蜀の後主・劉禅は、生後間もなくして、狂騒の中に取り残された。
か弱き母子を護るために修羅場に戻る趙子龍。
幼子は彼の忠勤に、笑顔で報いた。
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〔先主伝〕
先主は姓を劉、諱を備、字を玄徳といい、タク郡タク県の人で、漢の景帝の子、中山靖王劉勝の後裔である。(中略)
建安十二年(西暦207年)、(中略)曹公(曹操)が南下して劉表征伐にやってきたころ、ちょうど劉表は亡くなった。(中略)先主は樊に駐屯していて、曹公の不意の来攻を知らなかった。〔曹公が〕宛に到着してからはじめてこれを知り、かくて自分の軍勢をひきいて去った。(中略)当陽に着いたころには十余万の人々、数千台の荷物がつき従い、一日の行程は十里余りにしかならず、別に関羽に命じ数百艘の船に〔彼らの一部を〕分乗させ、江陵でおちあうことにした。(中略)先主がすでに襄陽を通過したと聞いた曹公は、精鋭の騎兵五千をひき連れ急いで追撃し、一昼夜に三百余里の行程を馳けて、当陽の長阪〔橋〕で追いついた。先主が妻子を棄て、諸葛亮・張飛・趙雲ら数十騎とともに逃走したため、曹公はつれていた民衆や輜重を多数捕獲した。
〔後主伝〕
後主は諱を禅、字を公嗣といい、先主の子である。
〔甘皇后伝〕
先主の甘皇后は、沛の人である。先主が豫州を支配し、小沛に居住したころ、家に入れて妾とした。先主がたびたび正室を失ったため、いつも奥向きのことをとりしきっていた。先主に従って荊州におもむき、後主を生んだ。曹公の軍勢が到着して、先主を追撃し当陽の長阪で追いついた。そのとき、先主は追いつめられて、后(甘夫人)と後主をおき去りにし、趙雲に護衛を頼んで、やっと難を免れた。后は亡くなり、南郡に埋葬された。
〔張飛伝〕
張飛は字を益徳といい、タク県の人である。若いときに関羽とともに先主に仕えた。関羽が数歳年長であったので、張飛は彼に兄事した。(中略)先主は曹公に背いて、袁紹・劉表のもとへ身を寄せた。劉表が死ぬと、曹公が荊州に入ってきたので、先主は逃げて江南へ向かった。曹公は、これを追撃すること一昼夜、当陽の長阪で追いついた。先主は曹公が突然押し寄せたと聞くと、妻子を棄てて逃走し、張飛に二十騎を指揮させて背後を防がせた。張飛は川をたてにして橋を切り落とし、目をいからせ矛を小脇にして「わが輩が張益徳である。やってこい。死を賭して戦おうぞ」と呼ばわった。誰も思いきって近づこうとはせず、そのため先主は助かった。
〔趙雲伝〕
趙雲は字を子龍といい、常山郡真定県の人である。(中略)先主が曹公によって当陽県の長阪まで追撃され、妻子を棄てて南方へ逃走したとき、趙雲は身に幼子を抱いた。すなわち後主である。甘夫人を保護した。すなわち後主の母である。〔おかげで〕どちらも危難を免れることができた。
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「ようやく追っ手から逃れたようです。奥方さま、非常のときとはいえ、ご無礼仕りました」
「何を言うのです、子龍どの。そなたはわらわの命の恩人ですのに。いえ、わらわごときはともかく、殿の御子をお助け参らせたのは、漢の滕公にならぶ功績でしょう」
「あーあーばー、あ~~!」
「ふふ。ほら、阿斗さまもそなたに礼を申されておりますよ」
「はっ………ッ」
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【浮野推薦図書】
・正史 三国志 1~8巻 / ちくま学芸文庫
陳寿 著
裴松之 注釈
今鷹真・井波律子・小南一郎 訳
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みんな大好き趙雲と、みんなあんまり好きになれない劉禅です。
趙雲は正史と演義のギャップがとてもある人物で、正史に伝わる事績はわずかです。
それでも、蜀という帝国においては、帝国誕生前のこととはいえ 赤子の世嗣を混沌の中から救い出したのは、やはり燦然と輝く功績であり、(五虎~はともかく)建国の元勲には入って当然ではないかと思います。
きっと常山で「夏侯嬰 かっこえー!」とか言って育ったのでしょう。
そう、漢の滕公・夏侯嬰にも、漢の高祖・劉邦が実の息子と娘を馬車から突き落とした(!)とき 馬車を停めて拾い上げ 追手から逃げ切った…という事績があります。
この共通点は筆者の陳寿も感じていて、〔黄忠伝〕〔趙雲伝〕の最後に「黄忠・趙雲がその勇猛さによって、ともに優れた武臣になったのは、灌嬰・夏侯嬰のともがらであろうか」と評しています。
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浮野推薦図書 | 日記
Posted at
2019/10/03 13:06:23