8月6日 原爆の日のお話
午前8時15分 ラジオを聴きながら社用車を運転中、心の中で手を合わせました。近所のサイレンが1分間けたたましく鳴り響きました。
広島市内に住んでいると被爆者の方から生の証言を聞くことが時々あります。
お客さんのSさん(80代後半女性)に聞いたお話です。

5歳のSさんは昭和20年当時は賀茂郡(現在の東広島市)に親子三代で住んでいた。同居する祖父は開業医、叔父も医者で当時は軍医だった。

※爆心地から6.5kmより撮影(中國新聞)
広島市に原爆が投下された直後の巨大なキノコ雲。Sさんは見た覚えはないそうだがSさんの姉(小学6年生)は草取り作業の最中に広島方面の空にキノコ雲を見たとのこと。姉は「はて?あの雲みたいなんは何じゃろーね」と不思議に話していた。
※田んぼの周りの雑草を生徒達が除去してお百姓さんのお手伝いをする作業を草取り作業と呼んでいた。
原爆投下の6日か翌日7日のどちらか定かではないが陸軍の兵隊がSさん宅へやって来た。

※Wikipediaより
サイドカーから降りた兵隊は召集令状を持っており
「一緒に来るように」と祖父を乗せて慌ただしく出発した。その際、診療室にあったガーゼや包帯、医薬品あらゆるモノを根こそぎ持って行った。
その様子を見ていたSさんの母は「なんぼ兵隊さんじゃ言うても乱暴なよ」と嘆いていた。
広島市内へ連れていかれた祖父との連絡は取れず祖父の様子は不明。広島へ米軍の新型爆弾が落とされたらしいという情報も流れていたので不安は募る。そこへ軍医の叔父から電話がかかってきた。
「そうか広島へ連れて行かれたんか。そりゃ大変なことよ、悪いことしたのう」と祖父の事をさかんに気づかっていた。
数日後、祖父は自宅へ帰ってきた。祖父の話を聞くと広島駅近くの東練兵場で負傷者の救護を行ったとのこと。

広島市内は大変な惨状だ。
兵隊は祖父を待遇良く扱ってくれ、食べ物には不自由せず3食ともお膳で出て来た。Sさんは「おじいちゃんだけ豪華なもん食べてええねぇ」と思ったのは言うまでもない。
Sさんの印象に強く残っている出来事のひとつ、祖父が仏壇の前で
「広島は酷いことになっとる。この戦争は負けじゃ、勝てるわけないんじゃ」と涙を流していた。普段は威厳のある祖父だったが仏壇の前で涙を流す姿を見てSさんも「ああ、日本は戦争に負けるんじゃね」と思った。
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広島市内で被爆した方の話ではなく、違った角度からの原爆のお話でした。

広島は「軍都」とも呼ばれ、一時大本営が置かれたこともあります。
大本営とは旧日本軍の最高統帥部のことで、明治27年に勃発した日清戦争の際に初めて設置されました。

大本営は当初東京に置かれましたが開戦後の9月に広島に移されます。この戦争では明治天皇自ら戦争指揮のために来広し、帝国議会も広島で開催されるなど、広島市は臨時の首都の機能を担いました。

立派に復興しましたよ。
Posted at 2025/08/08 20:39:05 | |
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