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浮野のブログ一覧

2019年10月20日 イイね!

三国志断片 / 劉エンと胡氏

三国志断片 / 劉エンと胡氏
 蜀の高官・劉エンは、無言で草履を握り締め、力を込めてその手を妻に振り下ろした。

 自らの災厄となって跳ね返ることになるとは知らず、何度も、何度も。


――――――――――――――――――――――――――――――
〔劉エン伝〕
 劉エンは字を威碩といい、魯国の人である。先主が豫州にいたころ、召し出して従事としたが、同族の姓であることと、みやびごころがあり、談論を愛好したために、親愛され厚遇を受けた。(中略)後主が即位すると、(中略)車騎将軍に昇進した。しかしながら、国政には参与せず、ただ兵一千あまりを部下にもち、丞相諸葛亮に随行して批評や建議をするだけであった。車馬・衣服・飲食は奢侈をうたわれ(中略)〔た。〕(中略)建興十年(西暦232年)、前軍師の魏延と不仲になり、でまかせの言葉を吐いたので、諸葛亮が詰問した。劉エンは諸葛亮に文書を送って陳謝した(中略)結果、諸葛亮は劉エンを成都に帰還させ、官位はもとどおりにすえおいた。

――――――――――――――――――――――――――――――


 成都の宮殿の近く、豪勢な屋敷に、主・劉エンのわめき声が響きわたっていた。

 「ええい、この●女が! よくもひと月も陛下と ‰$↑#ж;㊥~(聞くに堪えない罵詈雑言)」

 「ああ貴方、申しわけございませぬ。太后陛下がずいぶんと…」

 「ええい、言い訳など聞きとうない! 馮よ、この雌狐を鞭うてい!」

 「そ、そんな御無体な…!」



 劉エンは吏卒を呼び、長らく家を空けていた妻・胡氏を鞭うたせた。

 「ヒィー、堪忍…堪忍して……ヒィッ!」

 鞭が振り下ろされるたびに胡氏の悲鳴があがった。



 劉エンはそれに飽き足らず、その手に草履を握り締め、妻の頬桁を殴りつけた。

   ブンッ!  ブンッ!  ブンッ!  ブンッ!  ……

 「ぶべらっ…ぶべ(おのれ! おのれ! おのれ…! おのれ……ッ!)」



 もはや自力で体を起こすこともできなくなった胡氏の殺意は、すでに広大な屋敷を覆いつくすほどに膨らんでいた。人ひとり殺すことなど容易いほどに―――。


――――――――――――――――――――――――――――――
〔劉エン伝〕(続き)
 劉エンは希望を失ってぼんやりとしていた。十二年(西暦234年)正月、劉エンの妻の胡氏が太后(先主の穆皇后)に年賀のため参内した。太后は命令して特別に胡氏を留めおいたので、ひと月たってやっと退出した。胡氏は美人であったので、劉エンは彼女が後主と私通したのではないかと疑い、吏卒を呼んで胡氏を鞭うたせ、とどのつまり草履で顔をなぐったあと離縁した。胡氏が事こまかに劉エンを告訴したため、劉エンはそのかどで投獄された。担当官吏は「吏卒は妻を鞭うつべき者ではないし、顔は草履をうける地ではない」と意見具申し、劉エンはついに市場で処刑された。これより以後、大官の妻や母が、朝賀に参内する風習は絶えたのである。

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【浮野推薦図書】
・正史 三国志 1~8巻 / ちくま学芸文庫
 陳寿 著
 裴松之 注釈
 今鷹真・井波律子・小南一郎 訳
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 なんだか蜀には劉備がつれてきた客分というか、実務のできない話相手専用の士大夫というか、そういうのが何人かいて、そのうち一番アカン人物です。
 劉エンのエンは「王」に「炎」と書くのですが、この手の字は いつも書き留めているWindowsの「メモ帳」に保存できない「Unicode形式」なので、カタカナ表記しているわけです。
 これまでの三国志断片5編は、実は10年前に書いて(描いて)いたものです。
 イラストはもう無いけれど、話のネタはまだいくつかあるし、これから読み込むほどに増えるでしょう。
 ちなみに、あわれな胡氏が「おのれ!」…と殺意を膨らますところは、「寄生獣」の草野さんの同志(女)へのオマージュです。
 草野ー、後ろー!!
Posted at 2019/10/20 02:33:59 | 浮野推薦図書 | 日記
2019年10月17日 イイね!

三国志断片 / 劉禅後日譚

三国志断片 / 劉禅後日譚
 かつて趙子龍が命を賭して救い出した皇子は、半世紀余りのち、蜀漢百万の民を戦禍から救った。


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〔先主伝〕
 先主は姓を劉、諱を備、字を玄徳といい、タク郡タク県の人で、漢の景帝の子、中山靖王劉勝の後裔である。

〔趙雲伝〕
 趙雲は字を子龍といい、常山郡真定県の人である。(中略)先主が曹公によって当陽県の長阪まで追撃され、妻子を棄てて南方へ逃走したとき、趙雲は身に幼子を抱いた。すなわち後主である。甘夫人を保護した。すなわち後主の母である。〔おかげで〕どちらも危難を免れることができた。

〔後主伝〕
 後主は諱を禅、字を公嗣といい、先主の子である。(中略)
 景耀六年(西暦263年)夏、魏は大いに軍勢をおこし、征西将軍鄧艾、鎮西将軍鍾会(中略)に命じて、数街道から同時に進行させた。(中略)冬、鄧艾は緜竹県において衛将軍の諸葛瞻を撃破した。〔後主は〕(中略)ショウ周の策をもちいて、鄧艾に降伏し(中略)〔た。〕
 この日、北地王劉諶が国の滅亡を傷んで、まず妻子を殺し、次いで自殺した。(中略)鄧艾が城郭の北までやってくると、後主は背中に柩を負って体を縛り、軍の砦の門のところまで出向いた。鄧艾は縄をとき柩を焼き棄て、招き入れて会見した。そこで専断権を発揮して、後主を驃騎将軍に任命した。諸陣営の守備兵たちは、後主の勅命を受けてからのち、降伏した。(中略)まだ出発しないでいるうち、翌年の春正月、鄧艾は逮捕された。鍾会がフから成都にやってきて反乱をおこした。鍾会が死んだのち、蜀中の軍兵は略奪を行い、死者が出て混乱し、数日してやっと平穏にもどった。
〔注〕王隠の『蜀記』にいう。(中略)劉禅は(中略)官民の戸籍簿を送らせた。〔これによると〕戸数二十八万、男女の人口九十四万、武装した将兵十万二千、官吏四万(中略)〔であった。〕

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 「どうじゃな、蜀が恋しいと思いませぬかな」

 「いやいや、ここは楽しい。蜀が恋しいとは思いませぬ」

 柩を背負って敵将のもとに叩頭したときは、これが民を救う道なのだという、己なりの確信があった。一旦は鄧艾に助命されたものの、鍾会の乱で再び死を覚悟した。宮殿の隅で頭を抱えながらも、蜀の民のため平穏を願った。蜀から関中を通るときは、後ろ髪を引かれる思いだった。
 函谷関を越えたとき、羽根が生えたように体が軽くなった。しがらみは消えた。そんな重荷は、西の山奥に置き棄ててきたのだ。
 何らの責務も緊張もない、夢のような日々。弛緩し切った日々。今やこの生活が現実であり、重苦しかった過去の現実が夢だったのでは、と錯覚する。
 先帝、諸葛丞相、建国の功臣たち……蜀のために命をささげた五桁を超える将兵たちと、それに数倍する遺族……彼らに想いを馳せることも、もう無い―――。

 「ははは、楽しいのう。泰平に乾杯!」


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〔後主伝〕(続き)
 後主は一家をあげて東方に移った。洛陽に到着したのち、〔魏帝は〕彼に任命書を与えた、「これ景元五年(西暦264年)三月丁亥(二十七日)、(中略)劉禅を安楽県公に任命する(中略)」領地は一万戸、絹一万匹、奴婢百人を賜り、(中略)泰始七年(西暦271年)、洛陽において逝去した。
〔注〕『晋漢春秋』にいう。司馬文王(司馬昭)は劉禅と宴会を催し、かれのために昔の蜀の音楽を演奏させたところ、そばにいた人々はみなこのためにいたましい思いにかられたが、劉禅は機嫌よく笑い平然としていた。司馬文王は(中略)「人間の無感動さもここまでくるとは。諸葛亮が生きていたとしても、この人を補佐していつまでも安泰にしておくことは不可能だったであろう(中略)」といった。(中略)他日、司馬文王は劉禅に、「少しは蜀を思い出されますかな」とたずねたところ、劉禅は、「この地は楽しく蜀を思い出すことはありません」といった。郤正がこれを聞いて、(中略)「もし王が今後おたずねになりましたならば、どうか涙を流しつつ『先祖の墳墓が隴・蜀にありますゆえ、西を向いては心悲しく、一日として思い出さないことはありません』とお答えになり、目を閉じられますように」といった。たまたま司馬文王がふたたび質問したので、教えられたとおり答えたところ、王は、「なんとまあ郤正の言葉とそっくりなことよ」といった。劉禅は驚いて目をみはり、「まことにおっしゃるとおりです」といったので、側にいた者はみな笑った。
 〔陳寿の〕評にいう。後主は賢明な宰相に政治をまかせているときは、道理に従う君主であったが、宦官に惑わされてからは暗愚な君主であった。伝に、「白糸はどうにでも変わるものであり、ただ染められるままになる」とあるのは、なるほどもっともである。

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【浮野推薦図書】
・正史 三国志 1~8巻 / ちくま学芸文庫
 陳寿 著
 裴松之 注釈
 今鷹真・井波律子・小南一郎 訳
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 みんなあんまり好きになれない劉禅の蜀滅亡その後です。
 横山光輝の漫画でも、劉諶一家の自害、姜維の怒り(剣で岩を切る)に続き、最終盤の印象的なシーンですね。(セリフもまんまパクリです)
 実際の劉禅は、降伏に際して、パフォーマンス(様式美)もあったにせよ死を覚悟して敵将のもとに出頭しました。
 自分が生きながらえるためでもありましょうが、「道理に従う君主」でもあった凡才なら「民を思い遣る気持ち」も多少は残っていただろう、と思います。
 それにしても蜀の戸籍は、人口94万人に対して将兵10万人・官吏4万人と多く、民衆の軍役負担・租税負担が大きい社会だったんじゃないかなぁ…と想像します。
Posted at 2019/10/17 02:02:27 | 浮野推薦図書 | 日記
2019年10月04日 イイね!

三国志断片 / 姜維 最後の計

三国志断片 / 姜維 最後の計
 諸葛亮が見出した大いなる才能は、漢朝復興を果たせず、季漢の最期を看取った。


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〔姜維伝〕
 姜維は字を伯約といい、天水郡冀県の人である。(中略)
 建興六年(西暦228年)、(中略)諸葛亮は西県を陥して千余軒の住民を連れ出し、姜維らを率いて帰還した。(中略)諸葛亮は(中略)ショウエンに手紙を送って、「姜伯約は与えられたその時の仕事を忠実に勤め、思慮精密であり、彼の持っている才能を考えると、永南(李邵)・季常(馬良)らの諸君も及ばないものがある。この男は涼州における最高の人物である」と述べた。(中略)
 景耀六年(西暦263年)、姜維は後主に上表して、「聞きますれば、〔魏の〕鍾会は関中で出動の準備をととのえ、進攻の計画を練っているとか。張翼・廖化の二人に諸軍を指揮させ、(中略)危険に対して未然に処置なさいますように」と述べた。黄皓(後主が重用した宦官)は鬼神や巫の言葉を信用し、敵は絶対にやってこないと考え、後主にその進言をとりあげないように言上したが、群臣は何も知らなかった。(中略)鍾会(中略)鄧艾が(中略)侵入しようというときになってはじめて、(中略)救援態勢をとらせることにした。(中略)そろって引き退き剣閣にたてこもって鍾会に対抗した。(中略)姜維は(中略)軍営をつらね要害を固めた。鍾会は抜くことができず、(中略)帰還の相談をしようと考えた。(中略)
 ところが鄧艾は陰平から景谷道を通って〔剣閣の〕脇から侵入し、かくて緜竹において諸葛瞻(諸葛亮の子)を撃破した。後主が鄧艾に降伏を願い出たため、鄧艾は進軍して成都(蜀の都)を占領した。姜維らが諸葛瞻の敗北を聞いた当初、(中略)いろいろの情報が流れた。そこで軍を引いて、(中略)その真偽を確認しようとした。ついで後主の勅令を受けたので、武器を投げ出しよろいをぬいで、鍾会のもとに出頭し、(中略)陣営の前まで赴いた。将兵はみな怒りのあまり、刀を抜いて石をたたき切った。(中略)
〔注〕干宝の『晋紀』にいう。鍾会が姜維に向かって、「どうして来るのが遅かったのだ」といった。姜維はきりっとした表情になり、涙を流して、「今日ここでお会いしたのは早すぎると思っています」と答えた。鍾会は彼をひじょうに立派だと思った。

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 鍾会は、朗らかに笑いつつ語りかけた。

 「伯約殿、わしはおぬしを友とも思うておるのに、どうしてここに来るのが今にまでなったのだ」

 姜維は、血走らせた目をあげ、声を震わせ言った。

 「拙者が今…ここに居るのは…わが君の詔あってのこと。貴殿とは…貴殿がむくろとなるか拙者がむくろとなってから会うべきであって、今日ここで会ったのは…早すぎたのだ―――」

 「ふむ…その義心、感心である。して伯約殿、益州の統治には当面この地の人材を手懐けておきたいのだが、それにはおぬしの助力が不可欠なのだ。協力してくれるな」

 「拙者はもはや降った身、どうして否やと言えましょう。……魏は今後いかなる処置をもって蜀を治めるおつもりか」

 「蜀主劉禅は、先に成都に入った鄧艾により驃騎将軍に任命されたとのことだが……」

 勝者の余裕に溢れていた鍾会は、にわかに表情を曇らせた。

 「……鄧艾には専行の気配があるゆえ、彼が軍を解かずに蜀主を擁するうちは、わしは国許へ還れまい―――」

 「……(もしやこの者―――漢はまだ滅びぬ…!)」

 姜維の眼に、計略の光が宿った。


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〔姜維伝〕(続き)
 鍾会は姜維らを手厚くもてなし、(中略)鄧艾を罪に陥れ、鄧艾が護送車で召還されたのち、そのまま姜維らを率いて成都に至り、(中略)反旗をひるがえした。姜維に兵士五万人を授け、先鋒をつとめさせるつもりだったが、魏の将兵は憤激して、鍾会と姜維を殺害した。姜維の妻子もみな処刑された。
〔注〕『晋漢春秋』にいう。鍾会はひそかに反逆の意図を抱いていた。姜維は会見して彼の本心を見抜き、騒乱状態を作り出すことによって蜀復興の道が開けると考えた。(中略)
〔注〕『華陽国志』にいう。鍾会をそそのかして、北方(魏)から来た諸将を誅殺させ、彼らが死んだあと、おもむろに鍾会を殺し、魏の兵士をことごとく生き埋めにし、蜀朝を復興させるつもりだった。後主に密書を送って次のように述べた、「願わくば陛下には数日の屈辱をお忍びくださらんことを。臣は危機に瀕した社稷をふたたび安んじ、光を失った日月をふたたび明るくするつもりです」

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【浮野推薦図書】
・正史 三国志 1~8巻 / ちくま学芸文庫
 陳寿 著
 裴松之 注釈
 今鷹真・井波律子・小南一郎 訳
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 実は、私の三国志の入りは横山光輝の漫画でした。
 あれを読んでいれば自然と蜀贔屓になるのですが、長年色々と見るうちに、呉も好きになり 魏も好きになり、結局 一周まわって蜀が愛おしくなるという。
 特に蜀書を読み込むと、陳寿の 劉備や諸葛亮、蜀に対する敬慕と哀惜がひしひしと伝わってきます。
 で、その横山光輝の三国志は、諸葛亮の死後がかなり駆け足で、呉を討っての統一ではなく蜀滅亡をもって終わっていました。
 なので、剣を石に叩きつけて降伏した姜維のその後、その最期は衝撃でした。
 蜀の最後の傑物であった姜維。降伏して武装解除された後でも なお諦めない執念に、凄みを感じます。
 ちなみに、『世語』によると 姜維の死後 腹を裂くと、その肝は一升枡ほどもあった、とのこと。趙雲もビックリですね。
Posted at 2019/10/04 22:36:55 | 浮野推薦図書 | 日記
2019年10月03日 イイね!

三国志断片 / 皇統の守護者

三国志断片 / 皇統の守護者
 蜀の後主・劉禅は、生後間もなくして、狂騒の中に取り残された。

 か弱き母子を護るために修羅場に戻る趙子龍。

 幼子は彼の忠勤に、笑顔で報いた。


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〔先主伝〕
 先主は姓を劉、諱を備、字を玄徳といい、タク郡タク県の人で、漢の景帝の子、中山靖王劉勝の後裔である。(中略)
 建安十二年(西暦207年)、(中略)曹公(曹操)が南下して劉表征伐にやってきたころ、ちょうど劉表は亡くなった。(中略)先主は樊に駐屯していて、曹公の不意の来攻を知らなかった。〔曹公が〕宛に到着してからはじめてこれを知り、かくて自分の軍勢をひきいて去った。(中略)当陽に着いたころには十余万の人々、数千台の荷物がつき従い、一日の行程は十里余りにしかならず、別に関羽に命じ数百艘の船に〔彼らの一部を〕分乗させ、江陵でおちあうことにした。(中略)先主がすでに襄陽を通過したと聞いた曹公は、精鋭の騎兵五千をひき連れ急いで追撃し、一昼夜に三百余里の行程を馳けて、当陽の長阪〔橋〕で追いついた。先主が妻子を棄て、諸葛亮・張飛・趙雲ら数十騎とともに逃走したため、曹公はつれていた民衆や輜重を多数捕獲した。

〔後主伝〕
 後主は諱を禅、字を公嗣といい、先主の子である。

〔甘皇后伝〕
 先主の甘皇后は、沛の人である。先主が豫州を支配し、小沛に居住したころ、家に入れて妾とした。先主がたびたび正室を失ったため、いつも奥向きのことをとりしきっていた。先主に従って荊州におもむき、後主を生んだ。曹公の軍勢が到着して、先主を追撃し当陽の長阪で追いついた。そのとき、先主は追いつめられて、后(甘夫人)と後主をおき去りにし、趙雲に護衛を頼んで、やっと難を免れた。后は亡くなり、南郡に埋葬された。

〔張飛伝〕
 張飛は字を益徳といい、タク県の人である。若いときに関羽とともに先主に仕えた。関羽が数歳年長であったので、張飛は彼に兄事した。(中略)先主は曹公に背いて、袁紹・劉表のもとへ身を寄せた。劉表が死ぬと、曹公が荊州に入ってきたので、先主は逃げて江南へ向かった。曹公は、これを追撃すること一昼夜、当陽の長阪で追いついた。先主は曹公が突然押し寄せたと聞くと、妻子を棄てて逃走し、張飛に二十騎を指揮させて背後を防がせた。張飛は川をたてにして橋を切り落とし、目をいからせ矛を小脇にして「わが輩が張益徳である。やってこい。死を賭して戦おうぞ」と呼ばわった。誰も思いきって近づこうとはせず、そのため先主は助かった。

〔趙雲伝〕
 趙雲は字を子龍といい、常山郡真定県の人である。(中略)先主が曹公によって当陽県の長阪まで追撃され、妻子を棄てて南方へ逃走したとき、趙雲は身に幼子を抱いた。すなわち後主である。甘夫人を保護した。すなわち後主の母である。〔おかげで〕どちらも危難を免れることができた。

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 「ようやく追っ手から逃れたようです。奥方さま、非常のときとはいえ、ご無礼仕りました」

 「何を言うのです、子龍どの。そなたはわらわの命の恩人ですのに。いえ、わらわごときはともかく、殿の御子をお助け参らせたのは、漢の滕公にならぶ功績でしょう」

 「あーあーばー、あ~~!」

 「ふふ。ほら、阿斗さまもそなたに礼を申されておりますよ」

 「はっ………ッ」


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【浮野推薦図書】
・正史 三国志 1~8巻 / ちくま学芸文庫
 陳寿 著
 裴松之 注釈
 今鷹真・井波律子・小南一郎 訳
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 みんな大好き趙雲と、みんなあんまり好きになれない劉禅です。
 趙雲は正史と演義のギャップがとてもある人物で、正史に伝わる事績はわずかです。
 それでも、蜀という帝国においては、帝国誕生前のこととはいえ 赤子の世嗣を混沌の中から救い出したのは、やはり燦然と輝く功績であり、(五虎~はともかく)建国の元勲には入って当然ではないかと思います。
 きっと常山で「夏侯嬰 かっこえー!」とか言って育ったのでしょう。
 そう、漢の滕公・夏侯嬰にも、漢の高祖・劉邦が実の息子と娘を馬車から突き落とした(!)とき 馬車を停めて拾い上げ 追手から逃げ切った…という事績があります。
 この共通点は筆者の陳寿も感じていて、〔黄忠伝〕〔趙雲伝〕の最後に「黄忠・趙雲がその勇猛さによって、ともに優れた武臣になったのは、灌嬰・夏侯嬰のともがらであろうか」と評しています。
Posted at 2019/10/03 13:06:23 | 浮野推薦図書 | 日記
2019年10月02日 イイね!

三国志断片 / 夏侯夫人

三国志断片 / 夏侯夫人
 蜀の将軍・張益徳の幼妻は、奇縁にも曹氏の親族・夏侯氏の娘であった。


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〔夏侯淵伝〕
 夏侯淵は字を妙才といい、夏侯惇の族弟(いとこ)であった。(中略)
〔注〕『魏略』にいう。夏侯覇(夏侯淵の次男)は字を仲権という。(中略)そのむかし、建安五年(西暦200年)、当時夏侯覇の従妹の十三、四の少女が、本籍地の郡に居住していたが、たきぎをとりに出かけて、張飛につかまった。張飛は彼女が良家の娘であると知ると、そのまま自分の妻とした。彼女は娘を生み、その娘が劉禅の皇后になった。そのため夏侯淵が戦死した当初、張飛の妻は彼を埋葬してほしいと願い出たのであった。

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 「ふぅ、この季節はなかなか薪が集まらないわね。こんな遠くまで来てしまったりして……はっ!?」

 薪を拾う可憐な少女が、突然影の中に入った。見上げると、いつの間にか、馬に乗った大男が迫っているではないか。

 「おい、そこな小娘。ここらは賊が多い。わしが保護してやろう」

 大男は娘をひょいとつまむと、鞍に乗せた。
 
 「え…、ちょっと離して! 私は…たきg」

 馬はどんどん娘の郷を離れ、険しい道を抜け、とある山荘(どう見ても賊のねぐらである)へ入っていった。大男は、保護(?)した娘を、机に座らせた。

 「わしは張飛。字を益徳という。おぬしの名は?」

 「お黙りなさい山賊! 私は誇り高き夏侯家の娘、賊に名乗る名は持ち合わせておりません」

 「夏侯家…! うぬぅ…まさか曹賊の遠戚の娘とは……」

 「伯父上さまがこのことを知れば、あなたたちなど、あっという間に切り伏せられますからっ! ……あっ」

 途端に、娘は青ざめ、机に突っ伏した。峻厳なる曹家の法を思い出したのである。

 「うぅ、うぇぇ……(父さま、母さま、私はもう生きてお目にかかれないかもしれません…)」

 威勢良いかと思えば一転して泣きじゃくる娘の姿を見て、張飛は困惑し、ただ頭を撫でてやった。


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〔夏侯惇伝〕
 夏侯惇は字を元譲といい、沛国ショウ県の人で、夏侯嬰の後裔である。(中略)張バクが謀叛して呂布を迎え入れた際、太祖(曹操)の家族はケン城にいた。夏侯惇は軽装備の軍勢をひきつれて、ケン城へ赴く途中、呂布とばったり出くわし、交戦するはめになった。呂布は撤退して、そのまま濮陽に入城し、夏侯惇軍の輜重を襲撃した。そのあと将を派遣して降伏すると見せかけ、力を合わせて夏侯惇を捕まえて人質にし、財宝を出せと脅迫したので、夏侯惇の軍中はふるえあがった。そのとき夏侯惇の将の韓浩が兵士を指揮して夏侯惇の軍営の門に駐屯し、軍吏や諸将と召集し、みな武装をとかせて部署につけ、動いてはならぬと命じたので、諸軍営はやっと落ち着きをとり戻した。かくして、夏侯惇のいる場所に赴き、人質(夏侯惇)をつかまえている者をどなりつけた、「おまえたち極悪者めが、大胆にも大将軍を捕らえ脅迫しておきながら、生きのびれるつもりなのか。だいいち、わしはご命令を受けて賊を討伐しているのだ。どうして一将軍のために、おまえたちを大目にみようぞ」そのあと涙ながらに夏侯惇に対して、「国法ですからどうしようもありません」と告げると、すぐさま兵士を呼び寄せ、夏侯惇を人質にしていた者たちに撃ちかからせた。夏侯惇を人質にしていた者たちは、恐れあわて頭を地面に叩きつけた。(中略)韓浩はこの者たちを叱責したうえ、ことごとく斬り捨てた。夏侯惇が助かったあとで、太祖はこの話を聞き知り、韓浩に向かって言った、「君のこのやり方は万世の法律としてよかろう」そこで法令に記し、今後、人質をとる者がいた場合には、すべて両方とも撃て、人質のことを顧慮してはならぬ、と命じた。このため人質をとって脅迫するものはあとを絶った。

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【浮野推薦図書】
・正史 三国志 1~8巻 / ちくま学芸文庫
 陳寿 著
 裴松之 注釈
 今鷹真・井波律子・小南一郎 訳
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 未だに全テキストのせいぜい2~3割しか目を通してませんが、読み込むほどに色んな人物のつながりがわかって面白いです。
 この小話では、張飛の妻の夏侯夫人を取り上げました。
 張飛が年端もいかない娘を誘拐婚した話は ネットのウィキペディアの存在もあって、ロリコン張飛として広まっていると思いますが、夏侯惇伝の人質譚とつなげたのは私だけだと思います。
 190年代の曹操と呂布の抗争(秩序の崩壊、人口の崩壊、食糧難)の時代に中原に育ち、200年の多感な時期に攫われ、故郷の殿様(曹操)が秩序の再構築を果たしつつある時にその身は荊州にあって還ること叶わず。
 少女は、この理不尽を…夫を、故郷を、どう思っていたのでしょうね。
 曹&夏侯一門のうちでも夏侯惇と夏侯淵はもっとも猛々しく、数々の武勲をあげている武将です。そんな伯父たちを間近に見ていたなら、張飛と関羽を見て 中途半端な男より好ましいと…伯父たちとも相通ずる“壮士”であると感じていたかもしれません。それとも、まったく諦観していたかもしれません。
 ともあれ、夏侯夫人は少なくとも娘二人を産みました。張飛の息子・張苞と張紹の母は明らかにされてませんが、男子も産んでいたとするなら、最大四人産んだことになります。
 のちに益州入りを果たした劉備に対して曹操が兵を動かし、その戦陣には夏侯淵の姿がありました。漢中争奪戦のクライマックス・定軍山の戦い(219年)が始まります。
 おそらく成都に居たであろう夏侯夫人は、娘二人の背中を寄せ、どんな思いで前線からの報せを待っていたのでしょうか。(それはまた今度)
Posted at 2019/10/02 10:34:20 | 浮野推薦図書 | 日記

プロフィール

「加賀の従姉妹が旦那の実家への帰省中に被災してビニールハウスや小学校で過ごしていたこと、クルマで4日の晩に無事帰ってこられたことが、母経由で伝わってきた。ホッとした。

播州もいつ山崎断層が動くかと言われているので、わが家庭も備えをもっと見直さないといけない。」
何シテル?   01/08 16:46
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ヤリスのニッチ侵掠 
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2019/10/26 14:14:07
G-Bowl 台をとりもどせ!! 
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マツダ デミオ メテオ (マツダ デミオ)
 内外装のデザインとトルクに惚れました。  狭くても視界が悪くても、R2より良いから 良 ...
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 とってもキュートです。  後席は座敷牢です。  かなり凹凸拾います。  燃費性能が素晴 ...

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