誰でも大臣になると、役人から「国会想定問答集」というのをわたされる。野党の質問を予想して、それに対応する回答のデータが書いてあるが、たいていの大臣は党務や私事に忙殺されて読むことがすくない。ところが、田中は大蔵大臣になったとき、「国会想定問答集」を明け方までかかっても読破し、かならず自分のものにしていたという。 これが大蔵省の役人の好感を大いによんだ。
ところが、あるとき佐藤一郎官房長(前経企庁長官)との間に、「国会想定問答集」をわたした、わたさないの行き違いがあった。佐藤が、「前日お渡しした資料の中に書いてあります」というと、田中は「いや、書いていない。昨日もらったぶんには見当らない」と否定した。それでも佐藤が「そんなことありません、書いておきました」と強弁すると、田中は椅子《いす》からぱっと立ち上って、涙をぽろぽろこぼしながら、「佐藤君、僕は君たちのくれるものを全部読んでいるんだよ」と、いった。それから、すっと大臣室に入ってしばらく出てこなかったが、出て来たときはまったく明るい顔になって、「さあ、やろう」と仕事にとりかかったという。
田中の涙が、周囲の“東大出”に対するくやし涙か、池田の知遇をえて史上最年少で蔵相の椅子を占めた男の緊張感からか、忖度《そんたく》することはむずかしい。ただ、彼の「君たちのくれる資料は全部読んでいるんだ」という自負心は“私の大学”卒業者に特有のものとして、胸を打つものがある。
この自負心がさせたのか、彼はIMF総会で英語で演説するといい出したことがある。柏木参事官という“英語の名人”がコピーを書き、テープレコーダーに吹きこんだ。田中は、それを前にひねもす練習し、ついに幹部をあつめて「いまからスピーチをやるから聞いてくれ」と“実演”したそうである。
彼の『私の履歴書』には「一汗かいた私の世紀? の演説に対して、むろんお世辞ではあるが、“よくわかった”と握手を求めてきた多数の外国の大蔵大臣や中央銀行総裁たちは、さすがに国際的な政治屋だと心から感心した」と書いている。
この“世紀の英語演説”のあと、ニューヨークの邦人会が、田中蔵相一行をニューヨーク一のレストランの晩餐《ばんさん》会に招いている。そのとき田中は招待されたお礼にと立ち上り、シャンデリアの燦《きらめ》く下で、ゆうゆうと「王将」を歌ったものだ。
「英語演説」といい「王将」といい、彼にしてみれば誠心誠意のあらわれなのだが、エスタブリッシュメントの方からみると、「なんともテレることのない男」という印象がつよくなる。
じつは、このあたりに田中の“演技派”としての韜晦《とうかい》趣味がうかがえてならない。彼は、三十八歳という若さで郵政大臣になったが、そのときの挨拶《あいさつ》に、たいていの大臣は「このたび、はからずも大臣という大任を拝し」というのに、彼だけは「努力した甲斐《かい》あって、ついになりました」と大笑いしたものである。
そういう態度が、ますます越後生まれのブロンソンを思わせるのだが、一種、蕪雑《ぶざつ》にみえるこの行動の裏に、じつは彼の“神経質”な面がかくされているようでもある。
声帯の黒メガネ
田中の行動の起点には「吃音《きつおん》」がある。赤ん坊のときのジフテリアが原因で、彼はひどい吃音になり、教室で読本を読みながらドモリだすと、うしろにそっくりかえって、ついには倒れてしまったという。それが修正できたのは「歌と寝言ではどもらない」という発見からで、彼はまず膝《ひざ》で調子をとってからモノをいう練習を始め、流行歌もさかんに歌った。当時の流行歌には浪曲も入る。彼は「乃木大将」が得意で、昼休みの一時間、はじめから終りまで、一字一句まちがえずに口演したそうだ。
妹の幸子は“左きき”で、学校に入ってからも左手で書いていたが、田中は北満で受けとった慰問文を読み、幸子に「兄さんは一生をかけてドモリをなおした。おまえもそんな気持で“左きき”をなおせ」と手紙に書いている。田中にとって“吃音”は難敵中の難敵なのだ。彼は「僕はほんとうは感受性のつよい人間なのですが、声が悪いのと日本浪曲会の会長をしているので、いつも“足して二で割る”強引な政治家に見られるのが残念です」と語っている。これは、かなり本音《ほんね》と聞いてよい。
彼は吃音からのがれるために、節《ふし》をつけてものをいう癖を身につけた。浪曲もそのひとつである。当然、浪曲語りの声帯になる。つまり、田中のブロンソンに似たあの嗄《しわが》れ声は、声帯による処世術である。野坂昭如が、シャイ(含羞《がんしゅう》)な気持をかくすために黒眼鏡《めがね》をかけたように、田中は声帯に黒眼鏡をかけているのではないかと思う。
そのうえ、彼は甲状腺機能亢進症の気味がある。甲状腺がはれると声帯もはれて、声の出がわるくなる。
彼は声帯に黒眼鏡をかけることによって、「足して二で割る政治家」の評価を受けるかわりに、吃音も克服する一方、クロッキーでぐいぐい描くような、直線的な行動も可能にしているのではないか。
田中角栄の趣味は、競馬・ゴルフ・小唄・将棋と多岐にわたっている。そのいずれにも熱中するが、とりわけ常軌を逸しているのは将棋である。
世の中に麻雀で徹夜をするものは珍しくないが、田中角栄は将棋で徹夜するのである。それも、坂田三吉が京都・南禅寺の勝負で長考したというような、日本の棋史に残る大勝負のためではない。ときにはお抱えの運転手を相手にし、またあるときは選挙区の“家老”とむかいあって、勝てば勝ったでもう一番、敗ければ口惜《くや》しがってもう一番という、勝負ぶりである。ときには平気で“二歩《にふ》”を指す。相手が注意すると、「いや、おれの場合は日本将棋連盟が特別に許している」と、扇子をパタパタさせてすましている。その程度の将棋である。選挙の最中《さいちゆう》に、旅館にひき揚げてきた田中が、例によって将棋盤を持ち出し、片岡甚松(越後交通専務)に一戦を挑んだ。たて続けに三番、敗けた。「よし、もう一番」と口惜しがるところを、周囲のものが「明日は強行軍だから」となだめすかして部屋にひきとらせた。明け方、片岡が起きて田中の部屋をのぞくと、なんと彼は寝床にも入らず、ひとりで将棋を指していたものだ。
そんな角栄を父親の角次が心配して、これも古い友人である中西正光(中西興業社長)に、「角は進むことしか知らぬ男です。すこし、あんたの慎重さを見習うようにいい聞かせて下さい」とたのんでいる。
田中の行動は、レーザー光線のような直進性ばかりではない。迅速である。しょっちゅう、「短兵、急を告げて」いる。若いときからそうだ。市内電車で二停留所のところだと、もうタクシーに乗りたがる。建築事務所をひらいて、設計・工事監督の請負をしていたときも、ほかの事務所なら一カ月かかるところを一週間でやってしまう。製図板の上に一升酒をデンとおいて、二晩くらいぶっとおしで図面を書きあげる。一週間ほどして現場にいって、工事がふつうのスピードですすんでいると、彼はもうむしゃくしゃして、ノコギリを手にするや足場に飛び移り、片っ端から足場の丸太を切り落してしまうのだ。これには職人がおどろいて、昼夜兼行、火事場のようなさわぎで仕事を仕上げるという。
政治家になり大臣を歴任しても、この「短兵、急を告げる」動作はかわらない。いや、さらに磨きがかかったと見る向きもある。大蔵大臣のとき、主計官がこむずかしい数字を並べて説明すると、その半分も聞かぬうちに「わかった、わかった」と腰をうかせる。ために「あれは田中角栄ではなくて、わかった角栄だ」と綽名《あだな》をつけられた。
何人かの財界人に「田中角栄の勤務評定」をしてもらった。日本の“総理候補”としては、注文や異論があったが、彼の資質については「明敏・果断・実行力・大衆性・力強さ」の五点で、まったく一致していた。
“越後ブロンソン”
大正七年生まれ、五十四歳で、田中角栄は父親が心配した「進むことばかり知る」性質をモーターにして、早くも総理大臣の候補者に挙げられたわけだ。もし、一国の総理になることを出世というなら、彼は、日本の政界史上、空前絶後の“スピード出世”を記録するであろう。いや、スピードばかりではない。新潟県の、日本海に臨む豪雪地帯の寒村に生まれ、高等小学校を卒《お》えるとすぐ土方をやり、上京して建築事務所の“住込み小僧”になっている。これが田中角栄の人生の出発点である。この出発点と到達点の格差の深さ、その深さを埋めた時間の迅《はや》さ、この二つを考えあわせても、日本の人物史上稀《まれ》にみる存在である。ほかに類例を求めたところ、彼とそっくりなのがひとりいた。
アメリカの映画俳優、チャールズ・ブロンソンである。ブロンソンは提灯《ちようちん》を潰《つぶ》したような顔をしており、この点、田中角栄の方がまだ見映えがするが、二人ともヒゲをはやし、ひと重瞼《えまぶた》で、潰れたような声を出す。田中が土方—土建会社の小僧─保険業界誌の見習記者─雑貨輸入商の店員─建築事務所の所員─自家営業─二等兵、という、大衆の海を泳いできたように、ブロンソンも土方、料理人、ボクサー、水泳教師、沖仲仕、トラック運転手、映画界に入っては“殺され役”と、人生の大衆席にすわり続けてきた。
ひと口にいえば、二人とも“セルフ・メイド・マン”である。学歴はないが、田中角栄もチャールズ・ブロンソンも“私の大学”を卒業している。田中が“私の大学”でなにを必須《ひつす》科目にしたかは、今日の彼の存在そのものを語ることになる。これは後で述べる。
ただ、ひとつだけ先に紹介すると、彼らは人生を屈折した感情で歩きながら、心の中に、ひとつの“救い”を持っている。ブロンソンにあっては、それは「絵を描くこと」である。彼の妻のジル・アイアランドは、ブロンソンと結婚するまえまで、デビッド・マッカラムという、ブロンソンとは正反対の繊細なイメージをもつ俳優の妻だった。それがドイツのレストランでブロンソンに一目惚《ひとめぼ》れしたのは、一見ヒゲむじゃで汗臭そうな男に“かげり”を見たからであるという。
わが“越後ブロンソン”が胸に秘めていたものは、小説である。彼は子どものときから“作家志願”で、高等小学校を卒業した年、新潮社の雑誌『日の出』の懸賞小説に応募、「三十年一日のごとし」という作品が佳作に入って、五円をせしめている。上京して土建屋の丁稚《でつち》小僧になってからも、昼は現場、夜は中央工学校という忙しさにもかかわらず、堂々二百枚の小説を書きあげて、同僚の入内島金一(信友商事取締役会長)に「読んで下さい」と渡している。
いまでは、さすがに小説は書かないが、それでも軽い持病の「甲状腺機能亢進《こうしん》症」(バセドー氏病)の検査に東京逓信病院を訪れると、ベッドの枕元《まくらもと》に小説本を山のように積みあげ、いつまでも読んでいるそうだ。
このような人間的な味が周囲の話題になるのは、ことほどさように、社会の視線が彼の存在に集っていることを意味していよう。
話を昭和三十九年六月に戻そう。安川が証券局業務課長に就任した時、既に述べたように業界の状況は手の施しようがないほどに悪化していた。それに対する最も適切な方法は大蔵省が充分な権限をもって戦争直後、銀行に対して行ったのと同様、証券会社整備法案を作成し、整備を行う ことであった。
しかし、この方法は二つの点で難しかった。一つには個々の会社を一つずつ再建整備していくには、関係銀行の協力が必要となり、それは事務的にも極めて繁雑になる可能性があるということであった。それ以上に問題だったのは、次のような点であった。即ち、金融恐慌の最大の教訓は、前述のように信用機構の問題が政治的に取り扱われてはならないこと及びマスコミへの漏洩を如何に防ぐかということであった。党利党略の材料になる可能性があり、マスコミの格好の材料となる再建整備法案の国会提出には、彼としても慎重にならざるを得なかったのである。
こうして当初は、後述するような免許制に対する反対論が局内で根強かったこととも相まって、証券会社の赤字処理は行政指導という形で密かに進めることとした。しかし表に出さないで行う赤字処理では所詮大したことはできない。結局、安川は赤字処理を地道に進めることも重要だが、悪循環の環を絶ち切ることが必要という判断に立つことになった(注24)。それは既に安川が業務課長に就任した際に議論となっていた証取法の改正即ち免許制への移行と、この赤字対策を絡めるというものであった。
最終的に国会に提出された改正案では、あらかじめ免許制度を導入しておいて、約三年の間で免許の基準に達するように証券会社の再建整備を行い、その間に新しい免許制度に合格しないような財務体質の悪い会社は整理するか、合併によって経営基盤の強化を図るとしていた。この法律案は表向き免許制の形をとってはいたが、真の狙いは証券会社再建整備法と同様の効果を期待するものといってよかった。最大のポイントは免許制への移行期間を置いているところにあった。即ち、その間はこれまで同様登録制が続いているから、それをフルに活用して財務体質の悪い会社は登録取り消しを行い、証券界全体を身軽にするというのであった(注25)。
この登録制から免許制への切り替えは、またもう一つの狙いを持っていた。即ちそうすることによって一般投資家に対し、証券界の背後には信用の基礎としての国が存在することの安心感を与え、努力する証券業者には喪失しつつある経営の自信を取り戻させ、行政が責任の一端を制度上負わざるを得ないようにすることができるというのであった(注26)。
これは証券業の育成に政府が責任を持つという点で、それまでの登録制と大きく異なっていた。即ち何度も述べているように、登録制では行政は証券会社が赤字になれば取り消すという形でしか原則的に関与せず、また廃業の結果生じる客の損害は、客と証券業界双方の自己責任の問題としてとらえられていた。
《免許制をめざす》
坂野総務課長を中心とする旧証券部組の多くは引き続きこのような登録制を支持し、それを部分的に改めることによって対処しようとしていたから、加治木及び証券局発足時に新たに加わった安川、水野らの免許制推進派と、大きく対立することになった。最終的には坂野らも国会に提出された改正案に同調することになるが、それは坂野のこれまでの主張がある程度取り入れられたからであった。証券会社の実態をこの二年間つぶさに観察してきた坂野からすれば、免許制への移行は加治木、安川らが考えるほどには容易には思われなかった。免許制に移行するにしても、現在登録済みの業者の既得権をむやみやたらに奪うわけにはいかず、結局、かなりのものは免許制の下で残ることになる。そうなればツケは大蔵省にまわってくるが、それでもよいのかというのであった。
両者の言い分はそれぞれもっともであったから、なかなか調整はつかなかった。しかし、次第に加治木、安川らの免許制を基本に置きつつ、その中に坂野の手になるこれまでの財務体質等に関する諸通達の内容を盛り込む形で調整が図られつつあった。加えて、田中大蔵大臣の免許制支持が明らかとなって、もはや免許制への移行は動かし難いことになった。田中は、本来、車の両輪であるべき銀行と証券が、一方は免許制、片一方は登録制では不釣合と述べていたからである。
安川は既に、最終的な局内調整を経ないまま八月には、新証取法の逐条を書き始めている。このままでは次期通常国会への提出が間に合わないと考えたからである。
安川のメモによれば昭和三十九年八月二十九日には、最終的に国会に提出された法案、即ち「普通の業法の体裁をとりながら再建整備の効果を埋め込んである案」が省議で決まっている(注27)。
免許制導入に際し、安川らは、財務体質の健全化、人的構成の改善、営業態度の改善を重視することにした。そのうち最も重要だったのは第一の財務体質に係わる部分であり、自己売買業務(ディーラー業務)への依存からの脱却、即ち手数料収入を中心とした財務体質への転換であった。自己売買は、顧客との委託売買業務(ブローカー業務)の円滑な遂行または市場機能維持に必要な限度に限るとした。そして銀行の預金業務と実質的に差のない運用預りは免許制移行と同時に禁止し、それまでに既存の契約は整理縮小することとした。さらには証券会社の系列会社が運営する結果、その癒着の弊害が指摘されていた投資信託業務は、運営上の境界を明確にすることとするなどとした(注28)。
ここで一つ大きな疑問が残る。それは安川が最も懸念していた、再建整備法案の国会提出によって生じる可能性の高い、証券各社の経営実態の露見は、免許制への移行を柱とした証取法改正の国会審議においても起こりうる事態ではなかったのかということである。その点について、安川は不安を抱かなかったのであろうか。安川は次のように述べている。
「たとえ、証取法立法の段階で赤字破綻と立法審議が交錯することが、昭和二年三月における銀行法審議のときと相似た状況になる危険を冒してもと、腹を決めた」(注29)
つまり彼らは再建整備法によった場合と同様、取り付けという「爆弾」を抱えたままで証取法改正の審議に臨むことを覚悟したのである。しかし、手を打たないわけではなかった。時計の針を先に進めることになるが、その年(昭和三十九年)の十二月初めには、安川は松井証券局長とともに法案説明要領を作って関係方面への根回しを始めているからである(注30)。それはまさに国会審議の過程で野党議員が、この法案を政府攻撃の材料とし、結果的に業界の実態が明らかになることを避けようとしたからであった。
しかしこの頃、既に関係者の間では、具体的に〇〇証券は危ないということがささやかれており、その筆頭として山一証券があげられていた。朝日新聞(昭和三十九年十月十六日)は、金融界、財界では証券市場対策の一環として、個々の証券会社の立て直しに乗り出すことになり、まず不振の目立っている山一証券について、興銀、富士、三菱の三行が再建案の検討を始めたと報じていた。安川らの懸念していた危機は一歩一歩近づいているかのように思えた。
次節では大蔵省内の動きから目を離し、証券不況と銀行との関係について述べよう。
この証券保有組合構想が谷口、井上、高山らのリードによって進められた点は興味深い。彼ら三人はいずれも日銀出身だからである。そして先述の谷口の言葉に見られるように、このままでは、銀行の証券界に対する発言力はますます強くなってしまう、という彼ら日銀出身者の懸念が、この構想を推し進める原動力になったのであった。その背景として、大蔵省、市中銀行と日銀との間に微妙な関係があったとする見方は、あながち誤りではなかろう。日銀も構想を実現するに当たって、公共性を強く前面に押し出すよう注文をつけている。そうすることによって、株式会社であった共同証券よりも日銀融資(日証金経由)をスムーズに行うことができるからであった。その点は、宇佐美・新日銀総裁からも直接、業界首脳に対して求められた。これは、最後の対策であり公共目的であること、市場は自由価格に戻り、業者は体質改善を進めることなどが、宇佐美から証券界トッ プに伝えられている。
このようにして、日本証券保有組合は、昭和三十九年の大晦日、田中蔵相の了承を得、あけて一月十三日に正式に発足した。共同証券が買い入れを行うことができなかった二部市場株、また市況低迷の最大の原因であった投信組入株を中心(総肩代わりの七八パーセント)にして、証券保有組合は昭和四十年一月から七月までの間に、二、三二七億七、〇〇〇万円の肩代わりを行うのである。
こうした組合成立の過程で、日銀とは異なり大蔵省があまり積極的でなかった点は、これまた興味深い。加治木、坂野らは共同証券があるのに証券保有組合を作れば屋上屋を重ねることになり、新たな資金負担はさらに業界の体質を弱めることになるというのであった。もとより大蔵省にとって、組合成立は面白かろうはずもなかった。興銀、三菱らと組んで発足させた共同証券に対し、最終段階で融資を渋った日銀が今度は、証券界を全面的にバックアップする形で類似の機関を作るというのである。感情的なしこりがなかったといったら嘘になろう。
いずれにせよ、共同証券の買い入れ銘柄が一部上場優良株に限定されていたという事実からすれば、新機関設立の必要性はたしかにあったが、この構想を耳にした加治木は、あまりプッシュする気にはなれなかったのである(注44)。
《後手に回る合理化》
証券業界は、この一大不況をどのように乗り切ろうとしたのか。その具体策として日本証券保有組合が設立されたことを前章で明らかにしたが、ここでは時計の針を昭和三十九年春頃まで戻して、各証券会社が一向に活況を取り戻せない株式市場によって、どのような痛手を受け、どのように対処しようとしたのか、その点について触れよう。
既に述べたように、株価は日本共同証券設立の報をはやして昭和三十九年一月三十日には一、三〇〇円の大台に乗せていたが、三月中旬には公定歩合引き上げにいや気をさし一、二〇〇円割れ寸前まで下落していた。
昭和三十九年三月初めには、こうした株式不況が証券各社の経理を圧迫しているとみた大蔵省は、その最大の原因を多大の借入金に伴う金利支払いととらえ、借入金増加の原因となっている手持株式や債券、不動産等の処分を進めるよう行政指導している。さらに四月には、支店の新設の原則的禁止、新規採用の制限を求めている。そうした中で四月十四日、東京証券取引所は昭和二十九年以来十年ぶりの赤字を記録した(注1)。
株価は五月頃からやや上向きに転じ始めたが、これによって証券各社の業容が急速に回復するとはとても思われなかった。そのようなことから各社とも大蔵省の指導に従い、あるいはそれ以前から独自に始めていた合理化をさらに進めるのである。
こうした中で、大蔵省は野村、日興、山一、大和の各社に対して、九月期決算をそろって無配にするよう求めた。大蔵省としては大衆投資家が株の値下がりで手痛い損失を受けている時に、当の証券業者が無理に利益をひねり出した形で配当を続けるのは好ましくないと判断したからであった(注2)。結局、最後まで配当の意向を示していた野村を含め四大証券会社はそろって無配を決めている。
ところで肝心の山一証券自身は、この頃どのような状況にあったのであろうか。既に大蔵省の検査も入り、大蔵省証券局からも経理担当役員が事情聴取を受けていた。しかし、当時の大蔵省の証券担当者が回想するように、その報告はとても大蔵省を満足させるようなものではなかった。第一に期限が遅れ、漸く持ってきたと思えば、前月とは異なる数字を堂々と提出するという具合であった。どうやら、大蔵省検査用と実際の帳簿を使い分けているらしい。証券担当者には、そうとしか思えなかった。
経営状況がよく把握できないという意味では、肝心の山一関係者も同様であった。昭和三十七年以後、メインバンク三行のうち、富士、三菱両行から営業担当の磯部明、経理担当の中島俊一両専務が送り込まれ、実態の把握に努めていたが、経営悪化の事実は確かであるにもかかわらず、その内容はようとしてわからなかった。このことは、山一が日銀特融を受けざるを得なくなった時点で、両行が各方面から批判を受ける原因になる。即ち、なぜ山一に対し人材を投入しながら、そこまで事態を放置してきたのかという指摘である。この点について、当時の大蔵省証券担当者は「大神ワンマン体制の下、それを具体的につかむことは誰であれ極めて困難だったようだ」と、回想している。しかし両行派遣の役員の能力も同時に問われなければならないことは改めて述べるまでもない。
いずれにせよ、山一は、両専務を迎えたにもかかわらず、一向に業績は上向かず、ますます赤字幅を拡大していった。そしてついに前述のように、昭和三十九年九月期の決算では、公表三四億五、五〇〇万円の赤字を計上したのである。
もとより山一自身、経営悪化に対し全く手を打たなかったわけではなく、その点は既に述べた通りである。しかしそのスローテンポぶりと無定見さが大きな問題であった。
たとえば後に同じように、経営悪化に陥る日興証券は既に昭和三十八年後半に六店を整理し、三十九年に入っても二店を閉鎖していた。また大和も昭和三十八年の三店に引きつづき数店を整理した。このように他社に比して業績が良好な野村、山種両社を除けば、各社とも既に合理化に着手していたのである。ところが山一は、昭和三十九年春に至って漸く三店の閉鎖を決めたに過ぎなかった。しかも昭和三十九年十一月には、毎日数億円の赤字を出しているにもかかわらず、日本橋で新本店建設に着手(特融後直ちに取り止め)している。借入金が過去五年間に四倍にも達し、一方、株式売買手数料は二・六倍にしかすぎないという状況の下でである。山一の合理化への対応は他社に比して遅れたというよりは、無きに等しかったというべきであろう。