2020年10月11日
【東京・池袋で2019年4月、乗用車が暴走して母子が死亡した事故で、自動車運転処罰法違反(過失致死傷)の罪に問われた旧通産省工業技術院の元院長、飯塚幸三被告(89)の初公判が8日、東京地裁であった。飯塚被告は起訴内容を否認し、無罪を主張した。】日本経済新聞より引用
加害者である飯塚被告は,生きており,一方,福岡市での加害者は事故死しているという違いはありますが,加害者が生きていて被害者が死亡しているとき,加害者が自分の罪を軽くするために努力(言い訳)できるのに,死んでしまった被害者は反論することができない。なんの罪もない被害者が,死んでいった苦しさと辛さと悔しさを伝えることができないことに比べて,生きている加害者が,「ブレーキを踏んでいた(はず)」「アクセルを踏んでいない(はず)」「車の故障による事故だ(たぶん)」と無罪を主張することは,被害者の感情を逆なでする行為だと思う。(加害者が亡くなられている場合は,自らの命で罪を償っていると考えられなくもない)
私は,2つの事故から,「次は私がそういう事故を起こすかもしれない…」と不安になりました。アウトランダーに全ての安全オプションをつけたのは,そういう不安を少しでも払拭したいがためでした。安全装備をつけていても,事故は起こるものです。でも,そういう事故を起こしたくないという不安や恐怖は,運転に対する過信を抑え,安全装備にお金をかけることに価値を見いだすことになり,社会全体で見たときに,安全運転技術を加速させ,交通事故死ゼロを目指すことになると思うのです。
三菱車を選ぶ前は,スバル車を購入するつもりでした。それは,スバルが唯一,自動車会社として交通事故死ゼロを掲げていたからです。実際,対歩行者用エアバックを標準装備しているのは,スバルだけです。他の会社は,歩行者の命を守ることにスバルほどは価値を見いだせず,会社のもうけを優先させているようにも見えます。そして,最終的にスバル車を選べなかった私も,歩行者の安全よりも安く車を買う方を優先させています。欲しい車のイメージに,『交通事故死ゼロ』を最優先で価値を見いだせるようなユーザーが増えていくためには,「次は私がそういう事故を起こすかもしれない…」という自分事として考えることが必要だと思うのです。無罪主張をする飯塚被告を非難することは当然ですが,彼を有罪判決させれば,『交通事故死ゼロ』が達成できるのかというと,それはまったく別問題です。この裁判には,高齢者ドライバーの過失をどう裁くのかという視点だけで見ていくと,亡くなられた方の命を軽んじてしまうように思えました。
そこで,この裁判を通して,
1)高齢になっても自分で運転し続けたいという個人の権利をどういう形で制限して,交通事故を抑制するのか。
2)『交通事故死ゼロ』を達成するための,安全運転技術への投資と相反しやすい企業の利益(購入者の価値観)をどのように折り合いをつけるのか。
3)事故の被害者遺族を社会全体で救済するための,経済的補償と精神的支援と事故を教訓とした『交通事故死ゼロ』の推進。
という視点を提案したいと思います。
亡くなられた方のご冥福をお祈りするとともに,「犠牲となった方は無駄死にでは無かった」と遺族の悲しみが少しでも癒やせるような裁判となることを願います。
Posted at 2020/10/11 10:45:36 | |
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