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ソランのブログ一覧

2009年05月13日 イイね!

YMO(イエロー・マジック・オーケストラ)について語っちゃう♪^^

YMO(イエロー・マジック・オーケストラ)について語っちゃう♪^^ここまで来るのに長い道のりだったニャ~(涙;;

昨日からガンバってたんですよ・・・。゚(゚´Д`゚)゚。

って言うのも・・・・

もうすぐ書き終わる~って時に(o≧д≦)

何故か必ずPCがフリーズ・・・・・


下書き保存して無かった為この2日で6回プロフ作り直し(。-`д-)ケッ

やっとみんなに見せる事が出来ました♪。o.゚。*・(o≧д≦)爻(≧д≦o)ヒo.゚。*・♪

超~超大作となっとりますので覚悟して診て見て観て~!!(前説が長かったね^^

では行きますか~?アヒャヒャヒャヒャ ヘ(゚∀゚ヘ)(ノ゚∀゚)ノ ヒャヒャヒャヒャ


言わずと知れた、テクノ・ポップの神=YMOことイエロー・マジック・オーケストラ。

78年、コンピュータ時代の幕開けを告げるかのように登場したYMOの当初の目的は、

ハワイのエキゾチック・ミュージシャン、マーティン・デニーの名曲

「ファイアー・クラッカー」をシンセサイザーでカヴァーすることであった。


インベーダー・ゲーム/ディスコ/東洋人としてのアイデンティティ/

シニカルなユーモア・センスとギャグ/赤い人民服にもみあげを切り落としたテクノ・カット

そういったサウンド・コンセプトや鮮烈なYMOのヴィジュアルは、

日本のミュージック/デザイン/ファッションを変え、彼らの言動までもが青少年たちを

完全に洗脳していったのである。

シーケンサー、デジタル・レコーダー、サンプラーといった、

あらゆる最先端のテクノロジーをいち早く導入し、初期の明快なエキゾチック/フュージョン

ディスコ~中期のダークでマニアックなニューウェイヴ~後期のオヤジ・ポップスへと

スタイルを変貌させ、常に日本の音楽シーンをリードしてきた。

が、83年に突然の解散ならぬ“散開”。そして、93年に奇跡の一時的な再生をはかる。

――その後の3人の活躍ぶりは皆さんがご存知のとおりです。

当然のごとく、海外への影響も絶大であり、「ファイアー・クラッカー」は来日する

シカゴ・ハウス/デトロイト・テクノのDJたちが、こぞってプレイする不滅の名曲である。


(o≧д≦)爻メンバー爻(≧д≦o)♪

細野晴臣(ベース)

エイプリル・フール、はっぴいえんど、ティン・パン・アレーを経て、YMOを結成。

YMOのリーダー・プロデューサーであり、シンセサイザーとコンピュータを用いる

YMOの音楽スタイルを打ち出した。宗教や民俗学など神秘主義的な趣味があり、

それらもYMOに影響を与えている。ライヴではほぼベーシストに徹し、

特筆すべきはシンセサイザーをベース代わりに演奏していたことである

(ただし、曲によってはエレクトリックベースを使用している部分もある)。

YMO散開後は特にアンビエント、エレクトロニカ等のジャンルを取り入れている。


高橋幸宏(ドラムス・ヴォーカル)

サディスティック・ミカ・バンド、サディスティックスを経てYMOに参加。


↑あのギターリスト高中正義がメンバーに居たんですよ^^
チョット前「木村カエラ」が歌って話題になった曲です♪^^


↑余談ですが高中正義の「虹伝説」です^^
挿入曲「YOU CAN NEVER COME TO THIS PLACE」大ヒットしたよね~^^

YMOをきっかけに機械のビートと同期してドラムを演奏した最初期のドラマーである。

また、ライヴではドラムを叩きながら自らヴォーカルをとるという

異色なスタイルで演奏していた。

ファッションデザインの技能を生かしてYMOではステージ衣装のデザインを手掛けた。

YMO散開後はソロ活動とともに、様々なミュージシャンとのコラボレーションや

プロデュース業を展開している。


坂本龍一(キーボード)

スタジオミュージシャンとして活動した後、YMOに参加。

YMOでは松武秀樹とともにレコーディングにおいて楽曲を構築する重要な役割を果たし、

またライヴでは楽曲のアレンジを一手に引き受けた。

YMO散開後は映画音楽で成功するなどソロ活動を展開している。

彼の「教授」という愛称の名づけ親は高橋である。

担当パートについては主に演奏されるものであり、一部のレコーディングやライヴ、

TV番組では上記以外のパートを担当することもあった。

YMOは元々はコンセプトバンドとして構想されたものであり、細野はメンバーの人員構成は

流動的にする考えを持っていたが、ライヴなどでサポートメンバーを迎えることはあっても

YMOのメンバー自体は最初から最後までこの三人であった。

ヾ(゚ロ゚*)概要ヾ(*゚ロ゚)ノ・・・ エライコッチャ!!

イエロー・マジック・オーケストラという名称は、

細野が70年代後半に提唱していたコンセプトである「イエローマジック」から来ている。

これは白魔術(善や白人などの象徴。特に白人音楽でも黒魔術(悪や黒人などの象徴。

主に黒人音楽のどちらでもない黄色人種独自の音楽を作り上げるとして、

魔術の色を人種の色にかけて提唱したのが「黄色魔術」(イエローマジック)である

細野がYMO以外で「イエローマジック」の名前を使用しているものとしては

ティン・パン・アレーの曲「イエロー・マジック・カーニヴァル」、

細野のアルバム『はらいそ』の作成者名義「ハリー細野とイエローマジックバンド」が挙げら

れる。

また坂本のアルバム『千のナイフ』のライナーノーツの細野の寄稿文でも、

イエローマジックについての記述がある。

1980年代初頭に巻き起こったテクノ/ニュー・ウェイヴのムーブメントの中心にいた

グループの一つであり、シンセサイザーとコンピュータを駆使した斬新な音楽で、

1978年に結成されてから1983年に「散開」(解散)するまでの5年間で日本を席巻した。

活動期間中には米国等でのレコードリリース、及びコンサートツアーも行っている。

英語圏で著名な日本人ミュージシャンでもある。

1993年に一時的に「再生」(再結成)しており、また2007年にも再々結成している。

当時、シンセサイザーやコンピュータを駆使した音楽としては既にドイツの

クラフトワークが有名であったが、それらの技術を用いた音楽はまだ珍しい時代であった。

そんな中、現れたYMOの音楽は日本において当時の若い世代を中心に熱狂的に受け入れられた。

そのためYMO結成、そしてクラフトワークの「人間解体」発売、また同じくシンセサイザーを

多用したディーヴォの「頽廃的美学論」の発売がなされた

1978年を「テクノ元年」と呼ぶ者も存在する。

また英米・英語圏の音楽界に対しても少なからぬ音楽的影響力を残しており、

例えば「U・T」(アルバム『BGM』収録)はトランス・テクノ、「RIOT IN LAGOS」

(厳密には坂本のソロ『B-2 UNIT』の曲だが、1980年の第2回ワールド・ツアーのオープニング

で演奏された)はヒップホップのそれぞれ始祖であると、後に英米で評されている。

YMOはそのファッションも特徴的であった。

特に、初期のアルバムジャケットやライヴでメンバーが着用していた「赤い人民服」

(高橋のデザインによる明治時代のスキー服をイメージした衣装であったが、

その形状が中華人民共和国の人民服と似ていたために、一般的に「赤い人民服」と

呼ばれるようになった)そして、すっきりとした短髪、かつもみあげの部分を剃り落とす、

当時の若者の間でも流行した「テクノカット」と呼ばれる髪型

(特に、初期では刈りあげ+もみあげ無し)の2つは、YMOのビジュアルイメージとして

一般に広く認知されている。


゚。+(o´∀`)ノ+。゚影響゚。+(o´∀`)ノ+。゚!!

1990年代以降に活躍する日本人ミュージシャンの中に、

YMOの音楽に影響を受けたと自称するミュージシャンが数多く現れた。

彼らは「YMOチルドレン」と呼ばれることがある。

その代表的アーティストは槇原敬之、宮沢和史(THE BOOM)、高野寛、テイ・トウワ

電気グルーヴ(石野卓球)など。

ゲームクリエイターの飯野賢治は「坂本からは思想を、高橋からはファッションを、

細野からは音楽を学んだ。」という意味のことを自著『ゲーム』に記している。

漫画「ディスコミュニケーション」作者の植芝理一がYMOファンであり、主人公にYMOの曲を

演奏させたり、扉絵では同漫画のキャラクターでトランス・アトランティック・ツアーの

メンバーを表現したり、主人公にFROM TOKIO TO TOKYOのユニフォームを着せるなど数多くの

YMOネタが見られる。

筋肉少女帯「仏陀L」のジャケットは「増殖」のパロディーであると、大槻ケンヂが自著「リンダリンダラバーソウル」で語っている。




シャフト制作で新房昭之監督のアニメにはYMOのパロディなどが多い。

「さよなら絶望先生」の劇中にて顔に「坂本」「高橋」「細野」と書かれた明らかにYMOの三人を意識したパロディなどが登場している。

「ひだまりスケッチ×365」のアルバム「ひだまりラジオ×365 特別編 ~いぇすっ!

アスミス!!~」のジャケットは「SOLID STATE SURVIVOR」のパロディとなっている。

「まりあ†ほりっく」のエンディングでは

天の妃少女合唱団によって「君に、胸キュン。」がカヴァーされている。

また、このシングルCDのジャケットは同曲のシングル版ジャケットのパロディーとなっている。





( ̄+ー ̄)作品( ̄ー+ ̄)

テクノポリス (1979年10月25日)


ライディーン (1980年6月21日)


タイトゥン・アップ (1980年12月20日)

キュー (1981年4月21日)

マス (1981年9月5日)

体操 (1982年2月21日)


君に、胸キュン。 (1983年3月25日)

過激な淑女 (1983年7月27日)


以心電信 (YOU'VE GOT TO HELP YOURSELF) (1983年9月28日)


ポケットが虹でいっぱい (1993年4月28日)


ビー・ア・スーパーマン (1993年8月25日)

CUBIC - YMO CD Single BOX (1993年9月21日)

RYDEEN 79/07 (2007年2月3日)


東風(TONG POO)


La Femme Chinoise(中国女)


っとまぁ~こんな感じでやって来ましたが
YMOを何とも思って無い方には只の苦痛
でしかなかったでしょうネ(爆^^


次回は「スネークマンショー」特集でもやってみますかネ♪^^

ホント最後まで見てくれて「ありがとございました」m(__)m
Posted at 2009/05/13 18:15:18 | コメント(4) | トラックバック(0) | 音楽 | 音楽/映画/テレビ
2009年05月08日 イイね!

舘ひろしCOOLS時代からソロ、俳優への生い立ち!!^^

結成(バイクチーム「クールス」)


↑この語ってるお兄さん岩城 滉一だよ^^

東京原宿において1974年12月、舘ひろしをリーダー(チーム内での呼称は「ボス」。

ただし水口晴幸のみ「大将」と呼んでいた)に、

岩城滉一(同じく、チーム内での呼称は「コーちゃん」)を

サブリーダーに結成されたモーターサイクルチーム(暴走族)が原点。

「暴走族」とはいっても、日本のいわゆる暴走族のように特攻服や竹やりマフラーではなく

アメリカの「ヘルズ・エンジェルス」を手本としたお洒落とかっこよさを追求したチームであった。

その事は当時リーダーの舘ひろしが語った

「どうすればかっこよくなれるか、それだけしか考えていなかった。」という言葉にも

表れている(とはいっても不良集団だった事には変わりない)。

結成に際して「このチームはリーダー(舘ひろし)の独裁により運営される」という

血判状を作成したという。

今でこそクールスといえばハーレーダビッドソンというイメージがあるが、

当時は国産車も多かった(事実、舘ひろしはカワサキのZⅡに乗っていた)。

チーム結成当時の人数は21人で、全員リーゼント・黒の革ジャン・黒のジーンズまたは

ブルージーンズ・黒のオートバイで統一される

(「黒」にこだわったのは、舘ひろしが学生時代に、ラグビー部の主将をしていて、チーム「オールブラックス」が好きだったから)。

矢沢永吉率いる「キャロル」の解散コンサートでは親衛隊をつとめ

(キャロルの解散コンサートを収録したDVDにはバイクチーム時代のクールスの走行場面が

映っており、また、岩城滉一がキャロルとの思い出を語ったり、

舘ひろしがキャロルメンバーにインタビューする場面等が収録されている。)

一躍脚光を浴びた。



(キャロルよりクールスを観ていたという客がいたほど当時は芸能人ではなかったにも

かかわらず、注目されていた)。

そのため、「クールスはキャロルの弟分バンド」と見る人もいるが、決してそうではない。

確かにメンバー個々の交友や接触はあったが、両者は対等な関係であり、

また当時はあくまでロックバンドとそれを支持するバイクチームの関係であった。

よって「クールスはキャロルの弟分バンド」「矢沢永吉は舘ひろしの兄貴分」という意見は

間違いである。またその後のクールスの音楽性もキャロルとは違うものである。

舘ひろし(ボーカル/ボス)
水口晴幸(ボーカル/ピッピ)
村山一海(ボーカル/ムラ)
ジェームス藤木(リードギター/ジェームス)
飯田和男(サイドギター/フランク)
大久保喜市(ベースギター/キイチ)
佐藤秀光(ドラム/ヒデミツ)
梅村光男(ギター/社長) ※結成後、すぐに脱退した



舘ひろしと、岩城滉一の出会い

飲食店で食事をしていた岩城滉一に舘ひろしが歩み寄り、

身構えた岩城に「あのバイク、君の?」と話しかけ、バイクの話題で意気投合する。

(現在は「舘ひろし=大型バイク」のイメージがあるが、

当時、舘ひろしはバイクの免許を持っておらず、岩城滉一に勧められ、

岩城のバイクに二人乗りして教習所に通ったと言う。

舘=ハーレーのイメージがあるけど↑コレを知っちゃうと・・・

以外とダサイよね~^^















現在 クールス

クールスは30年の時を経てなお、村山、佐藤、ジェームスを中心に活動中である

(最近は濱野もライブに参加しており、結成時のメンバーでもあることから
メンバーと同格として活動しているようである)。

30年以上の長い歴史で若干あいまいになった点もあるが、

現在のクールスの正式メンバーはあくまでも村山一海.佐藤秀光.ジェームス藤木の3人であり

(30周年記念のライブDVDでもコメントしているのは3人である)、

ライブでは濱野和男、後藤直樹、和田ジョージ(ギター)の3人が参加しているようである。

以前のような大会場でのライブは無くなったが、

現在もライブハウスや地方の会場で積極的に活動中である





↑やっぱり歌い方って変わらないんすネ~♪^^

長~い記事を最後まで見てくれてアリガト(*≧∀≦)(≧∀≦*)ネ~♪


Posted at 2009/05/08 13:34:56 | コメント(4) | トラックバック(0) | 芸能 | 日記
2009年05月03日 イイね!

CAROLから矢沢永吉ソロ

CAROLから矢沢永吉ソロ←CAROLですが何か?(爆^^

今回は矢沢のエーちゃんのCAROL時代からソロになって

ヒットした曲を~ゴメン━━。゜(ノдヽ)゜。━━チャイ

ソランが勝手に

気に入ってる曲ばかりを集めてみた(*≧∀≦)(≧∀≦*)ヨ~♪


暇と興味がある方はユックリ見たってチョ~♪



若いよね~(^0^)/カッコイイ~よね~!























↑高校1の時メチャx2流行りました










おまけ(*≧∀≦)(≧∀≦*)ヨ~♪

↓「時間よ止まれ」と二分するかのように大ブレイクした
↓皮ジャンに白いドカン姿のグループがこの「横浜銀蝿」達
↓正式名→「THE CRAZY RIDER 横浜銀蝿 ROLLING SPECIAL」って知ってた(^0^)v
↓  




あらいぐま、ままままままままマントヒヒ、ヒヒヒヒヒヒヒヒヒトコブラクダ・・・・
の替え歌が有るんですよ知ってた?
あ~け~み、みみみみみみみみ、み~さ~よ、よよよよよよよよよ~し~え
ええええええええ、え~つ~こ、ここここここここ、今夜もヨロシク!^^
懐かしいよね~(^0^)/
湘南爆走族のエンディング?も歌ってたと思ったけどにゃ~♪^^

今回のブログはどうでしたか?
たまにはこんな感じの特集ってイイと思いませんか?
コメ待ってます(*≧∀≦)(≧∀≦*)ネ~♪

コメントゼロだったら辞めよ~っと(^0^)


Posted at 2009/05/03 23:39:49 | コメント(4) | トラックバック(0) | 日記
2009年05月03日 イイね!

忌野清志郎さん死す…突然の他界に衝撃広がる !

忌野清志郎さん死す…突然の他界に衝撃広がる ! ロック歌手の忌野清志郎(いまわの・きよしろう、本名・栗原清志=くりはら・きよし)さんが2日午前0時51分、がん性リンパ管症のため都内の病院で死去した。58歳だった。06年7月に喉頭(こうとう)がんを公表。闘病生活に入ってから一時復帰したが、08年7月に腰に転移したことが分かり、再び活動を休止していた。最近は世界マラソンに挑戦中の間寛平(59)に応援歌を提供するなどしており、突然の他界に関係者は大きなショックを受けている。

 清志郎さんの容体が急変したのは1日。すぐに都内の病院に入院したが、そのまま帰らぬ人となった。都内の自宅では深夜まで関係者らが出入りし家族は遺体のそばで悲しみにくれていた。

 08年7月に2度目の活動休止に入って以降も体調は良く、レコーディング作業中の食事もとんかつ定食をたいらげるなど元気だった。それだけにショックは大きく、関係者は「あまりに突然で…。きょうは言葉にならない」と涙を流すばかりだった。

 06年7月に医師に喉頭がんを宣告されてから3年近くの闘病生活。苦しかったはずだが「これも人生経験。この新しいブルースを楽しむような気持ちで治療に専念したい」と言い、前向きにがんと闘ってきた。

 初期の喉頭がんだったこともあり、声帯を痛める可能性がある切開手術をせずに、放射線治療を含めた治療法を選択。歌い続けることにこだわって、病魔と闘ってきた。がんが腰に転移したときも「妙に前向きになるのはなぜだろう。心配はしないでくれ。このくらいのことは覚悟してた」と周囲に話していた。

 08年2月に東京・日本武道館で行ったライブ「忌野清志郎 完全復活祭」では、最後に2人の子供(当時19、16歳)がステージに上がり、目を潤ませた。ファンへは「応援してくれたすべての人に感謝です。勇気を与えてくれてありがとう!」と何度も感謝した。最後のライブは腰へのがん転移が分かる直前の同年7月6日に東京・高田馬場で行ったファンクラブライブだった。

 どぎついメークととっぴなトーク。大胆かつ繊細な作風で若者の心をとらえた。それらは時にはひわいな言葉でもあり、当初から放送禁止を覚悟していた。

 常に弱者へのいたわりも忘れなかった。上司に給料を上げてもらえず「やる気がしねえ…」と仕事をサボる様子を歌った「ボスしけてるぜ」などがその代表。社会の辛酸をなめる人へのサポートソングだった。反原発などメッセージを込めた曲もあった。「放射能はいらねえ 牛乳を飲みてえ」と叫ぶように歌い、対立したレコード会社を「東の芝の~」とおちょくったりもした。

 晩年は東京から鹿児島まで自転車で走破するなど、いつも世間に刺激を与えてきた。ラストになってしまった昨年11月のステージでも「愛し合ってるか~い」と何度も絶叫。客席に向かって最後に発した言葉は、決めぜりふの「ご機嫌だぜぇ~」だった。

 忌野 清志郎(いまわの・きよしろう) 1951年(昭26)4月2日生まれ、東京都出身。都立日野高校在学中の66年に同級生の小林和生らとバンドを結成し、70年、RCサクセションとして「宝くじは買わない」でデビュー。82年、坂本龍一と組んだ資生堂のキャンペーンソング「い・け・な・いルージュマジック」がヒット。91年にグループとしての活動休止。俳優としても活動し、ドラマ「ボクの就職」(94年、TBS)、「野ブタ。をプロデュース」(05年、日本テレビ)や映画「妖怪大戦争」(05年)などに出演。






高三の時「雨あがりの夜空に」や「トランジスタ・ラジオ」が全盛で車の免許を取ったら
絶対流したい曲NO.1でした。



「スローバラード」一番最初に買った車ケンメリセダンを手放す前日、1日車に泊り込み
この曲を聴いた憶えがあります。



井上陽水 忌野清志郎 高中正義(サディスティックスーパーミカバンド)
細野晴臣(YMO) - 夢の中へ(1991年08月25日)
夢の共演ですよね^^



もうこの派手な衣装&舞台が見れないなんてショックです・・・



イイおっさんになっちゃったけどカッコイイよね!



忌野清志郎さん今までありがとう、そしてゆっくり休んで下さい。

これからもこの先ずっと貴方は「僕のヒーロー(青春)」です!
Posted at 2009/05/03 12:19:40 | コメント(3) | トラックバック(0) | 日記

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「最近朝と夜は涼しくなって来たよね?

っと言ってもまだまだ残暑厳しいっす(><)

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何シテル?   08/05 14:35
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