近藤正純ロバートさんのブログに、
「クルマの有り難さ」ということでコメントをした事がある。近藤さんが病気の家族の看病をしてみて、クルマの有り難さを痛感したという記事。
それに対して私は、ありがたいものだからこそありがたく使わせて頂きましょうねと。ありがたいからこそ、必要なときに必要なだけ使わせて頂くべきであり、それをゲタ代わりに乗り回すというのでは、それは単にエゴイスティックなだけの乗り物になってしまいますねとコメントさせて頂いた。(近藤さんをエゴといったわけではない。)
そしてありがたくという意味にはもう一つあると思う。それはクルマが、私達市民が手にできる最も殺傷能力の高い道具であるという点。その気になれば誰でも一瞬で数人、数十人の命を奪う事ができる。その危険性をおしてまで私達は利便性を取っているというその罪深さを、本来ならハンドルを握る度に認識すべきなのではないだろうか。
何かを食べる前に、失われた命と大地の恵みに関して合掌する人は少なくない。同じようにハンドルを握る前に、今日の無事を天に祈る人がどれほどいるのだろう。あまりにも運転が「日常化」してしまい、それに対するありがたさと畏れ多さを、私達は忘れてしまっていないだろうか。
メーカーは最低限の安全装備をオプションにすべきではない。そしてESPは今日、その最低限の装備に含まれるであろうことに議論の余地はない。
それとは別にすべてのドライバーは、クルマの装備如何に関わらず、自分と他人の命を守る義務を負っている。大事なのはESPが装備されていることではなく、今日一日を無事故で過ごしたという「結果」だ。もしESPが無ければ自分と他人の命が保証できないと感じるなら、そのクルマのハンドルを握る事は辞退すべきである。そういう緊張感がすべてのドライバーにあるだろうか。
ハンドルを握る前、数秒でもいいから黙祷して今日の安全を祈ろう。信じる神がいないのなら自分自身に誓おう。それはきっとESPなんかよりずっと効果がある。
Posted at 2010/01/10 11:11:05 | |
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