肥後・八代城
薩摩・島津氏と島原の乱後に備えた熊本城の支城
2025年03月05日

2019年GW時は100名城スタンプを当時集めていなかったけど、スタンプが80箇所集まったので九州お城巡り3ついでに、広島/島根/山口県と四国の新規と再びでスタンプとパンフレットゲットの予定を立てました。
●2021年05月01日(曇)安芸・吉田郡山城(346枚撮影・3時29間分)165箇所目~石見・浜田城(247枚撮影・2時14間分)166箇所目。
●5月02日(雨)石見・津和野城(295枚撮影・4時間41分)167箇所目~周防・大内氏館跡/高嶺城(続100名城)(241枚撮影・3時間36分)168箇所目~長門・萩城(351枚撮影・2時間50分)169箇所目。
●5月03日周防・岩国城再び(424枚撮影・2時間50分)7箇所目(100名城スタンプゲットメイン)~筑前・福岡城再び(舞鶴公園)再び(637枚撮影・3時間56分)75箇所目(100名城スタンプゲットメイン)。
●5月04日筑前・大野城(97枚撮影・3時間9分)170箇所目~大宰府天満宮(45枚撮影・30分)~吉野ケ里遺跡再び(169枚撮影・1時間39分)8箇所目~肥後・熊本城(172枚撮影・1時間56分)171箇所目。
●5月05日肥後・八代城(357枚撮影・2時間19分)172箇所目~肥後・人吉城(281枚撮影・1時間56分)173箇所目~薩摩・鹿児島城(鶴丸城)(119枚撮影・1時間23分)174箇所目。
●5月06日日向・飫肥城(225枚撮影・2時間57分)175箇所目~高千穂峡(52枚撮影・19分)~豊後・岡城(547枚撮影・2時間45分)176箇所目。
●5月07日豊後・府内城再び(76枚撮影・52分)81箇所目~別府温泉地獄巡り(137枚撮影・2時間12分)~伊予・大洲城再び(95枚撮影・52分)59箇所目。
●5月08日伊予・宇和島城再び(449枚撮影・4時間1分)15箇所目(100名城スタンプゲットメイン)~伊予・湯築城(199枚撮影・1時間8分)177箇所目~伊予・松山城再び(358枚撮影・2時間59分)14箇所目(100名城スタンプゲットメイン)。
●5月09日土佐・高知城再び(745枚撮影・3時間52分)17箇所目(100名城スタンプゲットメイン)~備後・片刈城(因島水軍城)(168枚撮影・58分)178箇所目。
●5月10日播磨・赤穂城再び(278枚撮影・2時間32分)120箇所目と10日間23箇所お城巡り。
スタンプとパンフレットをゲットし画質が悪い箇所の再撮影出来て満足感90点です。
2016年4月の熊本地震で石垣等が崩落して2019年GW見学を諦めた熊本城の本丸が見学可能と言うので、続日本100名城で石垣が立派な八代城を追加しました。
今回のお城巡りで浜田城の最後と八代城が雨でした。
また博物館が新型コロナで休館で、続日本100名城スタンプとパンフレットが貰えず、出土品の撮影が不可能だったのは残念でした。
しかし休館の備えで封筒を用意していたので、松山城と八代城は、八代市役所仮設庁舎に行き後日送付してもらいました。
本丸は神社となっていて、大天守台と小天守台を含めて石垣は立派がでしたが、建物は神社関係のみ残念でした。
また明治時代に八代宮の参道のため本丸南石垣を開削したのが困りもの。
雨の中ですが北の丸まで撮影できたので満足感84点です。
写真は北東から見た、肥後・八代城・本丸・北東横矢掛け土塀石垣~三階櫓跡石垣と二ノ丸北・北御門跡(3)駐車場の愛車CX-3・172箇所目②O。
_2021年05月05日08時47分
関連情報URLよりフォトギャラリー検索で見られるように、2025年3月19日頃からアップ予定です。
============HPより============
八代城(やつしろじょう)は、熊本県八代市(旧 肥後国八代郡)にあった日本の城。
江戸時代初期に球磨川河口の松江に幕府の許可を得て建築されたことから松江城(現八代城趾)とも言う。
歴史
麦島城の倒壊後、清正の次男で第2代藩主加藤忠広は、元和6年(1620年)に江戸幕府の許可を得ると、松江村の南、球磨川(前川)の徳淵(徳渕)の北岸に、加藤正方に命じて新たな城を築かせることにした。
地名からこの城は当時は松江城とも徳淵城ともいったが、現在は後者の地名がなくなっていることから、松江城の呼び方の方がより知られている。
麦島城は加藤氏への備えの意図もあって三角州に建てられたが、すでにその必要がなく、南、東側からの攻撃を意図して、球磨川の北岸の平野部に建てられることになった。
同時に球磨川の洪水から城下町を守るため、旧来あった萩原堤に大工事を施して大幅に拡張している。
城は元和8年(1622年)に竣工した。
麦島城時代に認められた一国二城体制は継続されたことは、一国一城令(1615年)の中では全国的にも異例のことであった。
熊本藩内に2つの城(熊本城、八代城)の存在が許された理由は、南の大藩・薩摩藩および隣藩・人吉藩への備えとしてというのが通説であるが、島原の乱の舞台となった天草のキリシタン弾圧の備えまたは小西時代に増えた領内のキリシタンへの備えとしてだとか、またこの時期にしばしば現れた異国船への備えとしてだとか、あるいは秀吉恩顧である加藤藩の財政を逼迫させるためだとか、その他に諸説もある。
寛永9年(1632年)10月、豊前小倉藩37万石の藩主だった細川忠利が肥後熊本藩54万石(鶴崎2万石を含む)へ移封され、12月に熊本城に入城した。
忠利の父細川忠興(三斎)は幕府の内命を受けて八代城に入り、北の丸を隠居所として、四男の立孝を本丸に住まわせた。
いずれ自分の隠居料9万5千石を継がせて立藩させることを望んでいたようだが、寛永18年(1641年)に忠利が亡くなり、正保2年(1645年)閏5月に相次いで立孝も若くして没し、二人の子に先立たれた忠興も同年12月に死去した。
寛文12年(1672年)2月、落雷により大小の天守・楼・櫓・家屋を焼失した。
翌年7月、3代藩主綱利は幕府の許しをえて城を修復したが、この時、第一天守(大天守)は再建されなかったので、北東隅の三層櫓が一番高い建物となった。
宝暦5年(1755年)7月に大洪水があり、球磨川が氾濫して萩原堤防が決壊し、城下で大勢が溺死した。
加藤正方が築いた堤防の修復の方法が分からずに藩が困っていたところ、藩士稲津弥右衛門(頼勝)が志願し、7日間の工事で2km余の堤防を見事に復旧してみせた。
同年に熊本で藩主細川重賢によって時習館が開かれると、宝暦6年(1756年)、城主の子栄之によって八代城の二の丸に伝習堂が開かれた。
寛政9年(1797年)10月、火災により本丸大書院・二階月見櫓等を焼失。
翌年幕府の許可を得て大書院は再建されるが、小天守・櫓は再建されなかった。
この時点で八代城は天守や櫓もほとんどない城となったので、図面はあるものの、天守の写真などは残っていない。
住所: 熊本県八代市
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