ベンツは実用の道具とはよく言われることだが、案外その中身は正しく理解されていないように思う。
例えばマガジンXなどはこれまでずっとEクラス批判の急先鋒であったわけだが、その批判の中身は一介のクルマオタク的な域を出ていなかったように思われる。いわく直進安定性に欠けるだとか、リヤサスが不自然な動きをするとかいうものだ。その批判は事実ではあるのだが、では長距離長時間の移動に何か支障があるのかというと、全く何もないのである。ダイムラーとしては、そういうクルマオタク的な評価軸などハナから眼中に無いように思える。
かく言う私自身はクルマオタクであるから、足回りだったらフランス車の方がよほど上等だと思うし、その方が圧倒的に好きである。しかしそういう尺度だけで計っているとベンツの良さは少しも分からないことに気付いた。クルマオタクを喜ばすのではなく、一般の人々を無事に送り届けようと、とにかくその意志が固いのである。
それはパッシブセーフティとかアクティブセーフティとかいうような陳腐な言葉で表現しきれるものではない。例えばきわめて安全な速度で、ただまっすぐ走っている時でさえ、クルマは常にあらゆる非常事態を警戒し、それに備えている。リヤサスが多少不自然な動きをするのはその結果だろう。もちろん鋭敏なテストドライバー達がそれに気付かないはずは無いが、彼らにはそれより他に優先したいことがあったということなのだと思う。
EクラスというとなんといってもW124(とそれ以前)の神話が横行しているが、果たしてどうだろうか。その堅牢なボディや、コストのかかったシートや独善的なインターフェースを捨てたからこそ、210や211ではベンツの本質がより分かりやすく剥き出しになっているように思うのだが。逆に言えばW124神話というものは、ベンツの精神の少々クルマオタク的評価軸に偏った解釈という気がしなくもない。あの当時重視されていた安全性能が、たまたまそのような評価軸にマッチしていただけという部分もあるのではないか。(例えば安全性を考えてボディを強固に作る→剛性感よくサスも良く仕事をする、等)
どこのメーカーにも、経営陣が声高に叫ぶ経営戦略とは別種の、DNAのようなものが存在する。トヨタが何をやってもダルめの操作系になり、プジョーが何をやっても妙にスポーティーな足にしかならないように、ベンツもまた誰に言われずともそうなってしまう何かがある。その何かは決してマニア受けするものではないし、金持ち的虚栄心を満たすものでもない。ただ顧客とその乗員を淡々と、しかし確実に送り届けるだけだ。
W212はW211と違って非常に洗練された動きをまとっているが、それでも評価が「難しい」とすれば、結局根っこにある物が「それ」だからではないかと思う。例えばW211では、その気になればそれなりに応えるベンツらしからぬハンドリングを与えられて登場したが、実際所有して乗っているとそんなものはオマケとしか思えなくなって来るのである。根っこにある「それ」とうまく融合していないからだ。212も同様、洗練された動きの奥底に「それ」があることが分かってしまうからこそ、私達は混乱させられるのだと思う。
Posted at 2009/11/12 11:30:54 | |
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