この<立ち食い蕎麦道 その〇〇>は、無知な蕎麦好きが、家庭でも美味しい立ち食い蕎麦を安価に作ることに孤軍奮闘している様子を2021年9月28日から自由気ままに書いた記録になります。ド素人なので蕎麦マニアの方から見ると間違いだらけかもしれませんが大目に見ていただけると幸いです。素人の方も玄人の方も気軽にコメント頂けるとうれしいです。
立ち食い蕎麦道 その13 まとめ編 1
<歴史>
日本人が蕎麦の実を食べるようになったのは9000年以上前の縄文時代で栽培していた記録が高知県に残っている。

蕎麦の実

蕎麦のむき身

雑炊(粥)
当時は殻を剥いて茹(粥)で食べていたとのこと。塩味のそば湯みたいなものだったのでしょう。その後、奈良時代以降は団子状に練って「そばがき」として食べていた。蕎麦はそもそも稲や小麦が不作だった場合の非常食で飢えをしのぐための代用に育てられた。
お米や小麦粉と違って70日で収穫できしかも荒地でも育てる事が出来て栽培が簡単で年に2回収穫する事も出来るところが蕎麦の良さだったと。しかし難点は殻が厚く加工に時間が掛かる事だったらしい。
江戸時代初期は、うどん屋さんが主流でうどん屋さんが蕎麦を出し始めて蕎麦が広まった。当時はうどん屋やそうめん屋さんがほとんどだった。屋台でもそばがきを出していた。それから二八になりそば切りが流行して拡がっていった。
だから江戸時代はうどん・そばという看板が主流でそば・うどんではない。価格は現代の金額で300円前後だった。
ある時期に逆転。二八そばが創作されて蕎麦が流行しうどん屋が減った。つまり蕎麦粉が小麦粉を凌駕する時代があったということだ。濃い口醤油とそば切りの組み合わせは最強なのだ。
今後、世界に向けてラーメン・パスタに対抗して栄養バランスの良さを宣伝して蕎麦を売る事が可能であるかもしれない。実際にロシアではグレーチカと言い日常食&非常食として古代から今でも普通に食べられている。日本の縄文時代と同じだ。ネパールのそばがきカレーやイタリアには蕎麦パスタがある。
日本に入ってくる蕎麦粉の40%は中国産で価格は日本産と比べ1/4という安さである。ただ農薬の使い過ぎという問題も抱えている。
下の写真は千葉県の「房総のむら」内の蕎麦屋いんば、江戸時代の店舗型の蕎麦屋が忠実に再現されており看板には「うどん そば切り」と書いている。実際にそこで食べられる。食べたいな~
話は戻り江戸時代になって、だんご状態の蕎麦を伸ばして細く切り「そば切り」と呼ばれるようになった。そば切りの発祥は山梨県甲州市でその後江戸に広まった説が強い。
蕎麦屋は当初、十割蕎麦だった。しかし調理が難しくボロボロ切れてしまうのでせいろに入れて蒸すようになった。つまり中華街のシュウマイや肉まんのようにしていた。せいろ蕎麦やもり蕎麦の名前の由来。
そして十割蕎麦を切れなく調理出来るように小麦粉をまぜた(1624年以降)のが二八蕎麦の始まりになった。つまりこの時点でこれ以上小麦粉を入れても風味が落ちるということが分かっていたとも取れる。その絶妙なバランスが二八だと考える。でなければ三七蕎麦や五五蕎麦という文献が残っていたはずである。現在で安価なものは大抵五五や六四や七三とかである。
また江戸初期では味付けはたれの味噌に付けて食べていた。その後、薄口しょうゆ&カツオ出汁にうどんを入れて爆発的に醤油味のうどんが広まった。それに対して蕎麦は濃い口醤油&カツオ出汁を使ったもりそば(せいろ蕎麦)が生まれた。
ちなみに濃口醤油(こいくち)を創作したのは千葉県銚子
ヒゲタ醤油の田中玄蕃(げんば)である。凄い創業400年!こうなると本場江戸前を食べるならヒゲタ醤油または同じ銚子産のヤマサ醤油を一度は使わなくては歴史を語れないかも、今後詳しい人に出会ったら知らないと笑われるかもしれない。いや自分はあくまでも立ち食い蕎麦道なのだ。
関が原の戦い1600年以降から蕎麦は急速に今の形に変化して行ったのだった。当時味噌だれだったがそれから100年かけて千葉の銚子で濃口醤油が作られるようになって1770年ごろから醤油味の蕎麦が流行りはじめたというのが通説である。
二八蕎麦が創作されたおかげで、ゆでて調理する事も出来るようになり爆発的に江戸で蕎麦が拡がった。江戸末期には蕎麦屋は3760軒にもなった。立ち食い蕎麦も3000軒あったと書いている文献もある。江戸時代は現在よりも人口が1/20で面積も1/10。3760軒とかなり正確な数が出ている。年貢(税金)の取り立ての為だろうか?
多くの蕎麦屋が人が多い場所に立ち食いも出張して出しているというのが実情だったであろう。立ち食い専門のみの店主も居たのだろうか?チェーン展開した人もいるのだろうか?その文献は今のところない。

太田記念美術館の模型、担いで運べるようになっている。とっても合理的、左に食器で右で調理するようになっていた。炭で温めていたのであろう。
この写真は明治初期に日本に来た外国のカメラマンが撮ったもの!良く見ると、どんぶりが小さいのでマックのハンバーガー1個とかそんな感じの量だったのと思う。お腹の具合で何杯とか注文していたのだろうと思う。
この担ぐタイプも初期はうどん屋だったとか、つまり立ち食いうどんが先に発祥。のちに蕎麦屋が増え風鈴をつけてお客を呼び寄せ「風鈴蕎麦売り」と言われたとか。確かに風鈴も写真に写っている。
関係ないけど昭和の時代はチャルメラという楽器を使いソラシーラソー♪ ソラシラソラー♪と「納豆屋」「豆腐屋」「ラーメン屋」があった。同じように音で知らせるパターンの「風鈴蕎麦」があったのだと思う。こっちが元祖だけど。竹や~竿竹や焼き芋もあった。チャルメラはけして即席ラーメンの名前ではなかった。自分も調べて知って笑った。

安土桃山時代に中国から伝わったチャルメラ
とにかく江戸時代は火事(明暦の大火など)が多かったので復興に来た大工や参勤交代など単身赴任で江戸に来ていた人がよく利用していたらしい。
ちなみに江戸時代後期の平均寿命は50才くらい。本来動物というのは親は子供が成人したら大体は死ぬのだ。医学の進歩で人は長く生きられるようになったと言える。
店舗のある蕎麦屋では蕎麦と日本酒の食べ合わせが良くないために、まず日本酒を飲み、かまぼこや天ぷらを食べて最後に蕎麦を食べるとか。蕎麦屋でお酒を飲むのが流行っていた。居酒屋の発祥は宿場や蕎麦屋だった。
<蕎麦の流派>
江戸にはご存じのように江戸蕎麦屋御三家がある。ご存じじゃなくても良いが。
信州発祥の「更科」 大阪発祥の「砂場」 江戸発祥の「藪蕎麦やぶそば」です。
更科

看板に信州更科と書いてある。永坂更科 写真は明治10年
砂場

大阪城の築城の資材置き場にあったとか、巨大なお店だったことがわかる。天ざるはここが発祥の説がある。
藪蕎麦

現存している。建て直しはしているが場所はほぼ同じだそう。大みそかは必ずTVに出るのは納得である。
特徴↓
更科は甘味重視、藪蕎麦は香り重視。砂場は中間だとか。つけつゆもそれによって違う。麺の味が強い程つけつゆの味も濃いとか書いてある。
蕎麦粉は蕎麦の実の中心に近い一番粉 その外の二番粉 その外の三番粉と製粉してどこを使っているかで色と甘みが違う。全てを使う挽きぐるみというものもある。白い一番粉に近い方が当然甘味が多い。
一番 二番 三番 知りたい方は
自分が10代の頃に住んでいた近所に砂場と言う蕎麦屋があり変わった名前つけるお店だな~といつも思っていた。今でも三大流派の系列店は沢山残っている。
忙しい人がそばに直接めんつゆをかけて食べ、冬は薄めた熱いめんつゆをかけてぶっかけやかけそばが誕生した。まあ そうなるよね。
また日本には三大蕎麦と呼ばれる蕎麦もある。
長野の戸隠蕎麦、島根県の出雲蕎麦、岩手県のわんこそばである。味はともかく三大蕎麦なんだ。
また駅そばの発祥は軽井沢駅で列車待ちの時間を蕎麦食べていたとの事。駅にある蕎麦屋さんはアメリカならばハンバーガーのような感じなのでしょう。
さて話は飛んでいきますが現在日本ではどこの蕎麦が一番美味しいのでしょうか?品評会があり蕎麦鑑定士で審査した結果です。
美味しい蕎麦産地大賞
このホームページには乾麺のランキングなどもあります。300種類の中から蕎麦鑑定士が選んだその蕎麦は?
1位 福井県/福井在来 2位 茨城県/常陸秋そば 3位 富山県/八尾在来
我が茨城県 常陸秋そばやるじゃん!常陸秋そばは茨城県が開発した蕎麦の銘柄nなんです。
ふと考える。クルマのコミュニティーでこんな蕎麦のことを調べながら書いているヤツは少ないと思う。自分はちょっとおかしいヤツなんだとも思う。でも蕎麦ってツーリングで結構お世話になるお店でもある。知っておいて損はない。
ぜ~ぜ~指が疲れた。いいかげんに疲れた。
今日はこの辺で辞めておこうと思う。
アフィリエイトでもないのに読者も少ないのにここまで調べる私はある意味おかしな人だと思う。
でも、これで読んでくれた皆さんもミニ蕎麦博士だ。
まとめ編は次に続きます。
蕎麦の説明などに間違いがあれば直しますのでメーセージいただくかコメントいただけると幸いです。<(_ _)>