靖国神社
投稿日 : 2011年12月19日
1
東京招魂社(とうきょうしょうこんしゃ)として創祀され、後に現社名靖國神社と改称された。創建当初は軍務官(直後に兵部省に改組)が、後に内務省が人事を所管し、大日本帝国陸軍(陸軍省)と同海軍(海軍省)が祭事を統括した(陸海両軍を以下「旧陸海軍」等と略記する)。昭和21年(1946年)に国の管理を離れて東京都知事の認証により単立宗教法人となったが、国家との関係を廻る所謂「靖国神社問題」を惹起する存在ともなっている。なお、単立宗教法人(単立神社)であるために神社本庁との包括関係には属していない。
2
戊辰戦争終戦後の明治元年(慶応4年、1868年)6月2日に、東征大総督有栖川宮熾仁親王が戦没した官軍(朝廷方)将校の招魂祭を江戸城西丸広間において斎行したり、同年5月10日に太政官布告で京都東山(現京都市東山区)に戦死者を祀ることが命ぜられたり(現京都霊山護国神社)、同7月10・11の両日には京都の河東操錬場において神祇官による嘉永6年以降の殉国者を慰霊する祭典が行われる等、幕末維新期の戦没者を慰霊、顕彰する動きが活発になり、その為の施設である招魂社創立の動きも各地で起きた。それらを背景に大村益次郎が東京に招魂社を創建することを献策すると、明治天皇の勅許を受けて明治2年6月12日に現社地での招魂社創建が決定され、同月29日(新暦8月6日)に五辻安仲が勅使として差遣され、時の軍務官知事仁和寺宮嘉彰親王を祭主に戊辰の戦没者3,588柱を合祀鎮祭、「東京招魂社」として創建された。但し、創祀時は未だ仮神殿の状態であり、本殿が竣工したのは明治5年であった。
東京招魂社は軍が管轄するものとされ、一般の神社とは異なる存在で種々の不安定要素があった為に、正規な神社へ改めようとする軍当局は社名の変更と別格官幣社への列格を要請し、明治天皇の裁可を得て明治12年(1879年)6月4日に「靖國神社」への改称と別格官幣社列格の太政官達が発せられた。もっとも、正規な神社となった後も神社行政を総括した内務省が職員の人事権を有し、同省と陸軍省および海軍省によって共同管理され、しかも運営の主導権は財政を担った陸軍省が有する等、神社としては特殊な存在ではあった。創祀以後、春秋の例大祭には勅使が差遣されての奉幣が行われ、また新たに神霊を合祀するに際しても勅使を差遣した他、天皇・皇后の行幸啓を始めとする皇族の親拝や代参も頻繁になされる等、皇室および国家から臣下を祀る神社としては異例の殊遇を受け、また合祀祭に当たっては諸官員(公務員)に休日を賜う例であった。なお、祭主は陸・海軍武官が勤めた。
3
戦後は政教分離政策の推進により国家管理を離れて宗教法人となり日本政府との直接的な関係は無くなったものの、軍人を祭神として祀る点や公職に就く者の参拝とそれに伴う玉串料の奉納等が批判され、様々な問題が生じている。
4
日本国憲法により政教分離が原則とされた後においても国家管理に戻そうとする「国家護持運動」があり、憲法と整合させる為の様々な案が検討された。なお、当初賛意を示した日本遺族会会長が「国家護持」のためには法案は靖国神社の非宗教化を約束したものでなければならないと諦め、態度を変えて非宗教化案に応じると、昭和44年(1969年)1月20日、これに憤慨した大東塾の者が日本遺族会会長との会談中にこれに暴行を加えた為、当時の大東塾塾頭が会談を斡旋した吉橋敏雄公安調査庁長官に義理を立て、手の指を一本切るという事件も起きた。
自由民主党(自民党)は、昭和44年6月30日に国家管理化を目指す「靖国神社法案」を国会に提出したが、55年体制下の保革対立の中で廃案となり、以後同48年まで5回にわたって法案を提出したが、いずれも審議未了により廃案とされ、同49年には自民党の強行採決によって衆議院を通過したものの参議院で廃案となった為に、自民党内では閣僚の参拝案が浮上した。
靖国神社、遺族会らは民法34条の祭祀法人となれば靖国神社法案のような特別な立法は必要なく、宗教法人でもなくなり、公的資金の支出も可能であろうとの案を提起をしたが、免税率の低下などの諸問題によりこの提起も消滅した。
5
終戦後も靖国神社が存続したことについて、以下のような逸話が語られている。
戦後に日本を占領したGHQは、靖国神社を焼き払いドッグレース場を建設する計画を立てていたが、賛否両論が巻き起こり収拾が付かなくなっていた。
そこでローマ教皇庁代表であり上智大学学長でもあったブルーノ・ビッテル(Bruno Bitter、英語読みでビッターとなっている場合あり)神父に意見を求めることになった。ビッテル神父は「いかなる国家も、その国家のために死んだ戦士に対して、敬意を払う権利と義務があると言える。それは、戦勝国か、敗戦国かを問わず、平等の真理でなければならない」とし、「靖国神社を焼却する事は、連合国軍の占領政策と相容れない犯罪行為である」とまで言ったという。そして次の言葉で締め括った。
「靖国神社が国家神道の中枢で、誤った国家主義の根源であるというなら、排すべきは国家神道という制度であり、靖国神社ではない。我々は、信仰の自由が完全に認められ、神道・仏教・キリスト教・ユダヤ教など、いかなる宗教を信仰するものであろうと、国家のために死んだものは、すべて靖国神社にその霊をまつられるようにすることを、進言するものである」
この進言により靖国神社は焼き払いを免れたという。
以上、wikiより抜粋
6
御朱印
タグ
関連リンク
[PR]Yahoo!ショッピング