震災一年後の情景 2
投稿日 : 2012年03月12日
1
主人の幼馴染であり、私の親友でもある友人と共に、約半年ぶりに友人の自宅を訪ねる。
「もう何も無いけど、どうぞ。」
「おじゃまします。」
もう、基礎さえも残っていなかった。ただ青く塗装して世帯主と住所が書かれた杭の一本と、献花用のパイプが刺さっている他、広い家も 車庫も物置も 庭先に居た犬も、当時の面影は何一つ無い。
2
友人宅の隣には、友人の同級生でもある幼馴染の家。ログハウス風のサーフショップだった。
隣の家の彼もこの場所に来ていて、友人や主人と久し振りの再会を果たし、「頑張ろうな」と互いに何度も堅い握手を交わし合った。
3
友人宅の東側の堤防上から9時の方角を望む。
画像の中央右寄りに黒いワゴンと その横で立ち話中の人々は、先に書いた主人と友人たち。彼は友人の祖母を津波から救ってくれた命の恩人でもあった。震災一年目にして、友人は彼に やっとあの日のお礼が直接言えた。
命懸けで友人の祖母を守った同級生、越後 将平 氏。御両親はプロサーファーであり、彼もプロサーファーである。
彼自身も 友人の祖母を救出した当時の様子をブログに残している。『― その時 となりの家を見ると おばあちゃんが縁側に硬直しているのが見えた。聞くと1人で留守番していたみたいだ。急いで連れ出そうとしたが おばあちゃんは恐怖で体が動かないという。おんぶで連れ出し外へ出ると 近所の方の車と軽トラに便乗させてもらった。―』
http://barefoot76.exblog.jp/13166113/
4
友人宅の東側の堤防上から5時の方角を望む。
このように仮設堤防が二重に設けられている。砂浜が極度に狭く感じるのは、そのせいなんだろう。この堤防沿い約3Km先に私の嫁ぎ先がある。同じく家の目の前が堤防である。
5
友人宅の東側の堤防上から1時半の方角を望む。
目の前は直ぐに砂浜と波打ち際。
普段は、この海の向こう正面に牡鹿半島と金華山が見える。牡鹿半島の向こう側に女川町や南三陸町がある。
6
友人宅の東側の堤防上から3時の方角を望む。
私の立っている青い土嚢の部分が本来の堤防であった場所。向こうに見えるのは震災後に仮設された黒い土嚢の仮設堤防である。
7
この一帯で残っているのは、このコンクリート建造物のみ。ここは元々 雨水処理ポンプの変電所として使われていた。
2階の窓を津波が貫通していた事が伺えるのだが、変電所の中に入って見ると あの日の津波が天井の高さを超えていた事がハッキリと解る。
最大波到達時刻は15時54分前後。津波の高さは10メートル超。 14時46分の本震から68分後の到達だが、さっさと逃げようにも逃げられなかった人たちが沢山居た事を知って欲しい。この町でも、友人の祖母のように 腰を抜かして動けなくなったり 歩くことさえままならぬ御年配の方々が多数犠牲になった。
震度7の本震の後も、14時51分・54分・58分 15時6分・8分・12分・15分・25分と 数分おきに震度5以上の余震が続いた。強い余震で揺れ続ける中、液状化や地割れした地面を まともに走って逃げられるか!? もし自分がその場に居たら津波から逃げ切れたか、想像してみて欲しい。
越後君の証言:「地震後30分で最大波が来た」
地震後=数分おきの強い余震が小一時間収まった、15時25分の事だ。世界中の海で波乗りをし、海の恐さを熟知している人物さえ 余震の揺れで まともに動けないで居た。
8
友人宅前から6時の方角を望む。
この地点から 海浜公園に向かって、左手には約25件の家々がずーっと立ち並んでいた。ここはお盆を過ぎても、車で入り込める場所では無く、最近になって何とかかんとか車で行けるようになった。
震災後数ヶ月間は瓦礫に埋もれていたのだが、瓦礫が片付いてみると 本当に何も残っていないんだな・・・。
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