
今の20代、30代の若いクルマ好きたちが、趣味の対象としてのクルマの未来をどう考え、どんな夢を抱いているのかを私は知らない。彼らと話す機会があんまりないから。
しかしガソリンエンジンの黄金時代、スポーツカーが輝いていた成長時代を見てきた40代、50代、60代のあなたは、クルマを取り巻く環境がどんどんつまらない方向に進んでいると感じているし、欲しいクルマはどんどんなくなっているし、ワクワクする要素なんてあんまりないよ、とぼやいてることでしょう。違いますかね?(70代以上の方々は、むしろ自動運転のおかげでドライバー寿命が伸びてうれしい、という面もありそうですけど。)
僕ら中年、つまり第2次ベビーブーマー±10歳くらいの年代にとって、クルマ趣味とは常に自分の可処分所得の上昇線とクルマの楽しさの下降線との間の追いかけっこだった。欲しいクルマが買える余裕ができた頃には、本当に憧れていたクルマはもう市場から消えている。
まあそれでもね、環境対応のために刺激が薄れてしまったエンジンも、衝突安全のためにデブってしまったボディデザインも、貧富の差の拡大のために縮小してしまった大衆スポーツカー市場も「まあ時代の変化だから仕方がないね」と思って現実に折り合いをつけながら、今の社会で許される範囲でそこそこ楽しんでいる。
だけど2020年代も後半に入ったここからは、もっと根深いレベルでクルマ好きにとってのディストピアが本格的に始まりそうな気がしてならない。背景にあるのはAIと通信技術の発達、そして自動車の完全な家電化・コモディティ化。80年代ならいざ知らず、今やクルマそのものが好きで運転を楽しんでる人は全ドライバー人口の中でも圧倒的少数派なんじゃなかろうか。
クルマ好きにとってのディストピア。それってどんなものだと思いますか?
たとえばGPSと連動して、走ってる道の制限速度をオーバーしそうになると自動で速度リミッターがかかるクルマ。
さらに、制限速度をオーバーすると車載のケータイ通信で自動的に警察に通報しちゃうクルマ。
それはいやだ。
道を走る自動車のドラレコがすべてネットに繋がっていて、ほかの誰かの違反行為を見かけたらボタンひとつで警察に証拠動画とともに通報できちゃう社会。最初は煽り運転と危険運転の対策として始まるけど、そのうちみんな、気に食わない運転をしている周りのドライバーを些細なことで通報しまくるようになる。
今だって既にそうじゃないか。誰かの危険運転からうっかりミスに至るまで、あらゆる違反をショート動画サイトにアップして言いつけたがる正義マンがたくさんいるじゃないか(危ない運転されてモヤる気持ちはわかるけど)。
もっと怖いのは、すべての自動車のドラレコ映像や街中の監視カメラ映像が自動で収集され、AIが分析してあらゆる違反運転を漏れなく摘発する社会。
それはいやだ。そんな社会いやだ。
「え?だったら違反しなけりゃいいだけのことじゃん。法を守ってる一般市民には関係ないじゃん。」と言う人がけっこういそうで怖い。
そういう問題じゃない。そういう問題じゃないんだよ。
日本の道路の制限速度が、通常の交通事情において最初から守られないことを前提とした非現実的な設定になっていることはひとまず置いておくとしよう。仮に、日本の制限速度が英国並みに緩かったとしても、だ。
市民社会のあり方として、「社会の隅々まで全部監視しちまえ」という発想は怖い。そんな発想を簡単に許容しちゃう国民性が怖い。
それはとても、とても怖いことなのよ。と少なくとも私は思う。
一瞬だけめちゃでかい主語を持ち出しますが、法律の”執行”(enforcement)に関する日本人の感覚にはときどき、(たとえば革命を経験してきたフランス人なんかの考え方に比べると)なぜか自分の自由より他人への束縛を優先するような傾向が見て取れる。かつての村社会を維持してきた相互監視文化が染み付いているわりには、なのか、それが染み付いているからこそ、なのか分からないが、法執行の力を市民自らがコントロールするのではなく簡単に「お上」に手渡してしまうようなナイーブさを、ときおり感じる(でかい主語はここまで)。
これを書いている今も、窓の外をいかにもやんちゃそうな小僧どもの爆音バイクがコール(ぶんぶん、ぶぶぶぶん、ってやつ)しながら夜の田舎町を練り走っている(家のすぐ前の交差点で律儀に信号待ちするからよけいうるさい)。近所迷惑だし、治安の面でマイナスなのは確かだし、警察はなんで取り締まらんの?と思う。毎晩やってるから張ってりゃ一網打尽だぜ?
しかしそう思う一方で、自分自身がよっぽど困ってる案件ならともかく、第三者の正義感を動機とした通報ってのはあんまりしたくない。めんどくさいからではない。彼らに対し同情的だからでもない。自分の利害に直接関わったり自分や誰かに危険を及ぼしたり、あるいは軽微な違反を超えた深刻な犯罪行為にまでつながらない限りは、なんというか、その行為をいつまでも続けるのかそのうち目を覚ましてやめるのかを彼らの良心と成長力(と、彼ら自身の周りの大人の愛情)に委ねたいのだ。やんちゃなガキは社会の安全と治安維持の面では邪魔な存在かもしれないけど、でもそんなやんちゃさを国家権力を持って100%燻蒸消毒してしまうような社会も、巡り巡って息苦しさにつながるような気がするのだ。この感覚、わかるだろうか。
仮に日本中の法律違反をすべて検知できるテクノロジーがあったとして、そんなものに頼って不適切行為を完全排除して作った100%クリーンな社会は、果たしてユートピアなのだろうか。
不良行為を行なうのかも、善行を行なうのかも、国家権力や国家宗教や国家倫理機関に一方的に決められるのではなく、個人自らの自由意思に基づいていてこそ成熟した市民社会と言えるんだと私は思うんだが、違うだろうか。
もちろん悪意を持って行われる危険な重大犯罪は絶対に取り締まらなければいけない。けど、立法にも法の執行にもあるていどのグレーゾーンは必要で、軽微な逸脱(つまり、反社会的悪意を持たない一般市民でも犯しうる、取り返しのつくレベルの違反)まですべて機械的に摘んでしまうと、人間社会において個人が自由な良心を持つことの意味がなくなってしまう。
交通違反の話に戻せば、とある道路をあなたが時速40km/h以下で走るのは、制限速度でそう規定されているから以前に、そこを40km/h以上で走ることは危険だとあなたが自分自身で判断したから、であるべきなのだ。違法駐車も一時停止も同じで、交通標識は盲目的・機械的・自動的に従うためのものではなく、そこに危険があることを自分で予測するための判断材料であるべきなのだ(標識を無視していい、という意味では決してないですよ!)。
そして「法律だから」「機械がそう判断したから」「違反すると自動的に通報されて反則金を取られるから」という理由でルール遵守するのではなく、安全運転かどうかを自分自身で判断する感覚を磨き続けないかぎり、僕らの優良ドライバーとしての勘どころはどんどん衰えていく。先に書いたとおり、それは人間の尊厳と自由意思の敗北だ。
さて、真面目な話が過ぎたので、ディストピアの話に戻しますが、皆さんにとっての「将来のクルマがこうなったら嫌だ!」とか、すでに始まっている兆候はなんですか?ぼくは、ふるいくるまの自動車税がいまよりもっと高くなっちゃったり車検がとおらなくなっちゃったらすごくいやなので、やめてくださいおねがいします。
Posted at 2026/03/03 20:06:55 | |
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運転 | 日記