上野・前橋城(厩橋城)

2026年05月30日榛名ロータリーミーティングに行った帰りに寄りました。
●2026年05月30日榛名ロータリーミーティング(46枚)・40枚アップ~2026年05月30日上野・前橋城(43枚撮影・1時間01分)91枚・72枚アップ・220箇所目でした。
ブラタモリで見て気になったので訪れてみたが、車橋門跡虎口石垣と本丸土塁以外江戸時代の遺構は無く期待した程では無かった。
利根川が暴れ川だったため、再三の改修工事で当初の城域が失われて廃城になった為、江戸時代初期の御城は殆ど無く、明治維新前に復活したが廃藩置県と廃城令で本丸には県庁が、二の丸/三の丸には裁判所や市役所等が建てられ、他の曲輪は県庁所在地の都市の住宅地になったので二箇所以外遺構は残らず残念である。
行くほどの価値は無いと言えます。
私も帰り道の寄り道だったから見学しましたが、もう行く気は有りません。
市役所庁舎とこあと県庁舎と前橋駅の観光案内所で前橋城のパンフレット有無を確認したが未製作でした。
前橋まるごとガイドHPより、前橋市の文化財保護課より市立図書館所蔵の古絵地図類をまとめた本「前橋城絵図帳」が1000円で発行販売されています。
35.南から見た、上野・前橋城・土手曲輪南・車橋門跡虎口石垣(6)②H。
_2026年05月30日14時39分
写真は2026年6月にアップ予定です。
関連情報URLよりフォトギャラリー検索で写真を見てください。
=============HPより============
前橋城(まえばしじょう)は、群馬県前橋市(上野国群馬郡)にあった日本の城(平山城)。
前橋台地北東縁に築かれた平城で、古くは厩橋城(まやばしじょう)と呼ばれ、また関東七名城の一つに数えられた。
車橋門の跡が前橋市の史跡に指定され、酒井氏に伝わる城絵図が市指定重要文化財に指定されている。
上杉、北条、武田が入れ替わり領主になった後、関ヶ原の戦いの後、慶長6年(1601年)2月、甲府藩に移された親吉に代わって酒井重忠が厩橋藩3万3千石を任され城に入る。
重忠は城の大改修を行い近世城郭へと変貌させ、城には3層3階の天守も造営された。
17世紀中頃から18世紀初頭、忠清から忠挙の代に、厩橋の地は「前橋」と改められ、城も「前橋城」と呼ばれるようになる。
しかし、大老酒井忠清を出すほどの名門が置かれたのとは裏腹に、前橋城は利根川の浸食を受け続け、前橋藩は外曲輪角櫓の取崩し(元禄12年(1699年))、利根川の瀬替え(元禄15年(1702年))、川普請(正徳4年(1714年))といった工事に出費を強いられた。
宝永7年(1710年)には所領の分散等と並んで「川欠けにより前橋城が次第に狭くなりつつあること」を理由に元藩主酒井忠挙が老中に転封を願い出ている。
寛延元年(1748年)、被害が本丸にも及び、藩主酒井忠恭はやむなく住居を三ノ曲輪に移転させる普請を幕府に申請し、許可を得て同年12月に地鎮祭を行った。
しかし酒井氏は本丸移転の工事を終えることなく前橋城を去った。
同年11月に播磨国姫路藩主松平明矩が死去しその跡を幼少の松平朝矩が継いだため、幼主は要地姫路にふさわしくないという理由で翌寛延2年(1749年)正月に酒井氏と所領を入れ替える形で前橋藩15万石への転封が松平朝矩に命じられたためである。
以後、前橋城は明治維新まで越前松平家の城となった。
前橋入封までに10度の転封を経験して借財が多かった松平氏にとって、転封早々に前橋城の本丸移転の工事を行うことは負担が大きく、結局宝暦2年(1752年)にようやく三ノ丸に御殿建替が成った。
明和4年(1767年)、移転後の御殿にも川欠の危険が及んだため、前橋藩主松平朝矩は幕府の許可を得て前橋城を放棄することとなった。
移城先はそれまで秋元氏の居城であった武蔵国川越城である。
前橋領は川越藩の分領としての陣屋支配となり、前橋城は明和6年(1769年)に破却された。
以降前橋藩ではなく川越藩と呼ぶ。
文久3年(1863年)12月、川越藩主松平直克は幕府の許可を得て前橋城の再築を開始した。
領民から献金だけでなく労働奉仕を受け前橋城は竣工、慶応3年(1867年)3月、直克が入城し前橋藩が再興した。
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