
中古のティーダが自分の元に来てから 2年が過ぎた。
最初は自分で運転することもままならぬ程、極端に体力も無く
退院後も一日の大半を寝床で過ごしていた。
病み上がりおっさんの人生は 先行き不透明で、
家族からすれば クルマを購入することは、
残された短い人生を謳歌するための
最後の贅沢みたいなもの・・・・
そんな暗黙の了解だったように思う。
しかし、事態は、ふたつの意味で思わぬほうに好転してしまった。
ひとつは、おっさんの肉体的な回復が、
想像以上にハイレベルな領域に達したこと。
(当初10だったものが1か2になると宣言されたが、
実際は、4か5くらいになった)
そして、もう一つは、ティーダという15年落ちの中古車が
想像を絶する 「イイ クルマ」だったということだ。
余生をうんたら という気持ちだった 中古車選びが
いつまでも 走り続けたい といった贅沢な人生の先行きを
信じたくなるような 出会い という結末だったことは
幸運を通り越して 悪運の強さ というレベルにあったということで
これは まったく 予想もできなかった出来事であった。
人生の大半を 製品開発 という業界で生きてきて
勤め人から海外勤務を経て独立自営となり、裾野から30年以上
業界を俯瞰してきたが、しりすぼみになる日本の製造業を危惧しながらも
消え入るように 都会を離れ やがて会社を清算したが
工業製品に触れる時、どうしても 独特の視点で、物事を
考える癖が残っているような 悲しい性がある。
製品を作るうえで、コストというものが鬼の仇みたいに唾棄される
という風潮が、どうも馴染めなかったのに、実際の現場では
相当優先度の高い設定となっていて、イイもの を作るということは
無限にお金をかければ良い ということでは無いのである。
ティーダは、イイクルマ を目指して作られているし
実際に イイクルマ であることには違い無いのだが
廉価の小型車という 割とコスパの良いセグメントにあって
惜しい部分も しっかりと感じられるというのが正直なところだ。
しかしながら、そのバランスが 絶妙なところにあって、
何を優先して 何を 犠牲にしたか という落としどころが
非常に上手いレベルにあるクルマで、勿論、それは
オーナーの好み という 百人百様の最善なる妥協点が
た・ま・た・ま 自分の好みと合致したということだけなんだが。
それが、冒頭に記したように、思わぬ幸運 というオチになるのだ。
私のもとにある個体は、自分にとって、運転が楽しいクルマ
この先も、もっと長く付き合っていきたいクルマ
乗っていて、非常に感銘を受ける出来のクルマ
ということなのである。
そもそも、クルマの運転は 好きだが
特段クルマにドレスアップ的な何かを
したいと思うタイプではない。
開発する人は、その製品が最終形 という思考があるので
特に スタイルに関しては、あまり 頓着したいとは思わない。
所謂 純正ルックが 好みなのである。
デザインの分野に居た関係もあるが、デザインをやりすぎる
というのも 実は 好きではないのだ。
何かが 必ず 犠牲になっているから。
コストをかけすぎた というのも好きではないのだ。
それは 維持費が、跳ね上がる という所にかかわって来る。
そして、みんカラ的な先人の工夫を この車の弱点克服において
味付けをすることで 自分だけのティーダと変貌する過程を経て
この車の満足度を高める結末となっている。
(その意味で、みんカラ先輩諸氏への 感謝は今でも変わらない)
メディア的には、日産はダメとか ガソリン車は時代遅れとか
諸説あるみたいだが、小型車における日産ティーダという存在は、
私個人の中では燦然と輝く製品であることを宣言しておこうと思う。
Posted at 2025/10/16 17:43:44 | |
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