栃木から同じ色のS660を持つみん友さんが遊びに来てくれました。
石岡で待ち合わせして茨城空港へ

百里基地の滑走路を覗くとF2戦闘機の離陸準備をしているように見えたので久々に九条の丘に登ります。
待つ時間を考えて折り畳み椅子ももって完璧
みん友さんは一眼レフで準備万端
二機が上がっていきました。
他にも行きたいところあるので百里基地からは離脱
そして30分走って大竹海岸へ 今年は砂を運んで海開きをするようです。
グリルあらのさんへ11:30に行ったら30分待ち
あきらめて洋食亭ときわさんへ
日替わり定食を頼みました。安定した美味しさ
他に寄るところないかな~と考えながら霞ヶ浦大橋を通り
栗どらで有名な志ち乃へ
そして予科練平和記念公園(パイロット養成機関)へ
今日もゼロは凛々しい
1929年当時、予科練に入隊できるのは14歳から17歳 競争率約70倍の狭き門そしてパイロットには半分しかなれなかった。試験問題も超難しい。私は解けない、、
太平洋戦争を色々と考えてみた
真珠湾の奇襲(開戦)が1941年12月8日でその頃は最新鋭の戦闘機だったゼロ戦、そして一式陸上攻撃機 ゼロ戦は終戦まで約10000機が製造。隼5700機 紫電改1000機や雷電600機もあったが太平洋ではゼロ戦が主体。
一方アメリカはF4Fワイルドキャット戦闘機7800機からスタートしてF6Fヘルキャット12000機 終戦にはP51ムスタング15600機まで製造され進化していった。 B29も4000機。
ワイルドキャット
ムスタング
第二次世界大戦航空機の生産量 アメリカ303,713機 日本76,320機
アメリカは、GNPで日本に比べて10倍から20倍、石油生産量で700倍という圧倒的な国力を持っていました。終戦時、アメリカは128隻の空母(護衛空母含む)を保有していたのに対し、日本はわずか6隻(うち5隻は使用不可)でした。
1945年 日本は毎日平均22機 アメリカは126機の生産数だ。 これでも日本は開戦当初1941年の5088機から1945年は8200機と大分増えたのだ。アメリカは20000機から46000機だ。
(ちなみにトヨタの2014年の生産台数は1023万台 毎日平均2794台製造。)
これでも新聞は戦時中間違いを報道し続けた。今の日本のメディアも間違い報道だらけだ。
特別展示で海軍予備学生が特集されていた。
予備学生とは学力の高い大学生や高専生を士官にする教育する為の制度だったと書いてある。
戦前の大学(19歳~)は学費も高価だった為に進学するのは全体の5%だったとか。
ペンを剣にかえてでフィニッシュ
しんみりした。
平和にありがとう。
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Posted at
2025/06/06 10:51:32