
重たい話です。スキップして頂いても構いませんm(_ _)m
帰宅中、携帯が鳴り見ると上の写真が携帯に届きました。
つい先日、熱海で土砂崩れが起き、今日現在も未だ行方不明者の捜索を続けているとのことを発生から今日までニュースで知りました。
亡くなられた方やご家族の思いや無念さを想うと胸が痛みます。
数年前も広島県で大規模な土砂崩れで大切な命が亡くなられたことに対して、本当にお気の毒だなぁと思ったことを憶えています。毎年土砂崩れで亡くなられています。
昨年の九州の大雨もありました。もっと遡れば東日本大震災や阪神淡路大震災など。たくさんの命が失われています。
911テロの時は生でテレビを観てました。
中国の三峡ダム然り、たくさんの人命が自然災害や人為的によって奪われています。
私自身、その時は心が痛みますが、時が過ぎれば鮮明だった記憶は風化されてしまいます。
私に出来ることはありません。それらはただ経過を見ることしかできません。
でも今回、私の住んでいるところで同じことが起きれば駆けつけるつもりです。
もちろん私に出来ることであればの話ですが、
命の尊さ、そこにはたくさんの経験や苦労があり幸せ、涙があります。
私は医療に従事していますが、そう言った命の尊さを忘れていた時期もあります。
以前救急病棟に勤めていた頃の話ですが、スタッフの少ない夜勤で、認知症の方や術後せん妄で、身体に入っている管を全て自己抜去されたり、点滴の確保が難しい人は特に時間がかかります。時間は待ってくれません。他の方の次の点滴の更新や、コール対応、緊急入院や緊急手術もありました。
朝食も待ってくれません。
もちろん仮眠も返上になります。
このような急く時に事故が起こります。確認ミスや、感染症を持った人の採血の針をスピッツに入れる際、誤って針刺しをした事もあります。(感染はしていませんでしたが)
お腹の手術をして「お腹が痛い」と言われ、「そりゃお腹を切ったから痛いやろぉ」と平然と思い、痛み止めの座薬を入れて凌いでいました。
そのような時に私は命の尊さを忘れてしまいます。
数年前から、そのような一次、二次救命から離れて仕事をしています。今は心のバランスが崩れたり、うまくバランスが保てない方を観ています。
心と身体は本当に繋がっていて、どちらも同じくらい大切だと気づきました。
改めて命の尊さ、「何のために生きているのか」など考えるようになりました。
その答えは人それぞれだと思いますが、結局のところ、正解は無いのかもしれないと思うようになりました。
ただ病によって
「死にたくないのに死が迫っている」
或いは
「死にたいのに死ねない」
という方々を観てきました。退院後、自ら命を絶った方々もいます。
どちらも同じくらい観てて辛いです。
ただ私は過去の命の尊さを忘れていた自分に対して顧みてる必要を大きく感じています。
決して綺麗事を並べるつもりはありませんが、私自身、改めて病を持つ人とその方を取り巻く家族の想いに対して想像を巡らせることができるようになってきたと思います。
もちろん生まれた時に最期は死が待っているわけですが、そこには大きな経験と苦労と楽しみと幸せ、哀しみがあり、尊重すべきだと思います。
決して対岸の火事ではなく、いつ自分や家族、また大切な人に何がおきてもおかしくありません。
いつ災害に見舞われるかわかりませんし、不慮の事故に遭うかもしれません。突然病にたおれるかも知れません。
幸せの定義は人それぞれですが、大きな源は人との関係性だと思いますし、その上での趣味が成り立つと思います。
私は以前、エンディングノートについて準備をしていると、ブログを書きましたが、今を精一杯、前向きに楽しく生きることができたらいいなと思います。そのための家族であり趣味だと思っています。自分が生きた証を建てたいと、よく耳にしますが、私はそう思いません。
どんな最期であっても振り返って、無念であっても、自分自身がこれまでの人生を「生きてよかった」と思える人生が一番だと思いました。
とても難しい人生の課題だと思いますが。。。
以上、
重たく暗い話ですみませんでしたm(_ _)m
Posted at 2021/07/07 21:17:00 | |
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