
とびしま海道を知ったのは今年の夏だった。
瀬戸内が好きでも実は何も知らなかった。
調べると、重伝建保存地区もあるではないか。
呉にも行ったことがなかったので丁度良い。
それが旅のきっかけです。
島で見る郵便屋さんは、とても頼もしく見えた。
翌朝は、ホテルを5時半に出発し、予讃線の伊予北条駅へ。
この駅は、私の愛媛県における思い出の原点でもあり、どうしても夜明けを待つ北条駅を撮りたかった。
黄昏もそこそこに今治方面へ向かう。
今治から西瀬戸自動車道(しまなみ海道)を通って大三島へ渡り、大三島から岡村島へは船で移動する。
その岡村島(愛媛)から呉市(広島)へ7つの島・7つの橋を結ぶルートを安芸灘とびしま海道と言います。
また、庭園をわたる飛石に例えて名付けられとのこと。
大三島の宗方港に到着。
あの船に乗って岡村島に渡ります。
宗方港から見た島の風景。
乗船完了。
僅か25分であるが、上のデッキへ。
かなり寒かったのですが、頑張ってカメラを向ける。
お気に入りが撮れました♪
そして、岡村島へ上陸。
風情満載も、このまま進むことはできずバックを余儀なくされる🚙💦
あの小さい橋を渡れば中ノ島。
その中ノ島の左側、僅かに写るもう一つの白い橋を渡れば平羅島(へらしま)。
2島とも無人島で、それぞれの大きさは東京ドーム4個分にも満たない。
2つの無人島を通って、大崎下島(おおさきしもじま)にある『歴史の見える丘公園』にやって来ました。
右は、岡村島
白い橋の左右は、通ってきた中ノ島と平羅島
真ん中の小島(本名w)は仲間外れにされているようでも、一番美しく見える。
反対側の景色は、遠くに愛媛県を望む。
公園から麓に降りると、御手洗という町がある。
1994年、全国で38番目に重伝建保存地区に選定されており、今回の旅の一番の楽しみでもあった。
島の人たちの暮らしを少しでも感じ取りたい。
ゆっくりと町の中へ足を踏み入れる。
ところが、町の人と出会うこともなければ、観光客も居ない。
と思った矢先、おばあさんと出会った。
おばあさん、これからもどうぞお元気で。
結局、おばあさんを見かけて以降、出会ったのは郵便屋さんだけだった。
どこにカメラを向けても絵になるではありませんか😀
ただ、シンボル的な建物は他にもあるのですが、自分が気に入ったものしか撮ってません😅
次は私の大好きな裏路地の世界へ(笑)
海端で小休止。
冬桜。ツボミがいっぱいあるからこれから咲き始めるのかな。
来た道とは違うルートを通って戻る。
階段を見上げればお寺の鐘が見えた。
後ろを振り返ればお風呂の煙突が時代をさかのぼる。
日が暮れる頃にもう一度歩いてみたいがそうもいかない。
知らない土地に行った時、日が暮れて夕飯の匂いがしてくる頃、「どこも一緒だな」とホッとするあの安心感は、どこか物悲しくもある。
戻ることのできない昔に戻る、それが裏路地の魅力の一つでもある。
旧柴屋住宅
日本地図を作った伊能忠敬が、島の測量をした時に宿舎にしたと記されていた。
あの橋を渡って豊島(とよしま)へ。
行きたい所があったけど、道が細すぎて断念🚙💦
次の島である上蒲刈島(かみかまがりじま)で遅い昼食。
お目当てのお店はナント休み😓
急遽探してやっとありついた苦労の海鮮丼😅
島を車で散策した後、あの蒲刈大橋を渡って最後の島である下蒲刈島(しもかまがりじま)へ。
橋を渡ってすぐの松濤園(しょうとうえん)
ココも休み🤣
最後は、大平山公園へ。
ここではトイレに行くも流れずに困る😓しかも大小兼用の一つだけしかない上に大である…
他に観光客が来なくて良かったw
小心者だけに、砲台跡に行くことも忘れ、後で気づく(笑)
そして突然の呉駅😆
陸橋を渡り駅前の通りへと向かう。
若いって良いね👍
私の服装はグレーのジップアップパーカーにマフラーと黒パンツ。
あの中に混じっても違和感は無さそうだ😆きっとw✨
晩御飯はホテルの人お薦めの広島焼きのお店に行った。
夜の呉駅前。
帰り道、今日の宿であるコンフォートホテルが見えた。
反対側を見下ろすと呉駅のホームが見える。
ホテルには帰らず、そのまま夜の呉港へ行ってみた。
夜の大和ミュージアム。
右奥にポワァ〜ンとした灯り。特に気にならなかった。
だが、翌朝、驚いた❗️
昨夜の灯りの正体は潜水艦だったからです( ゚д゚)あらま〜スゴい❗️
あの潜水艦は本物だそうです。
警備員さんの話によると、あの潜水艦は2千tクラスの小さい部類であり、アメリカや中国などの大国は、ミサイルを撃てる原子力潜水艦が主流で、大きさも1万トン以上と言うからさらに驚いた。
生涯忘れることがないであろう、ゆめタウン。
この写真はご縁の始まり。
理由は後ほど明らかに…
本日の大和ミュージアム、一番乗りは私でした\(^o^)/やったーw
なんせ1番目だから戦艦大和も一瞬独り占め!📷
早く撮らないと!😆💦

昭和20年4月7日、沖縄特攻作戦に向かう途上、米艦載機の攻撃を受け沈没、乗員3332名のうち3056名が大和と運命を共にしたとありました。
誰も居ないから撮りやすい。

でも、一番の興味は、人間魚雷「回天」だった。
だが、悲しすぎて撮りたくなくなった。
説明は以下の通り
平均年齢21歳の100名以上の尊い命が失われました。
全長9メートル、重量2.5トン、乗員1名
建造中のあの船は、スウェーデンの会社からの受注らしい。
全長400mとのこと。
ちなみにヤマトは263m
ということは、戦艦大和はあの船の3分の2ということになりますね。
そして、10時からの戦艦めぐりに乗船します。
もちろんコチラも一番です😆何故か?
それは、大和ミュージアムは出入り自由の共同作業が可能だからです。
ガイドさんに船へと案内される。
私の後ろには大勢のお客さんがゾロゾロと続いている。
陣取ったのは、屋上のデッキ。
そして船が動き始める。
海上で働く人たちを撮る!📷
先程のスウェーデンの会社から受注した船である。
その背後に写るのは呉の住宅地。呉は平地が少なく、海軍や造船所、工場が平地に利用されたので住宅は丘陵地に建てられたらしい。
陸からは見えなかったが、その船の背後にもう一隻、同じ船が建造中だった。

だんだん気持ち悪くなってゆく…
カイドさんが、
船の上に伸びる垂直に立つものは、セルガイドと言ってコンテナを嵌め込む装置です、なんとあの船に1万個以上ものコンテナを積むことができるんですよ!
と言う。
乗船して僅か5分。
私の元気もここまでだった…
セルガイド…最後の力を振り絞ってガイドさんの説明をスマホにメモするワタシ。
時代劇風に言うと、死ぬ間際、言いたいことを全部伝えて死ぬ、みたいな感覚だろうか(笑)
確かにヤバいなとは思っていたが、それは急激に悪化した。
理由は分かっている。
揺れる船の動きにバランスをとっていれば防げたものを、カメラ撮影がその動きに逆らったからである。
持病の首のヘルニアが再発したのだった。
それからまた5分経った頃にはもう既に座ってはいられないぐらいになっていた。
もたれ掛かるだけではもう済まない、人目も憚らず寝転びたい…
首のヘルニアは猛烈な吐き気も催す。
あと30分は船から降りることはできない。
耐えるしかない…
途中、一時ではあるが、ふっとマシになった。
ここは根性とばかりに撮った!笑
まさにアホとしか言いようがないのだが…

そして力尽きた…
それから20分くらい?、耐え抜いた。
その間、潜水艦がどうのこうの、これは必ず撮りまくってくださいだの、もうガイドさんの声は悪魔の声にしか聞こえない。
もうどうでもいい、この冷たい海に飛び込みたいぐらいしんどい…
腰も痛くなり、右足が麻痺してきた。
やっと下船のとき、体がいうことを聞かない。
支えられて階段を降りる。
船員さんが車椅子を手配してくれた。
多くの人の注目を浴び船からは車椅子で降りる。
自分のことは自分が一番分かっている。
病院に行っても仕方がない。
そのまま、この場所まで運んでもらって、椅子を並べて横になる。

知らない人から見たら、こんなとこで横になってアホちゃうか!である。
横になるのが一番の薬。
少しマシになって、横になったまま外を眺めると、ゆめタウンが見えた。
この景色を忘れないようにスマホで撮った。
2時間以上横になっていた。
この後の観光はもちろん中止であるが、明日は松山に用事があるのでまた船に乗らなければならない。
松山行きの船に乗船。
今日はもうカメラ禁止でスマホで撮った。
忘れない呉の港。またいつか。
松山観光港の手前まで寝ていた。
目を覚ますと、船は松山市(旧北条市)の沖合いを航行中だった。
真ん中のあの島は、鹿島という。
寅さんこと渥美清さんが第二の故郷と言った島である。
島の向こうには昨日の朝立ち寄った伊予北条駅もある。
私があの町を好きなのは渥美清さんとは何の関係もない。

そしてまた松山に泊まった。
翌朝、首の調子も回復。
用事の前に、朝の通勤風景を撮るw
コンビニに車を駐めてもう一枚。
そして、用事を済ませると、帰る前に秋山兄弟生誕地(坂の上の雲)に行く。(ここは予定していた)
とても詳しく説明していただきありがとうございました。
(掲載は許可をもらっています)
兄弟が向かい合うように建てられた銅像。
晩年、兄の好古は地元の中学校の校長を務めながらここで過ごした。
今日は明るいうちに帰らなといけない。
焦る中、ラストチャンスに賭ける。

やったー!o(^_-)O満足の一枚が撮れました。
これが一番のお気に入りです。
いろいろあったけど、
終わり良ければすべて良し。
ということか。
ということです^_^