2025年08月07日
クルマにしても何にしても「個性」=「目立つこと」と誤解している人が本当に多いと思う。「個性=他と違うこと」と捉えられがちだが、となれば「地味」や「シンプル」や「控えめ」は「個性の否定」だと感じる人もいるだろうが、目立つ=評価される=自分の価値、という図式が心の中にあると、奇抜であることが自己肯定感の根拠になりがちになる。
特にSNSの影響で、「強く」「派手で」「主張がある」「いいねやRTが多い」というものが注目される傾向がある。そのためにシンプルで静かな美しさ(=深い内面や本質や思想の表れ)を「何もない」と誤解しやすい。しかしそれはあまりにも安易で浅はかすぎる考えだろう。
そしてシンプルで美しいものを「ただの地味」とせずに味わうには感性や深い観察力が必要なのだ。奇抜な表現は確かに即効性があるけれど内省的な美しさは時間を掛けてしっかりと向き合わないと見えてこないため、受け取る側の理解と成熟度が要求される。
結論として「余計なものを削ぎ落とすことで滲み出る本質と美しさ」に気づける人は、他者に見せるよりも“自分と向き合う力”を重視している場合が多いと思う一方で奇抜さで個性を示そうとする人は、外部の目ばかりを強く意識している場合が多く、まだ「内に宿る静かな個性」に気づけていない場合が殆どだろう。
目立つものは流行には乗りやすいが、飽きられやすくもある。一方でシンプルで本質的なものは、一見地味でも長い時間をかけて人の心に根づく。──浮世絵や禅庭、白シャツや黒いドレス、ル・コルビュジエの建築、ビル・エヴァンスのピアノ、無印良品……そのすべてがシンプルである事の意味を証明しているよね。
そして「目立つこと」と「優れていること」はまったく別次元の評価軸であり、優れたものは「目立つこと」すらも目的としておらず、ただ静かにそこに在りながら、「静かな個性」は「人の心を動かす」のだと思う。
Posted at 2025/08/07 22:43:53 | |
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2025年06月29日
ここのところクルマの世界に限らずですが「最新=最良」と言う空気を強く感じます。技術面では「最新=最良」と言う図式はもちろんそうなのですが「スペックばかりしか見るところが無いのか」と思うわけです。ただ誤解して欲しくないのは新しい技術やデザインにも感動させられることも多く、否定しているわけでは無いと言う事です。
むしろ僕自身、新しいものには常にワクワクしている。だけど新しいものは古いものがあってその積み重ねの上に成り立っているわけですから、新しいものだけを手放しに賞賛するのではなく古いものに対して「往時になぜ評価されたか」などの部分で一定の理解は必要なのではないかと思う訳です。
日本人の良くない所なのか◯年前までは見向きもされなかったクルマやそんなに今程評価されていなかったクルマ、あるいは真剣に好きな人だけ好きになるコアなクルマに対し、誰か発言力がある人が良いと言うと自分自身の評価軸を覆して手放しに褒める行為が非常にナンセンスに思うのです。なぜなら良いクルマは最初から良いクルマという事です。
最近のポルシェブームなんか特にその例を当て嵌めるには典型例ではないでしょうか。ポルシェはコアなクルマ故に肌に合う人合わない人は顕著なクルマだと思います。僕は911全般好きで996世代の911はすごく好きなのですが、何年か前までは「996なんか911じゃないよ」って言ってた人が「今乗ると良いクルマだよね」みたいに掌をクルッと返すパターンを幾度か目の当たりにしていたのでクルマの良さの本質を理解しようとしている人も少ないのでは、とも思ったりするのです。
NAロードスターも正にそうでしたね、2015年にNDロードスターが発表され25周年アニバーサリームードになった時、今までは好きな人だけが買うエンスー色の強いクルマとしての扱いor安く買えるだけの練習車みたいな扱いだったのが25周年に乗っかって突然中古相場がハネる。理解出来なかったです。良いクルマは最初から良いクルマなんだからそれを周りの同調圧力とかで良いって言うのは違うぞ、と言いたいのです。自分自身の価値観をしっかりと持つべきでは。
そして新しいクルマを手放しで絶賛する一方で、そこに至るまでの歴史や、過去の名車たちの存在をあまりにも軽んじているように感じる瞬間も最近しばしば感じます。まるで今のクルマ達が最初からあったかのように。でも、そうじゃない。
最新のクルマは、過去の挑戦、失敗、工夫、時代の空気――そういった積み重ねの上にようやく成り立っているものです。最新車の設計の裏には、先人たちの試行錯誤がある。例えば今でこそ当たり前のようにある空力設計だって、昔は手探りの中で磨かれてきた技術ですし、ダウンサイジングターボやハイブリッド技術も、一夜にして生まれたものではありません。
例えば昔のスポーツカーは、今の基準で見れば性能的には「古い」かもしれない。でも、その時代にあった走りの哲学や人とクルマの距離感は、今のクルマでは味わえない“本質的な楽しさ”を走りで伝えてくれるのです。そもそもクルマは進歩しても人間が進歩する訳ではないのですから、闇雲に馬力だの最高速だのスペックばかりに注目してその部分ばかりクローズアップして褒めるのは違うと思うのです。あくまでも人間が乗るクルマというのを忘れてはいけないのではないでしょうか。それから古いものが合っている人は古いもの、新しいものが合っている人は新しいものってスタンスで結構だと思うのです。
僕は「新しいものが好き」であることと、「古いものを尊敬する」ことは両立できると思っています。というより、その両立こそが本当にクルマを楽しむために必要な姿勢なんじゃないかと。新しい技術を追いかけるのはエンジニアリングとして素晴らしい事。でも、どんな最先端も、かつて誰かが道を切り開いてくれたから、誰かが作った轍の上にこそ存在するということは忘れてはいけない。
Posted at 2025/07/08 20:20:02 | |
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2025年06月24日
クルマで遊んでいると、たまにいるんです。
「え?ライトチューン?それだけ?」みたいなことを言ってくるちょっとズレた人。吸排気変えただけ?車高調入れただけ?エンジン本体はやってないの?エアロ変えてない?――それらをやってなきゃ“イジってる”うちに入らないとでも言いたげな人たち。
でもね、そういう人に限って、自分のクルマは“ノーマル”だったりする。僕はノーマル車も好きだからなにもノーマルが悪いって言ってるんじゃない。そうではなくて別に「ノーマルが好きでこだわってる」とかじゃなくて「イジるお金がない」とかそういうただ何もしてないだけ。もっと言えば、オイル効果やらメンテナンスなど必要な整備すらちゃんとされてなくて「これでよく走ってるな…」とこっちが心配になるような感じ。なのに他人のライトチューンには「ノーマルに毛の生えたもの」みたいなニュアンスで嘲笑する矛盾。
もちろん、ノーマルってのは基本中の基本だし万人が乗ってもそつなくパフォーマンスを発揮する形であり、メーカーが膨大なリソースと時間をかけて作り上げた完成形。そのままで素晴らしいってのは間違いないし、僕もノーマルの乗り味は大好きだしね、ノーマルをリスペクトできないとチューニングの意味や良さなんて本当はわからないと思うんだ。
でも、そのノーマルの素晴らしさをちゃんと味わったうえで「ここだけ、もうちょっとこうだったらいいな」って思えるのが“ライトチューン”の出発点なんだと思う。言わば自分にとってのスーパーノーマルみたいな感じ。
例えばタイヤの銘柄を変えてみたり、アライメントを変えてみたり、パッドのフィーリングを好みに合わせてみたり。目立たないけど、自分の感覚に合った「ちょうどいい」を探す作業。そういう地味で細かいところにこそ、“クルマを楽しむ”ってことの本質が詰まってるんじゃないかな。
ライトチューンって、ただの予算の都合とかじゃなくて、「分かってる人」が「分かる人が分かれば良い」、素材感を活かすようや和食みたいな感覚で作るもの。派手じゃないし、SNS映えもしないけど、乗ってる本人は気持ちいい。そしてなにより「やりすぎてない」っていうところに大人の余裕みたいなものを感じる。程々、って事が大切なんじゃないかな。あとやり過ぎちゃうと飽きるのも早いしね、食事と同じで味の濃い食べ物はすぐ飽きちゃう。
「ライトチューン」を笑うのは簡単だけど、どうして「ライトチューン」なのかその意味が理解出来ないとクルマいじりってものの本質は一生理解出来ないよね。
Posted at 2025/06/24 22:43:10 | |
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2025年06月16日
WEC(世界耐久選手権)やル・マン24時間レースにおいて導入されている「BoP(バランス・オブ・パフォーマンス)」という仕組みに、正直言って強い違和感を感じる。
一体どこまでが“競技”で、どこからが“政治”なのか?その境界が曖昧になっているように感じるわけです。
BoPの目的は明快です。「異なるコンセプトのマシンが混在する中で、性能差を調整し、公平なレースを実現すること」。この考え方自体には理解できますし、ある程度必要であることも否定しません。
しかし公平さの名の下に、明確に実力を示してきたチームを抑え込むようなBoP調整が行われているように見える現状には、大きな疑問を抱かざるを得ません。
たとえばトヨタ。彼らは一過性の成功ではなく、長年の技術開発と実戦経験を積み重ねたうえで現在のポジションを築いてきました。特にハイブリッド技術と信頼性の面での完成度は、他チームの追随を許さないレベルにまで達しています。
トヨタは2018〜2020年のル・マン三連覇、WECシリーズでは五連覇しましたが、その強さが、ある時期「トヨタ一強」と呼ばれるようになり、ヨーロッパ勢から「レースがつまらない」「均衡が取れていない」といった声が上がり、結果としてBoPが導入されるに至った経緯があります。
その流れに納得がいくとして、次の疑問が浮かびます。"ではフェラーリが勝ち続けたらBoPは撤廃するのか?"
今年も結局、優勝はAFコルセとは言えフェラーリであり優勝は優勝。3年連続でフェラーリが勝ち続けている状況。ル・マンを含め、パフォーマンス面で明らかに優位に立っており、しかも参戦初年度からいきなり勝利を挙げています。もし本当に「一強状態を是正する」のがBoPの目的であるならば、今こそフェラーリに対して明確な制限が加えられるべきではないでしょうか?
もしくは、フェラーリ一強になった時点でBoPそのものを撤廃するべきではないでしょうか?
少なくとも、過去にトヨタに対してBoPを導入した理由と整合性を取るためには、それが筋の通った運用です。
モータースポーツは、本来であれば「最も速くて、最も信頼性があり、最もチーム力のある者が勝つ」という、極めてシンプルで厳しい世界であるべき。
もちろん、新規参戦チームがチャンスを持てる環境も大切です。でもそれは「既存の強者を無理に抑え込むこと」ではなく、「挑戦する者が努力によって追いつける構造」であるべきです。
BoPという仕組みはあっても良いとは思う。けどそれはあくまでスタートラインをなるべく公平に揃えるための手段でありゴールラインをいじって勝負を演出する手段ではないはずです。
「トヨタが強いから制限する」という発想は裏を返せば「他が勝てないから助ける」ということにもなりかねません。それでは、勝つために積み重ねてきた努力が報われません。それはモータースポーツではないのでは?
そして今、フェラーリが強い状況に対して同様の調整がなされないままでいるのであれば、BoPという制度そのものが公正であるとは言い難いのではないでしょうか。
僕はどのチームが勝っても構わないと思っています。ただし、それは実力で勝ち取った勝利であることが前提です。政治的な配慮や演出の都合で勝者が作られるような構造ではモータースポーツの根本が揺らいでしまう。
個人的にはBoPを無くして純粋な速さとタフさやチーム力での戦いが観たいところではありますが、ル・マンが「耐久レースの最高峰」と呼ばれるにふさわしい舞台であり続けるためにもBoPの在り方は今一度、原点に立ち返って見直されるべきだと強く思います。
Posted at 2025/06/16 00:23:19 | |
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2025年02月24日
はい、表題の件についてのいち個人的なボヤきです。
ぼくはここまでの人生で今のところ5台のクルマを乗り継ぎ、今のNDロードスターに行き着いています。で、今所有しているNDロードスターは初めて新車を購入したのですが、それ以外のクルマはどれも余裕でODOが10万キロ以上、なんならうち3台は30万キロ以上ないしは近くまで乗りました。
で、なんで今のNDロードスターに乗り換えたか、って?それは新車ってものを人生で一度は味わってみたかったからなんですね(爆)でもね、結果から言うと別に新車だろうが、中古だろうがさほど変わらない、という事に気がつきました。
「さほど変わらない」と表現すると語弊があるかもしれませんが、大切な点を1つだけ言うと「キチンとメンテナンスされてきたか」。これがかなりのウエイトを占めると言っても過言じゃありません。
表題の件に話を戻すと、なぜか日本の中古車市場では(海外の事情は知らないのでね)、「走行距離が少ないクルマ=状態が良い=高価」という縮図が一般的となっていますよね。これが大間違いだと言いたい訳です。
では例え話ですが、「10年で1万キロしか乗られていないクルマ」と「10年で10万キロ乗られているクルマ」のどちらが状態が良いと思います?世間一般では前者と答える人が99%だと思います。よく考えてみてください、「10年で1万キロしか乗られていないクルマ」はどんな理由で1万キロしか乗られていなかったのでしょう?
故障が多くて不動期間が長いから?大事にしすぎて乗れなかったから?でもクルマってそもそも動かす事を前提に設計されているわけですよね、ですから動く事によってエンジンにオイルが回って潤滑したり、冷却水が行き渡ったり、足回りのブッシュとかは動く事によって元の形から変形したりするのを防いでいる、という事なんですよ。つまりクルマは「動かす事によって形を保っている」という事なんです。加えて走行距離に応じてのメンテナンスです。ここまで言えば賢い人は言わなくても分かりますよね。
あぁ、それから最近某SNSで見たとある中古車屋さんのつぶやき。「最近買い取ったクルマ、この走行距離なのにめちゃ元気。クルマを選ぶ際は走行距離の多さよりもその個体なりの状態を把握出来ることがポイント。『過走行ワンオーナーに
悪い個体は少ない』」。とありました。中古車のプロがこう言ってるんです。
つまり要約すると10年10万キロを走るには10年10万キロを走れるだけのオイル交換やら消耗品の交換やらが必ず必要でそれだけの距離を走れるのはそれに見合うメンテナンスをしているから、という事がファイナルアンサーでしょう。
その一方で10年1万キロしか走っていないクルマはどうでしょうか。「交換が必要な距離に達していないから消耗品の交換は必要ない」と考える方がほとんどでしょう。でもエンジンを掛けたり走らせたりしなければ、当然エンジンオイルがオイルパンに落ちるからドライスタートにもなる、サイドブレーキはかけっぱなしだからワイヤーやキャリパーピストンも固着する。どうでしょうか?
なんなら世間一般のイメージでは故障が多いとされるイタリア車(勝手なイメージでごめんなさい)でも過走行の個体ならぼくは信じます。間違いなく当たりの個体です。その根拠はその距離を走れるだけのメンテナンスがされてきたからその距離を走れているから、という事なんですね。
事実、ぼくが乗り継いできたNAロードスター2台は特に30万キロを超えてました。毎日通勤にも乗ってたし、サーキット行ったり、峠行ったり、首都高を走ったり、走りを目一杯堪能してオイルなどの消耗品はきっちりとサイクルを決めて交換していました。そのおかげか手放すまで調子はバッチリ、もちろん年相応のマイナートラブルはありましたが、古いクルマとはそういうものなので故障のうちに入りませんね。ちなみに手放した2台はどちらも次のオーナーに渡っても調子良く走っているそうです。
つまり、その結果から鑑みて走行距離=状態が良いは成立しないんです、そんな事よりもキチンとメンテナンスされて乗られて大切にされて来たか、という事が非常に大事なのではないでしょうか。
Posted at 2025/02/24 12:15:03 | |
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