2007年06月20日
「うつ病」であることが分かり、長期休暇に入る事になりました。
今回は、発症当時の生活ぶりを記述したいと思います。
その時も色んなイベントがあったのですが、参加するも「何もする気が起きず、ただじっとしてるだけ」で、とっても勿体無い過ごし方をしておりました。
家では、全く何もする気が起きず、話すこともかったるく、クルマも運転するのが嫌などころか、助手席にも乗りたくなくなりました。目つき、顔つきもすっかり変わってしまい、まるで「別人」になったようだと言われました。自分の親にもこの事をカミングアウトしたときも「まるで別人の様」と思ったそうです。
よくやってたのが、ソファに横になって、フジテレビのドラマの再放送を見ると言うか、流してると言うか、とにかく横になり時間が過ぎていったと言う感じです。
当時は、毎週病院に通っており、主治医と会うたびにまず「顔」をしっかりと見られます。それだけで、おおよその状態を判断し、診察を受けます。当初は、「何もする気が起きません」「朝早く目が覚め、眠れません」の繰り返しで、どんどん薬の量は増えていきました。ですが、なかなか効果が現れず、自分の中でも「変わった」と思うこともなく、毎日をうちで過ごし、ソファで横になってばかりいました。休みに入ってからも、お酒ばかり飲み、ベロンベロンの一歩手前まで飲む始末。お酒の力で、発言したりもしましたが、酔いがさめると又いつもの「死んだ自分」に戻っていました。娘もそれなりに私の異変に気づいており、カミさんが分かりやすく私の状態を教えてあげたりしてた様です。で、彼女は彼女なりの精一杯私と接してくれたのですが、私はそれにあまり答えてやることも出来ず、今とっても反省をしています。
外に出るのも嫌、話すのも嫌、趣味をするのも嫌、好きなクルマ雑誌を読むのも嫌、とにかく嫌だらけで、顔は無精ひげが生え、髪もボサボサ、とてもじゃないですが「人間で無いような気がした」事を覚えています。「これからどうなるんだろう」「楽になりたい」はいつも心の中でのセリフでした。また、極たまに「死んだらどうなるかな?」とか考え始め、「死」を意識しだしたりもしていました。ですが、私にはそんな勇気も根性もないため、リスカ(リストカット)とか色んな手段がありますがどれも実行する事は無く過ごしていました。唯一の救いは、こんな状態のおかげで家族に当たったりしなかったことでしょうか。(たまに当たっていたかもしれなくて自分が気づいていないだけかもしれませんが…)とにかく、休暇初旬は、生きているけど「死んでいる」自分でした。
しかし、初旬はやはり「残した仕事」の事が気になったりしてたのも事実です。ですが、それをフォローしようなんて、到底思いませんでした。「お前たちが俺をこうしたんだ」と言う気持ちが正直ありました。なので、まずは仕事を忘れ、規則正しい「人間が過ごすべきの生活の仕方」に戻していきました。今も早朝覚睡が続いており、こんな時間に書き込んでますが、当時の季節は「冬」で、真っ暗なうちに目を覚まし、寒いんで寝ておけば良いものを、とりあえず布団から出て「ボケー」っとTVを見たりしてました。
常に「楽になりたい」「楽になるには如何したら良いだろう」「死ぬ事かなぁ」の3つを考えていた事を覚えています。
今日はコレくらいにしておきます。
次回は 私の事 その6 休暇中の生活2、一瞬復活編を書こうと思ってます。
Posted at 2007/06/20 06:30:30 | |
マイコンディション | 日記
2007年06月19日
自分にとって最悪のレッテルを貼られ(自分で貼ったのかな?)毎日がクレーム対策に殆ど追われ、さまざまなお客さんの所へ行きその度に何度もこの失敗の事を説明する為西へ東へ飛び回り、時にはスーツのままツールをもって行き、その場でお客様の製品で出荷間近なものについては、その場で対策を行い、白いワイシャツにグリスが付いたりした事もありました。又、「私が全く知らない製品が韓国でトラぶってる」との事で、休みの日、さいたま水上公園で子供と遊んでいる時に携帯で呼び出され、慌てて自宅へ帰り出社してみると、「韓国へ飛んでくれ」と依頼されました。「こんな製品俺知らないですよ」と言っても「人がいないからすまんけど頼む」と言われ、図面を見てみると…当時品質管理をやってた人が設計にいた時代に作成された製品で、その人がミーティング中にやってきました。「俺じゃない方が良いんじゃないですか」と言うと「色々抱えてるから申し訳ないけど行って来てね」とセリフを残し、ミーティングから去って行く始末。結局自分と品質管理をしている同期の奴と2人で飛ぶ事になりました。「大韓航空」大丈夫かおい!なんて思いましたが…冬の韓国は痛いほど寒かったです。ソウルではなく、ちょっと南の方だったんですが、韓国の冬をなめてた装備で行ったんで寒さも辛かったです。で、一緒に言った奴は仕事が終わってから「遊ぶ事」ばかり考えてたようで…仕事もしてくれましたが、何かそっちの方が強かったみたいです。私は必死で製品を調べているのにも関わらず、「さぁ何して遊ぶか」なんて横で言われると…なんとかその仕事もこなし、帰国したらしたで品質管理から「即レポートを作って提出しろ」「対策内容を説明しろ」と矢継ぎ早に依頼される始末。なんでか分からないですが2人で行ったのに品質管理の同期にレポートを頼むのではなく、何も知らずに行った私がレポートを書く事になり、せかされる始末。「あぁ、俺って」と思った事は言う事もありませんでした。話を戻しますが、私の失敗において、特に、お客様に対する説明、場数をこなしているんで同じようにやれば良いのですが、「対人恐怖症」にでもなったかのように毎回汗びっしょりで説明をしました。たまに、課長がフォローを入れてくれる事もありましたが、基本的なメカニズムの説明に関しては私一人の説明、お客様によっては、持参した資料を読んだだけで理解していただける事もあれば、意地悪とも取れる質問をされたり、理解に苦しんでいるお客様、さまざまなお客様に対して、精一杯対応していきました。体の調子はどんどん悪くなる一方で、それでも「自分の責任だから」と辛抱して会社へ行き、対応、追加資料作成などを行っていました。そんな中でも容赦なく別の部署からも、「このクレームの原因が分からないから教えて」とか、「ソフトウェアではどうなってるの?」とか、「ラインの試験機が動きません。助けてください」等、もう「なんでも屋」状態。でも中途半端にすることなく、一つ一つ丁寧に仕事をしてきたつもりです。中には「自分で考えてよ…」と思うことも多々ありでしたが、社内の対応にも追われる日々でした。それから1ヶ月ほどした時、先輩に「とても辛いんですよ」「何か体の調子が悪い」と相談したところ、「課長にそう言う事は言わなきゃいけないよ」と言われました。即話すことが出来ずに、ある日、うちに帰ったとたん、とにかく悲しい気持ちになり、しくしくと涙が自然にあふれ出し、しばらく泣いていました。カミさんが留守で一人だったんですが、帰ってきたとたん「如何したの」と、コレまでの色々な話をしました。カミさんも「課長に話な」と言われ、で、先輩とカミさんに言われた通り、課長に話をしました。「体調が優れないこと」「突然悲しくなり泣いてしまうこと」等、それこそ色んな話をして、自分の中に溜めていたものを一気に吐き出すかのように話しました。すると、課長もうすうす気づいていたようで「病院に行って来い」と言われました。で、適当な病院をネットやタウンページで調べ、隣の市にある「H病院」に行く事にしました。完全予約制で、新患の空きは次の週の金曜日しかないとの事、その日まで辛抱して又会社に行きました。そして、精神科での初の診察。生まれた時から社会人になるまでの生い立ちを簡略的に話し、今どの様に辛いのか、症状はどんなものか等話をし、医師の診断は
「あなたはうつ病です」
との診断。次の日、課長にその事を報告し「長期休暇」に入る事になりました。
今回はこのくらいにしておきます。
次回はその5 休暇中の生活 について書きたいと思います。
Posted at 2007/06/19 06:27:42 | |
マイコンディション | 日記
2007年06月16日
ソフトウェア開発をいくつもこなし、「ソフトウェアに対する自分のプライド」「考え方」等が出来て行き、且つ1人ですが後輩が入ってきてソフトウェアをやると言う事で、後輩の指導を行ったりもしました。ちなみに後輩への指導、2つしかしませんでした。1つはCPUのマニュアル1冊を渡し、チェックプログラムの作成をさせました。彼はセンスがあるんで数週間で完成させ、これをレビューしてソフトウェアの基本を指導しました。もう一つは、主力製品のソフトウェアのフローチャートを渡し、基本部分の習得をするよう命じました。このフローチャート、実に60~70ページあるもので、全部を読むには一苦労したそうです。彼に対する指導はこの2つのみで、未だに「おおかわさんは酷い」と言われる始末。ですが私から言わせれば丁寧に指導したつもりです。私が師匠から指導を受けたのはたったの1つだけで、後は全て他の部署の先輩に教えていただいたり、自分で本を買って読んだりと、いわゆる「殆ど独学」でソフトウェアと言うものを習得したものです。それで、製品仕様レビューに関してもソフトウェア面からの意見を出し、発言がそのまま採用されるようになり、くくりは無いのですがソフトウェアグループのリーダー的存在になっていきました。
こうなってくると、開発した物に絶対に付いてくるのは「クレーム」で、対策会議にはほとんどと行って良いほど呼ばれました。はじめは、師匠も同じ課だったので一緒に出ていただき、私の盾となっていろいろ助けていただいたものですが、その師匠が別の課に移動。「戦力外通告を受けた」と受け止めていたみたいです。ここから師匠が少しずつ変わって行くのですが、それは後記するとして。盾を失った私は、常にクレーム関連の会議に出席。で、まず行われるのは「誰が悪者か」と言う点です。各課が再現実験等を行い、大丈夫か否かを報告しあいます。一番嫌だったのは、私が発言している時、当時の部長が「居眠り」をして全然聞いていなかった事。陣頭指揮を取るべき人間が、このような態度で良いものかと目を疑ったものです。疲れてるのは分かりますが、末端である兵隊は、それこそありえない実験までして毎晩遅くまで調査しているんで「眠い」のは皆同じだと思います。それをトップ自らが「居眠り」この会社本当に大丈夫か?と思った瞬間です。で、その会議も仕掛けがあって、うちの課長がいない隙に、私が携わる製品の上位部に当たる人間ばかりを呼んで、その中に一人私が入り会議をすると言う点。まるでライオンの群れの中に羊を1匹入れるような感じです。課長がいればそこそこ盾になってくれ議論が繰り広げられるところですが、私が色々行ってもあまり聞き入れてもらえず、そして大概は私が携わる製品で対策を打つ方がリスクが低いと言う事で、担当部署が対策作業を行うと言う流れが多かったです。その時は、別の製品を使うよう提案し、事なきを得たのですが…ある時、本当に私が爆弾を仕掛けたソフトウェアが、フィールドに流出する事件がおきました。まず国内の1社で発生し、その後アジア各国から情報が来るようになりました。国内の1社については、別の部署にお任せして、海外物件についての調査をこっちが担当する事になりました。で、訪中。スゴイ田舎に連れて行かれ、ツールで診断。日本と同じ現象である事を確認し、即対策を行いました。対策は、その機能を殺すと言う事をします。私だけかもしれませんがソフトウェア開発者にとって、「搭載機能を殺す」と言うのは屈辱そのもので、許せない行為でもありました。ですが暫定対策をしなければならないので、ココは我慢して、色んな工場(?)を廻り対策を施しました。
この製品、世界中にばら撒かれていて、各国の在庫、代理店の在庫、エンドユーザーの在庫をあわせると、約4万台の大クレームを起こしてしまったわけです。海外をキャラバンして対策に廻るわけにも行かないので、昔作ったWindowsで動く簡易装置を専用化して開発し、数十台世界各国へばら撒き、サービス部門に対策をお願いしたりもしました。Windows側の専用ソフトウェアも帰国してから夜なべして開発し、複数パソコンでの動作確認や輸出の準備で、この時も殆ど午前様の退社でした。中には、「インストーラーが英語で無く日本語なんで文字化けする」といった、ある意味嫌がらせとも取れるどうでも良い事までクレームを付けられて、「私のソフトはダメソフトだ…」とどんどん追い詰められました。この時、対応していたのは私一人、課長たちは上司向けの説明資料を作ってくれたりし、対応してくれましたが、実働隊員は私一人でした。昔、ある製品のソフトを開発した時も上手くいかず、師匠に何度も相談したにもかかわらず、師匠も何も教えてくれず、私が作った仕様書のレビューをしようとした時も「ゴメン、無くした」といわれる始末。一体どうすれば良いのかとても悩んだ時期がありました。雪の日に出勤した際、私の後ろを走る車がスピンして壁にぶつかりながら止まりました。後数秒遅ければ、この車に挟まれて、楽になれる。と思った事があります。この時も一人で全てをこなしていました。今回も同じように、自分が楽になるには怪我をするか死ぬかどちらかだ…と考えたのはいうまでもありません。
数万台のクレームにソフトウェアの機能殺し。私のソフトウェアに対するプライドはずたずたに切り刻まれ、毎日を過ごすのがどんどんつらい物に代わって行った事は言うまでもありません。うちに帰ると酒を何杯も飲み、それが唯一の鬱憤晴らしでした。酒のなくなるスピードはどんどん速くなりエスカレート。それから偏頭痛や出勤の際に吐き気をもよおしたり(焼酎ばかり飲んでたんで二日酔いではないですよ)、夜眠れない、又は、どんだけ遅く寝ても朝早く目が覚めると言う症状が出始めていました。完全に「挫折」してしまいました。
今回はこの辺にしておきます。毎度長文で申し訳ありません。
次回は私の事4 病気について書き込みたいと思います。
Posted at 2007/06/16 09:09:23 | |
マイコンディション | 日記
2007年06月13日
今日は午後からバイクのリアサスペンションの交換をしていました。部品が干渉する為、バイク側フレームの一部を電動工具で切断、研磨をしていたところ、電動工具を持つ手がもって行かれ、私の親指を加工してしまいました。(痛)
いつもなら、こんなもんすぐ直ると絆創膏をはり自然治癒させているんですが、今回は如何見ても「傷が思いっきり深く、筋のようなものも見えてる」との事で、即病院へ。数十分ほど待ち、私の順番。先生から色々質問されながら仮の処置を行われました。で、結論は、縫って直しましょう。との事で、診察台へ移動。患部の麻酔が始まりました。コレが又痛いこと痛い事。で、薬も一気に注入出来ないので、小出しに注入。このときも痛かったです。やがて、麻酔が効き始め、なんだかゴソゴソと先生が作業しています。助手の方、看護士の方と、先生の会話を聞きながら寝ていると、先生が突然「デジカメもって来て」「接写でココ撮影して」「プリントアウトしといてね」の言葉。「症例のサンプルにでもする気かい」と思いながら治療を受けました。実は私、こう言う「外科」「皮膚科」なんかに行った時には、必ずといって良いほど患部を撮影されています。研究に使うのか何かは分かりませんが、サンプルになる事が多いようです。良いんだか悪いんだか…
で、結果、9針縫って縫合し、無事終了。後で領収書を見たとき「手術」と言うところに点数が書いてあり「あんなんでも手術なんやね」なんて思いました。
傷口の状態を説明され、「切断部の殆どは、火傷をした状態」「傷の部分は深く、筋肉の筋が若干見える」「皮膚の一部が欠損している」との事で、約1万5千回転で回る砥石に触れたわけですから、まず火傷をして、砥石がどんどん深く入っていったんだろうなぁと自分なりに解釈し、痛み止め、抗生物質、胃腸薬をもらい、うちに帰りました。帰った後、懲りもせず又電動工具を持ち加工を行い、続きをしてサスペンションの交換をしました。付くには付いたのですが、結果は×で、このショックは使えないと言う結論が出ました。怪我までしたにもかかわらずこの結果。涙が出そうです。
明日から雨なんでしばらくお休みですが、別のサスペンションで試してみようと思ってます。
本日は「私の事3」の予定でしたが、予定を変更してお送りしました。
ご了承ください。
Posted at 2007/06/14 00:34:17 | |
マイコンディション | 日記
2007年06月10日
その1で無事、仕事をなし終えたわけで、その後上司との面談がありました。本来は仕事のやり方、無駄な点などの小言をいわれ、今後どの様に進めていくべきかを指南される場だと思うのですが、私の場合、初めて1つの仕事をなし終えたばかりだった為か、「今後はソフト屋さんで良いよね。」の一言。アイスクリーム屋なら楽なんですが…(爆)と、ずっと実験室のパソコンの前に座る仕事がメインとなってしまいました。当時から現在もなのですが、名機「PC9801」を使い、色んな製品のソフトウェアを、短いスパンで作り続けました。「PC9801」は、何れ現役から退き、製品のモニター用パソコンに格下げされ、現在はDOS/Vが導入されていますが、それもリース切れの中古を格安で買って使っているのが現状です。自分のポケットマネーで買ったのもあります。ちなみに今の端末、ペンティアムⅡ400Mhz、デュアルCPUと言うとっても時代遅れなマシンです。話がそれましたが、仕事のやり方として、一部の製品は別の部署が評価をしてくれ、それに応じたバグ報告などがあり非常にスムーズに開発する事が出来、現在でも「優秀な製品」として位置づけられています。それ以外の製品は、部署に人がいないせいもあり、私一人で仕様の立案、コーディング、デバック、システム評価と、全ての仕事をやるようになりました。なんと、ソフト屋は私一人。普通は数人いるところを、一人にしか分担されませんでした。会社がそれだけこの部署をなめていたと言うか、蔑ろにしていたのが見え見えです。ソフト屋は私一人だけでしたが、師匠もいましたし、ベースソフトが存在してた為、仕様立案やコーディングは、そこそこ楽に出来ていましたが、回路が全て違う為、一品一様なソフトウェアを作るといった感じです。殆どの製品で、サンプル出荷日程が決まっていた為、こりゃ又連日深夜まで実験室のパソコンの前に座り、一人黙々と仕事をこなしていました。工場内で最後に出て行く従業員になる事も多々ありで、技術者が仕事をするビルの施錠も何度もやる始末。守衛さんとも仲良くなり、「今日も遅いんか、いつまででも付き合ってやるぞ」と言われる始末。それでも、「ソフトウェア開発って、面白い」と思いながら、ソフトウェア言語も沢山覚えました。メインはアセンブラ、C言語、VisualBASICにPASCAL。PASCALは私の師匠がいつも使っていた言語で、製品のモニター用プログラムのベースを開発してくれ、その言語を覚える事により自分が使いやすいモニターを作って使っていました。いわゆる「生産技術」的な部分でしょうか…これらを織り交ぜながら毎日仕事をし、気が付くと社内の主力製品全てのソフトウェアは、私が開発した物になっていました。PASCALを覚えた事により、ラインの生産技術の面倒も見るようになったりして、なんだか製品開発のみならず、製造技術開発までしている感じになりました。ココまで来ると、「ソフトウェアに対するプライド」と言うのが生まれてきて、「絶対に誰にもこの仕事を渡したくない」と思うようになりました。ですが、ココまで来るには幾度となく失敗を繰り返し、出張で泊り込んで現象を捕まえたり、時にはお客に怒鳴られたりしても来ました。自分ひとりで敵地に乗り込み、製品の手直しをする為倉庫に入って開梱し手直ししたり、組み立て中の製品を少しばらして手直ししたりと、よその工場なのにそこでも深夜勤務したりもしました。これらは自分の判断が悪かった故での事と言い聞かせて、暗い工場内で汗をかきながらノートパソコン片手にあちらこちらと手直ししていったものです。
そんな経験をしても、「自分はソフト屋。我が社のこれらの製品は、全て俺のDNAが注がれている」と自信をもって仕事に邁進して来ました。
又、同じ課の先輩たちからは「おおかわがいないとこの製品は動かないからなぁ…」「おおかわ、この部分教えて」「おおかわしか分かる奴が居らん」となんだか逆点した感じで、これらでも私の「プライド」はどんどん高い物になっていきました。
まさに、おおかわの「黄金時代」と表現できる時期だったと思っています。
今回はこのくらいにしておきます。次回はその3「栄光と挫折」です。
「黄金時代があれば、挫折も経験する」と言う、良くあるパターンですね(笑)
Posted at 2007/06/10 07:50:50 | |
マイコンディション | 日記