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イイね!
2020年03月15日

グラグラとグラぽんの硫黄島の戦い!

まず初めにお断りいたします。

前回のブログに引き続き長文のブログですのでご注意ください。

最期まで見て頂くと嬉しいですが、時間の無い方はスルーしてくださいませ。(^^


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今回のお題は硫黄島の戦いですが、学校でシッカリ勉強したかと言うと、サラッと流される程度だったと思いますので少し詳細にお届けいたします。

硫黄島の戦いそのものは非常に有名だけど、何故、この小さな島で大規模な戦闘が起こったのか、と言う背景に付いて知っている人は余り居ないから説明します。

そういう訳なので、まずは硫黄島の歴史について簡単に説明します。

硫黄島は、1543年にベルナードトーレスが発見したと言われています。

その後、1784年頃にイギリス人ゴアが硫黄島を確認、サルファアイランドと命名しました。

領有権が正式に日本になったのは明治24年で、この年に北硫黄島、南硫黄島、硫黄島の3島は日本領土に編入。

そして、硫黄島はこんな形をしています。


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左下の飛び出ている部分がすり鉢山、島の中央には飛行場が有ります。

この島には、昭和18年6月の時点で、1018人の住民が居ました。

此れは小笠原諸島では3番目の人口を誇ります。

腸チフス、ジフテリア、アメーバ赤痢、デング熱などの熱帯伝染病が存在するとともに、井戸水は塩分と石灰分を含むため飲料水に適さず、専ら雨水を飲料水としました。

この様に、余り住みやすい環境とは言えない島でした。

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こんな小さな島がどうして激戦地になったの?

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うん、そこはむしろ海軍大好きグラぽんに説明してもらった方が良いかな。

大正7年頃の海軍作戦計画について説明してほしいよ。

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大正7年頃の海軍作戦計画では海軍は太平洋正面からの敵侵攻に対し、奄美大島付近に全戦力を集中、小笠原諸島を哨戒線とする予定だったのよ。

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これに伴い、小笠原諸島の築城が進められたんだけど、ワシントン条約締結により、要塞築城は中止されたんだ。

これによって、小笠原諸島に駐留する部隊はいなくなったんだ。

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一方海軍は、大正12年には主力集中位置を小笠原諸島に、哨戒線を南洋委任統治領に刺せたのよね。

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一方陸軍では、父島要塞司令部を設置したけど、これは平時には部隊は配置されていなかったんだ。

そして時は過ぎて昭和11年、ワシントン条約失効と共に、無条約時代に突入したんだ。

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これに伴い、海軍は父島、硫黄島の航空基地を\の整備に着手、昭和14年には父島に海軍航空隊新設したのよ。

アメリカを仮想敵国としたとき、小笠原諸島は、対米最前線の南洋委任統治領と日本本土を結ぶ中間地点に位置しているの。

このことからアメリカを仮想敵国として以降、非常に古くから小笠原諸島は軍事的重要性が認識されたの。

その一方で、本格的な軍事利用が実行されたのは昭和14年頃と、開戦直前になってからだったの。

また、海軍は昭和14年11月の段階で、対米決戦地をマリアナ、西カロリンまで推進、15年2月にはマーシャル諸島まで推進したのよ。

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う~ん、この一方陸上兵力としては、父島要塞および母島は陸軍の担任とし、残りの島は海軍が守備を行ったんだ。

開戦に伴い父島要塞は編成を完結、陸戦の主要方針は敵上陸時を攻撃することとし、水際作戦を展開する予定だったんだ。

詳しい話をすると、敵上陸攻撃に際しては、敵艦船を白地付近において覆滅し、やむを得ず敵に上陸を許す場合においては、敵を水際で殲滅すると言うものなんだ。

早い話、防衛の主力は海上、航空戦力にあり、陸上戦力はこれの補助と言うことなんだ。

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水際作戦にはどういう理由があったの?

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そもそも上陸時には敵は無防備となるから、これを攻撃するのがセオリーであるということ。

次に敵上陸軍が全体として自軍より圧倒的多数だったとしても一度に上陸できる部隊には限りがあるから、これを各個撃破する事によって数的不利を覆す事が出来るんだ。

このようなことから、日本の島しょ防衛部隊では水際作戦が多用されることとなるんだ。

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一方、南方での作戦進行に伴い、小笠原諸島の航空基地、海上輸送基地としての価値は増大していったのよね。

昭和18年9月には、戦況不利を理由に一歩後退、絶対国防圏の設定を行い、この中に小笠原諸島も含まれていたのよ。

これは、19年春ごろまでに反撃戦力を整備し、迫る米軍を国防圏のラインで撃破するというものよ。

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このため、陸軍は新たに歩兵40個大隊をこの方面に増派したんだ、世話の焼ける海軍だね。

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一方、8月にはキスカ島に米軍上陸、11月にはマキン・タラワの陸戦隊玉砕など、戦況は緊迫したものとなったの。

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また、19年2月にはクェゼリンに米軍が上陸。

大本営は敵軍がマーシャル諸島に攻撃しくると予測したんだ。

その中で父島要塞には兵力増強が行われたんだ。

同時に、小笠原方面は新設の第三十一軍指揮下に入ったんだ。

トラック、マリアナ、パラオ、小笠原を指揮下に持つ軍なんだ。

31軍の小笠原防備計画では硫黄島について、小笠原地区における重要航空基地として絶対これを確保すが如く要塞化すると書かれているんだ。

具体的な築城内容としては、水際撃破のため、てきの猛烈な方爆撃に耐えるうる施設を築城することとし、まず野戦築城、次の段階で、野戦築城及び一部永久築城による強化、最後に永久築城の完成、の3期に分けた計画が立てられたんだ。

このような理由から、初めてまとまった陸軍部隊が硫黄島に上陸したんだ。

小笠原地区集団では、主力を持って父島、一部を持って母島および硫黄島を防衛するという方針になったんだ。

この時派遣された部隊が伊支隊と呼ばれる部隊で、厚地大佐が、当面の間築城を行ったんだ。

4月になると、31軍司令官は硫黄島を視察、現地部隊に水上、水際撃滅作戦に徹することを強調したんだ。

また、小笠原地区集団長の訓示から、当時の現地部隊がどのような思考で動いていたかが読み取れるので、ここに紹介します。

飛行機を活動させるのが我々陸上部隊の任務である。
まず友軍機で敵を洋上遠距離に征するのが上の上である。
飛行場建設に協力する時は、自分の陣地を作る覚悟で行うこと。
海軍の使役になっている様な卑屈な考えに陥らないこと。

さっき絶対国防圏の話で述べたように、昭和19年春ごろまでに戦力を整備し、侵攻する敵部隊を撃滅するという計画が大前提だったんだ。

実際に海軍ではこのための決戦航空兵力を整備していたんだ。

このため、硫黄島守備隊としては、航空兵力の補助となるよう、飛行場建設が重視されたんだ。

実際問題、島嶼防衛って制海権で決まるから、陸戦部隊は海軍と航空頼みというのが正直なところだよね。


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19年5月、海軍はマリアナ方面において、「あ」号作戦計画を発動、予定通り決戦をめざしたの。

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因みにこの「あ」号作戦、Z作戦ってのが元になっているんだけど、このZ作戦、海軍乙事件で情報流出しているよ。

海軍のガバガバ機密管理には呆れるね。

一方そのころ小笠原地区では、同地区に配置されていた部隊を基幹に、第109師団を編成、指揮系統の整理を行ったよ。


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そして、この109師団長に新補されたのが栗林忠道中将なんだ。

栗林忠道中将は、小笠原諸島で硫黄島に最も良い飛行場がある為、敵は必ず硫黄島に来襲すると予測し、直接硫黄島に進出し、師団司令部を置いたんだ。

結局、中将はこのまま一歩も島を動かず、陸戦に突入する事になったんだ。

中将が島を動かなかった理由のひとつに、6月に始まったサイパンの戦いが、31軍司令官のパラオ視察中に発生してしまい、戦闘指揮が出来なかったことが影響していると言われているよ。

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なるほど。

サイパンに米軍が上陸した6月15日、連合艦隊司令長官は「あ」号作戦決戦を発動したのよ。

この作戦は、硫黄島やカロリンなどの基地航空兵力を機動部隊の協同攻撃によって、敵機動部隊を撃滅する、というものなんだよ。

特に、日本軍機の行動半径の大きさを生かした、アウトレンジ作戦によって敵艦隊を撃滅する事を目指したの。

地航空隊は、索敵によってこれを支援するの。

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但し、5月27日に起きた、ビアク島への上陸に対して、海軍は渾作戦を発動。

決戦用の航空兵力をそっちへ振り分けてしまっていたんだ。

絶対国防圏のラインで敵を叩くと言っているのに、国防圏外のビアク島に戦力を割いちゃうのってどうなんですかね。

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いや、あそこの飛行場取られるとまずいし・・・

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結果論は好きじゃないけど、結果から言うと、ビアク島守備隊は物凄い根性で善戦し、「あ」号作戦、すなわちマリアナ沖海戦が終了するまで飛行場を米軍に使わせなかったよ。

一方、日本海軍はマリアナ方面に敵機動部隊が来襲する事を察知し、結局渾作戦を中止。

渾作戦の為に決戦兵力たる第一航空艦隊は戦力集中が遅れたばかりか、戦力を損耗したため、「あ」号作戦遂行に大きな影響を及ぼしたよ。

マリアナ沖海戦の結果は、海軍さんの口からどうぞ。


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「あ」号作戦そのものは、ミッドウェー海戦の戦訓を用いたもので、ミッドウェーの意趣返しの様な形の作戦なの。

特に空母機動部隊は、数に勝る米軍を相手にアウトレンジで攻撃を仕掛け、一方的に戦果を得る事を目標としたの。

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そんな上手くいくかいな。

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発想は良かったんだけど、結果的には、長距離海上飛行という難しさが祟って、攻撃隊は敵艦にたどり着けなかったり、途中で撃墜されてしまったの。

その結果、空母3隻、タンカー2隻を撃沈された上、空母4隻が損傷、航空機400機以上を喪失したの・・・これと引き換えに得た戦果は、敵空母2、戦艦2、重巡2いずれも小破、艦載機130機撃墜という、到底犠牲に見合わないものだったの。

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海軍さん、戦争下手クソかよ。

やることなす事全部裏目に出てるじゃん・・・

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ただ、此処で一つ言わせてもらいたいのは、マリアナ沖の主な敗因としてはよくあがる、VT信管と、レーダーの話なのよ。

VT信管は、敵機が接近すると自動で爆発するって言うやつで、マリアナから対空砲に使用され、日本軍機はなすすべもなく撃墜された、みたいな事良く言われているの。

でも、よく考えてほしい。

マリアナより後の各特別攻撃で、特攻機は散々敵艦に命中しているの。

此れの意味するところは、VT信管は其処まで万能では無いと言うこと。

レーダーも同様で、結局沖縄に至っても特攻機への決定的な対策は確立出来ていないの。

つまり、レーダーもVT信管も勝敗の根本原因ではないということね。


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機動部隊もろとも敵と刺し違える覚悟で殴り込めば、もう少しまともな結果になったのでは、っていうのは色々な所で指摘されているね。

まぁ、そんなこんなで「あ」号作戦は失敗。

決戦航空戦力は壊滅。

島嶼防衛部隊は絶望的な状況に立たされたよ。

また、サイパン守備隊が水際作戦を採って早々に壊滅した戦訓から大本営はら注意が促されたよ。



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この結果、硫黄島守備隊は、一旦上陸を許し、敵が第一飛行場に進出したところを攻撃し、殲滅する、という作戦に切り替えたよ。

また、サイパンで水際作戦の立案行った、参謀本部晴気誠少佐も、水際陣地は囮とし、敵を内陸で撃滅する事を具申したよ。

*晴気誠少佐は、終戦時サイパン陥落の責任を感じて自決しています。

ただし、栗林中将以下109師団は、進出当初から後退配置思想だったようだよ

また、サイパン陥落に伴い31軍が小笠原方面を指揮する事が困難になったので、109師団を基幹に、同守備隊を小笠原兵団としたよ。

戦況頻拍によって、硫黄島には次々と援軍が送り込まれたんだ。

また栗林中将は、米軍が先に父島に来る事は無い。

もっと重火器と優秀な将校をよこせと盛んに大本営に要請したよ。

また父島営林署長曰く、「島の木材は全部裸になっても良いから、戦いに勝ってもらいたい」など住民は協力的だったよ。

ただ、戦況に鑑み7月ごろには住民は本土に疎開されたんだ。



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また、オリンピックメダリスト、西大佐率いる戦車26連隊も進出し、一層戦力が増強されたんだ。

しかし、この期に及んで海軍部隊が水際防衛を主張。

海軍が資材を提供する形で水際トーチカが設置された。

ただし、これらは上陸準備射撃でほとんど破壊されてしまう運命だったんだ。

この様な状況下、足りないセメントをやりくりしつつ、築城を進めたんだ。

一方、昭和19年末には比島決戦が進行していたんだ。

また、サイパンからB29空襲が始まり、日本軍はサイパンへの空襲を何度か敢行したんだ。

大本営はサイパン、ペリリュー、ノルマンディなどの戦訓を踏まえ、複数陣地による縦深を持った沿岸防衛を示達したんだ。

昭和20年1月になると、遂に敵上陸近しという空気が流れ、この段階で、水際トーチカは135個中24個が完成、このトーチカに島内での使用全セメントの半数以上を吸収されたんだ。

一方地下洞窟陣地は、かなり高度に要塞化されており、完成度はたかかった。

ただし、摺鉢山と元山での交通豪が未完成であり、此れが戦局に大きな影響を及ぼしたんだ。

一方で急激に増加した兵員に対し、飲料水が不足しており、病気の元となったんだ。

そんな中2月16日ごろに米軍機動部隊が硫黄島を空襲。

艦砲射撃も加えられたことから、守備隊は甲配置に付いた。


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地図中青が水際陣地・下の赤い丸が摺鉢山・上の赤い丸が本体のいる元山・赤い矢印が米軍上陸地点

翌日も艦砲射撃と空襲が島を襲い、水際トーチカが狙い撃ちされたんだ。

本来、敵上陸まで砲撃は一切しない手筈になっていたんだけど、摺鉢山の砲台が先走って水中破壊班を敵上陸と誤認して砲撃したんだよ。

この攻撃で小型の支援艇12隻を撃沈または大破させてしまったが、重巡ぺサンゴラに6発命中、副館長を含む17名が死亡、また、駆逐艦にも命中弾を与えた。

この代償として摺鉢山は山頂の4分の1が吹き飛び、多数の大口径砲が破壊されてしまった。

此れは非常に手痛い損失で、米軍曰く、日本軍唯一の重大な過失だと言われているんだ。

入念な砲爆撃によって、島中の植物は吹き飛び、水際トーチカは3個破壊され、擂鉢山の重火器もほとんど破壊されてしまった。

しかし、兵員の多くは全くの無傷だったんだ。そんな中、米軍の上陸が始まった。

米軍上陸部隊の前進とともに、移動弾幕射撃が硫黄島を覆い、日本軍は視界を奪われ情報が錯綜した。

この間に米軍は上陸を続け、2月19日の10時30分ごろには、既に歩兵8個大隊、戦車1個大隊が上陸していたんだ。

日本軍の抵抗は少なく、実は日本軍を過剰評価していたんだ、という楽観的な思考をした兵隊も多かったようだけど、それは全くの見当違いだったんだ。

米軍が砂浜に足を取られているところに砲兵が集中砲火を浴びせかけ、ビーチにアメリカ兵のハンバーガーができたんだ。

この日の米軍側損害は深刻で、死者2420人、水陸両用車20両、戦車15両、上陸用舟艇100隻を失いました。

因みにこの損害は上陸全兵力の8%に相当します。

昼頃になると、日本軍は物資の集積されたビーチにロケット弾を発射、これを粉砕したんだ。

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やっぱり、島嶼戦では上陸を狙うのは効果的なのね。

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ただ、その一方で米軍も千鳥飛行場に浸透、擂鉢山と元山の分離を試みているんだ。

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結果、第一日目は米軍にこの様に陣取られた。

この日の夜、日本軍は夜襲を仕掛けるどころか、海岸地域に夜間砲撃を行い、あらゆる物を吹き飛ばしたんだ。

この砲撃で大隊長クラスまで戦死に追い込んだ。

また、第一日目には、速射砲を自ら操り、水陸両用車20両、戦車搭載舟艇3隻、戦車ドーザー1両破壊したとし、仲村少尉が個人感状を授与されたんだ。


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翌日には、地図上青で囲った南地区隊が奮戦し、米軍は一日で200mしか前進進出できなかった。

その一方、千鳥飛行場は米軍に占領されてしまい、これは日本軍の防衛が云々というより、地形的にどうしても無理な位置にあるから仕方がなかった。

これによって、本体と擂鉢山地区は遮断されてしまったんだ。

米軍の猛攻にどうにか耐えた摺鉢山だけど、この一日で地区隊の兵力は初期の半分になってしまった。

一方、夜間は各部隊少人数の挺進切り込みを仕掛け、破壊活動で戦果を挙げたんだ。

摺鉢山の日本軍陣地は翌日も猛攻に晒され、地下陣地においてもブロートーチと栓抜き戦法で攻撃されたよ。


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何それ?

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日本軍の言うところの、馬乗り戦法と言うやつで、地下壕入り口を全てドーザーでふさいだ後、削岩機で開けた穴から燃料や黄燐を流し込んで燃やす戦法だよ。

この様な状態で、23日には守備隊はついに力尽きて全滅、星条旗が翻ったよ。

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摺鉢山は硫黄島で最も標高が高いので、米軍は優先としてここを占領したかったんだね。

また、初期の集中砲撃の大損害も摺鉢山陥落を早めたよ。

残存部隊で主力に合流できたのは僅かに25名と言われている。

一方、青丸の南地区隊は21日中は一歩も引かず、米軍と死闘を繰り広げ、同日までに第四海兵師団の戦力が68%まで低下していたんだ。

この様な状況なので、米軍内では5日で硫黄島を陥落させるという、当初の計画の実現は不可能だと見られ始めたんだ。

また、21日には特攻隊が攻撃を敢行し、護衛空母ビスマルクシーを撃沈、空母サラトガを大破炎上、護衛空母ルンガポイント、輸送船ケオックも炎上した。

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22日は豪雨となり、守備隊には恵みの雨となった、一方米軍は前線部隊を後退させた。

南陣地では米軍が強引な突破を敢行し、日本軍は後退を余儀なくさえれた。

また、飛行場正面からの攻撃も激しく、戦車の大量投入に対して、独速第12大隊は砲撃で敵戦車を撃破、最後は大隊長自ら爆薬を持って敵戦車に体当たりを仕掛けた。

この様な捨て身の攻撃によって、米軍は大損害の割に、せいぜい250mほどしか進めなかった。

23日には8個砲兵大隊の支援下に、2個師団が全正面に攻撃を仕掛けてきた。

飛行場正面の西地区隊はこの日も頑強に抵抗し、米軍を寄せ付けなかった。

また、米軍は迫撃砲弾が欠乏し、進撃を中止した。


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アメリカ軍が弾切れとかどんだけ撃っているんだよ。

また、この日は陸攻6機が空襲を行ったのよ。

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日本軍はこの日までに死傷3000名、米軍は上陸2日目までに死傷4560名を数えたんだ。

この様に、地獄の様な戦いが毎日繰り返されていたんだね。

翌日には新手が上陸し、また全正面で米軍は大攻勢、24日夜にはこのような状態になってしまった。

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25日にはこの小さな戦線に3個師団7万人が投入された、因みに日本軍の全兵力は、初期状態で2万2千人に過ぎない。

地図中だと第二飛行場と表記されている、元山飛行場周辺は平地が多く、戦車投入に適している。

実際、米軍は此処に大量の戦車を投入した。

日本軍は突出した米軍戦車に砲撃を浴びせ、9両を撃破、地雷原と対戦車壕、速射砲の陣地が可也巧妙に作られていたんだ。

26日も全面攻勢となり、各部隊とも奮戦。

しかしあまりの戦車と敵兵力に圧倒され、元山飛行場および周辺陣地の大半を喪失したんだ。

27日にはこのような陣地配置になったよ。

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うあ、ドンドン浸食されてる。

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この時点で、守備隊の戦力は半減しており、前線兵力は5分の1まで低下していた。

野砲、迫撃砲弾も10%まで減少してしまったんだ。

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そこで日本軍は、複郭陣地へ撤退、戦線整理を行った。

複郭陣地は、青丸1の大阪山・2のテーブル山・3の玉名山の3つの独立陣地で構成された。

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なんで島の真ん中に陣地が無いの?

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その辺から第三飛行場は平地に近い場所に続いているから守り辛いんだね。

28日は1の大阪山周辺で激戦が発生、日本軍は逆襲も敢行したけど失敗。

米軍は大阪山陣地正面に迫った、その一方、深夜に日本軍砲兵の砲弾が弾薬集積所に命中、米軍は弾薬の20%を消失した。

3月1日には、日本軍の抵抗にも関わらず、大阪山を米軍に占領された。

この様に、大阪山を抜かれ、中央突破を許すものとなった。

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ただし、大阪山守備隊の中には、地下陣地に残存している者もあり、夜間切り込みを行った。

一方、3の玉名山周辺では西戦車隊の存在も有り、陣地を固守しているんだ。

行動不能になった洗車は土に埋めてトーチカとするなど、懸命に抵抗を行い続けた。

また、3月2日から5日にかけて、長田挺進切り込み隊が活躍した。

この部隊は、擂鉢山を死守していた長田大隊の生き残り11名で結成された部隊で玉名山周辺で毎夜切り込みを仕掛け、感状を授与された。

3の玉名山陣地の戦いは、硫黄島線の中でも特に激しく、ひき肉器と呼ばれた。

米軍のある小隊では、小隊長が5人も入れ替わり、挙句5人目が戦死すると同時に部隊ごと全滅した、なんて話もある。

一方米軍は第3飛行場方面に進出し、硫黄島を南北に分断しようとした。

また、5日には一度休養を取り、部隊を交代させ、6日に総攻撃を仕掛けて来たんだ。

このころには最早日本軍に火砲も洗車も無く、専ら歩兵火器によって戦闘を行った、残存兵力は4000名にまで減少していたんだ。

6日は、2万2千発の砲撃とともに総攻撃が始まった。

しかし、日本軍は艦砲射撃も砲兵射撃も、全く無意味でこの日、米軍は大して進撃できずに終わったんだ。

この頃になると、西戦車隊は戦車喪失し、肉薄攻撃と分捕り兵器で敵戦車を撃破していたんだ。

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重火器無しで戦闘している日本軍、もう根性だけで戦っているでしょ。

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7日には、米軍が夜襲を敢行。ただ、ドジなので占領する山を間違え、西戦車隊に逆襲されたよ。

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米軍が夜襲とか珍しいね。!

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米軍は夜が開けるとここに増援を注ぎ込み、血みどろの白兵戦を展開、ごり押しで玉名山隣の東山陣地を占領したよ。

そんな訳で、7日までにこの様に侵食された。

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玉名山方面の第4海兵師団は、戦力が40%まで低下。

中には7人も中隊長が変わった部隊もあるとか、しかも1日平均300mしか前進できなかった。

しかし、玉名山守備隊は最早1個師団相手に支えきれず、最後の総攻撃を敢行した。

同部隊千田旅団長は、各部隊長に、「皆さん長い事ご苦労を掛けました。靖国神社で会いましょう」と言って、水で乾杯、出撃しました。

この攻撃により守備隊の第二旅団は壊滅、千田旅団長も戦死しました。

一方この後、生き残りと攻撃に参加出来なかった重傷者などが中心となり玉名山地下壕陣地を棲息地としたゲリラ戦を展開し米軍に出血を強いたんだ。

因みに、硫黄島の米軍全死者のうち、約半数が玉名山周辺で死亡しています。

栗林兵団主力としても、最早戦闘を継続できず、3月14日ごろには総攻撃を決意。

「仇打たで、野辺には朽ちじ我はまた、七度生まれて矛を執らんぞ」と、決別電を送り、最後の総攻撃に移りました。

そして、攻撃の機会をうかがっているうちに、米軍は次期作戦のために包囲を緩めだした。

3月25日400名を持って総反撃を行い遂に玉砕しました。

この攻撃は、米軍露営地を襲撃し、米軍戦闘機部隊も白兵戦に巻き込まれるなど、大混乱をもたらした。

この、弱点を狙いすました総攻撃はよく計画された攻撃であったと評価されています。

こうして組織的戦闘は終了、栗林中将も戦死しました。

随分長いブログになりましたが、まとめてみたいと思います。

硫黄島戦の彼我戦力は、日本軍9個歩兵大隊に対し、米軍27個。

戦車23両に対し,150両。 日本軍総兵力20900人中、陸軍13000人、残りは雑多な海軍部隊だった。

これに対し米軍は11万人、更に爆弾8360t、砲兵射撃45万発、艦砲射撃14250tを硫黄島に浴びせた。

しかし、米軍死傷者は28686人に達し、日本軍の20933人を上回る損害をだした。

ランチェスターの法則に基づく戦力交換比は日米で5対1とも言われている。

硫黄島守備隊は、「敵十人を倒さざれば死すとも死せず」、という守備目標を実行に移したんだ。

硫黄島守備隊は戦車の運用しにくい場所を狙って、高度に地下要塞化を施したんだ。

これによって米軍は砲爆撃も戦車も使えず、歩兵による戦闘を強いられたんだ。

米軍は、第一次大戦のような塹壕戦を日本軍に強いられたんだ。

しかも日本軍はあまり逆襲しないので、ひたすら米軍側は突撃して溶かされるしかなかったんだ。

この様な、戦車が使えない状況は、後の朝鮮戦争でも米軍を悩ませることになるんだ。

あと、あまり言いたくはないけど、硫黄島防衛作戦は海軍がかなり足を引っ張ったよ。

戦闘中、現地部隊は非常に善戦した一方、軍令部は使いもしない飛行場拡張や水際防衛に固執、摺鉢山の海軍砲台が先走った事に合わせて、摺鉢山の早期陥落の原因を作ってしまった。

こんな硫黄島のお話をしましたが、当時の日本軍はどれほどの精神力で戦い抜いたのか計り知れません。

この島で亡くなられた英霊の皆様が靖国神社で同僚の方と御会い出来る事を望みます。

今回も超長いブログになりましたが、最後まで見て頂きありがとうございました。

また次回も宜しくお願い致します。
ブログ一覧 | 日記
Posted at 2020/03/15 21:31:56

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この記事へのコメント

2020年3月18日 9:19
長文作成お疲れ様でした(^^。
両軍多くの命が散っていった戦いだったのですね。
米軍の物量作戦に対しカナリの抵抗。凄いなと…。
先人の犠牲のもとに今の平和があるんだなと 改めて実感します。
コメントへの返答
2020年3月18日 10:54
ヤスピーさん、お疲れ様です。(*^▽^*)

最後まで閲覧ありがとうございます。m(_ _)m

テレビや映画などアッサリと米国に負け玉砕したみたいになっていますが、死傷者数では日本人よりも米国が多く、ある意味日本は大勝利だったと思います。

英霊の方たちが日本の未来を築いて頂いた事を感謝したいと思います。

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今日は残念な雨の1日になりそうですね。⤵️
 
本日は大人しくする日でしょうか?🤣
 
本日も宜しくお願い致します。(o^-')b !」
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ホンダ N-BOXカスタム 怒りのN―BOX (ホンダ N-BOXカスタム)
みんなで楽しくカーライフをモットーに頑張っています。   皆様、今後とも宜しくお願い致し ...
ホンダ S660 ホンダ S660
グラグラEXの新しい相方が我が家に嫁いできました。 新しい相方はホンダのS660モデュ ...
スバル インプレッサ WRX STI スバル インプレッサ WRX STI
グラグラ最後のマニュアル車 最高のパフォーマンスを発揮してくれる良い車でした。
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