「やっちゃった」と思いながらバイクを起こしに行こうとするが体のあちらこちらが痛くて立ち上がることが出来ませんでした。
しばらくすると一台の軽トラが路肩に止まり「大丈夫か」と言いながら二人の30代くらいの男の人が降りてきました。そのうちの一人が救急車を呼びに行き、残った一人とどこから来たのかなどと話をしていると突然そのお兄さんが「ねえ、そこにあるの花束じゃない?」と言うのです。
指差された方に頭をめぐらせると眼の前数十センチのガードレールの支柱に新聞紙で包まれた
枯れた花束が・・・
救急車が到着しストレッチャーに乗せられて本庄市内の病院へ搬送されました。擦り傷の処置やレントゲン撮影などをしてしばらくすると消防から連絡を受けた両親が来ました。お盆前のアルバイトから行く先も告げずにそのままツーリングに出かけ挙句に病院送り、いま考えると究極の親不孝者でした。
自分では全身の擦り傷と打撲の痛みがあるけどこのまま帰れると思っていましたが、お医者さんから強度の打撲が数ヶ所、それから
頚椎(首の骨)3ヶ所が圧迫骨折 との診断が。
「神経が圧迫されている可能性があり今晩手足に痺れが出たときは覚悟してください」と言われ初めてことの重大さに気付きました。恐くて寝るどころじゃないと思ってましたが連日の疲労のためか寝てしまったようです。翌朝ベッドで目覚めて恐る恐る指を動かしてみると・・・、大丈夫!動きました。いままでの人生で一番緊張した瞬間でした。
今後の治療方法について
ドリルで頭蓋骨に穴 を開けてワイヤーで牽引するのが一番と言われましたがドリルが唸る映像が浮かんだ瞬間に即却下!結局首にコルセットを装着して錘で引っ張ることにしました。お医者さんは「穴を開けたほうがキレイにくっ付くのに・・・」と言っていましたが・・・
それから一ヶ月間はベッドに固定されて天井を見続けていました。
いっしょにツーリングした友人は上里SAで待っていたけどいくら待ってもワタシが来ないので後続のオートバイ乗りに聞いて現場に戻ったそうです。「何台もパトカーがいて
西部警察 みたい(笑)だったと言ってました。因みにこの後すぐ藤岡料金所のゲートに『オートバイ、サイドスタンド注意!』の看板が設置されたそうです。
個室だったので後半は仲良くなった
河合奈保子 似(古い!) の準看護婦さんに学校帰りに缶ビールとお菓子を買ってきてもらいベッドに並んで座って飲んだりしてました。 がっ、クビが固定されていたのでオイタは出来ませんでした・・・(トホホ~)
入院して2週間ほどしたころ高速機動隊のお巡りさんが事情聴取にきました。ツーリングのルートや事故当時の状況を話しました。
「○○君も自分で痛い思いをしたので処分はなし。今後は無理のない計画でオートバイに乗ってくださいね」とありがたいお言葉が。
ここで気になっていた事故現場の花束について聞いてみると半年前に同じサイドスタンドのしまい忘れで1100ccのオートバイで転倒事故があったとの事。その方は転倒後に後続のクルマに轢かれて亡くなったそうです。
「○○君、完全に呼ばれたね。運が良かったから命があったんだよ。大事にしなさい」
と言われました。数十メートル路面を滑って眼の前にあった花束。この時自分が生と死の境界線上にいたんだと実感しました。
その日、昭和61年8月15日
仏滅、お盆のど真中、終戦記念日
こんな事ってあるんですね。
あれから22回目の8月15日も無事に過ごせました。
いま振り返るとこの日の事故が自分のその後の人生の大きな分岐点となりました。そのことについてはまたいつか・・・
心配を掛けた友人、両親に心からお詫びするとともにお世話になったお医者さん、看護士さん、止まってくれた軽トラのお二人に感謝しています。また、いつかお墓参りに行きたいと思っている亡くなったオートバイ乗りのご冥福をあらためてお祈りいたします。
Posted at 2008/08/20 10:07:20 | |
トラックバック(0) |
思うこと | 日記