今日、11月30日。
東海道新幹線開業当時に使用された「0系」の車両が定期の運用を外れることになり、その定期最終列車が運転されたのは、ニュースでもご覧になっておられると思います。
僕ら世代は「夢の超特急」として親しみのある、あの団子っ鼻の0系も、かつての16両編成から短縮され、今や6両などで山陽新幹線のエリアで細々と活躍していました。
長らくの運用、お疲れさまでしたと声をかけたいと思います。
で、書きたかったのは鉄道のネタでも非常に心の苦しい話です。
昨日の朝、茅ヶ崎市の東海道線の踏切で、某省の公務員が写真撮影中に貨物列車にはねられて死亡した・・・とのニュースに愕然としたのです。
ニュースによれば、「近く廃止になる寝台列車を撮影しに行った」「三脚が倒れて、それを立て直す際に列車に接触した」そして・・・「踏切内で撮影していた」だと・・・。
なんでこんなことをやるんだ!
たいへん申し上げにくいのですが、それで死んだって「当然」でしょ!としか僕には言えません。ましてや「某省」と書きましたが、鉄道などを監督する官庁の役人が、なぜ踏切内で撮影をする?
ご家族の方には大変申し訳ないのですが、この結末は残念ながら自覚の問題ですな。
どうしてここまできつく書くかには理由があります。
今を去ること30年ほど前のこと・・・。
当時兵庫県に住んでいた僕は、とあるイベント列車になるために徹夜して大阪駅の「みどりの窓口」に並び、その列車の指定券を手に入れました。
列車の名前は「京阪100年号」といい、京都~大阪の間に鉄道が開通して100年になるのを記念して、当時梅小路の蒸気機関車館に動態保存されていた、「C571」号機の牽引となるSL列車が京都と大阪を一往復する・・・というものです。
僕らはその「上り」(大阪発、京都行き)(列車は京都発が「行き」、大阪発が「帰り」です)の指定券を手に入れ、運転当日勇躍大阪駅に友人らと出向きました。
当時・・・1976年9月4日の僕は中学3年生でしたので、下り列車には授業の関係で乗れません。つまり、上り列車一本に絞っていたのです。
さて当日、大阪駅11番線を発車したC571けん引の列車は、東海道本線の外側線(列車線)を走っておりましたが、道中何度か速度を落とす場面がありました。
なにしろ蒸気機関車が走るのです。
沿線は鉄道ファンのみならず、黒山の人だかり・・・
あまりの人だかりに途中から興ざめしてきた僕らは、洗面所に水をため、水を放つという悪行をやったりして、いらだちを紛らわせておりました・・・。
そんなことが続いた千里丘~茨木の間で列車は急停車してしまいました。
なんと・・・
小学5年生の男の子が列車に接触、病院に搬送されるという事故が発生してしまったのです。(のちになくなりましたが)
僕らは「やっちゃったか・・・」と思ったものです。
ムリもありません。
あれだけ沿線に人が居て、なかには列車の正面に回り込んで写真を撮る人もいたりして、そのたびに列車は速度を落とし、警笛を鳴らしの繰り返しでしたから・・・。
結局列車は高槻駅で機関車交換、電気機関車に牽かれた「SL列車」に乗るはめになった僕らは、2時間以上遅れて京都駅に到着し、とぼとぼと折り返して兵庫に戻ったわけです。
それ以降、イベント列車のあり方についてはいろんな議論が噴出し、結局大都市圏で企画された「SL列車」の定期運行は見合わせになり、結局大都市圏から遠く離れた山口県でのSL列車定期運行の実現へと流れついたわけです。
僕らの事件の時も国鉄側の責任をと問うことはなく、むしろ勝手に敷地内に乱入した小学生(つまり鉄道ファン)が悪い!ということになったわけで、僕ら鉄道ファンは肩身の狭い思いをしたものです。本当に「臍を嚙む」思いでしたっけ・・・・・。
ここで言いたい。
趣味のためとはいえ、公共の鉄道のルールを破って踏切や鉄道敷地内に入り、写真を撮り、その作品がたとえ素晴らしかったにせよ、讃えられるものなのだろうか?
ましてや監督官庁にいるのであれば、危険な行為かどうかはわかるはず。
京阪100年号の事故以降もたびたび同様の事故事案は繰り返されているのです。
それを監督するべき官庁の職員がなぜ・・・・・。
一人の軽率な行動が、その場に居合わせた多数の人の楽しみを奪い去り、なおかつ後世にまで遺恨を残しかねないということをどうかわかってほしいですね。
ニッポンのモラルがここまで下がっている、嘆かわしい事件です。
関連情報URLに、僕の遭遇した「京阪100年号」事故へのリンクがあります。ご参考まで。
なんだか憂鬱でなりません・・・・・。
Posted at 2008/11/30 21:32:12 | |
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