始末。10年以上家計を任せていた私に、そんな事出来るはずはありません…
暗礁に乗り上げた「バイク購入計画」それならと、「免許取ろうかな」と思い出しました。理由はただ一つ「教習で400ccには乗れるでしょう」と言う点。ですが、教習代もかかるし、何か腰が重くってこの計画はすぐに流れました。で、その年の12月(2005年?)子供が英語教室のイベントに参加し、夫婦2人で留守番をしてた時、カミさんが「バイク見に行く?」「本ばかり見ててもしょうがないよ」「子供のお迎えもあるし」との事で、隣町のそこそこ大きなバイクショップへ。ターゲットが「レーサーレプリカミニ」予算は「25万」これだけを決めて、ショップの方と話しました。ターゲットになったバイクは、どれも「過走行気味」で、その割には値段が高く、予算内に収まらない。こりゃダメだと思っていた矢先、私の横に「ネイキットの小さいバイク」を発見。プライスボードを見ると「RZ50」「ワンオーナー」「ノーマル」「走行距離1017Km」と書いてあり、ちょっと興味が出てきました。しかも車両本体が「198000円」、ショップの方が即電卓をたたき「乗り出し25万ですみますよ」の一言。「すみませんが跨がせてもらえませんか」とお願いし、跨いで見ると「ん、これはイイなぁ。なんだかこっちもカッコいいなぁ」なんて思いだし、「俺はこいつに乗るようになるかも」と、運命のような感じがしました。こうなったらもう止まりませんでした。「お願い、これ買わせて」「ちゃんと仕事するから」と、なんだか私がカミさんの「ヒモ状態」になっているかのようにお願いをし、即決。子供のお迎え時間が来たので、カミさんは迎えに行き、私は契約の作業をしていました。「年内納車は可能ですか」の質問に「パーツの交換がなければ可能です」と「年内納車出来ますように」と心の中で思い、待つ事にしました。で、欲が出てしまい「即決したんだから、何かサービスしてくれない?もしくは値引きしてよ」と、お約束のおねだりをして、「じゃぁU字ロックをプレゼントします」との事。当然の事ながらバイク用の鍵を持っていなかった私には嬉しいプレゼントでした。
で、何とか契約も終わったのですが、カミさんと子供は戻って来ておらず、バイクに乗るには絶対必要な「ヘルメット」を見に、隣にあるドライバースタンドへ。ヘルメットは「SHOEI」「Arai]だよなぁと思いながら見てましたが…「高い、高すぎる」と絶句。すると、手前に「RAFARE」とかかれたヘルメットが…選んだバイクが「白」だったので、ヘルメットも白にしようと思っており、白一色のヘルメットを発見。かぶってみると「きつくないしイイなぁ」「どうせ原付だし」と思いプライスをチェック「1万ちょっと」速攻で「これにしよ」と決めて、カミさんと娘を待ちました。電話が鳴り「今ドラスタにいるよ」と言い、ドラスタで落ち合い、さっき見つけたヘルメットを購入。子供は「タンデムが出来る」と楽しみにしていたのか、「自分はこれがいい」と選んどりました。「ごめん、パパのバイク1人しか乗れないんだ」と何とか説得し、ドラスタを後に。納車を楽しみにしつつ、「これはノーマルで乗るぞ」と心に決めつつ、帰路に着きました。この後、カスタムの泥沼にはまる事を全く持って思いもせずに…
で、納車日。ヘルメットを持ち、防寒対策をし、ハイカットのシューズをはいてバイク屋へ。一通り車両の説明を受け、新しいナンバーも取り付いてあって、乗って帰る事に、エンジンをかけたとき、スロットルを回すと回転が上がるどころか、ストールを何回か起こし「本当に整備したんか?」と思う始末。バイクに対し全く知識のなかった私は、この程度しか思いませんでした。あとで「こういうことか」と分かるようになる事も知らずに…で、何とかスロットルを回してもストールしないようになり、バイクに跨ぎ、出発。初めてのMT原付(スクーターは経験済み)に、クラッチ、リアブレーキ、フロントブレーキ、シフトペダルを「下手くそ」ながら試行錯誤しながらバイクを進め、家に向かいました。いつもの道は渋滞しており、車は止まってしまう始末。ですがバイクに乗っている私は、その時出来るテクニックをふんだんに使い「すり抜け」に挑戦!!とっても怖かった事を覚えてます。ミラーが当たったら如何しよう?などと思いながら、何とか運転して帰宅。15分くらいして、カミさんと娘が帰宅しました。本当なら練習に「山にでも行くか」なんて思ってましたが、「今のテクでは絶対に無理」と思った私は、バイクを庭へいれ、保管場所を確保し、止めておく始末。その後、「汚れてはいけない」「鍵が1つで不安」と思い、近所のドラスタへ、2つを購入し、ロックをして、カバーをかけて、この日はおしまい。精神的に一杯一杯だったんで、これ以上乗ろうとは思いませんでした。
これ以降、毎日のように乗るようになり、自然を楽しんだりしながら「我流ライテク」を磨いていきました。
今回はこの辺にしておきます。
次回は、私の事 その7 休暇中の生活3、泥沼化
をお送りいたします。
毎度長文で、大変申し訳ありません。
Posted at 2007/06/27 05:53:05 | |
マイコンディション | 日記
2007年06月26日
「長期休暇」に入り、当初の診断書で「3ヶ月の休養を要す」と言う事で、1ヶ月に1回会社に連絡をいれ、現状の報告をし、3ヶ月が経過しました。この時、家で会社で行っていたような事をしてみて、「大丈夫か」と言う点を自分で確認したりしていました。すると、体調もすこぶる良くなり、何か軽い感じだったので、「リハビリ」をスタートする事になりました。当初は、主治医のみに相談して「リハビリを開始します」「毎日出勤、一日おきに午前中のみ」と言う、今思えば「とっても無理なスケジュール」でやる事に決めました。主治医も、「それが可能ならやってみなさい」「無理なら休む事」と言う指示の基、いざ出勤を開始。で、会社は「私に気を使い、特別何かをしろと言う指示」もなく、ある意味「放置プレイ」状態でした。そんな中でも、何か仕事を見つけては行い、手伝う事があればそれを行う。何も無い時は何もしないといった感じで、モチベーションはなかなか上がる事も無く毎日を過ごしていました。結局、このリハビリは約2ヶ月続きましたが、2ヵ月後、会社から帰宅後に又何か悲しくなって「一人でシクシク」泣いていました。それを見たカミさんは「まだダメなんだよ、休みな」と一言。病院での診療日にその事を話すと「うつ病が再発した」と言われてしまいました。今思えば「全くと行っていいほど直ってなかった」と思ってます。ですが、「不思議なくらい体が軽く、会社に行く事も何の抵抗もなく、これまでにも無いくらいとってもBestな状態」だったんですが…これから、この時の状態に戻るよう、薬がしょっちゅう色々代わり、何とか戻すことに主治医も目標にしていましたが…当の本人は、以前どおり「全くやる気が起きない」「会社に行くのが怖い」と、うつ病なりたての頃に逆戻り。会社にこの事を連絡し、「まだ休んだ方が良いよ」と言ってくれ「診断書を…」と、又診断書を要求され、次回の診察日に書いてもらいました。今度は、明確な期間を入れず、「自宅療養、投薬療養がしばらくの間必要」といった、日程的にはとてもあいまいな表現にしてもらい、「期間」と言うプレッシャーを除去して提出しました。
それから、又半年間の「休養」がスタート。当然ながら朝早くに目が覚め、朝からぼーっと一日を過ごす始末。たまに天気がいい時は、お弁当と発泡酒を片手に、アウトドアでの昼食をしたりし、とにかく「気分転換」をありとあらゆる方法で行いました。ですがなかなか直る事も無く、家で色々考えたりしてました。この頃から「バイクに乗りたい」と思うようになり、雑誌を買ったりバイク屋へ行ったりして、トレンド調査を独自にやるようになりました。当時、「普通免許」しか持っていなかった私。必然的に選ばれるバイクは「50cc」のみでした。
今回はこの辺にしておきます。
次回は、私の事 その7 休暇中の生活3、バイクとの出会い
をお送りします。
Posted at 2007/06/26 06:31:58 | |
マイコンディション | 日記