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どうも。お客にルートを聞いて「どこからでも」と言われた結果、テキトーに「んじゃどこ行けそこ行け背負い投げって感じで行きますね〜」と告げたらなぜかウケた男・根津小甚八です(爆)
さて、本日は「アタシがU14を買うまで」というお話になります。
まぁ、古くからの知り合いの皆さまはみんな知ってるといや知ってる話ではあるんですけど、今回改めて話してみようとふと思いましてね。まぁ文章多めの長話になりますが、お付き合いくださいませ。
そもそものお話は「ジサーン」やら「北の水谷豊(笑)」、「元祖根津小甚八(爆)」というあだ名でおなじみ、母方の祖父(以下ジサーン)が日産店で営業マンをやっていたことが全ての始まり。アタシが生まれる前16年ほどはリースでクルマを乗り継いでおり、アタシが生まれた当時はA33セフィーロ25エクシモGに乗っておりました。アタシが退院となり、文字通り「人生で初めて乗ったクルマ」もコレです。
そんなセフィーロも走行距離でリースアップが決まり、ジサーンは乗り換えを迫られることに。いつもだったらまたリースで何かしらを決めるところですが、今回は「リースをしない」という決断をします。恐らく、この時には半年後の年度末に退職することを決めていたのかもしれません。
しかしながら46歳となり、老眼でバイク趣味からも手を引いて「楽しみはスナック通いと晩酌」くらいだったジサーンにはもう、取り立てて「どうしても乗りたい」と思うようなクルマもなかったらしく。そんな時、エルグランドの下取り車として引っ張ってきたクルマに目が留まります。
(カタログ写真より)
そのクルマこそが、U14でした。#KN6ダークグレーパールの平成8年式2.0SSS Sセレクション、4AT。目立つメーカーオプションの付かない、ありふれたオートマのブルーバード。唯一違う点といえば、ディーラーオプションのスポーツグリルが付いていたくらい。
特に何の思い入れがある訳でもなく、「ただそこにあったから」という理由でこのブルに決めたジサーンは、ナンバーだけを取り替えて何の気なしに乗り始めました。
翌H13年3月、ジサーンはS52年から24年間勤め続けた日産店を退職します。奇しくも、同年8月にはU14が生産終了となったことでジサーンは名実ともに?「独立車種としてのブルーバードとともに日産を去った男」となったのは何の偶然やら。
これで新しいクルマに常に乗る必要はなくなった・・・のですが、ただ一つだけ誤算が発生してしまうワケで。
そう、それは1歳になったばかりの初孫がやたらとクルマに興味を示し、なぜかこのブルーバードを妙に気に入ったことでした。
もうおわかりでしょう。そのバカタレこそがアタシです(爆)
初めて覚えたクルマの名前が「ブルーバード」になったことが嬉しかったのか何なのか、何かに付けてはアタシを預けて出かける娘夫婦の目を盗み?ジサーンは仕事先から何から、ブルに乗せてあっちゃこっちゃ連れ回すことになったのです。
25になった今でも、アタシはこのブルのことを何やかんや覚えています。ナンバーの文字と番号、黒系統の精悍な雰囲気で纏められた内装、4本スポークのゴツいステアリング、そして、純正アルミが腐って行き当たりばったりで履いたはずが何より似合っていたBBSモドキな見た目の日産純正エスティーロメッシュ・・・。
その全てが、アタシにとってはとにかくカッコよかった。今でもクルマの基準にしている「モノトーンとメッシュホイールが似合う角張った4ドア」は、3〜4歳の頃から今まで何にも変わっちゃいません。
……………それは同時に成長がないとも言います(爆)
フツーのガキンチョが夢中になるであろうアソパソマソやヒーローもの(これはお袋が変な恥ずかしさで見せたがらなかったらしいけど)には目もくれず、ブルーバードばかりをやたらと偏愛する変なガキだったのですw
人並みにドラえもんは好きでしたけど、モノマネはのぶ代しかできません(←過渡期世代・爆)
あぁそうだ、ドラちゃん絡みなら「ドラえもんのキャンペーンやっててちっこいバッグ貰えるから」って理由で「ブルに乗ってカローラ店に殴り込みバッグを貰う(しかも乗ってきたのは近隣競合他社の元セールス)」という、今思うと側から見たらケンカ売ってるとしか思えないことをした思い出も蘇ります(爆)
他にも「『保育園に行く前に残していったツナパンをやっぱり食いたい』と保育園の手前でダダをこね、ジサーンはブルを飛ばして戻るも、ツナパンはオヤズィに食われた後。結果、助手席で意気消沈」なんてこともあったなぁ・・・w
ちょうどその頃、ジサーンのブルは腐りはじめていました。助手席ドアノブの下(ちょうど鍵穴の横)はジュクジュクと吹き出物が出て、走行距離は仕事柄(当時のジサーンは数社を経て損保ジャパンのアジャスター)10万キロを走破。さらには祖母が運転中に飛び石を喰らってフロントガラスに盛大にヒビと、8年落ちにしてもはや満身創痍。
そんなこんなでジサーンは、翌年の車検を通さず乗り換えることにするのです。
最後にアタシがジサーンのブルを見たのは、忘れもしない5歳の誕生日。直前に札幌へと引っ越していたアタシ一家は、ジサーンと祖母で誕生日をやったのですが、その時にブルに乗った記憶がないんですよ。ただ、妙にその時ブルが寂しげな雰囲気を醸し出していたことをよく覚えています。それが、ジサーンのブルを見た最後になったのです。
その月末、ジサーンの家へ泊まりに行くとブルがいるべき場所にはサニーがいて、サニーがいたはずの場所には得体の知れないちっさい箱みたいなクルマがいました。「ちっさい箱みたいなクルマ」の正体はJA11ジムニー。チャコールグレーの平成4年式、2型最終のドアミラー車です。
ふと「ブルーバードはどうしたの?」と聞いた時、ジサーンは「売った」と言うのですよ。
ただ、草ヒロという単語などまだ知らないはずなのにその前年、保育園の散歩中に見た「公営住宅の軒先で草ムラに埋まっていたGX71マークII後期グランデ」のように、「ナンバーが無くなって草ムラに埋もれ、寂しげに雨に打たれるブル」という、5歳児の想像にしては妙にリアルすぎるものを連想したのは、もしかしたら翌年知ることとなる悲しい事実の予兆だったのかと今になってみれば思います。
当然、当時はそんなことを知る由もありません。やけにリアルな想像をしたブルのことを気にしつつ、1年が過ぎました。
それが急転直下、真実を知ったのが翌H18年の初夏。あんまり「ブルーバードは?」としつこく聞くアタシに嫌気が差してきたのか、ジサーンは遂に「廃車にした」という事実を告げます。
それはアタシにとって青天の霹靂でした。今も昔も涙脆いアタシが、間違いなく『人生で一番泣いたのはこの時』と未だに確実に言えるくらい、泣いて泣いて泣き腫らしました。この時から、『大人になったら絶対にブルーバードを買ってやる』という決意をするのです。
そう思いながらもここまで手を出してこなかった理由は、「とにもかくにもあの年代の日産車はハチャメチャに腐る」ということでした。
実際ジサーンのサニーは世紀末レベルに腐って最期を迎えましたし、苫小牧という街を見渡すと同じような状態になった同年代の日産車は車種問わずとにかく多かった。
それらの大多数はエコカー減税で消えていき、誇張抜きで「腐らず生き残っていたら奇跡だし、まだバブルの日産車の方が生き残ってる」というレベルでした。
それ故に「苫小牧という土地が大嫌いな自分」が形成されていったワケですが。
結果、アタシの中でU14は「『別れても好きなクルマ』だけど、乗るとしたらホンモノの旧車か、或いはそれ以上の覚悟で乗るクルマ」というポジションになっていきました。それがあって「Y31やC33の方がまだ乗れる」と、Feel the Beatな日産車への傾倒を強めたのです。
その頃もひっそりと「HU14前期SSSのダークグレーパール・4ATの最初期型」という条件で探し続けましたが、その条件自体が厳しかったこと、出てきたことはあってもその時に限っていつもいつも財政事情がキツく、泣く泣く見送ったことが3回あります。
そんなこんなでタクシー運転手となったアタシがBJY31に乗り始めようかという頃、アタシの人生を揺るがす大事件が起きます。ジサーンが倒れたのです。
前年に心臓を手術して「ガリガリの桂歌丸」ばりにヨレヨレになっていた中、いつものようにスナックへ飲みに行ったジサーンは酔っ払って転倒し、後頭部を強打。急性硬膜下血腫をやらかして病院へ担ぎ込まれ、2週間意識不明の状態になったのです・・・。
幸い意識は回復し体には障害も残らずに済んだ・・・のですが、後遺症で視力が低下。日常生活においての支障はないもののクルマの運転が厳しくなり、免停と復活を繰り返す状況となります。結果、アタシは買い物のアシとして休日にセドリックを飛ばしてジサーンの家に月イチで泊まる日々が続きました。
「なぜか心臓手術の退院時より太って、元の体型に戻って帰ってきた」というミラクルを起こした当初こそ「目ェ直してタクシー運転手に復帰する」と意気込んでいたジサーンでしたが、この状況がだんだんとめんどくさくなってきた結果「もう俺免許返すわ」と宣言。
あっさりと免許を返納してしまった結果、「ジサーンに自分のクルマを運転してもらう」という夢は、ここで潰えてしまうことになりました。あの時は正直辛かったな・・・。
……………ただ、心臓手術の辺りまでは「早く結婚してひ孫の顔を見せるまで死んでもらっちゃ困る」と思ってましたが、もはや赤塚不二夫ばりのギャグ的な復活を果たしたことで「たぶんこの人は殺しても死なねぇな・・・」に変わったのは正直なところですけど(おい)
ジサーンの免許返納と時を同じくして「BJYの部品供給状況がヤバスで長く乗り続けられるかが怪しい」という現実に直面したアタシは、「ひ孫見せんのはたぶん厳しいだろうが、代わりに何ができるだろうか?」と考えるようになります。
その結果導き出された答えが「今ここでU14を買って乗り付け、ジサーンに『バカだなぁお前』と呆れられる」という、頭の悪すぎるじいさん孝行でした。
……………コレを孝行と呼べるのかについては本当に買った今でも疑問しか残りません(爆)
その時も白の前期Sセレクションを買おうとして玉砕し、直後にセド様の譲渡が決定。
「乗ることを夢見続けたクルマ」に乗ることができて満足していましたし、「一生このセドリックに乗る」と決めていたことでまたジサーン孝行は遠のいた・・・はずでした。
しかし33年間北海道で乗られ、そのうち30年近くを潮風と塩カルを浴びる土地で過ごしたクルマの現実は、想像以上に厳しかった・・・。
結果として夢見たクルマは車体側エンジンメンバーの腐りと、ブレーキマスター故障のダブルパンチから9ヶ月で泣く泣く手放す結果となったのです。
ジサーンのブルが廃車になった時と同じくらいアタシは泣き崩れ、酒浸りの日々を送りました。
傷心で札幌へ舞い戻り、またまたタクシーに乗り始めてしばらく経った頃。旧知の知り合いから「ウチのU14乗らない?」という声がかかったのは、5月27日のことでした。
後にアタシのブルとなったこのクルマ、東京に住む息子さんに乗せていたクルマで、新車から東京モノ。下回りの腐りは皆無などころか、メカは極上の部類。
息子さんが降りる理由は致命的な理由ではなく、「結婚することになったんだけど、嫁さんが軽しか乗れないってことで新車買うことになったから」というある意味めでたい理由。
SSSではないものの「エプリースの40周年記念車ならば装備はルグラン相当で遜色ないし、セドリックから見ても装備は見劣りしない。質感はY31比で確かに落ちるが、そんなもんはガキンチョの時から知ってるし、俺からしたらそれがフツーだ。SSSの40周年記念車に乗ってるヤツはいても、エプリースを好きで乗ってるヤツはいないから面白いな。QG18はバカみたいに丈夫で安心だし、U14乗れんならもうグレードどうでもいいや。行っちまえ」という訳で、試乗すると見立て通りの絶好調。
アタシは乱闘中にガラスへ飛び込むジャッキー・チェンばりの勢いでこのオファーを快諾したのでありました。
車検を経て無事に9月25日に納車となり、29日には申し込みの都合で間に合わなかった希望ナンバーへと番号を変更。
ジサーンのブルが廃車になったことを知って以来、19年間の悲願であった「U14を買って、ナンバーを『54-08』にする」という夢をようやく叶えることができ、感無量な次第です。
あとやるべきことはひとつだけ。それは予定通り?「ジサーンのところに何も言わずに乗り付けて、『オメーはバカか』と心底呆れられながらジサーンとブルの20年ぶりのツーショットを撮る」ということだけです。改めて文章にすると小っ恥ずかしいし、バカさ加減も透けて見える(爆)
というワケで、たぶん史上最長のブログでした(爆)
だってねぇ、ガキンチョの頃からの夢だったんだもの。書かずにはいられないでしょw
クルマもやりたいことはいっぱい、ひとつずつやっていきますよ。
ではまた。