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Marie's Gardenのブログ一覧

2013年02月23日 イイね!

佐伯海軍航空隊

 
  先週訪れた大分県佐伯市の

  戦争遺跡を訪れてみました。



  
  やって来たのは『佐伯市平和祈念館やわらぎ』。
  
  場所は佐伯市鶴谷町、
  海上自衛隊佐伯基地分遣隊のおとなりです。














  豊後水道は、呉軍港に出入港する艦艇が必ず通過する海域。
  この海域を防御するため昭和六年二月、
  海軍省が九州東海岸に航空隊を設置することを決定し、
  昭和九年二月十五日に佐伯海軍航空隊が正式に開隊し
  佐伯市は軍都として発展しました。



 

  翌年には飛行場が完成し、隊員たちは日々厳しい訓練を重ね
  日中戦争では第12航空隊が編成され、佐伯空から派遣された部隊が
  南京・重慶などの都市爆撃を行ないました。




  世界の歴史を塗り替えた太平洋戦争の開戦に際しては
  布哇真珠湾攻撃の連合艦隊機動部隊発進の地として

  佐伯湾がその起点となりました。
  
  佐伯市平和祈念館やわらぎは、平成9年に
  佐伯海軍航空隊兵舎の跡地に開館しました。







  

  


  


  祈念館裏の広場には。。。
  
  いくつもの記念碑があります。












  



  聯合艦隊機動部隊 眞珠湾攻撃發進之地
  
  碑銘の揮毫は山本五十六元帥の長男で
  海軍予備学生出身の元海軍士官、山本義正氏。
 










  



  昭和十六年十一月十七日、真珠湾攻撃の
  機動部隊が佐伯湾とその近辺に集結。
  連合艦隊旗艦『長門』が回航され、
  山本五十六連合艦隊司令長官の訓示を受けました。
  
  翌十八日、山本長官に見送られて、
  南雲忠一中将の率いる機動部隊が
  布哇真珠湾攻撃の秘策を胸に、
  択捉島単冠湾に向けて発進したのがここ佐伯湾です。













  昭和十六年十二月二十三日、真珠湾攻撃の成功にともない
  連合艦隊機動部隊が戻ってきたのも、また佐伯湾でした。
  
  その後、太平洋戦争中は豊後水道での哨戒活動を行い
  戦艦大和最後の出撃でも護衛と哨戒の任につきました。

















  友好の碑
  
  真珠湾攻撃に応戦した退役軍人たちと
  佐伯市民との今後の友好を祈って
  元兵士などでつくる市民団体「歴進会」などの働きかけで、
  佐伯とホノルルが友情都市協定を2003年12月9日に締結。



















  練習艦『あきぐも』の主錨
  
  名称:ストレックスアンカー 
  重量:二.三一二トン















  平和の塔
  
  この平和の塔は、『祈り』をテーマに
  合掌する手の形をモチーフとしたものです。
  この塔には先の大戦で亡くなられた、
  一五三五柱の戦没者名簿が納められています。













  後ろの山土手には防空壕跡がありました。
  


















  入口付近にはかなりのゴミが散乱。
  

















    
  観光案内所の方から聞いたのですが
  数年前からホームレスが住み着くようになり
  入口には柵が張られたとのことでした。

























  平和祈念館の屋外展示場には、佐伯湾から引き揚げられた
  米艦載機のエンジンなどの残骸が展示されています。
  
  米艦載機F4U-1Dコルセアのエンジンとプロペラ。


























  一九四五年三月十八日、佐伯市は米軍の初空襲を受けました。
  空母イントレピットから飛来したF4U-1Dの30機ほどの艦載機の編隊が
  佐伯飛行場を攻撃中に対空砲火を受け
  一番機のLoren F.ISLEY海軍少尉が撃墜され墜落死。
  
   



















  やはり2,000馬力級エンジンとあって
  エンジンもプロペラもかなりの大きさです。
  









  

  





  空母イントレピット艦載機F4U-1D(機体番号82305)。
  
 














  今回は時間の都合で祈念館の観覧は出来ませんでした。
  
  次回訪れた時にはゆっくりと見学したいですね。









  その他、埠頭の先の民間会社敷地内に
  掩体壕が保存されています。
  
  ※今回、敷地内に入れなかったので参考画像です。












  ※参考に掩体壕動画↓↓↓
  
  






 

  佐伯市に築かれた重要軍事施設、
  そして佐伯海軍航空隊。
 
  ここで命を落とした多くの市民、
  そして戦争のあった時代を必死に生きた佐伯市民。
  多くの事がこの平和祈念館やわらぎで学べます。







  ここで何を感じ、何を考えるか?それは皆さん次第です。
  どうぞ一度足を伸ばし、その目で真実を確かめてください。























 ※本日の筋トレ
   ◆腕立て  280回
   ◆腹筋    50回
   ◆縄跳び  240回


Posted at 2013/02/23 23:37:38 | トラックバック(0) | 戦争遺跡巡り | 日記
2013年02月12日 イイね!

戦跡巡り◇鴻巣山


  福岡市南区にある鴻巣山(こうのすやま)の、

  戦争遺跡巡りに行って来ました。





  鴻巣山は中央区と南区の境界部に位置し

  標高100mほどの小高い丘陵地です。
  
  鴻巣山には遊歩道や展望台があり、
  
  1975年に緑地保全地区に指定され

  市民の憩いの場となっています。














  それでは戦争遺跡巡りスタート。


  隣接している平尾霊園の一番奥のところに。。。
  
  
















  
  
  遊歩道の入口があります。
  
  太平洋戦争末期、この鴻巣山には

  西部軍司令壕があったところです。

  西部軍司令本部が空襲で危険な状態になったために

  将校たちが避難していた壕なんだそうです。




  現在も当時の司令壕は残っており、

  入口は土のうで塞がれていて

  中を見ることはできないそうです。



  その他、射撃演習場もあったようです。
  



  








  

  森の中の遊歩道を探索すると。。。
  















  何かあります!
  
















  『陸軍用地』の境界石。
     
  戦時中、この地一帯は

  一般人の立ち入りは禁止されていました。

  『陸軍用地』と刻まれた境界石が点在し、

  陸軍の演習場であったことを物語っています。 
 
















 

  しばらく森の中を歩きましたが。。。
  
  今回は、司令壕らしきものは発見できませんでした。









  ウォーキングしていたおじさんに
 
  戦争遺跡関連施設のことを尋ねたところ、

  平尾霊園内に慰霊碑があると聞き、

  早速そちらに行ってみました。
  

















  園内南側を回りながらしばらく探していると、

  特別区という場所があり、そこに幾つかの石碑を発見。
  









  海外同胞長逝者招魂碑
  










  外務大臣広田弘毅
  
  














  昭和55年2月東公園より移設
  

























  友納氏碑 
  
  明治廿一年第四月と刻まれていました。



  案内板を見ると、この一帯に

  玄洋社関係の石碑が固まっており、

  『福岡の変 魂の碑』を中心に7つの碑があります。





















  帰り道、九電記念体育館に寄り道。
  
  かつてこの地には陸軍特別攻撃隊の

  生き残り隊員の隔離収容施設、

  振武寮があったところです。
  
  
 















  
 ※本日の筋トレ
   ◆腕立て  210回
   ◆腹筋    30回
   ◆縄跳び  260回

    
  
    
   
 
Posted at 2013/02/12 22:11:09 | トラックバック(0) | 戦争遺跡巡り | 日記
2013年01月30日 イイね!

戦跡巡り◇正定寺


  前回の福岡大空襲の続編です。




  市内のお寺に福岡大空襲時の

  焼夷弾が保存されていると聞き

  さっそく訪れてみました。





  





  博多区中呉服町にあるお寺、『正定寺』です。
  
  



  正定寺は浄土宗のお寺です。
     
  


  











  立派な本堂です。
  
 
  福岡大空襲の際、この博多区中呉服町は

  特に空襲の被害が大きなところでした。 




  こちらの正定寺では本堂や境内などに

  五発の焼夷弾が降り注ぎました。

  そのうちのひとつがこの本堂を直撃。





  寺の建物が燃え落ちる所を、

  和尚さんや小僧さん達が寺の池の水を使って

  必死の消火作業を行い消し止めたのです。

 


  しかし、その中で一人の小僧さんに

  焼夷弾が直撃し、亡くなったそうです。



 










   












  インターホンで『焼夷弾』のことを尋ねてみると

  若い女性の方が丁寧に案内してくれました。
  
















  中庭のある縁側廊下に案内されると、
  
















  中庭には立派な池。
  












  向こう側の縁側の下をよく見ると、
  












  焼夷弾が展示されていました。
  
  焼夷弾のそばには説明書きがあります。

  爆裂してねじ曲がった焼夷弾は

  とてつもなく大きな塊で

  これが空から降ってくることを想像すると

  恐怖を感じました。




  

  縁側廊下の梁にもその時の火災で

  焦げた後が今でも残っています。




  



  境内には慰霊碑や五輪塔もありました。
  














  こちらは戦災地蔵尊でしょうか。
  
  











  
  皇紀二千六百年國旗掲揚塔。
    











  正面には『國威宣揚』の文字。
  
 









  昭和二十年六月十九日の福岡大空襲。

  福岡市の市街地を標的にした空襲で、

  これにより1,000人以上の方々が

  死亡・行方不明となりました。
   
  今からわずか68年前の出来事でした。























 ※本日の筋トレ
   ◆腕立て  360回
   ◆腹筋    50回
   ◆縄跳び 1910回

Posted at 2013/01/30 21:21:08 | トラックバック(0) | 戦争遺跡巡り | 日記
2013年01月27日 イイね!

戦跡巡り◇山王3丁目東公園


  北九州市八幡東区の

  戦争遺跡に訪れました。

 











  場所は山王にある『山王3丁目東公園』。
        














  この公園の一角に慰霊碑があります。
  














  すぐそばには説明版がありました。
        
    

  昭和19年8月20日、中国成都を出撃した

  B29爆撃機75機は八幡製鉄所を狙って

  北九州地区に侵入。







   


  
  16時頃、八幡製鉄所空襲のB29と戦闘被弾した

  日本軍戦闘機がこの地にあった民家に墜落。

  民家の住民4~5人が犠牲となりました。

  戦争犠牲者の霊を慰めようとこの地を公園とし、

  慰霊碑を建て永く犠牲者の霊を弔うこととなりました。










  米軍は従来の日本本土に対する夜間爆撃から、

  昼間爆撃作戦に変更した最初の爆撃作戦でした。
  

  空襲目標となった八幡製鉄所は

  施設に相当な被害が出たが、

  重要部分への命中弾は無く、

  空襲の2日後には操業を再開したそうです。













  公園の敷地内には『八紘一宇』の

  國旗掲揚塔がありました。
     
  昭和十六年十月建立。



  













  そしてとなりには『皇紀二千六百年』の

  國旗掲揚塔もありました。
     
















  山王3丁目東公園
  
  場所は『北九州市八幡東区山王3丁目18』になります。










  公園から八幡製鐵所方面を望む。(現在は新日鐵住金)
  
  

  中国成都基地出撃、第58航空団

  468爆撃群からのB29出撃は75機。

  このうち損失は14機。



  そのうちの2機は折尾での体当たり攻撃による損失。

  昭和20年8月20日のことでした。

 































 ※本日の筋トレ
   ◆腕立て 150回
   ◆腹筋   60回
   ◆縄跳び 360回


Posted at 2013/01/27 22:26:30 | トラックバック(0) | 戦争遺跡巡り | 日記
2013年01月16日 イイね!

体当たり勇士の碑


  北九州市八幡西区の戦争遺跡に訪れました。

  


  八幡西区の郊外にさつき台という
  閑静な住宅街があります。
  





  



  この住宅街の一角に
  








  『体当たり勇士の碑』という慰霊碑があります。
     

  空の要塞といわれた大型爆撃機B29を
  日本軍機が体当たり攻撃で撃墜したものです。





  以下ネットより。
   
  *----*----*----*----*----*----*----*----*----*----*----*

  『神風特別攻撃隊』誕生のちょうど二ヶ月前、
  昭和十九年八月二十日午後五時、
  真夏の太陽が西に傾きかけた頃だった。

  
  中国四川省成都を発進したB29大型爆撃機が、高度七千メートルの
  対馬海上より北九州の軍需工業を攻撃目標として侵入。

  下関・小月基地の陸軍第十九飛行師団・飛行第四戦隊は
  
  「敵機迫る」の情報を受け迎撃戦闘機が発進。

  


  
 



  

  




  北九州上空に迎撃態勢を完了した間もなく西の彼方に
  米空軍空の要塞といわれたB29大型爆撃機80余機が
  地平線上に現われ数個梯団となって北九州を目標に来襲して来た。

 

  B29編隊の一部は既に八幡市街に投爆を開始。
  その内の一編隊が折尾上空に差掛った時、飛行第四戦隊所属の

  野辺重夫陸軍准尉・高木傳蔵陸軍軍曹が搭乗する
  二式複座戦闘機「屠龍」は敵の第二梯団長機に対し第一撃を指向。

  
  三十七粍砲の第一弾を発射したが撃墜には至らず、
  このままならば敵機は北九州に爆弾投下は必至と察知し、

  これまでと決意軍人精神を胸に秘め「野辺今から体当り」の一語を残し
  敵機のやや斜め前方より第二梯団長機を目がけまっしぐらに、
  自らの意思で壮烈果敢な体当りを敢行。

  一瞬彼我両機は一塊となって空中に浮かび、B29は火を噴き
  錐揉状態になって落下、その爆破片と火塊が後続機の
  別のB29の翼に触れ瞬時にして空中分解し現在の
  永犬丸小学校運動場あたりの谷間に激突・爆発炎上した。




  一機を以って敵機二機を葬り日本戦史を飾る、
  身機一体壮烈なる戦死を遂げた両名は、
  身をもって皇土を防衛すべく烈々たる責任観念に透徹し、
  その崇高なる精神と壮烈なる行動をもって皇国軍人の真面目を
  遺憾なく発揮し国軍の亀鑑となった。


 
  
  戦死後二階級特進した野辺軍曹と高木兵長



  このことは早速上聞に達し、野辺高木両友は二階級特進の栄誉に輝き
  悠久の大義に殉じこの地に永眠されることとなった。

  両勇士の功績を称えて二人の愛機が落ちた墜落の地に、
  折尾の町民、中学生、小学生がこぞって、海岸より砂利などを運び
  手造りで建てたのがこの慰霊碑である。
  
  手作りの様子がうかがえる、碑の土台部分。



  この戦闘は空中戦だったため、その様子は多くの人に目撃され
  当時の映像も現存するそうです。

  毎年八月の第一日曜日には地域の自治区会の皆さんや
  当時の少年飛行兵の皆さんによって清掃作業が行われ、
  折尾神楽が慰霊奉納されています。

  
  また、後続機のB29パイロットは、トルーマン大統領(原爆投下を指令)の
  甥といわれ、アメリカ軍はその後体当たりを警戒するようになりました。


  ◇折尾駅周辺タウンガイドより。

  今だから、語れる真実がある、原爆「小倉回避の真相」!

  昭和二十年八月九日、原爆搭載機B29ボックスカー号のパイロットが
  「屠龍」をレーダーでキャッチし、
  「体当たり攻撃の可能性あり、投下目標地を長崎に変更!」と
  テニアン基地へ連絡しました。

  戦後、アメリカ戦略爆撃隊の追跡調査班が、この裏づけ調査のために
  来日し、下関小月基地の「屠龍」二機が関門海峡上空を
  哨戒飛行していた事実が確認されました。

  この調査で「原爆・小倉投下回避」の真相を知った「屠龍」のパイロット
  (陸軍士官学校・防衛大54期)は、長崎の人に申し訳ないと、
  生前、一部の人にしかこの事実を漏らさなかったそうです。

 

  天候不良や八幡空襲の残煙といわれていたましたが、
  主要因はまさに哨戒飛行中の「屠龍」でした。
  『体当たり攻撃』は、原爆投下目標地を、
  小倉から長崎に変更させるほどの脅威を与えました。


  ※体当たり攻撃を受けたB29
  機体番号42-6334、第58航空団468爆撃群所属
  中国成都基地第二十爆撃機集団の作戦任務第七号
  攻撃目標:八幡製鉄所、第五八航空団から出撃七五機、うち損失一四機
  B29は機長のR中佐など11人が機体墜落と共に全員死亡。

  墜落現場付近で見つかった死者の灰が集められて、
  八幡市折尾町陣ノ原墓地に埋葬されました。




  

  後続機のB29
  機体番号42-6368、第58航空団468爆撃群所属
  B29の機体は上記42-6334号機の爆破片と火塊が
  主翼に触れ瞬時にして空中分解、
  機首を左右に振るようにして落下、
  地上に激突・爆発して三日間燃え続けた。

  機長のS中佐など六人の搭乗員が死亡。
  このうち一人はパラシュート降下したものの開かず死亡。

  五人は機体とともにそのまま墜落死。
  遺体の肉片は地元警防団によって集められ、
  墜落現場付近に埋葬され、墓標が建てられた。

  1946年10月頃米軍がこの遺体を回収。
  W一等軍曹とI少尉の二人は、永犬丸の榊姫神社裏山付近に
  パラシュート降下して捕虜になり、西部軍司令部を経て
  東京の防衛総司令部へ送られた後、大森捕虜収容所に収容。

  また、A少尉は翌日に付近の山中で捕まり、
  大船海軍捕虜収容所へ送られた後、12月に大森捕虜収容所に収容。

  この三人は戦後米国へ帰還。
  副操縦士のJ中尉は、山中にパラシュート降下して潜伏していたが、
  八月三一日早朝に芦屋飛行場付近に現われ、飛行機を奪って
  逃亡しようとして発見され、銃撃戦で日本人三人を殺傷した末、
  ピストル自殺した(日本側によって射殺の可能性もある)。
  遺体は芦屋町霧高共同墓地に埋葬され、墓標が建てられた。

  J一等軍曹はパラシュート降下時に重傷を負っており、
  小倉陸軍病院へ送られたが八月二十四日に死亡が確認された。

  

  *----*----*----*----*----*----*----*----*----*----*----*







  体当たり勇士の碑前に設置している説明看板では、
  
  体当たりの様子などは詳しく書かれていましたが、
  墜落したB29や捕虜になった米兵については
  一切説明書きはありませんでした。



  もちろん当時の捕虜の実態については、
  ほとんど明らかにされてきませんでした。

  終戦と同時に捕虜収容所関係の書類が
  日本軍によって焼却されてしまい、また日本政府が
  この歴史事実を記録する努力を怠ってきたからです。



  
  私たちは過去から学ぶ必要があります。
  その第一歩は、まず事実を正しく知り、
  それを多くの人びとや若い世代に伝えていくことです。

  あのような惨禍を二度と繰り返さないためにも。。。







 




































 ※本日の筋トレ
   ◆腕立て  320回
   ◆腹筋    70回
   ◆縄跳び 1560回
 
 
Posted at 2013/01/16 22:09:17 | トラックバック(0) | 戦争遺跡巡り | 日記

プロフィール

「4年ぶりの。。。 http://cvw.jp/b/346326/40723817/
何シテル?   11/17 14:21
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