
蜀の将軍・張益徳の幼妻は、奇縁にも曹氏の親族・夏侯氏の娘であった。
――――――――――――――――――――――――――――――
〔夏侯淵伝〕
夏侯淵は字を妙才といい、夏侯惇の族弟(いとこ)であった。(中略)
〔注〕『魏略』にいう。夏侯覇(夏侯淵の次男)は字を仲権という。(中略)そのむかし、建安五年(西暦200年)、当時夏侯覇の従妹の十三、四の少女が、本籍地の郡に居住していたが、たきぎをとりに出かけて、張飛につかまった。張飛は彼女が良家の娘であると知ると、そのまま自分の妻とした。彼女は娘を生み、その娘が劉禅の皇后になった。そのため夏侯淵が戦死した当初、張飛の妻は彼を埋葬してほしいと願い出たのであった。
――――――――――――――――――――――――――――――
「ふぅ、この季節はなかなか薪が集まらないわね。こんな遠くまで来てしまったりして……はっ!?」
薪を拾う可憐な少女が、突然影の中に入った。見上げると、いつの間にか、馬に乗った大男が迫っているではないか。
「おい、そこな小娘。ここらは賊が多い。わしが保護してやろう」
大男は娘をひょいとつまむと、鞍に乗せた。
「え…、ちょっと離して! 私は…たきg」
馬はどんどん娘の郷を離れ、険しい道を抜け、とある山荘(どう見ても賊のねぐらである)へ入っていった。大男は、保護(?)した娘を、机に座らせた。
「わしは張飛。字を益徳という。おぬしの名は?」
「お黙りなさい山賊! 私は誇り高き夏侯家の娘、賊に名乗る名は持ち合わせておりません」
「夏侯家…! うぬぅ…まさか曹賊の遠戚の娘とは……」
「伯父上さまがこのことを知れば、あなたたちなど、あっという間に切り伏せられますからっ! ……あっ」
途端に、娘は青ざめ、机に突っ伏した。峻厳なる曹家の法を思い出したのである。
「うぅ、うぇぇ……(父さま、母さま、私はもう生きてお目にかかれないかもしれません…)」
威勢良いかと思えば一転して泣きじゃくる娘の姿を見て、張飛は困惑し、ただ頭を撫でてやった。
――――――――――――――――――――――――――――――
〔夏侯惇伝〕
夏侯惇は字を元譲といい、沛国ショウ県の人で、夏侯嬰の後裔である。(中略)張バクが謀叛して呂布を迎え入れた際、太祖(曹操)の家族はケン城にいた。夏侯惇は軽装備の軍勢をひきつれて、ケン城へ赴く途中、呂布とばったり出くわし、交戦するはめになった。呂布は撤退して、そのまま濮陽に入城し、夏侯惇軍の輜重を襲撃した。そのあと将を派遣して降伏すると見せかけ、力を合わせて夏侯惇を捕まえて人質にし、財宝を出せと脅迫したので、夏侯惇の軍中はふるえあがった。そのとき夏侯惇の将の韓浩が兵士を指揮して夏侯惇の軍営の門に駐屯し、軍吏や諸将と召集し、みな武装をとかせて部署につけ、動いてはならぬと命じたので、諸軍営はやっと落ち着きをとり戻した。かくして、夏侯惇のいる場所に赴き、人質(夏侯惇)をつかまえている者をどなりつけた、「おまえたち極悪者めが、大胆にも大将軍を捕らえ脅迫しておきながら、生きのびれるつもりなのか。だいいち、わしはご命令を受けて賊を討伐しているのだ。どうして一将軍のために、おまえたちを大目にみようぞ」そのあと涙ながらに夏侯惇に対して、「国法ですからどうしようもありません」と告げると、すぐさま兵士を呼び寄せ、夏侯惇を人質にしていた者たちに撃ちかからせた。夏侯惇を人質にしていた者たちは、恐れあわて頭を地面に叩きつけた。(中略)韓浩はこの者たちを叱責したうえ、ことごとく斬り捨てた。夏侯惇が助かったあとで、太祖はこの話を聞き知り、韓浩に向かって言った、「君のこのやり方は万世の法律としてよかろう」そこで法令に記し、今後、人質をとる者がいた場合には、すべて両方とも撃て、人質のことを顧慮してはならぬ、と命じた。このため人質をとって脅迫するものはあとを絶った。
――――――――――――――――――――――――――――――
* * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * *
【浮野推薦図書】
・正史 三国志 1~8巻 / ちくま学芸文庫
陳寿 著
裴松之 注釈
今鷹真・井波律子・小南一郎 訳
* * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * *
未だに全テキストのせいぜい2~3割しか目を通してませんが、読み込むほどに色んな人物のつながりがわかって面白いです。
この小話では、張飛の妻の夏侯夫人を取り上げました。
張飛が年端もいかない娘を誘拐婚した話は ネットのウィキペディアの存在もあって、ロリコン張飛として広まっていると思いますが、夏侯惇伝の人質譚とつなげたのは私だけだと思います。
190年代の曹操と呂布の抗争(秩序の崩壊、人口の崩壊、食糧難)の時代に中原に育ち、200年の多感な時期に攫われ、故郷の殿様(曹操)が秩序の再構築を果たしつつある時にその身は荊州にあって還ること叶わず。
少女は、この理不尽を…夫を、故郷を、どう思っていたのでしょうね。
曹&夏侯一門のうちでも夏侯惇と夏侯淵はもっとも猛々しく、数々の武勲をあげている武将です。そんな伯父たちを間近に見ていたなら、張飛と関羽を見て 中途半端な男より好ましいと…伯父たちとも相通ずる“壮士”であると感じていたかもしれません。それとも、まったく諦観していたかもしれません。
ともあれ、夏侯夫人は少なくとも娘二人を産みました。張飛の息子・張苞と張紹の母は明らかにされてませんが、男子も産んでいたとするなら、最大四人産んだことになります。
のちに益州入りを果たした劉備に対して曹操が兵を動かし、その戦陣には夏侯淵の姿がありました。漢中争奪戦のクライマックス・定軍山の戦い(219年)が始まります。
おそらく成都に居たであろう夏侯夫人は、娘二人の背中を寄せ、どんな思いで前線からの報せを待っていたのでしょうか。(それはまた今度)
Posted at 2019/10/02 10:34:20 |
浮野推薦図書 | 日記